☆聖書箇所 創世記12:1〜9 1【主】はアブラムに仰せられた。 「あなたは、 あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、 わたしが示す地へ行きなさい。 2 そうすれば、わたしはあなたをおおいなる国民とし、 あなたを祝福し、 あなたの名を大いなるものとしよう。 あなたの名は祝福となる。 3 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、 あなたをのろう者をわたしはのろう。 地上のすべての民族は、 あなたによって祝福される。」 4アブラムは【主】がお告げになったとおりに出かけた。ロトも彼といっしょに出かけた。アブラムがハランを出たときは、七十五歳であった。 5アブラムは妻のサライと、おいのロトと、彼らが得たすべての財産と、ハランで加えられた人々を伴い、カナンの地に行こうとして出発した。こうして彼らはカナンの地に入った。 6アブラムはその地を通って行き、シェケムの場、モレの樫の木のところまで来た。当時、その地にはカナン人がいた。 7そのころ、【主】がアブラムに現れ、そして「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える」と仰せられた。アブラムは自分に現れてくださった【主】のためにそこに祭壇を築いた。 8彼はそこからベテルの東にある山のほうに移動して天幕を張った。西にはベテル、東にはアイがあった。彼は【主】のため、そこに祭壇を築き、【主】の御名によって祈った。 9それから、アブラムはなおも進んで、ネゲブのほうへと旅を続けた。
☆説教 決別・祭壇・祈り(アブラハムの生涯2)
今年はアブラハムの生涯から学んでみようと導かれました。 それで元旦には、へブル書の11章からアブラハムを学び、今日から正式に(創世記の)12章から始まっていきます。 ガラテヤ人への手紙3章の9節に「信仰の人アブラハム」という表現が出て来ます。 いろいろありますね。「神の人モーセ」という表現もありますし、「忍耐の人ヨブ」という言葉もありますし、しかし何と言ってもアブラハムは「信仰の人」です。 私たちはアブラハムの生涯を学びながら、信仰の本質に迫ってみたいというのが今年の願いです。
信仰ってどういうものなのか? たとえばこういう風に話すと、少し解っていただけると思います。 少し前ですけれども、ある新聞が宗教に関する全国の世論調査を行った結果を出していました。 その調査によりますと、何か宗教を信じていますか?という質問に、信じていると答えた人は2割です。信じていないという人は8割です。 これから見ますと、日本はキリスト教国だけではなくして、神道の国でも仏教の国でもない、おおよそ無宗教の国だと言うことはできます。
では神や仏が存在していると思うか、という質問に対して、存在すると答えた人は割と高いです。4割です。何とも言えないという人が3割で、それから存在しないという人が3割で、そうしますと6割は存在しているとは思わないという側になります。でも4割は存在している(側)んですね。
それから次の質問が非常に興味深い。 友引の日の葬儀を気にしますか?これは5割気にします。 仏滅の日の結婚式を避けますか?これも5割避けます。クリスチャンの人は好んで仏滅の日に結婚式を挙げますね(笑)。これは値段が安いからでしょう(大笑)。 厄年を迎えるということを気にしますか?4割気にします。 葬式の帰りのお清めをする人は3割います。 なんと13日の金曜日を嫌がる人、これ1割います(大笑)。 クリスチャンは1%しかいないんですけれども(笑)、クリスチャンでなくても13日の金曜日は嫌がる。 これですね、みな、キリスト教でも浄土真宗でも全部迷信です。迷信なんです。 でも無宗教の割に、かなりの人がこの迷信の方は気にするんですね。
すると、このアンケートから見えて来る事は、宗教は信じないということは宗教団体には属していない、という意味でしょう。 そして神も仏もいる、という人も半分にも満たない、そういう国でも迷信はかなり気にするんですよ。 迷信と言っても、特に気にするのは、いわゆる祟りの関係ですね――それを守らないと厄介なことが起こるという発想。 これは大変興味深い日本人の宗教観を現しています。 極端に言えば、日本人は神も仏も信じないが、祟りは信じる。
