☆聖書箇所 創世記15:1〜6
1これらの出来事の後、【主】のことばが幻のうちにアブラムに臨み、こう仰せられた。 「アブラムよ。恐れるな。 わたしはあなたの盾である。 あなたの受ける報いは非常に大きい。」 2そこでアブラムは申し上げた。「神、主よ。私に何をお与えになるのですか。私には子がありません。私の家の相続人は、あのダマスコのエリエゼルになるのでしょうか。」 3さらに、アブラムは、「ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらないので、私の家の奴隷が、私の跡取りになるでしょう」と申し上げた。 4すると、【主】のことばが彼に臨み、こう仰せられた。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。」 5そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」 6彼は【主】を信じた。主はそれを彼の義と認められた。
☆説教 アブラハムの生涯(6)私たちはアブラハムの子孫
それでは、先々週の続きになりますが、アブラハムの生涯の6回目。 創世記の15章を開いてください。
アブラハムの生涯は元旦聖日から学んで来ました。 行く先知らずして神さまの呼びかけに信仰をもって答えて、約束の地へと旅して来たアブラハムです。(***12章) 一時はききんでエジプトに逃げて、非常に人生が難しくなったこともありました。 しかし神さまは、そんな時であっても、アブラハムを助けてくださり、彼を富ませてくださいます。 アブラハムはどこにあっても、神さまのために祭壇を築いて、礼拝をする人生へと進んで来ました。 甥のロトとトラブルになった時も、アブラハムは選択権を彼に渡します。(***13章) それでも神さまは、アブラハムが選んだ土地を、いや、残り物の土地を祝福すると約束してくださいました。
そして前回学びましたのは、ソドムとゴモラの国々が遠いメソポタミア連合軍に大敗いたしまして、財産を奪われ、人も奪われて行きます。(***14章) その中にロトも入っていたという事態でありました。 アブラハムはしもべ318人を連れて連合軍を追いかけて行きます。そして奇襲作戦によって人も財産も取り戻します。
戻って来た時に、ソドムの王が感謝してアブラハムに申しました。「財産はあなたに上げよう。人々を私に返してくれ」と。 その時でした。アブラハムは断りますね。14章の23節――
23糸一本でも、くつひも一本でも、あなたの所有物から私は何一つ取らない。それは、あなたが、『アブラハムを富ませたのは私だ』と言わせないためだ。
悪の力と関わることをしないアブラハムでありました。 そしてその代わりに、シャレムの王、エルサレムの王、メルキゼデクの祝福を受けます。それが14章19節(〜20節)です。
19彼はアブラハムを祝福して言った。 「祝福を受けよ。アブラム。 天と地を造られた方、いと高き方より。 20 あなたの手に、あなたの敵を渡された いと高き神に、誉れあれ。」
まるで大祭司イエス・キリストがここで現れてくださったかのように、アブラハムは祝福を受けます。
そうして始まるのが(今日の説教箇所、創世記)15章です。そのトップの1節に――
1これらの出来事の後、【主】のことばが幻のうちにアブラムに臨み、こう仰せられた。 ……
「これらの出来事の後」にというのは、とっても象徴的です。 自分の人生の局面がとっても難しくなってしまった時ですね。 例えば健康が損なわれ、自分の予定していた人生設計がだめになってしまった時、大切な人間関係が崩れてしまった時、大きな事件があった時、私たちの人生が闇に包まれてしまうような出来事の中にあって、神さまはアブラハムに現れてくださいました。
同じように神さまは私たちに現れてくださいます。 聖書の中で、出会いはいつも神さまからです。 私たちが立てた整然とした計画の中で、神さまと出会うのではありません。 私たちは混乱して難しくなってしまった時に、主のことばが幻のうちに、聖書のうちに、人の言葉のうちに、私たちのうちに臨んでくださる。 神さまの方で私たちに現れてくださる、ということを覚えていただきたいと思うんです。
