☆聖書箇所 創世記14:1〜24
1さて、シヌアルの王アムラフェル、エラサルの王アルヨク、エラムの王ケドルラオメル、ゴイムの王ティデアルの時代に、 2これらの王たちは、ソドムの王ベラ、ゴモラの王ビルシャ、アデマの王シヌアブ、ツェボイムの王シェムエベル、ベラの王、すなわち、ツォアルの王と戦った。 3このすべての王たちは連合して、シディムの谷、すなわち、今の塩の海に進んだ。 4彼らは十二年間ケドルラオメルに仕えていたが、十三年目にそむいた。 5十四年目に、ケドルラオメルと彼にくみする王たちがやって来て、アシュテロテ・カルナイムでレファイム人を、ハムでズジム人を、シャベ・キルヤタイムでエミム人を、 6セイルの山地でホリ人を打ち破り、砂漠の近くのエル・パランまで進んだ。 7彼らは引き返して、エン・ミシュパテ、今のカデシュに至り、アマレク人のすべての村落とハツァツォン・タマルに住んでいるエモリ人さえも打ち破った。 8そこで、ソドムの王、ゴモラの王、アデマの王、ツェボイムの王、ベラの王、すなわちツォアルの王が出て行き、シディムの谷で彼らと戦う備えをした。 9エラムの王ケドルラオメル、ゴイムの王ティデアル、シヌアルの王アムラフェル、エラサルの王アルヨク、この四人の王と先の五人の王とである。 10シディムの谷には多くの瀝青の穴が散在していたので、ソドムの王とゴモラの王は逃げたとき、その穴に落ち込み、残りの者たちは山のほうに逃げた。 11そこで、彼らはソドムとゴモラの全財産と食糧全部を奪って行った。 12彼らはまた、アブラムのおいのロトとその財産をも奪い去った。ロトはソドムに住んでいた。 13ひとりの逃亡者が、へブル人アブラムのところに来て、そのことを告げた。アブラムはエモリ人マムレの樫の木のところに住んでいた。マムレはエシュコルとアネルの兄弟で、彼らはアブラムと盟約を結んでいた。 14アブラムは自分の親類の者がとりこになったことを聞き、彼の家で生まれたしもべども三百十八人を召集して、ダンまで追跡した。 15夜になって、彼と奴隷たちは、彼らに向かって展開し、彼らを打ち破り、ダマスコの北にあるホバまで彼らを追跡した。 16そして、彼はすべての財産を取り戻し、また親類の者ロトとその財産、それにまた、女たちや人々をも取り戻した。 17こうして、アブラムがケドルラオメルと、彼といっしょにいた王たちとを打ち破って帰って後、ソドムの王は、王の谷と言われるシャベの谷まで、彼を迎えに出て来た。 18さて、シャレムの王メルキゼデクはパンとぶどう酒を持って来た。彼はいと高き神の祭司であった。 19彼はアブラムを祝福して言った。 「祝福を受けよ。アブラム。 天と地を造られた方、いと高き神より。 20 あなたの手に、あなたの敵を渡された いと高き神に、誉れあれ。」 アブラムはすべての物の十分の一を彼に与えた。 21ソドムの王はアブラムに言った。「人々は私に返し、財産はあなたが取ってください。」 22しかし、アブラムはソドムの王に言った。「私は天と地を造られた方、いと高き神、【主】に誓う。 23糸一本でも、くつひも一本でも、あなたの所有物から私は何一つ取らない。それは、あなたが、『アブラムを富ませたのは私だ』と言わないためだ。 24ただ若者たちが食べてしまった物と、私といっしょに行った人々の分け前とは別だ。アネルとエシュコルとマムレには、彼らの分け前を取らせるように。」
☆説教 アブラハムの生涯(5)糸一本でも
今日はアブラハムの生涯の5回目で(創世記)14章です。 元旦礼拝からずっとアブラハムの生涯を見てまいりました。 信仰の人アブラハムですね。 一番最初14章の頭に出てまいりましたここの部分、やはりここをつかえることなく、読みこなすのは、(転勤して行った)糸井兄と戸塚兄ぐらい(大笑)だろうなと思いましたけれども、(今日の司会の)戸塚兄は一度もつかえませんでした。 ものすごい量の地名・人名のカタカナが出てまいります。
