☆聖書箇所 創世記16:1〜16
1アブラムの妻サライは、彼に子どもを産まなかった。彼女にはエジプト人の女奴隷がいて、その名をハガルといった。 2サライはアブラムに言った。「ご存じのように、【主】は私が子どもを産めないようにしておられます。どうぞ、私の女奴隷のところにお入りください。たぶん彼女によって、私は子どもの母になれるでしょう。」アブラムはサライの言うことを聞き入れた。 3アブラムの妻サライは、アブラムがカナンの土地に住んでから十年後に、彼女の女奴隷のエジプト人ハガルを連れて来て、夫アブラムに妻として与えた。 4彼はハガルのところに入った。そして彼女はみごもった。彼女は自分がみごもったのを知って、自分の女主人を見下げるようになった。 5そこでサライはアブラムに言った。「私に対するこの横柄さは、あなたのせいです。私自身が私の女奴隷をあなたのふところに与えたのですが、彼女は自分がみごもっているのを見て、私を見下げるようになりました。【主】が、私とあなたの間をおさばきになりますように。」 6アブラムはサライに言った。「ご覧。あなたの女奴隷は、あなたの手の中にある。彼女をあなたの好きなようにしなさい。」それで、サライが彼女をいじめたので、彼女はサライのもとから逃げ去った。 7【主】の使いは、荒野の泉のほとり、シュルへの道にある泉のほとりで、彼女を見つけ、 8「サライの女奴隷ハガル。あなたはどこから来て、どこへ行くのか」と尋ねた。彼女は答えた。「私の女主人サライのところから逃げているところです。」 9そこで、【主】の使いは彼女に言った。「あなたの女主人のもとに帰りなさい。そして、彼女のもとで身を低くしなさい。」 10また、【主】の使いは彼女に言った。「あなたの子孫は、わたしが大いにふやすので、数えきれないほどになる。」 11さらに、【主】の使いは彼女に言った。 「見よ。あなたはみごもっている。 男の子を産もうとしている。 その子をイシュマエルと名づけなさい。 【主】があなたの苦しみを聞き入れられたから。 12 彼は野生のろばのような人となり、 その手は、すべての人に逆らい、 すべての人の手も、彼に逆らう。 彼はすべての兄弟に敵対して住もう。」 13そこで、彼女は自分に語りかけられた【主】の名を「あなたはエル・ロイ」と呼んだ。それは「ご覧になる方のうしろを私が見て、なおもここにいるとは」と彼女が言ったからである。 14それゆえ、その井戸は、ベエル・ラハイ・ロイと呼ばれた。それは、カデシュとベレデの間にある。 15ハガルは、アブラムに男の子を産んだ。アブラムは、ハガルが産んだその男の子をイシュマエルと名づけた。 16ハガルがアブラムにイシュマエルを産んだとき、アブラムは八十六歳であった。
☆説教 アブラハムの生涯(8)見ていてくださる神
(創世記)16章のハガルに今日は目を留めてみます。 アブラハムの生涯の8回目です。ず〜っとアブラハムの物語が12章から続いていきますが、いきなり話がここでハガルに転じます。 それはそれなりの理由があるので、一緒に見てまいりますけれども、しかしこのハガルの物語は16章(17:20以降、また21:1〜21でしょうか?T・Y)で、もう一回後に取り上げられますけれども、ごくごくわずかの箇所しか使われていません。 でも、ハガルにも一人の人間としての立派な人生があったのだ、ということを考えながら、きょうは自分自身をアブラハムではなく、ハガルに重ねて読んでいきたいと思います。 物語は1節にこう始まります。
1アブラムの妻サライは、彼に子どもを産まなかった。彼女にはエジプト人の女奴隷がいて、その名をハガルといった。
これが全てです。ハガルはエジプト人でした。そして彼女は女奴隷です。 そういう意味で、主役のアブラハムではない。 「女奴隷でエジプト人だ」という現実がハガルの人生の土台にありました。 ハガルは自分の人生を自分の思い通りに展開することはできません。自分の家族も持っていません。 彼女の人生は主人サライのものであり、サライの言いようにされ、サライの行くところに彼女もついて行きます。 いつもサライの陰となって、サライの下に生きる女性でありました。