そしてアブラハムにかけた言葉というのは、とても象徴的ですね。 「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」(1節)
1)「恐れるな。わたしはあなたの盾である。」
言うまでもなく、盾というのは、私たちを敵の手から守るものです。 飛んでくる槍、あるいは火の付けられた弓矢の矢、刀、そうしたものから私たちを守るものです。 聖書の中には、神さまは私たちに代わって剣を取って戦ってくださると、そういう記され方もあります。 しかし神さまが「私たちのために戦ってくださる」という表現に勝って、それ以上に神さまが「あなたを守ってくださる」という表現の方が多いんです。 中には神さまはあなたを「瞳のように守る」という表現さえあります。 私たちにとりまして、瞳は一番大切ですね。ですから物が飛んで来ますと、人間は本能的にまず自分の目を守ると言われます。 神さまにとって私たちは神さまご自身の瞳のように、いつでも本能的に神さまは私たちを守ってくださる。 何かあったら、まず私たちをその全能の御手で守ってくださいます。
戦ったのは、アブラハムでありました。318人のアブラハムのしもべたちでありました。 しかし実のところ、いつも盾としてアブラハムを、私たちを守っていてくださるのは、神さまであると、私たちも神の声を聞きます。
2番目に、神さまは私たちの生涯の盾となって守ってくださる、というだけでなく、15章の1節のその言葉にありますように、私たちを祝福の約束で満たしてくださいます。 1節の一番最後――
2)「あなたの受ける報いは非常に大きい。」
それはアブラハムにとっては、自分の人生と家庭が祝福されるということだけでなく、子々孫々の祝福を意味していました。 それを解らせるために、神さまは――ちょっと5節を見てください――子々孫々の祝福というものを解らせるために、アブラハムを外に連れ出します。 5節を一緒に読んでみましょう。
5そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」
外に連れ出して仰いました――「さあ、空を見上げなさい。星を数えることができるならそれを数えなさい。あなたの子孫はこのようになる」 今の日本はこのようにはいかないと思いますが、満天の輝きですね。 アブラハムは神さまによって、何とも言えない荘厳な、壮大な、それでいて温かな祝福の姿を見て取ったに違いありません。
きっと私たち人間というのは、一つこういう構造をもって造られていて、それは大海原を見て心を安らがせる、夜空の星を見て希望を抱くように、きっと私たちは造られているんだろうと思います。 満天の星は何とも言えない魅力を含んでいます。縛られた現実物語から解放されるような広がりというものを夜空は持っています。 夜空を仰ぎながら、その広さに、その深さに、その星の輝きに触れ、そこに神の温かな思い、神の愛にアブラハムは触れました。
「見上げてごらん」――神さまは仰います――「夜空の星を数えてごらん。数え切ることができないでしょう。わたしはあなたの人生をそのようにする。わたしの栄光をもってあなたの人生を輝かせる」。 というのは、(アブラハムには)今はまだ見えていないです。星しか見えていない。 しかしアブラハムはこれから先解るようになります。それほど豊かな祝福を自分自身が受けるということを解るようになります。
さて、ここで大事ですね。 アブラハムは、6節に、神さまのその招きに応じて――
6彼は【主】を信じた。主はそれを彼の義と認められた。
恐らくアブラハムの人生の中で、最も大切な一節と言われています。 彼は神の約束をそのまんま信じた。そして、主はそれを彼の義と認められた。 「信じた」ということは、「信じた」という言葉の動詞、これは私たちが日常の祈りの最後に言う「アーメン」という言葉と同じヘブル語から派生しています。
「見上げてご覧なさい。夜空の星のように、あなたの子孫を増やし祝福しよう」と言われた時に、アブラハムは素直に、神さまに「アーメン」と答えました。 「アーメン」というのは、ちょっと不思議な響きです。不思議な響きであって当然で、これはヘブル語ですから。 でもギリシャ語であっても、英語であっても、ドイツ語であっても、「アーメン」は「アーメン」ですね。 「アーメン」とは「真実に、その通りに受け取る」「信じる」という意味ですから、お祈りの最後に入ります。 時に神さまから受け取るのは、祝福だけでなく、試練や困難も含まれています。 それをも、愛をもって最善をなしてくださる神を信じて、「アーメン」と受け取る。