1節に出て来るのは、4つの国と4つの王です。これはメソポタミヤ連合軍です。 仮にこれを東軍としたら、この東軍が死海沿岸の国々に戦争を仕掛けた、という出来事で始まるのです。 仕掛けられた側も連合軍を形成します。ですから西軍ができ上がります。 西軍は5つの国で、その中にソドムとゴモラが入っていたというのが2節です。 3節に、「このすべての連合軍の王たちは連合して、シディムの谷、すなわち、今の塩の海に進んだ」ということは、死海でこの東軍と西軍がぶつかるのです。 合計9つの国が、東西に分かれて戦いを交えます。
西の国々は、4節を見ますと、実は12年間メソポタミヤ東軍のエラムの王ケドルラオメルに仕えて来た。今反旗を翻しています。 そうして、メソポタミヤの4つの国が、死海周辺諸国を攻めに入って来ます。 私(藤本牧師)も地理感覚は解りません。6節から9節まで、このメソポタミヤの連合軍が、一気に死海沿岸の諸国を打ち破っている状況が記されています。
そして、ちょっと10節を見てください――「シディムの谷には多くの瀝青の穴が散在していたので」というのは、これはアスファルトです。 アスファルトを掘り出した後に穴が散在します。ですから追いかけられて兵士たちは、この穴に逃げ込むんですね。 「ソドムの王とゴモラの王は逃げたとき、その穴に落ち込み、残りの者たちは山のほうに逃げた」と(10節後半)。 その時、攻めて来たメソポタミヤの東の軍隊は11節――「ソドムとゴモラの全財産と食糧全部を奪って行った」――というのがこの状況です。 解りますよね?
ソドムには実はアブラハムのおいのロトが住んでいました。 前回の学びではアブラハムは、ロトに向かって「あなたが右に行けば、私は左に行く。あなたが左に行けば、右に行く。行動を別にしよう」と(提案し)、 このロトはヨルダンの低地を眺めて、その豊かに潤っていた場所を取ります。 そしてロトはソドムに天幕を張りますけれども、 12節の最後に、実は「ロトはソドムに住んでいた」と(アブラムと別れた後のロトの所在がわかります)。 ソドムも奪われて行きます。財産や食料を持ち去るということは、それらを運ぶ人々も敵国から連れら去られて行きます、拉致されて行きますので、その中にロトも入っていました。
その知らせが、おじさんのアブラムのもとへ来るというのが、13節です。
13ひとりの逃亡者が、へブル人アブラムのところに来て、そのことを告げた。……
14節見てください。こうありますね――
14アブラムは自分の親類の者がとりこになったことを聞き、彼の家で生まれたしもべども三百十八人を招集して、ダンまで追跡した。
さて、話はここからです。 今までのところで、メソポタミヤの4国が、カナンに住んでいた5国を攻めに入り、そして最終的には、ロトを含め、ソドム・ゴモラの人々は財産と人間、全部持って行かれる。 そして「アブラハムは自分の親類の者がとりこになったということを聞いて、彼の家で生まれたしもべ318人を招集して、ダンまで追跡し」、そしてものの見事に夜中に奇襲して、全財産と人々を取り戻す、という話です。 3つポイントで話していきます。先ず第一番目は――
1)勇敢なアブラハムです
私たちがこれまで見てきたのは、「信仰の人アブラハム」です。 彼が戦っているというのは、ここ以外聖書にはありません。 彼は遊牧民で旅をし、どこにあっても祭壇を築き、神に祈っている人と、私たちは学んで来ました。 しかし、その彼が親類のために――その親類というのは、たとえ右に左に別れて行った甥のロトであったとしても――その親類のためにいのちを賭けている場面がここです。
いのちを賭けているというのは、アブラハムだけではない。 実はアブラハムが連れてきたしもべ318人もいのちを賭けているんです。 聖書はわざわざ14節で「そのしもべ318人はアブラハムの家で生まれた」と書いてあります。
正直、誰一人として戦いの経験があったわけではない。 どこに勝算があったのかもわかりません。 しかし、この318人は主人アブラハムについて戦いに出て行きます。 それはこのしもべたちが、アブラハムの家で生れ、アブラハムに愛され、アブラハムに大事にしてもらい、どれほどアブラハムを信頼していたかということの表れです。
戦いに関しては素人かもしれません。 しかし勇気を奮い起して家族のために立ち上がるアブラハム。 そしてアブラハムのためなら、自分たちも行こうと立ち上がるしもべたちです。
