☆聖書箇所 ヘブル人への手紙11:1〜12
1信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。 2昔の人々はこの信仰によって称賛されました。 3信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。 4信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だとあかししてくださったからです。彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。 5信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました。神に移されて、見えなくなりました。移される前に、彼は神に喜ばれていることが、あかしされていました。 6信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。 7信仰によって、ノアは、まだ見ていない事がらについて神から警告を受けたとき、恐れかしこんで、その家族の救いのために箱舟を造り、その箱舟によって、世の罪を定め、信仰による義を相続する者となりました。 8信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。 9信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに天幕生活をしました。 10彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です。 11信仰によって、サラも、すでにその年を過ぎた身であるのに、子を宿す力を与えられました。彼女は約束してくださった方を真実な方と考えたからです。 12そこで、ひとりの、しかも死んだも同様のアブラハムから、天の星のように、また海べの数え切れない砂のように数多い子孫が生まれたのです。
☆説教 行き先知らずして(アブラハムの生涯1)
へブル人への手紙の11章を開いていただきました。ほんの短く、みことばに目を留めていただきたいと思います。今年の聖句として記されているのは、11章の6節です。
<へブル人への手紙11章6節>――今年の聖句 信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。
今年は新たにアブラハムの生涯を学んでみようと思いました。 そして彼の生涯を代表する、総括するみことばを捜しました。 ガラテヤ人への手紙の3章の9節に、「信仰の人アブラハム」という表現が出て来ます。 信仰の人アブラハム、忍耐の人ヨブ、知恵の人ソロモン…… 信仰の人アブラハムです――ここヘブル人への手紙の11章では、信仰の人々について証しが続きます。 創世記のアベル、ノアから始まって、モーセ、ラハブ、ギデオン、ダビデの名前も登場します。 しかし11章の半分がアブラハムの生涯の記述です。
ということは、アブラハムこそが絶対的に「信仰の人」なのです。 この信仰の大切さを心に刻むために、11章の6節「信仰がなくては、神に喜ばれることはありません」ということばを心に刻みました。
では、信仰っていったい何なのだろうか? そして信仰って、人生のどんな場面でどんな力を発揮するのだろうか、そんなことを考えながら、数か月、半年ぐらい、アブラハムの生涯を一緒に学んで行きたいと願っています。 で、今日はアブラハムの信仰で特筆されるみことばがありますので、それを見ていただきます。それが(11章の)8節です。 11章の8節をご一緒に読みたいと思います。
8信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。
元旦にふさわしいことばとして、「どこに行くのかを知らないで、出て行きました。」 「行くべきところを知らずして、出て行った」というのが昔の訳です。
私(藤本牧師)は新年になりますと、いつも頭に浮かぶ一つの思い出があります。 前に元旦礼拝で話したことがあります。 それはもう今から30年以上前、私たちが結婚して次のクリスマス、圭子の友人でありましたペンシルべニアのお宅に呼んでいただいて、クリスマスを過ごしたことがありました。 ある時、大きな敷地でありまして、裏の納屋にスノーモービルがあり、一回乗ってみないかと誘われました。 好きなように走らせたらいい。ものすごく広大な土地で、お庭で、見渡す限り雪の平原でありました。 スノーモービルというのは、バイクのようなスロットルがついています。 そして車輪の代わりにそりがついていますので、ものすごい勢いで滑るように雪原を走って行きます。 思いっきり走って小高い坂を上ったところで、後ろから大声が聞こえました。 何を言っているのかさっぱりわからない程の遠い距離ですけれども、明らかに三人ぐらいの人物が手を振って、私を止めているような素振りなんです。
