☆聖書箇所 創世記12:10〜20
10さて、この地にはききんがあったので、アブラムはエジプトのほうにしばらく滞在するために、下って行った。この地のききんは激しかったからである。 11彼はエジプトに近づき、そこに入ろうとするとき、妻のサライに言った。「聞いておくれ。あなたが見目麗しい女だということを私は知っている。 12エジプト人は、あなたを見るようになると、この女は彼の妻だと言って、私を殺すが、あなたは生かしておくだろう。 13どうか、私の妹だと言ってくれ。そうすれば、あなたのおかげで私にも良くしてくれ、あなたのおかげで私は生きのびるだろう。」 14アブラムがエジプトに入って行くと、エジプト人は、その女が非常に美しいのを見た。 15パロの高官たちが彼女を見て、パロに彼女を推賞したので、彼女はパロの宮廷に召し入れられた。 16パロは彼女のために、アブラムによくしてやり、それでアブラムは羊の群れ、牛の群れ、ろば、それに男女の奴隷、雌ろば、らくだを所有するようになった。 17しかし、【主】はアブラムの妻サライのことで、パロと、その家をひどい災害で痛めつけた。 18そこでパロはアブラムを呼び寄せて言った。「あなたは私にいったい何ということをしたのか。なぜ彼女があなたの妻であることを、告げなかったのか。 19なぜ彼女があなたの妹だと言ったのか。だから、私は彼女を私の妻として召し入れていた。しかし、さあ今、あなたの妻を連れて行きなさい。」 20パロはアブラムについて部下に命じた。彼らは彼を、彼の妻と、彼のすべての所有物とともに送り出した。
☆説教 アブラハムの生涯(3)人の混乱
元旦から今日で3回目。アブラハムの生涯を学んでまいりました。「信仰の人アブラハム」です。 もしインターネットにアクセスを許されましたら、T・Y姉が元旦と、それから第2回目の、先週の礼拝の説教をアップしていただいておりますので、ぜひ読んでいただいて、そしてこのアブラハムから私たちが何を学ぼうとしているのか、読んでいただけると幸いであります。
信仰の人――元旦の日には「行く先知らずして」、神さまの善を信じて、神さまが召してくださった方向へと出発するアブラハムを学びました。 それから先週は、創世記の12章から、慣れ親しんだ自分の故郷、自分の家、父の家、自分の価値観と別れたアブラハム。 先週はそれを日本人の信心と対照するなら、祟りを恐れご利益を求めるような信心との決別。
「わたしに従って来なさい」と神さまはアブラハムに声をかけてくださり、私たちにも声をかけてくださいました。 それはアブラハムに「行け」という言葉をかけてくださった、ということに注目しました。 「行け」という言葉は、創世記では特殊な言葉で、「自分の足で歩め」、父の家から離れて自分の足で歩め。
しかし当然のことながら、自分の足で歩んだ途端に、真剣に行くことを考えた途端に、アブラハムは大きな不安に襲われます。 本当に行けるんだろうか?本当に信仰一本でこの道を行って大丈夫なんだろうか? そんなアブラハムは祈りました。初めて真剣に祈りました。 そして彼は祭壇を築いて、どこにあっても祭壇を築いて、守ってくださり導いてくださり祝福してくださる神さまに礼拝をささげました。
私たちはアブラハムの信仰生活の基本を自分のものとして、今年自分の足で神さまが「行け」と仰る方向に新たな思いで進んで行きたいと願っています。 であるがゆえに、どこにあっても神さまに祭壇を築いて、神に祈りたいと願っています。
さて、今朝開いていただいた箇所は、そんな「信仰の人アブラハム」を襲った試練です。 先週の最後からちょっと読んでいきます。(創世記12章)7節から読んでいきます。
<創世記12:7〜9> 7そのころ、【主】がアブラムに現れ、そして「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える」と仰せられた。アブラムは自分に現れてくださった【主】のために、そこに祭壇を築いた。 8彼はそこからベテルの東にある山のほうに移動して天幕を張った。西にはベテル、東にはアイがあった。彼は【主】のため、そこに祭壇を築き、【主】の御名によって祈った。