「あなたを愛する。あなたを祝福する。あなたの罪を赦す。わたしの子どもとする。あなたに神の国を相続させる」と仰る神さまの約束を、子どものように素直に「アーメン」と言って神さまを信頼する者を――6節の後半――「主はそれを彼の義と認められた。」 「義と認める」というのは、「最高のよし」をくださったということです。 「よし、わかった。あなたはわたしの民だ。あなたはわたしの愛する子どもだ」と仰いました。
アブラハムは行く先知らずして、「わたしの示す地へ行きなさい」――そう言われたのが12章です。それから様々な出来事がありました。 そしてこの15章において、彼は正式な意味で、神さまの子どもになります。 そしてここで――来週ご一緒に見ていただきますが――神と契約を結びます。 つまりすべてこれまでのことは、前段階でありました。 そして正式にここからアブラハムは神の子どもとされ、神の家族の第一号となってアブラハムの人生が始まって行く、というのが15章の1節の「これらの出来事の後」です。
私たちの人生には様々な出来事があります。 時に不安を抱くことも多いのが私たちの出来事です。 しかし、「神さまは私たちの盾となって、私たちの子々孫々に至るまで祝福を与えてくださる」という、様々な訳の分からないことを言われ、しかしアブラハムは神によって、夜空を見上げ、そこに何とも言えない神さまの祝福を感じた時に、彼は「アーメン」と言った。 「その通り」「その通り信じます」と言って、「祝福する」という神さまの心を受け取りました。
皆さん、お祈りの最後に「アーメン」って仰います? 仰るといいと思いますね。聞こえたか聞こえないかのように「アーメン」と言うよりも、ちょっと聞こえるぐらい言った方がいいですね。 あまり公のお蕎麦屋さんで、「アーメン」って言わない方がいい(大笑)と思います。 私たちは牧師同志で食事をしますから、あんまり大きな声で「アーメン」って言われるとえっと思っちゃいますけれども、しかし、あまりぼそっと言わないで、「アーメン」は「その通り信じます」という意味ですから、「アーメン」と言っていただきたい。
皆さんを見ていますと、なかなか「アーメン」と仰ることに、最初抵抗があるようですね。 私は前から見てますので、皆さんが讃美歌を歌っていらっしゃるかどうかを見ながら、あ、この方は教会に行ったことがあるんだろうなってことがわかります。 もちろん讃美歌も教会によって違いますから、しかも私たちは「主の祈り」を歌う教会ですから、なかなかその歌っている姿をもって、その方がクリスチャンであるかどうかは判断できません。 しかし、教会に来て初めてであろうが二回目であろうが、お祈りの最後に「アーメン」と仰ったら、あ、この方は信仰心をもって教会にいらっしゃったんだな、ということがすぐわかります。
病院に苦しんでおられる方をお見舞いに行きます。 この方はいったいいつイエスさまを信じるんだろうか?この方にいったいいつキリストの福音をお伝えした頃がいいんだろうか?――それは迷います。 私たち牧師はだいたい一番最初の訪問でそんなことはいたしません。 一番最初の訪問の時は、「あなたが直るように、少しでも痛みが取れるように、お祈りしてもいいですか?」と尋ねます。 「よろしくお願いします」と言えば、これが第一歩です。
二回ぐらいお祈りしますと、その方が「アーメン」とお祈りを合わせてくださいましたら、私(藤本牧師)は、もう信仰の一歩手前に入ったなぁと思います。 なかなか日常では言わない、キリスト教独特の「アーメン」という言葉をその方が仰ってくださったら、それはもう私の祈りにその方が合わせてくださり、私の祈りを信じて、私の祈りと同じ祈りを祈ってくださったと思います。 互いに食事をする時に、互いに祈り合う時に、相手の祈りの言葉をしっかりと聞いていたという現実に対して、私たちは「アーメン」と答える者たちでありたいと思います。
私たち信仰者はみな信仰の芽を持っています。小さな小さなつぼみです。 神さまの約束に対して、単純に「アーメン」と言う。 苦しい時には夜空を見上げて、ああ、アブラハムも心を開いて、神さまによって召された自分の人生とその将来を、全面的に「アーメン」と言って神にゆだねたのかと思っていただきたい。 そして私たちも帰り際にアーメンと言うんです。