で、私(藤本牧師)は止まりました。彼らがものすごい勢いで走って来ました。危なかったです。 小高い坂の向こう側は池でした(大笑)。 池が凍っていて、そしてその上に雪が積もっていますので、私にはそれが池だとは見えませんでした。
新年になると、この出来事を必ず思い浮かべます。 どこを走ってもいいぞと言われて、自分なりに自由に走らせ、だれも足跡をつけていない雪原の上を走ります。 でもどこかに池はある。その池の上にも雪は積もっています。 私たちは何が積もっているのか、さっぱりわかりません――そういう一歩をこれから踏み出していきます。
新しい区切りを特別に大切にするのが日本人です。 昨日インドネシアのSさんと、パリのH兄にメールをいたしました。 そちらはどうなの?さほど昨日と変わらないという感じで、ま、一言で言えば、日本ほどそのおせち料理を用意するとか、新年を祝うという風習はない。カウントダウンだけがあるような感じですね。 でも私たちは非常に新鮮に元旦というものを捕えます。そして新しい年に踏み出す自分を自覚いたします。 その中で、今日は信仰について3つ勉強してみたいと思います。
1)アブラハムの信仰は行き先知らずして、神を信頼して出て行く信仰――それは一言で、冒険的信仰です。
今日は開きませんが、創世記12章で神さまがアブラハムを召されたときに、声をかけられました。 「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。」(***創世記12:1) それは、へブル人への手紙の中では、「行き先を知らずして出て行った」(***へブル11:8)と。 アブラハムが示された地は、カナンの地方と漠然としていました。 それでもアブラハムはカナンを見たこともありません。 行き先を知らずして、神さまが導かれるところへ、旅を続けて行きます。 それはまさに彼の人生にとりまして冒険でありました。
信仰者の人生は自分で決定するものではありません。 私たちは普通に「人生設計」をいたします。人生に計画があって当然です。 しかしそれでも、人生の主は、私を創造され、私を愛して、救ってくださるイエス・キリストが人生の主であって、私たちではないです。 ですから私たちは、自分の損得勘定で生きているのではありません。 自分の計画にしがみついて、2016年何とか神さまに守ってもらおうという姿勢でもありません。 自分の人生の行き先は、イエス・キリストのみが定めてくださる。
日本の有名な思想家に、キリスト教信仰を持った森 有正(もり・ありまさ 1911〜1976)という人物がいます。 彼はフランス哲学を中心にして膨大な著作を残します。 彼がある大学で、アブラハムと結びつけて、「大学生活は冒険だ」と話したことがあります。 彼はこう言いました。 「真の冒険は、何も北極探検とか南極探検ではない。 新しいものに触れて、自分もまた新しくされていく時、そういう生き方を貫いていく時に、私たちは冒険を味わう。」
彼は「冒険」ということを説明するために、「冒険」と対立する言葉を出してきます。 その対立する言葉が――あるものを「自分のものにする」「自分と同化する」という言葉を使います。 自分のものにしてしまう生き方は、冒険的ではない。
ま、森有正の言葉ですから、少し理解するのに、頭が必要です。 彼はこういうことを言います。 「人は大概何かに出会うと、自分の欲望、自分の好み、判断に適合したものだけを抽出して取り上げて、自分のものにしてしまう。そして残りは捨てる。」 新しい出来事に出会う。何か試練に出会う。何か善きものに出会う。すると、自分の判断、自分の好みに適合するものだけを自分の中に取り入れ、残りは捨ててしまう。
自分の都合の良いものだけを取り入れて、都合に合わないものを排除してしまう――そういう自分中心で、自分を変えようとしない生き方は冒険の反対だということを、森有正は言いたかったんですね。 全く新しいことに出会っても、固い自分がそこにいて、都合が良い部分だけを取り入れて、気に入らないものは全部捨ててしまう。 つまり、人生に起こる様々な出来事で、自分というものは多少なりとも広がりはしますけれども、基本的に何も変わらない。 結局固い自分がすべてで、新しくならない。
それに対して、冒険というものは、思いがけない出来事によって、特に神さまがくださる思いがけない出会いや出来事や考えや試練によって、自分の外側だけでなく、自分の中に新しいものが生まれて来る――それがアブラハムの信仰だと。 神の導きに従い、神の声に応答して、行き先知らずして出て行くアブラハㇺ。 それがアブラハムの信仰なのですが、この信仰の姿勢を取ったことで、アブラハムは変えられていきます。 その変えられて行くというのが、アブラハムの生涯です。 信仰生涯の中で、信仰生涯を歩む中で、彼はどんどん変えられていきます。時に根底から内側から、ひっくり返されていきます。