どこに移動しても祭壇を築いて【主】に祈っているアブラハムです。 なおも旅を続けます。9節――
9それから、アブラムはなおも進んで、ネゲブのほうへと旅を続けた。
ネゲブに入ったのは初めてです。 ネゲブというのは「乾いた」という意味です。乾き、非常に雨の少ないパレスチナの地方ですが、今日読んでいただいた10節にこう始まります。
10さて、この地にはききんがあったので、アブラムはエジプトのほうにしばらく滞在するために、下って行った。この地のききんは激しかったからである。
二回続けて「信仰の人アブラハム」から学びました。 そして今日は、その「信仰の人アブラハム」を襲った試練です。 それはききんという試練で、しかも――10節の最後に「この地のききんは激しかった」――激しい試練に見舞われます。 人生のとても難しい状況が起こったということです。 その時アブラハムが取った行動を、私たち自分自身に当てはめて考えてみたいと思いますが――
1)10節に「エジプトのほうに、滞在するために下って行った」
あまり深読みはしない方がいいのかもしれませんが、これはとっても象徴的なことです。 なぜなら、聖書の中では「エジプト」は「この世」を代表しています。 「この世」というのは、私たちを陥れ、私たちを誘い、最終的には私たちを捕えて、奴隷にしてしまう「この世」を「エジプト」という言葉が代表しています。
イザヤ書の31章の1節をご一緒に読んでみたいと思います。この言葉は覚えておいた方がいいと思います。
<イザヤ書31:1> 1 ああ。 助けを求めてエジプトに下る者たち。 彼らは馬にたより、 多数の戦車と、非常に強い騎兵隊とに拠り頼み、 イスラエルの聖なる方に目を向けず、 【主】を求めない。
有名な言葉です。 「ああ。助けを求めてエジプトに下る者たち。彼らは金に頼り、武器に頼り、人間的に力強いありとあらゆる工作に拠り頼み、イスラエルの聖なる方に目を向けず、【主】を求めない」という、 この「エジプトに下る者たち」という者は、旧約聖書に綿々と描かれています。 そしてその一番最初が「信仰の人アブラハム」であった、ということを覚えておきたいと思います。
「エジプト」は信仰とは違う「この世の助けのすべて」を現しています。 「下って行った」というのは、ものの言い方として、あまりにもあっさりと約束の地を後にして、エジプトに身を寄せてしまった。 ネゲブというのはパレスチナの南にあります。 ネゲブにききんがあれば、アブラハムはベテルに上ればいい。ベテルから自分が来た北の方に上って行けばいい。 なんでエジプトの南に彼は下って行ったんだろうか? もちろんエジプトはナイル川のこの恩恵を受けて緑の大地が広がっています。 しかしここから始まってエジプトに下って行く、というものの言い方は、旧約聖書では、神を求めずに、人間的な策略、人間的なリソースに頼る、ということの私たちの姿を象徴しています。 このききんを乗り越える方法を神に祈ってその判断を仰いだ、という記述は一言も記されていないです。 「信仰の人アブラハム」でもこうだとしたら、私たちならなおのこと、いとも簡単に約束の地を後にしてエジプトの方に下って行く、ということを自覚しておくべきだろうと思います。
職場にあって、あるいは病院の待合室で、突然自分の身に何か異常なことがあったら、そこに祭壇を築いてそして祈る、ということを私たちはなかなかしないのかもしれません。 すぐに心騒いで、そして周囲の者たちに電話をかけ、様々な人のアドバイスを聞き、帰りには本屋によって、インターネットを検索して、どのようにしたらこの危機を乗り越えることができるのかと、私たちはまず考えます。 そしてもちろん周りの人たちも助けてくれます。しかし必ずしもそれが助けにならない場合もある。 それが今日の話の二番目のポイントで、一緒に見ていただきたいと思いますが――
2)エジプトでのアブラハムの曖昧さ
エジプトに入ろうとしたとき、アブラハムはサラに言います。11節、ちょっと見てください。
11彼はエジプトに近づき、そこに入ろうとするとき、妻のサライに言った。「聞いておくれ。あなたが見目麗しい女だということを私は知っている。