非常に辛いことのあった一日。 なんでこんな辛かったんだろうと思ったら、戦いで疲れ果てて帰って来たハブラハムのことを思い出し、自分のいのちを賭けて命からがら帰って来たアブラハムのことを思い出し、彼が自分の人生に降りかかった苦き杯を「アーメン」と言って飲み干した姿を考えながら、私たちも一日の最後に「アーメン」と祈る時に、神さまはアブラハムに語られたように、「よし、あなたもわたしの子どもだ」と私たちを見直してくださり、私たちを尊んでくださるということを覚えておいてください。
3)「アーメン」と言う時に覚えておかなければいけないことがあります。 それはアブラハムは信仰の父だということです。
信仰の父アブラハムが「アーメン」と言いました。 ですから私たちが「アーメン」と言う時、私たちは信仰の父アブラハムの子どもになります。 そのことが詳しく書いてある箇所が新訳聖書にありますので、そこをちょっと見て終わりにいたしましょう。 ロマ書4章の9節〜16節まで、ちょっと私の方で解説をつけながら読んでいきますので、ちょっとだけ理解しようと心がけてください。
<ロマ書4章9節〜16節> 9それでは、この幸いは、割礼のある者にだけ与えられるのでしょうか(イスラエル人だけにでしょうか、と説明)。それとも、割礼のない者にも与えられるのでしょうか(私たちにも与えられるのでしょうか、という質問なんですと説明)。私たちは、「アブラハムには、その信仰が義と見なされた」と言っていますが、 10どのようにして、その信仰が義とみなされたのでしょうか。割礼を受けてからでしょうか(いえいえ、15章の全般ではまだ割礼を受けていません、と説明)。まだ割礼を受けていないときでしょうか。割礼を受けてからではなく、割礼を受けていないときに(アブラハムはアーメンと言って義と認められた、と説明)です。 11彼は、割礼を受けていないとき信仰によって義と認められたことの証印として、割礼というしるしを受けたのです。それは、彼が、割礼を受けないままで信じて義と認められるすべての人の父となり(私たちのことですね、と説明)、 12また割礼のある者の父となるためです。すなわち、割礼を受けているだけではなく、私たちの父アブラハムが無割礼のときに持った信仰の足跡に従って歩む者の父となるためです。
私たちはアブラハムの信仰の足跡に従って歩む、アブラハムの子どもたちです。 その信仰の足跡というのは、様々な出来事があった後、単純に夜空の星を眺めて、 「このように祝福する」と仰った神さまに信頼して、 「私はその通りに信じます。アーメン」と言ったアブラハムに、神さまが 「それは最高の良しだなぁ。わたしはあなたを子どもにする」と仰ったんです。
「アーメン」というのは、それほど神さまの御前に尊く、 私たちは「アーメン」の一言をもって、クリスチャンになる。 私たちは「アーメン」の一言をもって、神の祝福を受ける。 私たちは「アーメン」の一言をもって、天に召される――このことを覚えていただきたい。 毎週礼拝に来た時に、皆さんが人の祈りに合わせて「アーメン」と仰る。 牧会祈祷に合わせて「アーメン」と仰る。 祝祷の最後に「アーメン」と仰る。 その「アーメン」すべてが、すべて神さまの祝福に対するYESでありますように。 主よ、どうか、そのように私を祝福してください。私を(神の)子どもとしてください。
以前話をしたことがあります。この話をもって終わりとします。 アメリカの有名な説教学の先生でフレッド・クラドックという人がいます。 U-tubeを観ますと、70歳を超えたクラドックの説教をいくつか確認することができます。 この方が一番有名だろうと思います。 日本語で3冊翻訳されていますし、クラドックの説教というのは有名ですね。 彼は本の中でこんなことを書いております。
ある時旅行に出かけ、静かなレストランに入って、奥さんと二人で食事をしようと思って、席を見つけて座ったそうです。 その席の向こう一つに、一人の男性がいて、その男性は立ち上がって、いろんな席の人間に声をかけ回っていたと。 水分お酒が入っていたようですね。 クラドック先生は、ああ、頼むからこっちに来ないでくれ、と祈るような思いで一生懸命だった。