ですから、よく考えていただきたいのですが、戦いの場面であまり好ましくありませんけれども、しかし麗しさがあるんですね。 それはまた、私たちもまた、家族のためならいのちを張るという、このアブラハムの気概を私たちも持っています。 そしてアブラハムのためなら立ち上がるという、318人のしもべたちの姿というのは、これはやっぱり立派です。
教会はいわば祭壇です。私たちはここに来て神に祈ります。 しかし、そういう私たちは、自分の人生が直面する戦いを避けて通ることはできないです。 そうして家族という愛する存在のためにいのちを賭けて、また周囲の人々からいざというときに信頼を受けるような人間になりたいです。
例えば、来週の教会総会で、私(藤本牧師)は一つ提案をします。 教会総会で提案をすることを先に牧師が言って(大笑)、講壇から言って(と言いながら自分で笑)、皆さんからオーケーをもらおうというのは、ちょっと甘いかもしれませんが、私は最近めっきりですね、『顔認識機能』がますます落ちてきた(大笑)んですね。ほんとにわからないんですよ。 あのテレビの女優さん俳優さんが宣伝に出ていても、衣装が違うだけでこの人見たような気もするけど、誰だかわからない。もう全然わからないんです。
で、玄関でせっかく挨拶させていただいて、2週間後ぐらいに来られたらもう全然その人がわからない――というのは、これはもう写真に頼る以外にないんですね。 それで写真に撮ってしまうというのは、大変問題がありますので、最近富士フィルムから出たちっちゃなカメラで、撮るとピ〜っとすぐ写真が出て来るのがありますよね。 そこに名前を書いていただいて、教会の玄関に貼っておけば(大笑)、受付の方も、あ、この方は最近この教会に来るようになって、こういうお名前なんだ(とわかりますでしょう)。 私たちは教会の写真名簿を作りますが、それは七年に一度なんですよ。そうするとその間の方々は皆落ちますよね。 だからそうしましょうって皆さんにアピールしたら、皆さんが手を挙げて、「そんなのは嫌だ」って言われたら、それでおじゃんですよね?
そうすると、こういうことが働く。何が働いているのか?――家庭でも、教会でも、会社でも、学校でもそうですよ――こういうことをやってみたいと言ったときに、誰もついて来ないということは、その人物は信用がないっていうことですよ(大笑)。
アブラハムは、自分はどうしてもこの場面で「甥のロトを助けたい」と言った時に、しもべの者たちにしてみれば、 「いや、それは私たちの親類ではないから。ご主人アブラハムさま、あなたはそもそも戦士ではございませんから、私たちはみすみすいのちを落とすような戦いには行きたかございません」 といくらでも言うことができたはずです。 それを318人が全員がついて行くということは、これまでの旅路の中で、アブラハムは318人の家族全員しっかりと守って来た、という事実があるからですね。
私たちはここでものすごく、実は大きなことを学んでいます。 「信仰の人アブラハム」が、戦いに出る。 それは、信仰の人、私たち、クリスチャンがやっぱり同じようにして、社会にあって、あるいは家庭にあって、戦いに出て行かねばならない場面がある。 その時、家族のためならいのちを賭ける、というほどの勢いで、素早い判断をもって、社会的な常識をもって、戦いに出て行かなければいけないんです。
ここで、アブラハムが黙々と祭壇を造って祈っていても、ロトのいのちは失われて行くんですよ。 彼は一気にしもべたちとともに後を追いかけて行く、というこのアブラハムの姿というのは、やっぱりね、男だったらそうあってほしい。 ま、男だったらという言い方は語弊がありますけれども、やっぱり信仰者であるならば、いざというときは、それ位の気概があってほしいなぁと思います。
(さて、アブラハムの取った作戦は、)夜中の奇襲作戦でありました。15〜16節に――
15夜になって、彼と奴隷たちは、彼らに向かって展開し、彼らを打ち破り、ダマスコの北にあるホバまで彼らを追跡した。(何百キロメートルだったでしょうか?と感想を加えて、) 16そして、彼はすべての財産を取り戻し、また親類の者ロトとその財産、それにまた、女たちや人々をも取り戻した。
