☆聖書箇所 創世記13:1〜18
1それで、アブラムは、エジプトを出て、ネゲブに上った。彼と、妻のサライと、すべての所有物と、ロトもいっしょであった。 2アブラムは家畜と銀と金とに非常に富んでいた。 3彼はネゲブから旅を続けて、ベテルまで、すなわち、ベテルとアイの間で、初めに天幕を張った所まで来た。 4そこは彼が以前に築いた祭壇の場所である。その所でアブラムは、【主】の御名によって祈った。 5アブラムといっしょに行ったロトもまた、羊の群れや牛の群れ、天幕を所有していた。 6その地は彼らがいっしょに住むのに十分ではなかった。彼らの持ち物が多すぎたので、彼らがいっしょに住むことができなかったのである。 7そのうえ、アブラムの家畜の牧者たちとロトの家畜の牧者たちとの間に、争いが起こった。またそのころ、その地には、カナン人とペリジ人が住んでいた。 8そこで、アブラムはロトに言った。「どうか私とあなたとの間、また私の牧者たちとあなたの牧者たちとの間に、争いがないようにしてくれ。私たちは、親類同士なのだから。 9全地はあなたの前にあるではないか。私から別れてくれないか。もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう。」 10ロトが目を上げてヨルダンの低地全体を見渡すと、【主】がソドムとごモラを滅ぼされる以前であったので、その地はツォアルほうに至るまで、【主】の園のように、またエジプトの地のように、どこまでもよく潤っていた。 11それで、ロトはそのヨルダンの低地全体を選び取り、その後、東のほうに移動した。こうして彼らは互いに別れた。 12アブラムはカナンの地に住んだが、ロトは低地の町々に住んで、ソドムの近くまで天幕を張った。 13ところが、ソドムの人々はよこしまな者で、【主】に対しては非常な罪人であった。 14ロトがアブラムと別れて後、【主】はアブラムに仰せられた。「さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。 15わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。 16わたしは、あなたの子孫を地のちりのようにならせる。もし人が地のちりを数えることができれば、あなたの子孫をも数えることができよう。 17立って、その地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたに、その地を与えるのだから。」 18そこで、アブラムは天幕を移して、ヘブロンにあるマムレの樫の木のそばに来て住んだ。そして、そこに【主】のための祭壇を築いた。
☆説教 神が選んでくださる
お正月を越えまして、火葬場がいっぱいで、(横田姉が)天に召されてからご葬儀を出すまでに1週間かかってしまいました。火葬場が空いてる時間が今日の2時半ですので、私たち夫婦はすぐに礼拝が終わったらそちらに駆けつけますが、色々ご挨拶ができない失礼をお赦しいただきたいと思います。
1月の1日から「アブラハムの生涯」と題して学び、今日は第4回目で、創世記の13章です。 前回のことを簡単に復習しますと、前回アブラハムは約束の地カナン、その一番南側のネゲブに滞在していました。 その時、飢饉に襲われます。そうしますと「信仰の人アブラハム」でありますけれども、簡単に信仰を捨ててエジプトに避難していく場面を学びました。 エジプトで自分の妻を妹とごまかしたおかげで、妻サラをとんでもない境遇に追い込みます。彼も悩みました。いや、エジプトの王宮さえ、災いが及んでまいりました。 彼は王から出て行くように願われます。 それはアブラハムの不信仰にもかかわらず、彼の人生に神さまが介入されたということの証しでありました。
信仰の人アブラハムでさえ、そのようにして神に背を向けることがあるとしたら、私たちならなおさらのこと、神さまに背を向けることが多々あります。 しかし神さまはアブラハムを選んだがゆえに、アブラハムを捨てることはありませんでした。 同じように、神さまの憐れみを求めて神にすがる私たちを、神はお捨てにならないという話をいたしました。
その続きが13章です。もう一回、13章の1(〜2)節に目を留めてください。
1それで、アブラムは、エジプトを出て、ネゲブに上った。(***ということは、ネゲブに帰って来た、ということです。その時、と説明)彼と、彼の妻のサライと、すべての所有物と、ロトもいっしょであった。 2アブラムは家畜と銀と金とに非常に富んでいた。
彼らはそもそもこれらを持っていませんでした。 妻サラを妹と偽って、王宮に取られたがゆえに、王から逆にこれらの物を受け取ってしまったという、少し皮肉な状況であります。3節に――
3彼らはネゲブから旅を続けて、ベテルまで、すなわち、ベテルとアイの間で、初めに天幕を張った所まで(戻って)来た。
ということは、帰って来たということです。4節で――