でも案の定やって来ます。その男性はご夫妻に向かって 「どこから来たんだい?」 「オクラホマ」 彼は言います。「ほう、それはすばらしい所だな。俺は行ったことはないけれどな」 クラドック先生は心の中で言いました。「行ったことがないなら、すばらしいなんて言うなよ」と。 「それでどんな仕事をしているんだ?」 「ほうら、来た、この質問」ですね。先生は素直に応えました。「神学校で説教学の授業をしているよ」 「ほう、牧師の卵に説教を教えているということか」 クラドック先生はいや〜な展開になりそうな気配を感じました。
男はいきなり握手を求めて来ました。名前を名乗りました。 男はこう言うんですね。 「俺はこの町の近くに生まれて、母親だけに育てられた。父親の顔は見たことがない。 それでな、子どもの頃、土曜日に町に出かけて行くと嫌な思いをしたよ。 いつもこの子はいったい誰の子だい?というような嫌な目で俺は見られた。小さな町だったからな。 12歳になった時、行っていた教会に新しい牧師が赴任して来たんだ。礼拝には遅れて行き、そして抜け出すように帰る教会だった。 でもある日、牧師が祝祷をあまりにも早く終えてしまったために、抜け出すタイミングを外してしまって、牧師よりも遅く出口に来ちゃった。 皆、ぞろぞろと外に出て行く感じが嫌だったな。 出口をすり抜けようとした瞬間、牧師の大きな手が俺の肩を掴んで言った。 『よく来たねぇ。君の名前は?君はいったいどこの子だ?』 見上げると牧師は俺の目をじっと見ていた。重たいものを感じた。 すると彼は大きな笑みを浮かべてこう言った。 『ちょっと待てよ。解った。きみは神さまの子どもだ。確かにそうだな。君はすごい家系だぞ。しっかり大きくなるんだ』」
レストランのその老人は、テーブルの向こう側にいたクラドックを見て言いました。 「これまでの俺の人生で、この人の一言が最高の言葉だった」 そう言うと彼は笑顔で挨拶をして、テーブルを離れて行ったということです。 (本の引用ここまで)
私たちが教会の外に出て行く時に、私たちは沢山の「アーメン」を言って出て行きます。 「いったいこの子はどこの子だ?」と言うのが私たちです。 いったいどこの家系だと――そんなことは関係ないです。アブラハムは「アーメン」と言うことによって、神の前に義とされ、神の子どもとなりました。 それはアブラハムの足跡が、私たち皆の足跡となることができるように、アブラハムが受けた祝福が、私たち一人ひとりの祝福となるように、私たちがアブラハムの家系に属する者となるために、パウロはローマ人への手紙で言いました。
私たちは大した家系ではないです。 でも私たちは信仰の家系の中にあり、それはすなわち神の子どもの家系であり、しっかり大きくなれよと(いう神さまの真実な愛の語りかけを聞きます)。 これから様々な出来事があるかもしれない。 しかし君の「アーメン」は、神が盾となって君を守ってくださるという意味なんだよと。 そしてその祝福は、子々孫々に至るまで確かなものなんだよと思いながら、「アーメン」と言わせていただくお互いでありたいと思います。
☆お祈り
恵み深い天の父なる神さま、アブラハムはその信仰によって義と認められた。アブラハムはその「アーメン」によって義と認められた。アブラハムは「アーメン」によって、神の子どもとされた。それはまさに私たちが同じ「アーメン」を言うことによって、神の家族となるためであったと(信仰について、ロマ書4章をも語っていただき感謝します)。
私たちは乏しい者です。私たちは神の家族から遠く離れたお互いです。でも一つのアーメンを言うために、今日このようにして集ってまいりました。私たちの心の中に、あなたの約束を額面通り信じる信仰をお与えください。そして、様々な出来事の中にあって、あなたという盾によって守られ、私たちも戦います。でもそれ以上に、私たちを富ませてくださり、祝福してくださるのはあなたである、ということを心に留めたいと思います。
アブラハムの生涯を学んでいきますが、どうか今日のこの「アーメン」がアブラハムの区切りであったことを心に留め、自分が発する「アーメン」が真実でありますように助けてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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