そういう風に考えますと、森有正が言いましたように、北極探検だけが冒険ではない――大学生活も冒険、人生も冒険、そして礼拝も冒険ですね。 神さまがくださる思いがけない出来事や語りかけによって、自分が崩されていく、変えられていく、新しくされることを期待する姿勢が信仰です。
2)行き先知らずして出て行くことができたのは、その信仰が信頼だったからです。
神さまに対する信頼です。 アブラハムがこれまで、その信頼をどのようにして培ってきたのかは、実は創世記の12章を見てもわかりません。 ある日、いきなり神さまがアブラハムに「あなたは、父の家と父の故郷を出て、わたしの示す地に行け」(***1節)と言われても、それを信じる根拠を彼がどのように持っていたのかということは創世記の記述の中に出て来ません。
いきなり神さまは声をかけます。 「わたしは、あなたを祝福する。あなたから、周囲の人へと祝福は流れるようになる」。 この約束を、アブラハムは信じました。 ちょっとへブル人への手紙の11章の11節を見てください。
11信仰によって、(***アブラハムの妻と説明して)サラも、すでにその年を過ぎた身であるのに、子を宿す力を与えられました。彼女は約束してくださった方を真実な方と考えたからです。
アブラハムもその妻も、神さまというお方をどういうお方と考えていたのか――あ、この方は、約束してくださったことを真実に成し遂げてくださる方だと考えた。 私たちは無鉄砲に冒険的なのではない。 2016年という新しい年、その中に含まれるすべての出来事を用意してくださる神は、私たちに真実なお方である。 もしかしたら、私たちは自分自身の人生設計をあきらめなければいけないかもしれない。 自分が予定していたのと全然違う一年を過ごすことになるのかもしれない。 しかしこの方は、私たちに真実な方である――だから、アブラハムは行き先知らずして出て行くことができました。 突然起こる出来事に自分を開いて、自分が崩されること、自分が変えられること、それを恐れずに向かって行くことができました。 アブラハムは実は一生涯かけてこのこと(***神は真実な方である)を学びます。 信仰生涯に完成はありませんでした。 真実とは約束したみことばに誠実である神です。
グレアム・マニングという牧師が、本の中で、ある火事の出来事を記しています。 二階建ての家の二階から、真夜中に出火しまして、家族は急いで外に逃げるんですが、一番下の小さな坊やが、火を恐れて二階から降りて来ることができませんでした。 取り残されます。下からお父さんが息子の名前を呼んで、もうもうと煙が出る窓から息子が右往左往しているのが見えました。 お父さんは息子に叫びます。 「飛び降りろ。頑張って、勇気を出して飛び降りるんだ。お父さんが必ず受け留めるから」 坊やは煙の中から泣き叫びます。 「飛び降りろって、お父さん、何にも見えないよ。何にも見えないのに、飛び降りられない」 お父さんは言います。 「大丈夫。お父さんにはおまえが見えているから」
お父さんにはおまえが見えているから――私たちが冒険的な信仰をもって、自分が崩されることも恐れずに、新しい世界に飛び出して行くっていうことは、こういうことです。 アブラハムには行く先が見えていません。行き先知らずして出て行くんですから。 しかし神さまには明確に行き先が見えている。 神さまはアブラハムに約束されました。 「大丈夫。わたしには見えている。行き先も、おまえのこともよく見えている」 その神さまの真実さに、アブラハムは信頼して出て行きます。
さて3番目、これが一番大切なところです。
3)行き先知らずして、神の真実に信頼して出て行くアブラハムは、祝福されます。
ちょっと創世記の12章をご覧ください。12章の2節と3節ですが、両方ともご一緒に読んでみたいと思います。
<創世記12:2〜3> 2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、 あなたを祝福し、 あなたの名を大いなるものとしよう。 あなたの名は祝福となる。 3 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、 あなたをのろう者をわたしはのろう。 地上のすべての民族は、 あなたによって祝福される。」
「祝福」という表現にこだわって聖書を見てみますと、もう必ずこの箇所に行きつきます。 4回(5回?)も出て来ます。 まだアブラハムには祝福の中身は解りません。
この「祝福」という言葉が、へブル人への手紙では、味わい深い表現になって、もう一度言い直されています。 そこで、もう一回ごめんなさい、へブル人への手紙の11章に戻っていただきたいと思うんですが、彼が受けるべき祝福は、一言でこういう風に表現されています。 8節をもう一回読んでみましょう、ご一緒に。