そのハガルが、少なくとも一人の人間として光を帯びる状況がやって来ました。 それは、自分の主人サライに子どもができない。子どもを儲けるという方法を(サライは)夫(アブラハム)に提案します。 「どうぞ、私の女奴隷ハガルの所にお入りください。たぶん彼女によって、私は子どもの母親になるでしょう」(***2節)と。 人生で一度だけ光を浴びる場面も、結局は主人(サライ)の言いなりになって、主人サライと夫アブラムが幸せをつかむ、ま、道具にされてしまう。 それがエジプト人女奴隷ハガルです。
実際にみごもりますと、ちょっと難しい状況が展開されます。 3節から4節を読んでいきます。
3アブラムの妻サライは、アブラムがカナンの土地に住んでから十年後に、彼女の女奴隷のエジプト人ハガルを連れて来て、夫アブラムに妻として与えた。 4彼はハガルのところに入った。そして彼女はみごもった。彼女は自分がみごもったのを知って、自分の女主人を見下げるようになった。
これが難しいです。 日本人ではほとんどいらっしゃらないと思いますけれども、アメリカやオーストラリアに行きますと、代理母というのをなさる方がいらっしゃいます。 体外受精でできた受精卵を、夫婦以外の女性の胎で生まれるまで育てて貰うというのが、代理母の仕事ですね。 1980年代にその数はピークだった。何百人もいましたけれども、今は減ってしまいました。
それはアメリカで大きな裁判があったからです。 代理母の契約をした女性が10カ月お腹の中で赤ちゃんを育てている内に、だんだんその赤ちゃんは自分の赤ちゃんだと思うようになってしまった――これは母性愛ですね。 そして赤ちゃんを出産した時に、当初の契約の夫婦に渡さずに、自分の親権を主張して裁判になります。 普通、契約の国アメリカですから、そんな裁判はないだろうと思いますけれども、最終的に裁判に勝ったのは代理母でありました。 代理母に親権、そして契約を結んだ見ず知らずの夫が養育権という何とも奇妙な裁判の結果が出るほど、裁判所は代理母の母性というものを重んじたということです。 この事件があって、代理母制度というものは、急激に縮小していきました。
ハガルの状況もある意味似ていると思います。 サラとアブラハムが夫婦です。その間に子どもができないから、女奴隷のハガルを道具にして、子どもを作ろうとしたのですけれども―― *妊娠しているうちに、「その子どもは私の主人サラのものではない、私のものだ」という意識がハガルの中に芽ばえるようになります。 *そして、自分の女主人を見下すようになりました。
状況が思ったように展開しない――それを感じ取ったサライは夫に文句を言います。 5節を見てください。
5……「私に対するこの横柄さは、あなたのせいです。」
「こんなことになったのは、あなたのせいだ」と。――それに応答する6節のアブラハムの言葉、実に冷たい言葉ですね。
6アブラムはサライに言った。「ご覧。あなたの女奴隷は、あなたの手の中にある。」
「おまえの女奴隷なんだから、おまえの好きなようにしろ」と。 この夫婦の会話は、一言で言えば責任のなすり合いです。 一言で言えば責任のなすり合いだということは、誰もハガルのことを気にかけてはいないということです。
初めっから解っていたようなことかもしれません。 何かまずいことが起こったら、最終的に損をするのは、やはり奴隷のハガルです。 自分の上に上司二人がいて、そして自分がいいようにもてあそばれ、結局上司二人が責任のなすり合いをして、「損をするのは部下である君だよ」というような状況を考えてもいいですし、 あるいは女性で、どこかにお嫁に行って、実家に入るようになって、「何かあったら最終的に損をするのはあなただね」と言われているのと同じなのかもしれません。