「見目麗しい」(笑)というのは、昔の表現ですね(大笑)。とてもきれいだということを、私はよく知っている。
12エジプト人は、あなたを見るようになると、この女は彼の妻だと言って、私を殺すが、あなたは生かしておくだろう。 13どうか、私の妹だと言ってくれ。そうすれば、あなたのおかげで私にも良くしてくれ、あなたのおかげで私は生きのびるだろう。」
13節の「どうか、私の妹だと言ってくれ」――これはほんとです。 後に20章の12節にアブラハムは言いますが、このサラという女性はアブラハムと父親は同じです。でも母親は違います。いわゆる腹違いの妹なんです。 でも妹であって、妹ではないです。なぜならアブラハムと結婚しているからです。 ですから明確にアブラハムの妻です。 「でも妻であるという立場を隠して、妹だと言ってくれ。そうすればあなたのおかげで、エジプト人は私に良くしてくれるに違いない」というアブラハムの発想なんです。
「良くしてくれるだろう」――もちろんそこには、「生きのびる」ということも入っていますが、「生きのびる」だけではない。 「良くしてくれる」というのは、実際エジプト人の高官がサラに目を留め、そしてサラを王宮に連れて行くんですが、ちょっと15節を見ていただきます?
15パロの高官たちが彼女を見て、パロに彼女を推賞したので、彼女はパロの宮廷に召し入れられた。 16パロは彼女のために、アブラムによくしてやり、それでアブラムは羊の群れ、牛の群れ、ろば、それに男女の奴隷、雌ろば、らくだを所有するようになった。
ここに「よくしてやり」というのがありますよね。 実は16節の「よくしてやり」13節の「良くしてやり」というのは、ヘブル語の表現はちょっと違うんですけれども、似たようなものです。 すると、「良くしてくれた」ってどういうこなのかといえば、沢山の財をもらうことになった。 アブラハムはこれから先、大変豊かなアブラハムとして知られるようになります。 牛の群れ、ろば、男女の奴隷を抱えて旅する、いわゆる族長的な存在になります。 自分の故郷を出た時には、いわゆる荷車一つで出て来たに違いないです。 しかしこの時点から、アブラハムは非常に裕福なアブラハムに変わって行く。
なぜそうなったのかというと、サラと引き換えに、自分の妻と引き換えに、沢山の財をエジプトの王からもらってしまった。 アブラハムは王がサラを気に入って結婚をしたいと申し入れたために、王から莫大な財産を手に入れることになります。 そうなりますと単純にアブラハムは、生き延びるために妹だと言ってくれ、と言ったのか、それとももう少し先を見越して、もしかしたらこの策のゆえに、自分は裕福になるのかもしれない、そう思っていたのかもしれませんよ。 つまり、サラを差し出すことになるわけですけれども、差し出すことによって、自分は生きのびれるのみならず、豊かになるかもしれない。
私たちは思いますよね――できたら、サラはエジプトの王宮に入ったけれども、まだ王とは結ばれていなくて準備段階であって、そして王さまは、「ありがとう。あなたの妹を紹介してくれて感謝する」ということで、沢山の妹の代わりに結納金のようなものをアブラハムにもたらした、とこう考えることもできますが、しかし必ずしもそうはいかないと思います。 15節の最後で「彼女はパロの宮廷に召し入れられた」という言葉がありますでしょう。 それから19節に、「なぜ彼女があなたの妹だと言ったのか。だから、私は彼女を私の妻として召し入れていた」――この「召し入れていた」という言葉、これは結婚したという意味です。 これは法的に結婚したという意味で、準備期間中の結納金という意味では必ずしもないです。 私たちはそう思いたいですけれども。
すると、アブラハムはここでとんでもないことをしてしまった。 ききんであるというこのパレスチナの状況を抜け出るために、彼は約束の地をいとも簡単に後にして、そしてエジプトに下って行きます。 下って行った時に、自分たちの身を守るためだだろうと思いますけれども、最初はね、でも妙なウソをついたがゆえに自分の人生の状況を非常に難しくする。 人に取り入り、人間関係にたより、要らぬところからお金を借り……