さて二番目に、そうして戻って来た時に、18節に――
18さて、シャレムの王メルキゼデクはパンとぶどう酒を持って来た。彼はいと高き神の祭司であった。 19彼はアブラムを祝福して言った。 「祝福を受けよ。アブラム。 天と地を造られた方、いと高き神より。 20 あなたの手に、あなたの敵を渡された いと高き神に、誉れあれ。」
実に教訓に富んでいますね。
2)勝利を得て戻って来た時に、シャレムの王メルキゼデクがアブラハムを迎えます。
いいですか? メルキというのは「王さま」です。ヘブル語で「王」です。ゼデクというのは「正義」です。シャレムは後の「エルサレム」です。(***へブル7:2) すると、エルサレムの正義の王がアブラハムを出迎える。
ですから、へブル書の7章と8章では、このメルキゼデクがキリストと重ねられて語られています。 キリストと重ねられる理由は沢山あります。 例えば、メルキゼデクは、(創世記14章)18節を見てくださいますと、「王であり、また神の祭司であった」と書いてあります(***へブル7:1)。 旧約聖書で、王であり、祭司である人物は(***メルキゼデク以外に)いません。 しかし、新約聖書で「キリストは王であり、祭司である」と描かれています。 またメルキゼデクには系図もなければ、家系もない、歴史もありません。 ですから、メルキゼデクというのは、どこから来てどこに行ったのかという記録が、旧約聖書にはないです。
そして18節を見てください。メルキゼデクはパンとぶどう酒を携えて、迎えに来ています。 ですからあたかも、イエス・キリストがご自身の聖餐の祝福をもって迎えているかのように、アブラハムを迎えています。 そして、メルキゼデクは祝福をします。19節――
19…… 「祝福を受けよ。アブラム。 天と地を造られた方、いと高き神より。 20 あなたの手に、あなたの敵を渡された いと高き神に、誉れあれ。」
そして、アブラムは、20節(最後)、「すべての物の十分の一を、彼に(メルキゼデクに)与え」るんです。彼に捧げるんです。 「十分の一を神に捧げる」ということを聖書は教えていますけれども、実はここで初めて出て来ます。 「十分の一を神に捧げる」というこの言葉が聖書の中で初めて出て来るのが、この場面です。
ここで「献金」ということを一言加えますとね、「献金」とは、特に「十一献金」は、聖書に教えられているからそうするというのは、間違いです。 アブラムは、自発的にそうしているんです。だれも教えていない。神さまもそうせよとは仰ってない。 でもアブラムは、この勝利を得て、なおかつメルキゼデクの祝福を受けたときに、自発的に、自分の意志で、そうさせてくださいと、十分の一をメルキゼデクに捧げているというのは非常に尊いですね。
さて、この不思議な人物メルキゼデクですけれども、彼はひたすらアブラハムの目を自分の手柄ではなく、神の力、神の助けに向けます。 19節(〜20節)「祝福を受けよ。アブラム。天と地を造られた方、いと高き神より。あなたの手に、あなたの敵を渡された いと高き神に、誉れあれ」と。
アブラハムすごいね。よくやったね。どういう作戦だったの?その被害はどうだった?敵はどんな風に逃げて行ったの?どれだけのものを取り返して来たの?――そんなこと一切触れませんね。 「あなたの敵を、あなたの手に渡したのは神だ。天と地を造られた、いと高き神だ。その方に誉れあれ。そしてあなたの一生、その方から祝福を受けよ」です。
人生の戦い、様々なものがあるという話をしました。 そして私たちは家族のためなら、なおのこと戦います。家族のためなら、支えます、助けます。家族のためならいのちを張ります。 そして勝利を得ることができたならば、イエスさまは私たちの前に現れる、ということを覚えておいた方がいいです。いいですか? 勝利を手にして帰って来たら、迎えてくれるのは、家族ではない、イエス・キリストです。 そしてキリストは私たちにこう仰る――「あなたの敵をあなたの手に渡したのは神だ」と。
そして、その上で祝福してくださいます。 パンとぶどう酒をもって、ご自身の十字架の恵みをもって、私たちをさらに祝福してくださる。