日本人の多くの人にとって、宗教は祟りから、悪霊から、悪いことから身を守るためにある。 昔の人は鬼を恐れました。狐や狼や妖怪を恐れました。 それと同じように、いまだに私たちはそういう恐ろしい世界でしか、霊的なことは考えない。 宗教的なこと、信仰的なこと、霊的なことと言うと、みんな祟りと関係してしまう、実に宗教的な貧しさが日本を包んでいる、と言っても過言ではないと思います。 聖書は、聖書を信じる人の生き方はそのような貧しい、暗い人生観を突き破ることを教えています。
祟りを恐れ、ご利益だけを求める信仰から、あるいは信心から離れて、神はアブラハムを信仰の世界へと召されました。 信心から離れて信仰の世界へ――今日は少しそのことを考えてみたいと思います。 信仰っていったい何だ?――3つのポイントで話を整理しました。
1)信心との決別です。
信心というのは、祟りを恐れ、ご利益を求める。そういう類の信心との決別です。 何か悪いことが起これば、神さまからの罰が当たった、そういうものの考え方。 このことを叶えてもらうために、一生懸命神さまにお祈りをする。 単純に祟りを恐れ、ご利益を求めるような信心と、信仰は決別していきます。
決別が12章の1節を見ていただくと書いてありますので――「主はアブラムに仰せられたの後の四角(鍵カッコ)の中をちょっと読んでもらっていいですか?
1……「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。 2そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。……
そこまでにしましょう。 1節に「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい」――出ろ、出なさい――決別が含まれていますね。
アブラハムは、最初、父親のテラと一緒にカルデヤのウルというところに住んでいました。今で言うイラクですね。 そして、チグリス・ユーフラテス川の下流にある大変豊かな文化都市です。 文化が発展し、経済が発展しているウルを離れなさい。 そのウルから、アブラハムのお父さんであるテラは、アブラハムを連れて、11章の31節を見ますと、ハランというところまで来てそこに住みつきます。 ハランで止まってしまいました。 出方が中途半端であったと、そう言ってもいいでしょう。 ハランは今のイラクの北側で、ウルほどではありませんけれども、やはり豊かな場所でありました。
11章の一番最後の32節で、「テラはハランで死んだ」とありますね。 それから、神さまはアブラハムに語りかけます。 「わたしについて来なさい」と彼一人を呼び出します。 「そしてあなたを祝福しよう。あなたには相続すべき地があり、取るべき地がある。わたしは祝福を用意してあなたを招く。だからあなたはわたしについて来なさい」
私たちの宗教感覚で言えば、祟りを恐れ、ご利益を求めるだけのような信心を後にして、決別して、 天地万物を創造し、生きとし生けるものにいのちを授け、私を形造り、私を導いてくださり、私を贖ってくださる神に、 私たちは呼ばれたんです。声をかけていただいた。
アブラハムは神の語りかけに深く感動したに違いありません。不思議に感動したに違いありません。 詳しい内容は記されていません。でも元旦礼拝の時に見ましたように、彼はあまりに感動したのでありましょう。 彼は「行き先を知らずして」、父の家を後にします。
すると二番目に、信仰が決別であるとしたら――
2)同時にそれは出発です
いいですか、信仰が決別であるということを、よ〜く覚えておいてくださいね。 祟りからの決別、それからご利益信心からの決別――それは同時に出発です。