私たちも社会にあって、生き延びるためにいろいろな作戦を考えます。 しかしその作戦にちょっとした歪みがあると、私たちはますます足を引きずられるごとくにアブラハムは引きずり込まれて行く。 そしてその最大の犠牲者はサラですね。 私(藤本牧師)は――これから先、アブラハムはどういう風にしてサラに謝ったのかあまり書いてないんです――それは当時の習慣からして書いてないんだろうと思います。 しかしサラはこの時の出来事を生涯忘れなかったと思いますね。 アブラハムにしてみれば、「まさかこんなことになるとは思っていなかった」と言うかもしれません。 しかしとっても軽率な行動でありました。
覚えておかなければいけないことは、私たちはどこかで問題がありますと、必ずエジプトに下って行くということです。 何とか上手に乗り切ろう、上手く立ち振る舞おうとすればするほど、うまくいかないものです。 曖昧な答えをしているうちにずるずると深みにはまって行きます。 それは前回見たアブラハムと対極的です。 前回見たアブラハムはどこに行っても、祭壇を築いていました。しかし、今朝見ているアブラハムは王宮に出入りしている。
3)ここに神の介入があります。
(創世記)12章の17節――
17しかし、【主】はアブラムの妻サライのことで、パロと、その家をひどい災害で痛めつけた。
神さまは王と王宮を打たれます。 「ひどい災害で痛めつける」というのは、一言で「打った」という意味ですが、 これは出エジプト記でモーセが、奴隷に捕われたイスラエルの人々を解放するために、エジプトのパロの所に行きますでしょう? そして、神さまは一番最後にこう仰います――「わたしはパロとエジプトの上になお一つのわざわいを下す。そのあとで彼は、あなたがたをここから行かせる(***出エジプト11:1)と。 「わたしはなお一つのわざわいを下す」ということは、ここと同じ動詞で、「打つ」。
アブラハムのパターンは出エジプトの時にも繰り返されます。 神さまは奴隷のイスラエルを解放するときに、イスラエルにエジプトの金・銀・財宝を持たせて脱出させますよね。 聖書の表現では、「エジプトからはぎ取った」(***出エジプト12:36)。 イスラエルの人々は奴隷のエジプトを、モーセを先頭にして出て行くときに、エジプト人の財宝をはぎ取って出て行く。 「どうか私たちの金銀を持って出て行ってください」と言って、イスラエルの人々は荒野を40年間さまようための様々な手だてを汲む。 ま、その金で金の子牛を造るわけですから、問題があるんですけれども。 神さまはそういう風にして助けてくださった。 それと同じように、いや、それ以前に、神さまはアブラハムが出て行くときに、牛もろばも奴隷も持たせて、これから先旅を続けることができるように、アブラハムを富ませてくださいます。
さて、私たちが心していたいことは、神さまが介入してくださったのは、アブラハムの信仰ゆえではないです。 アブラハムという人物は信仰の人でした。 でも試練に遭って、簡単に約束の地を離れる。「エジプト」に下る。半分嘘をつく。良くしてもらおうと工作したアブラハムには、実は信仰のかけらもなかった、ということを心に留めておきたい。
それでも神さまは、この事態に介入してくださり、アブラハムとサラを助けてくださった。 それは、神さまがアブラハムを選んでくださったからです。アブラハムを信仰の人の模範として選んでくださったからです。 このアブラハムを一方的に助けてくださった神の憐れみによって、私たちは支えられているんだ(ということを覚えておきたい)。
私たちは往々にして、ききんにあって、試練に遭って、簡単にエジプトに下る者なのです。 にもかかわらず、神さまは「はい、ついて行きます」と言った私たちを、信仰の人の模範として立てるために、神さまはとんでもない憐れみを私たちに与えてくださり、エジプトにあって右往左往し、人の混乱の中に巻き込まれて、いや自分自身を巻き込んで、えらい目に遭っている私たちを、神さまはなおも助けてくださる。 なおも助けてくださる(――この神さまの憐れみの大きさをいつも忘れずにいたい)。