ま、なかなか、難しいですけれども、信仰者は当然と思って聞いてください。 お子さんがお孫さんが受験に合格すれば、それはお祝いの一つも二つもやってほしいと思います。 会社で昇進されたら、家族の者はお父さんお母さんのためにお祝いして上げてほしいと思いますよ。 やがて年度替わりがあれば、卒業すれば、やっぱり一つの戦いの区切り目ですから、よく頑張ったねぇと喜んでほしいと思います。
でもそこに、メルキゼデクは現れるんです。そこにイエスさまは現れて、さらに祝福してくださる。 そしてイエスさまは、ご自分の肉と血潮の象徴であるパンとぶどう酒をもって、十字架の恵みをもって現れて、祝福してくださる。 しかし一言、私たちに教訓を残してくださる――「あなたの敵をあなたの手に渡したのは、神なのだ。だから、あなたが神に感謝する、ということがどれほど大切なことなのか」と。
そしてそれを知ったアブラハムは、神に捧げます。 そして、メルキゼデクは更なる祝福をもって、神に感謝します。 神に感謝するアブラハムへと変えてくださいます。
さて、三番目、こちらがメインですね。
3)この時です。ソドムの王が申し出ます。
21節からちょっと見てください。
21ソドムの王はアブラムに言った。「人々は私に返し、財産はあなたが取ってください。」 22しかし、アブラムはソドムの王に言った。「私は天と地を造られた方、いと高き神、【主】に誓う。 23糸一本でも、くつひも一本でも、あなたの所有物から私は何一つ取らない。それは、あなたが、『アブラムを富ませたのは私だ』と言わないためだ。
「人々は返してください、財産はあなたが取ってください」とソドムの王がアブラハムに言った時に、(アブラハムが言った言葉)――これが信仰の人ですね。 「くつひも一本でも、糸一本でも、あなたの所有物は要らない。それはあなたが、『アブラハムを富ませたのは私だ』と言わないためだ」。
この言葉には、多くのことが含まれています。 @先ず第一にアブラハムの体験ですね。 彼が富むようになったのは、エジプトで自分の妻を妹と偽り、エジプトの王から多くの贈り物を受けたから。 そして彼は、もうあのような複雑な嫌な体験はこりごりだ、という自覚があったんだろうと思います。 ですからもう二度とあの失敗は繰り返さない。だから要らない。
Aもう一つ。アブラハムは、ソドムが悪の勢力であることを知っていました。 だから「悪の勢力からは、糸一本でも取らない。私はあなたと関わりたくない」というアブラハムの強い決意が、ここに現れています。
B同時に、アブラハムには、「富」ということの恐ろしさがわかっていたでしょう。 私たちは、富のありがたさをよく知っています。でもその恐ろしさは、なかなかわからないものです。
カルヴィン・ミラーというアメリカの牧師がいますが、彼が自分の心のうちに非常に強い金銭欲があるということに、ある日目覚めたということを、本の中で証ししています。
彼の家に、ひいおじいさんの代から伝わるバイオリンがありました。 何でも、そのひいおじいさんは、バイオリニストだった。
ある日、彼の家に友人が来て、そしていっしょに食事をします。 その友人が交響楽団のバイオリニストでした。 彼は、そのバイオリニストは、家に飾ってありましたバイオリンをしげしげと眺めて、そして言うんですね。 「先生、このバイオリンってどこから来たんですか?」 「ひいおじいさんからだ。実はバイオリニストだった」 「えっ、ひいおじいさんからですか?すいません、ちょっと懐中電灯を持って来てください」
カルヴィン・ミラーはあのスポットライトが当たる懐中電灯を持って来るんですね。 そして交響楽団のプロのバイオリニストはその楽器を取って、隅から隅まで、そのライトを当てて調べるんです。 で、内側の方に「クレモーナ、イタリア、1712年製造、アントニオ・ストラディバリ」と書いてあるんです。
それから、カルビン・ミラー先生は3〜4日黙っていました。 そして、3〜4日間いっつも考えていた――どうやったら、このバイオリンをお金に変えられるか? しかも、教会員にも知られずに(大笑)お金に変えられるか? 売れれば5千万円は堅いです。もしかしたら一億行くかもしれない、ストラリバリ【***1644〜1737イタリヤ北西部クレモナで活躍した弦楽器製作者】のバイオリンです。 5日目に、彼はとうとう鑑定家を捜して、バイオリンを持ち込みます。