1節の最後に、「わたしが示す地へ行きなさい」。「行きなさい」と言う。 私(藤本牧師)はよくわからないんですが、注解書を見ると、このヘブル語は非常に珍しい。 旧約聖書のこの分厚い書物の中で、2回しか出て来ない。 もう一回は創世記の22章に出て来るんですが、22章の2節で神さまがアブラハムに命じておられる所があります。 それは、「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい」 この二回だけしか、「行きなさい」という動詞のこういう使われ方はされていない。 12章のこの場面、そして人生の後半におけるイサクをささげよというこの二回だけ。 アブラハムの信仰にとって、とても意義深い「行け」です。
それを日本語で表現しようとしますと、「あなた自身で行け」「あなただけで行け」という意味だそうです。 今まで父テラについてここまで来ました。 「しかしこれから先は父の家を離れて、あなた自身の足で行きなさい」、神はアブラハムにそう仰いました。 今まで漠然と人について行った者が、今度は自分の足で立って歩めと、神さまは励まされました。
皆さん、ご自分が救われ洗礼を受けたときのことを思い出してご覧になりますと、みなこのアブラムと似たところがあるに違いありません。 これはクリスチャンホームの子どもたちにとってもそうです。 どこかで、自分が漠然と父テラについて来た信仰から決別し、自分の決断で、あなたの足で歩むように神さまから促されます。
さて、このようなときに、人は初めて真剣に神を求めるようになります。 ヤコブは兄エサウを裏切って、長男の祝福の権利を奪い取って、いのちの危険を感じて、おじさんの遠い国に旅立つ、その途中、荒野で神に目覚めます。 その時初めて、神さまの名前を呼んで祈ります。 それ以前は、イサクの祈る姿は見て来ました。イサクの信仰の話も聞かされてきました。おじいさんのアブラハムの話も聞かされてきました。しかし彼は祈ったことがない。 実家から逃げるようにして出て来て、ひとり荒野で夜を過ごした、その夜に彼は祈るんです。
「あなたの足、あなただけで行きなさい」と、神さまに呼び出された時に、アブラハムには大きな不安がありました――果たして大丈夫なんだろうか? 「行き先解らずして出て来た」はいいけれど、ではいったいその行き先はどこなんだろうか?神さまはどこへ行けと仰るのか?自分でやっていけるんだろうか?――様々な不安が現れます。 そこで、初めてアブラハムは真剣に神に祈り求めます。
私(藤本牧師)はある時、ジャカルタにいらしたS姉がどうしていらっしゃるのかなと思いまして、そうしてフェイスブックを見てみました。 そしたら、全然写真が11月から更新されていない。11月の写真のままなんです。 ああ、なるほど。会社の方針としても、あまり個人的な写真を、海外にいながら上げてはいけないんだなと(思いました)。 その写真が、家から羽田か成田に出るタクシーに乗っている姉妹のキョトンとした顔をお父さんかお母さんが写真に撮った、その写真が上がっているんですね。 そのキョトンとした顔が何とも不安。え、もう行っちゃうのか私は。ひとりで行っちゃうんだねと(***言っているように見えるのでしょうね?T・Y)。
最近、着いたその日に、私はメールをもらいました。ちょっとそのメールを読んでみますね。本人の了解をいただきましたので、ちょっと読んでみます。
先ほど無事ジャカルタに到着し、新居に入りました。 ここまでかばんもなくならず、交通事故にも遭わず、守られて感謝です。 明日から仕事が始まる予定です。 いつもお祈りと励ましの言葉をありがとうございます。
先週の日曜日には多くの方が、多くの贈り物――言葉であったり、物であったり、食べ物であったり、手紙――をくださいました。 出発の前後には多くのメールをいただきました。 本当に温かな教会家族の中で育んでいただいたなぁと実感します。 感謝、感謝、感謝です。
今朝東京を発つまでは、実感あまり湧いて来ませんでした。 でも着いた途端に、無性に寂しさが込み上げて来ました。 【出発するときには実感はあまり湧いて来なかった。でも着いた途端に無性に寂しさが込み上げて来ました、と繰り返し強調して読む藤本牧師】 一年かぁと思うと、短いような長いような、です。
と、こういうメールをいただきました。 S姉の最後の写真は、その家からタクシーに乗って家族に見守られて、出発していく。 ああ、自分はあそこから行ったんだなぁと(心に刻まれていることでしょう)。