4そこは彼が以前に築いた祭壇の場所である。その所でアブラムは、【主】の御名によって祈った。
「信仰の人アブラハム」が神のもとへ帰って来た。そして初めからやり直すかのように、祭壇を築いて神に祈ったとあります。
ちょっとページをめくっていただいて、もとに戻していただいて、前のページの12章の8節を見ていただきます?8節と9節をご一緒に読んでみましょう。 そうすると、あらためてアブラハムがエジプトから神の所に戻って来たということを実感されると思います。
<創世記12:8〜9> 8彼はそこからベテルの東にある山のほうに移動して天幕を張った。西にはベテル、東にはアイがあった。彼は【主】のため、そこに祭壇を築き、【主】の御名によって祈った。 9それから、アブラムはなおも進んで、ネゲブのほうへと旅を続けた。
というところから始まり、ネゲブが飢饉でいったんエジプトへ下って行きますけれども、再び同じ場所に天幕を張り、再び祭壇を築き直して、初めからやり直すかのように彼は神に祈ります。
さて、状況セッティングの説明はそれくらいにいたしまして、ここから問題が起こります。 アブラハムは、いつもいっしょについて来た甥のロトといっしょでありました。 そしてちょっと6節を見てください。13章の6節――
6その地は彼らがいっしょに住むのに十分ではなかった。彼らの持ち物が多すぎたので、彼らがいっしょに住むことができなかったのである。
「持ち物が多すぎた」――以前は何も持たずに細々と住んでいたアブラムとサラとロトです。 でもエジプトから帰って来た今、彼らは沢山の財産、そして羊の群れ、あるいはその群れを手伝って飼う奴隷たちを持っています。 7節を見てください。
7(そのうえ、)アブラハムの家畜の牧者たちとロトの家畜の牧者たちとの間に、争いが起こった。……
と書いてあります。
ロトがどのようにして富んだのかはわかりません。 でも、アブラハムはエジプトに滞在中に、サラと引き換えに、金・銀・家畜を手に入れ富む者となりました。 恐らくロトもそのおこぼれにあずかったのかもしれません。 ロトの父親は死んでいます。アブラハム夫妻には子どもはいません。そこで甥のロトを自分の子どものように、大切にして来たに違いないと思います。
でも、富んでいるがゆえに争いが起こる――これは私たちにも当てはまりますね。 8節を見てください。
8そこでアブラムはロトに言った。「どうか私とあなたとの間、また私の牧者たちとあなたの牧者たちとの間に、争いがないようにしてくれ。私たちは、親類同士なのだから。
と、こういう言葉がありますね。家族なのです。これは親族争い。 13章というのは「親族争い」の話です。
そうして、二人は別々の道を行くことを決断します。9節にこうありますね。
9全地はあなたの前にあるではないか。私から別れてくれないか。もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう。」
この親族争いにおいて、アブラハムは一歩引きます。 これはなかなか難しいことですね。 私たちは自分の人生の決定権、権利というものをそうそう放棄すべきではない、ということをよく知っています。 よくクリスチャンが裁判することはどうなんだろうか?と言われることがあります。 もちろん同じ教会の中で、兄弟姉妹が裁判で争うというのは最悪の事態であろうと私(藤本牧師)は思います。 聖書の教えでも、それは最悪の事態で、避けるべきだという教えがあります。 しかしもし、それが世の中に対してのことであるとしたら、あるいは親族の中であるとしたら、聖書は裁判を禁止しているわけではないです。
旧約聖書の律法の半分は、民法に関することです。 旧約聖書の士師たちも、あるいは王も預言者も、人々の争いごとの裁定に入っています。 彼らは皆、そのための権威も知恵も神さまから授けられている人々です。 これは単純に私(藤本牧師)はこう考えるべきだろうと思っています――自分たちで解決できないのであれば、より公平な判断ができる第三者に任せる。 それが民放というものです。 だから国の法律が聖書の教えに基づいているということはとても大切で、日本の民法というのはそういうものです。
しかし、ここ13章のアブラハムにあっては、彼はロトに選択権を全面的に譲ります。 あえて争わない――「あなたが左に行けば、私は右に行こう」(9節)。 選択権利の放棄ではありませんけれども、彼は一歩引いて相手の選択を待ちました。 これも賢いです。
私(藤本牧師)は、子どもの頃にこんな体験をしました。 昔、神学校が浦和にありまして、そして教団の年会を浦和の神学校でしていました。 牧師たちの年会の最中に、私はほぼ同い年の年齢の、他の牧師の子どもと二人で一緒に遊んでいました。 そこにおばさんの先生がやって来られました。 今でもその先生のことはよく覚えていますし、今でもまだ元気でいらっしゃいます。