結果は見事なまでのまがい物(大笑)。見事なまでのまがい物でしたね。 彼はほっと胸をなでおろすんですよ。 でも自分の心の中に、いきなりこうかき回された、金銭欲というものに、彼は実感してしまう――自分の内側には、これほどの金銭欲があったんだと。
私たちにしてみれば、ソドムの王が「財産は全部持って行ってくれ」とアブラハムに言うんですよ。全部ですよ。 別にソドムの王と付き合う必要はないのかもしれない――こう思うでしょう? 財産はもらうだけもらって、ソドムから遠く離れたところに住めばいいと(笑)、私たちだったら思うじゃないですか? 自分たちでいのちを賭けて取り戻してあげた財産ですから、「いやいや、王さま、全部は要りません。三分の一で結構です」(笑)って言うかもしれませんよね。
でもアブラハムは「糸一本でも、くつひも一本でも要らない」――そう言ったアブラハムには確信があったんです。 その確信はいったい何か?――神が私を富ませてくださる――だから要らないんですよ。 12章で、神さまはアブラハムを召された時に仰いました。 「わたしは、あなたを祝福する。わたしはあなたを祝福の源とする。世界はあなたを通して祝福される」と(***12:2〜3)。
そして今ここで、ソドムの王の財産は全部くれてやるという前に、メルキゼデクが祝福するんです。 「私はあなたを祝福する。祝福を受けよ。アブラハム」 だから彼は、ソドムからびた一文受け取らない。 (それでも)神が私を祝福してくださる(という確信がアブラハムを支えている)。
来週は教会総会ですから、一回抜けます。 でも次の15章の1節を見てください。15章の1節にこう記されていますね。
<創世記15:1> 「アブラムよ。恐れるな。 わたしはあなたの盾である。 あなたの受ける報いは非常に大きい。」
というこの約束にアブラハムはしがみつきたい。 だからあえて、「糸一本でも私はあなたから受け取らない」――こういう潔い思いを貫くことができた。 この瞬間、いいですか、「戦いの人アブラハム」は「信仰の人アブラハム」に戻るんです。 私たちにとって、戦わなければならない場面も多い。 でも私たちはある瞬間、「信仰の人アブラハム」に徹底して戻る、ということを覚えておきたいと思います。
☆お祈り――藤本牧師
23糸一本でも、くつひも一本でも、あなたの所有物から私は何一つ取らない。それは、あなたが、『アブラムを富ませたのは私だ』と言わないためだ。 19〜20……「祝福を受けよ。アブラム。天と地を造られた方、いと高き神より。あなたの手に、あなたの敵を渡された いと高き神に、誉れあれ。」 (創世記14章23節、19〜20節) 恵み深い天の父なる神さま、私たちもアブラハムのように沢山の戦いを潜り抜けます。どうか人生において、「戦う人」であらせてください。さまざまの事柄に知恵を用い、あなたに祈り、戦わせてください。特に家族のためには、いのちを惜しまず、戦う気概を私たちに与えてください。
また私たちが戦った時に、同じようにして立ち上がる所の周囲の者たちを私たちにも備えてください。日ごろ私たちにも、そのような信頼ある周囲の者たちを育てる力を私たちにも備え、立ち上がってみたら実は自分だけであったということではなく、皆も共に立ち上がる位の人物とさせてください。
でも戦いが終われば、一人の信仰者に戻ります。イエスさま、どうか私たちを迎えて、パンとぶどう酒を携えて私たちを迎えて、「祝福を受けよ」と、そしてもしその言葉を聞いたならば、「ああ、勝つことができたのは、あなたのおかげであった」ということを、つくづく実感することができますように。
そして、悪の勢力とは無関係に、ただひたすらあなたからのみ、報いを受ける者でありますように、私たちに信仰を与えてください。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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