アブラハムにしてみれば、ああ、自分はあそこから出発したんだなぁと。 でもこれから先という、その何とも言えない揺れる気持ちが、6節と7節に出て来ますので、私(藤本牧師)が6節を読みます。 皆さんが12章の7節を読んでみてほしいと思います。 まだ当時、(***アブラハムは17:5で名前が変わる前で)アブラムですから、アブラムで読んでみてください。
6アブラムはその地を通って行き、シェケムの場、モレの樫の木のところまで来た。当時、その地にはカナン人がいた。 7そのころ、【主】がアブラムに現れ、そして「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える」と仰せられた。アブラムは自分に現れてくださった【主】のために、そこに祭壇を築いた。
よ〜く見てください。 6節に「その地を通って行き、シェケムの場」――アブラハムにしてみれば初めてですね。 「モレの樫の木」――これも初めてです。地元の人がこれを「モレの樫の木」と呼んだだけで、彼はよくわかりません。 そこを見て、カナンの地に入ります。カナン人に初めて会う。少し言葉も違うでしょう。 初めてその地に行ったショックは書いてありません。でもそれは想像できます。
そして7節に、「そのころ、【主】がアブラムに現れ、そして『あなたの子孫に、わたしはこの地を与える』」と声をかけてくださり、「アブラムは自分に現れてくださった【主】のために、そこに祭壇を築いた。」
8彼はそこからベテルの東にある山のほうに移動して天幕を張った。(***また、引っ越すんですね。また違う地域です、と説明)西にはベテル、東にはアイがあった。彼は【主】のため、そこに祭壇を築き、【主】の御名によって祈った。
異国の地に「出て行け」と言われたら出て行くアブラハム。でも彼は不安ですね。 ここなんだろうかと思いながら、また違う場所に出て行くと、また不安ですね。 不安である彼はどこにあっても、神に祈ります。 ですからどこにあっても、祭壇を築きます。 そして神さまは、彼の不安に応じるかのように、答えるかのように、彼にその頃現れます。 そして彼に言葉をかけます。約束の言葉をかけて、彼を安心させます。
アブラハムが祭壇を築いたということは、彼はそこで礼拝をしたということです。 礼拝は場所には関係ありませんでした。 7節で祭壇をまた築きます。8節でベテルの東に移って、主のためにそこに祭壇を築き、主の御名によって祈るんですが、9節でまたネゲブのほうへ旅を続けます。
3)するとこの三節でどういうことか、伝わってきますよね。
つまり信仰の旅路はいくらでも続いていくということです。 天幕を張る場所も変わります。でもどこにあっても、信仰者は祭壇を築いて神に祈る。 そして私たちが不安になれば、必要な御言葉を与えて、また旅を続けることができるように神さまは守り励ましてくださる、ということがわかるようになるのですね。
10節から、来週からは具体的な様々な出来事を一緒に見ていただきたいと思いますが、その旅路の中で、彼の人生が単純ではなかったということがよく書いてあります。 でもどんなに苦境に立たされても、彼は祭壇を築いて神に祈る。 すると神は彼に現れて、約束を与えてくださいます。 「わたしがあなたを守る。わたしがあなたを導く。わたしがあなたを祝福する」
そういう風に考えますと、S姉が一番しっくりくる教会に導かれますように。 この祭壇で私は礼拝しようと。 この地に引っ越して来られた皆さんもみなそうです。 I くんも高津に来られるまでに、いくつかの教会を巡り歩いて来られました。 あ、この祭壇で自分は礼拝しようと。 なかなか見つからなければ、自分の家を祭壇にし、日曜日は聖書を開こう。 これはクリスチャン生活の基本中の基本です。
つまり2016年、いや2017年、行き先解らずの旅でよしです。 どこまで行っても行き先は解りません。 ただ私たちは人生の旅路のどこにあっても、神を礼拝する。 祭壇を築いて、自分自身を――ローマ人への手紙の言葉ですと――自分自身を「生ける供え物として、神に捧げなさい」(***ローマ12:1)。 ささげるものは自分自身、そして霊的な礼拝を神に捧げる。行き先はどこかわからない。 でもそれが信仰の人アブラハムの基本中の基本でありました。 信仰生活の土台です。