アブラハムがハガルの肩を持つわけがない、ということは解っていたことです。 でもハガルは自分が妊娠したことによって、その現実を少し薄めて考えていました。 そして陰湿ないじめが始まって、最終的にハガルは逃亡します。 荒野に放浪の旅に出ます。6節から読んでいきますね。
6アブラムはサライに言った。「ご覧。あなたの女奴隷は、あなたの手の中にある。彼女をあなたの好きなようにしなさい。」……
それで、サライは彼女を、ま、じくじくじくじくいじめるんですね。 彼女はとうとうサライのもとから逃げ去ります。 そして7節にこう始まっていきます。
7【主】の使いは、荒野の泉のほとり、シュルへの道にある泉のほとりで、彼女を見つけ、
ハガルが神を見つけたのではないです。 神さまの方で、荒野に逃亡していったハガルを追いかけるようにしてハガルを見つけます。
先ほど申し上げましたように、ハガルは初めから気の毒な立場の人間です。 この世界には、自分が気の毒な立場にいま立たされているなと思える時があります。 そういう意味で、私たちはハガルの気持ちが解ります。 私たちは奴隷でないかもしれません。しかし立場上、最終的にだれが損をするのか、ということは初めから解っているような体験をします。 自分は気の毒な立場にあると、飲み込まざるを得ないような境遇というのはあるわけです。
そんなハガルを神さまは放っておかれるんだろうか? 所詮神さまが約束をされたのはアブラハムであって、選ばれたのはアブラハムであって、ハガルはくっついて来ただけです。 でも神さまは、このハガルを荒野の泉のほとりで見つけるんですね。8節に、声をかけます。
8「サライの女奴隷ハガル。あなたはどこから来て、どこへ行くのか」と尋ねた。彼女は答えた。「私は女主人サライのところから逃げているところです。」
「どこから来て、どこへ行くのか」と尋ねられても、その答えはハガルにはないですね。 彼女はたった一人で、人生の荒野を一人さすらっているわけですから、どこに行ったらいいのかもわからないです。
神さまは二つのことを仰いました。9節で、先ず第一番目――
9そこで、【主】の使いは彼女に言った。「あなたの女主人のもとに帰りなさい。そして、彼女のもとで身を低くしなさい。」
1)「あなたの女主人のもとに帰りなさい。そして、彼女のもとで身を低くしなさい。」(9節)というのは――人生を投げてはいけない――という意味です。
「人生を投げちゃいけないよ。 荒野をさまよったところで、子どもを宿しているあなたが、逃亡生活なんかできるわけないでしょ?生まれた子どもはどうなるの? さぁ、がまんして飲み込んで、一番安全な場所に戻って行きなさい。 そして、家に戻って、主人のもとで謙遜に仕えてご覧なさい。 それが今のあなたにとって、生まれてくる子どもにとって一番いいことだ」と。
それはカ〜ッとなって飛び出してきたハガルを抑えた、非常に温かで実際的な助言でした。 理にかなった助言ではない。釈然としない気持ちはハガルの中にある。 でも今の現状、それが一番良い選択肢だということを、神さまはハガルに教えてくださった。
そして二番目、こちらは大きいです。10節を一緒に読んでみましょう。
10また、【主】の使いは彼女に言った。「あなたの子孫は、わたしが大いにふやすので、数えきれないほどになる。」
2)「あなたの子孫は、わたしが大いにふやすので、数えきれないほどになる。」(10節)
これがどんなにすごいことか――これはアブラハムが受けたのと同じ祝福です。 アブラハムが受けた祝福というのは、「さぁ、わたしが示す地に行きなさい。そうすれば、あなたの子孫を、わたしは大いにふやし、数えきれないほどになる」。 神さまとアブラハムの関係を保っているのは、この神さまの約束の言葉でした。 そういう約束の言葉を神さまから聞いたということを、アブラハムもサライもハガルに何度か言ったに違いないです。 そういう会話をハガルも耳にしたに違いないです。 そういう意味で、アブラハムという人物は特別に神さまが目をかけてくださった、信仰の人なんだ、祝福の人なんだという認識がハガルの中にもあったはずです。 そのハガルに対して、神さまは「わたしは全く同じ祝福をあなたに与える」と。