先生は遊んでいた男の子に包みを二つ渡されました。 片っ方は白い包装、もう片っ方は茶紙の包装で、その先生は――私たち小学校三年生位だったと思うんですけれども―― 「さて、君たちはどっちがいいかな?ひとりに一つずつ上げる」と言われたのです。 私は選択権を彼に譲りました。それは彼の方が年下だったからだということを覚えています。 二人で開けてみますと、両方ともミルクを運ぶトラックでした。 私の開けたトラックには、トラックだけではなく、ミルクカートンがいっぱいトラックに積まれていました。 でも彼のトラックには、同じトラックなんですけれども、その肝心要のミルクカートンの箱がなかったんです。 どうして先生がそのような考えを持っていたのかはわかりません。 単純におもちゃが二つあって、その中身が違ったのですから、あえて包み紙を変えて公平を図ったのだろうと、私は思います。 しかし、その時、子どもながら、単純に学びました。 「残り物には福がある。」(大笑) これはねぇ、皆さん、よ〜く覚えておいたほうがいいですよ。 残り物に福がある――選択権は相手に先に渡しておいた方が得だぞと。
これはアブラハムからよくわかりますね。 でもあまり選択権は放棄しない方がいいのかもしれません。
聖書の教えはもっと深いんだろうと思います。 で、今日は聖書の教えを簡単に、二つポイントで学んでみたいと思います。
1)私たちの人生は――公平な選択権を譲る、譲らない以前に――そもそも人生は選べないです。
自分の人生を選んでここまで来たと、私たちは考えるのかもしれませんけれども、それは必ずしもそうではないです。 大きな選択は、振り返ってみるとあったに違いないです――どの学校に行くのか?だれと結婚するのか?どういう風に就職していくのか? でもほとんど振り返って考えてみますと、この道しか見えずにここまで来たんではないでしょうか?
選択権をもらったロトにしますと、彼は選ぶことの難しさを感じたに違いないです。 (13章の)10節を見てください。
10ロトが目を上げてヨルダンの低地全体を見渡すと、【主】がソドムとゴモラを滅ぼされる以前であったので、その地はツォアルのほうに至るまで、【主】の園のように、またエジプトの地のように、どこもよく潤っていた。
「目を上げてヨルダンの低地全体を見渡した」と―― 私(藤本牧師)はね、単純に見渡したんだろうと思いますけれども、でも見渡しただけではないと思います。 彼は自分に許されているすべての情報を、短時間で集約して結論を出したのです。 ここで、彼は祈った、とは書いてないです。 でも彼は必死で考えたに違いない。人間的な直感もあったでしょう。
でもこの時点で、彼は気がついていませんでした。 まさかこの地には、ソドムとゴモラという非常に悪名高い、道徳的に退廃し切っている町があるということは、ロトは知る由もありませんでした。
私たちはロトを非難することはできないです。 なぜかといえば、今の今に至るまで、彼は飢饉の厳しさというものを知っていたんです。 かつてネゲブで一緒にいた時に、ネゲブからエジプトに脱出せねばならない程の飢饉の味わいというものを彼はよく知っていた。 だから彼は荒野だけは選びたくなかった。 「主の園のように潤っている」というのは、エデンの園です。エジプトはナイル川で繁栄していました。 ですから、できたらそういう土地を選びたかったというのは、これはロトにしてみれば真実な気持ちで、私たちもきっとそっちを選ぶに違いないです。 「祈りが足りなかった」とか、「神さまの導きを仰がなかった」とか、そのように言ってロトを批判できるような立場に私たちもない。 私たちもきっとそっちを選んだに違いない。
そうしますと、一つのことが言えてくる。 それは、「自分が選んだ道が、必ずしも最善とはならない。自分の人生、一言で言えば、自分で選べないという現実」 これをロトの側からも私たちは汲み取ることができる。 そう簡単に最善を選んで、それがゆえに幸せだという風にはならない。 人生というのは、神さまが選んでくださり、私たちに与えてくださるもので、それはどんなに成功した人生でも、どんなに失敗した人生でも、やっぱり自分で選んだから今があるわけではないだろうと思うんですね。
2番目にアブラハムに注目します。こっちが大切です。
2)彼(アブラハム)は選べませんでした。
ロトは自分に選ぶ機会が与えられた時に選ぶことができますが、アブラハムは逆に選べなかった。 いや、彼もまた選んだのかもしれません。でもそれは極めて不本意な選び方でした。残り物を取ったのですから。 でも選べないアブラハムに残された土地は、実は神が彼のために選んでいた土地でありました。
それはかつて飢饉があった土地、それはかつて試練があった土地でした。しかしそこは神さまが選ばれた土地であったことは事実です。 ですから飢饉があろうが、試練があろうが、アブラハムはそこに踏みとどまりました。 そこに踏みとどまるということは、神さまと共に生きることを彼は選んだ。 土地の状況ではない、神さまが与えてくださったという現実を彼は捉えた。 そしてそこに必ず祝福があると彼は堅く信じていました。