これから先、一緒に学んでいくアブラハムの人生は複雑です。もう笑ってしまう程複雑です。 しかし彼はどこまでも信仰の人であったということは、どんな局面にあっても、神を礼拝することだけは、彼の人生から奪うことはできなかったということです。
私(藤本牧師)、ずいぶん前に紹介したことがあります。 私自身、いま生きている説教者の中でだれを一番尊敬しますかと言われますと、ラヴィ・ザカリアスというインド人の有名な説教者。 私は彼の説教に非常に強く影響を受けました。 この前YouTubeで見ていたら、彼の説教がいくつも載っていましたので、ああ、懐かしいな――もうだいぶお歳ですが――思いました。
彼は教会を持たずに神学校で教え、そして全米でいろんなところに招かれて講演をして生活をしているような人物でありました。 ある時、オハイオの州立大学に講演に招かれます。 空港から会場へと車に乗って移動しているときに、キャンパスの中のオハイオ州立大学の有名な建造物があるんですね。 それがウェクスナー・アートセンターという、ウェクスナーという人の基金で建てられた芸術的な建物が目の前に広がったわけです。
この大学が誇る、近代建築の技術の粋を集めたような建物なのですね。 大きな柱は何かを支えているわけでもない。階段はどこかに行きつくわけでもない。建物の構造は外から見ると何の規則性もない。 何かを目指すわけでもなく、どこかに行きつくわけでもなく、その秩序を失ってしまったこの世界を象徴するような建物が、オハイオ州立大学にあるわけです。 私(藤本牧師)はその話を読んで、インターネットで検索しましたけれども、まさに近代建築の粋を集めたような建物だなぁと思います。
ザカリアス先生は思わず、運転をしている大学関係の方に尋ねたそうです。 「あの建物は土台部分もあんな感じなのですか?」と。 そしたら、その方は笑って答えたそうです。 「先生、そんなはずないじゃないですか(笑)。土台部分だけは、いかにも古典的ですよ」 それを聞いて、ザカリアス先生は安心をしたという話であります。
私たちの人生の家の部分は人それぞれ違っています。 時にはあらぬ方向に発展して、階段を上ったつもりがどこにも行きつかず、という人生でもあります。 私たちはだれひとりとして、整然で秩序だった建物を建てるような人生を送っている人はいないんですよ。 迷うこともあり、傷つくこともあり、病むこともあります。行き詰ることもあります。 近代建築のそのどこを向いているのかわからないような建物が、それが私たちの人生ですね。
それだけでもない。私が建てて来た家に、雨が降って雨漏りはするし、洪水が押し寄せて、風が吹いて、激しくこの家が揺らされるような人生です。 人が見たら奇妙な建物だなぁと、数奇な人生だなぁと、こう思うかもしれません。
しかし、私の家は、私たちの家は、それほど混乱はしていない。 なぜなら、土台部分が極めて古典的なんですよ。 私たちは2000年前の初代教会の人々と同じく、いや4000年前のアブラハムと同じく、土台部分は極めて古典的。 人生どんな局面にあっても、不安になれば祭壇を築いて神に祈る。すると神は現れて私たちに答えてくださる――それが私たち、信仰の人を造って行きます。
☆お祈り
恵み深い天の父なる神さま、新年最初の聖日にアブラハムと私たちを重ねて、みことばから学ぶことができた恵みを感謝いたします。
祟りを恐れ、ご利益を求めるような日本人の信心からあなたは出て、わたしの示す信仰の地へと向かいなさいと。その信仰の地とは、人生、信仰の旅路だよと。そしてその旅路の中には様々な出来事があり、翻弄されることばかりかもしれない。 しかしアブラハムのように、祭壇を築いてわたしに祈りなさい、と招いてくださいますから感謝いたします。小さな祭壇かもしれません。自分だけの祭壇かもしれません。
しかし、どうか主よ、私たちの祈りに答えて現れてください。インドネシアに現れ、パキスタンに現れ、パリに現れ、アメリカに現れ、私たちの信仰家族を、どこにあってもあなたが守ってくださいますようによろしくお願いいたします。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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