8信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。
ここに「相続財産として受け取るべき地」がある。 これはもちろん天の御国が書かれています、最終的には。 しかしそれだけではない。相続財産として受け取るべき地を神は信仰者に用意していてくださる。 神さまは私たちに何かを相続させようとして、この年新たに私たちを送り出されます。
私たちにとりましてはこの年の目標があるのかもしれない。 しかし神さまにとっては、さらに大いなる目標がある。 それは一年を通して私たちに何かを相続させよう、「受け取るべき地」を神は用意してくださる――そしてその祝福を私たち信仰者は、与えられたものとして受け取るのです。
いいですか、ここで一つ注目していただきたいことがある。とっても大切なことです。 創世記の12章から始まるアブラハムの人生によって、創世記という分厚い書物の流れが変わります。 創世記は、アダムとエバで始まります。 天地創造、アダムとエバで始まり、さらに楽園を追い出されたカインとアベル、そしてカインがアベルを殺すという出来事、楽園の東エデンの東に住む人生、その人々の姿が描かれています。 しばらくしますと、長〜いページを割いてノアとノアの箱舟の話が始まります。 「【主】は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。」(***創世記6:5) そして神さまはこの地上を一掃して、ノアによって新しく人類を始めることを決意されたという出来事がしばらく記されています。
しかしそこから始まりました人間の歴史が、必ずしも正しい者たちの歴史ではありませんでした。
さて、そうしてアブラハムが登場する一つ前の11章に出て来る出来事、それがバベルの塔です。 皆さんもお聞きになったことがおありでしょう――バベルの塔で、人々は言います。 「さあ、れんがを焼こう。さあ、われわれは町を建て、その頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。」(***同11:3〜4) これが人々の決意であり、計画でした。 もしかしたら、これが私たちの新年の計画にもなります。 そしてその時私たちは初詣に行って、この計画を祝福してくださいと、神社で祈ります。 「さあ、今年私たちはれんがを焼こう。町を建てよう。その頂が天に届く塔を建て、名をあげて、成功を積み重ねよう」という決意を、神さまに祝福していただくために、初詣に出かけるという思いで、教会にいらっしゃることはできない。 「れんがを焼こう。町を建てよう。頂を天にまで届かせ名をあげよう。立てさせてください。届かせてください。名をあげさせてください。」――これまでの歴史は人の計画、人のやり方、人の達成、人の願望、その歴史でありました。
そこに神がアブラハムに現れます。 そんな世界を出て、わたしが示す地へ行きなさい。 そこにはあなたが受け取ることができるように、わたしは祝福を用意してある。 あなたはまだそれを知らなくてもいい。でも祝福はあなたが名をあげて獲得するようにはできていない。 わたしがあなたのためにすでに用意してある、あなたが取るべき地を取れば、それがあなたにとっての祝福になる。
信仰の人アブラハムから始まる歴史は、聖書の歴史を変えました。 バベルの塔が人の歴史の象徴であるとしたならば、そこから離れて、積み上げ、獲得し、建て上げていく人生から転換しなさい。 神が用意してくださる祝福を受け取るために、それを受け取るのにふさわしい人物として、私たち一人ひとりが変えられていくように、神さまは祝福だけでなく、アブラハムに試練も与えてくださいます。 その積み上げによって、私たちはさらに大きな祝福を受け取るにふさわしい人物へと変えられる。 私たちはいったい何者か?――私たちは神の真実を信じる者です。 それがゆえに、行くところ知らずして出て行く信仰者です。 でもそれによって、私たちは変えられ、開かれ、崩され、内側から造り変えられ、神さまが私たちのために用意してくださる、取るべき地を取るのにふさわしい人物へと変えられていきます。
☆お祈り 恵み深い天の父なる神さま、一年の最初の日をあなたの御前に聖別いたしました。私たちに信仰を与えてください。自分の思いのままに動かす小さな神々ではなく、私たちの人生を創造し、私たちにいのちを与え、私たちに祝福を用意してくださるあなたを見上げて一年365日歩んでまいります。どうか、私たちを内側から変えてあなたの祝福に添う者となしてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
☆聖餐式
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