人生、この世界の損得で計ったらどうなるでしょうか? 自分はいつもあんな道ばかり、いつも損な道ばかり。あの人はいつも良い道ばかり。しかし自分は人生選んだことがなく、いつも人生は降ってわいてくる――と私たちは考えてしまうかもしれません。 でも実は「降ってわいて来た人生ではなく、神さまが選んで私に与えてくださった道のりなんだ」と――そこに信仰をもって踏みとどまり、結局は主と共に生きる道を選んだアブラハム。
14節をご覧ください。14節と15節ですね。一緒に読んでみたいと思います。
14ロトがアブラムと別れて後、【主】はアブラムに仰せられた。「さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。 15わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。
いったい何が今の段階で見えたんだろうか?明らかに厳しい山々が見えたんでしょう。殺伐とした平原が見えたと思います。 かつて飢饉を経験したネゲブがありますが、実はこのベテルも荒野です。
私たちが一番知っているベテルというのは、後の孫の代になりますヤコブが、兄エサウを裏切って、エサウのもとから離れる時に、荒野で一夜を過ごしますね?(***創世記28章)。 石を枕にして寝ますでしょう?そこに神さまが現れて、彼を祝福します。 そしてヤコブは翌日、自分が枕にしていた石を立てて、油をそそいで神さまを礼拝します。そして彼は、「まことにここはベテルだ。神の家だ」と言いますでしょう? そのベテルです。
ということは、アブラハムがいま祭壇を築いた地というのは、あのヤコブが旅をした荒野なんです。石を枕にして寝た場所なんです。 ですから、ヤコブのお祖父さんにあたるアブラハムの頃ですから、土地の状況というのはほとんど同じでしょう。 しかし、神さまはその土地を祝福すると仰いました。 16節をご覧いただきますと――
16わたしは、あなたの子孫を地のちりのようにならせる。もし人が地のちりを数えることができれば、あなたの子孫をも数えることができよう。
信仰をもって、彼は一見荒野としか映らない殺伐とした山々を、神さまが必ず祝福してくださるとして、受け取ったんですね。 たとえそれは自分が選んだ土地でなかったとしても、神さまが選んでくださった土地であるとしたならば、ぎっしりと祝福が詰まっているに違いないと思って、彼はその道を行くようになります。
そのような一年、そのような一生でありますように。
年度が替わりますと、若い方々は様々に自分の人生の選択肢を見せられ、そして中には期待にそぐわない道を行く方もいらっしゃるに違いない。 でも人生と言うのは、究極的に自分で選ぶものではない。神さまがあなたに選んでくださる場所。 もちろん高い志をもって、もう一度受験するというのも一つの道です。 でも結果として与えられるとしたならば、その道もまた自分にとってのベストでないかもしれない。 でも神さまはその土地を祝福してくださり、その土地を私のために用意してくださったのだと信仰をもって生きるならば、そこはエデンの園のような祝福に満ちていく。
逆に、どんなに富んだ土地を選んだとしても、自分の力に信頼し、自分の力でその土地を耕していくなら、その土地にソドムのような落とし穴があることすらわからずに、ロトは気がついてみると、ロトは天幕にどんどんどんどん移動をかけて、ソドムの近くに住みます。 そしてしばらく聖書を読みますけれども、ロトは出て来ません。 次に皆さんと一緒にロトを学ぶ時に、なんとロトはソドムの門の間に座っています。
そういう風に考えますと、私たちは今年与えられている人生、それがどんなに厳しいネゲブであれ、ベテルであれ、そこに神さまがおられるのであれば、神さまは私たちがどこにあっても祝福してくださる、ということを覚えておきたいと思います。
☆お祈り
恵み深い天の父なる神さま、もう一度ネゲブに帰り、もう一度ベテルに帰り、【主】の御名によって祭壇を築いて祈ったアブラハムの姿。私たちがもしエジプトを好んで、エジプトに住んでいたとしたならば、たとえ荒野であったとしても、神のもとに帰るすばらしさを味わうことのできるようにしてください。
そして、果たしてここが本当に神さまが選んでくださった場所なんだろうか?と思うような時があるかもしれません。でも振り返ってみますと、いつもあなたは私たちを励まし、力づけてくださいました。ですからこの年、私たちはあなたによって導かれる馳せ場を走りますけれども、どこにあってもあなたを信頼しますから、どこにあってもそれを神の家・ベテルとしてくださいますようによろしくお願いいたします。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
|
|
175.133.12.55 - Mozilla/5.0 (Windows NT 6.3; Win64; x64; Trident/7.0; MALNJS; rv:11.0) like Gecko
|