元旦の日に学びましたけれども、アブラハム物語が始まる前に創世記11章に「バビロン」(***バベル)が出て来ます。 バビロンの物語というのは、非常に対照的です。アブラハムと対照的です。 バビロンの人々は言いました――「さあ、れんがを焼こう。町を建てよう。頂を天にまで届かせ、名を上げよう」と。 バビロンの人々の言ったことは、この世界の人たちが言うことです。 この世界においては悪いことではないです――「さあ、れんがを焼こう。さあ、町を建てよう。その頂を天にまで届かせよう」という、人の計画、人のやり方、人の達成、そのすべての歴史が実は「バビロン」に集約されています。 私たちは高層ビルを見てすばらしいと思いますけれども、やっぱりどこかで、あ、バビロンだなぁ(笑)とそう思うのは、実はこの世界というのはバビロンだと思ったほうがいいです。
そのような生き方に区切りをつけさせるために、神さまはアブラハム一人を召し出して、 「さあ、あなたの家、あなたの故郷、あなたの信心を離れて、あなたを創造し、あなたを贖い、あなたを守ること、あなたを祝福することができるわたしについて来なさい」(と語られる)。 そのようにして召し出した以上、少々不信仰なことがあっても神はアブラハムを守り切る。それがアブラハムに対する神さまの真実であり、神さまの憐れみでね。
「わたしはあなたを選んだ。あなたを祝福するためだけでなく、あなたを祝福の源とし、あなたの周りにいる人に、わたしの恵みを及ぼすために、わたしはあなたを選んだ」と仰る神は、そう簡単にアブラハムを捨てないです。 「ああ、なんだ、エジプトに下って行ったのか。おまえもバビロンと同じじゃないか」とは神さまは仰らなかった。
ここから先の神さまの憐れみというのは、聖書の中で、ものすごく色濃く描かれていきます。 バビロンは完全に滅ぼされました。 そこから神さまはご計画を変更し、アブラハム一人をお立てになり、アブラハムの子孫である私たちに至るまで、神の民を祝福されようとするときに、神さまは徹底的に「憐れみの神」とご自身を変えて行かれます。 私たちの愚かさ、私たちの罪深さ、それを越えて、神さまは憐れみを施し、ご自身が選ばれた者を守ってくださいます。 ですから私たちは、神によって見捨てられることなく、神を味方につけたような者になっていますが、実はそれはすべて神の憐れみによる。
私たちが覚えておかなければいけないことは――そう易々と約束の地を離れてはいけない。そう易々とエジプトに下って行ってはいけない。また自分に対して良くしてもらえる人にすり寄るな。自分を人間関係のしがらみに巻き込むな。 神さまは仰る――わたしがあなたを富ませる。わたしがあなたを祝福する。わたしがあなたを選び、あなたを祝福の源とし、あなたを通して周りの者を祝福するということを忘れるな。
来週また、続きを「アブラハムの生涯」から、信仰の本質を学んでいきたいと思います。
☆お祈り
恵み深い天の父なる神さま、私たちはいつまでバビロン、いつまでエジプト、いつまでバベルに住んでいるのでしょう。 「それゆえ、この町はバベルと呼ばれた。【主】が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、【主】が人々を、そこから地の全面に散らしたからである。」(***創世記11:9)とあるように、全面に散らされたこの世界は、人の混乱に満ちていて、それでもなお、「さあ、れんがを焼こう。町を建てよう。その頂を天にまで届かせよう」(同11:3〜4)と、どこまでも自分の計画を貫き通したいという者たちに溢れているのが、今日アブラハムが下って行ったエジプトであり、私たちが住んでいるこの世界であることを覚えます。
イエスさま、どうか、バベルから私たちを引き出してください。エジプトから私たちをもう一度引き上げてください。そして私たちが犯した軽率な過ちをあなたの憐れみによって拭ってくださり、私たちを再び信仰の人として生かしてくださり、「私を富ましてくださり、私を祝福してくださるのは神のみである」という真実な信仰に立たせてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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