16章の1節に記されていたのは、ハガルという人物は奴隷でエジプトの女です。 それはアブラハムとは立場が全く違う。 しかし最終的に神さまから受けた約束は、全く同じでありました。
神さまというお方の公平さ(を見る思いがします)。 何か私たちにとりますと、神さまはアブラハムを選んで、アブラハムの子孫を祝福し、そしてアブラハムは世界に一つしかなく、アブラハムの子孫もまた世界に一つしかない(ように思えるのですが)――いやいや、そんなことはない。 神さまはハガルも選んでおられる。ハガルも祝福しておられる。
そして言っておきますけれど、このハガルの子孫が今のアラブ人です。 で、私たちはイスラエルとアラブの対立というのをよく知っています。 だけど心しておかなければいけないことは、神さまはアラブ人をも祝福されている。 その祝福が途絶えたとは聖書のどこにも書いてないです。 アブラハムに対する約束が聖書の全体です。 でも、もし聖書がもう一冊あるとしたならば、ハガルに対する祝福の歴史が書いてあってもいいほど、アブラハムに対する祝福とハガルに対する祝福は同じですね。
「その(子どもの)名前をイシュマエルと名づけなさい」と11節に書いてあります。
11……その子をイシュマエルと名づけなさい。(その意味は、と説明されて)、 【主】があなたの苦しみを聞き入れられたから。
神さまは苦しみの祈りを聞かれる神です。 神さまは様々な神だと言うことができますよね。愛なるお方であり、不可能を可能にし…… しかしなぜエジプト人の女奴隷であるこのハガルに、荒野をさまよい、これまで神にほとんど祈る事を知らなかったハガルに、これほどの祝福をお与えになったのか? それは、神さまは苦しみの祈りを聞かれるお方だからです。 世の中では、通るはずのない、もしかしたら、だ〜れ一人耳を傾けない祈りがあるんでしょう。 ハガルの祈りなんていうのはそういうものです。自分の心の中にしかない。そしておそらくだれも耳を傾けない、だれも関心を寄せない祈りを、神さまは聞いていてくださった。 だから、これから生まれる男の子の名前は「イシュマエルとしなさい」と神さまは宣言されました。
いまハガルは主人のもとに帰って、謙遜に仕えます。 神さまはやがて、その息子と子孫のことは、こういう風に仰いました。謙遜ではないですね。12節見てください。
12 彼は野生のろばのような人となり、 その手は、すべての人に逆らい、 すべての人の手も、彼に逆らう。 彼はすべての兄弟に敵対して住もう。」
ま、かなり厄介な子孫だ(笑)という意味もあるのかもしれない。 でも私(藤本牧師)はこういう風に捉えますね。 「あなたがいま謙遜で、奴隷としての一生を過ごすんだけれども、でもあなたの子孫はそうではない。 だれの奴隷にもならない。あなたの子孫は自由である。そして強い。もし、彼に逆らうような人があったら、彼は公然とその人物と戦いを交えるほど、強い人物になる。 だから今は身を低くして、女主人サライのもとに帰りなさい」
神さまの約束っていうのは、「このハガルから生まれて来る子どもが誰にも隷属せず、誰にも飼われることを嫌い、自立心旺盛でたくましく生きるぞ」という約束を、神さまはくださいました。
だれも振り返ってくれない、認めてくれない、気にもかけてくれない立場のハガル――そのハガルを神は「見つけ」、「語りかけ」、助言を与え、慰め、力づけ、のみならず祝福を与えてくださいました。 ハガルはこの神さまを13節「エル・ロイ」と呼びます。13節、ちょっと一緒に読んでみましょう。
13そこで、彼女は自分に語りかけられた【主】の名を「あなたはエル・ロイ」と呼んだ。それは、「ご覧になる方のうしろを私が見て、なおもここにいるとは」と彼女が言ったからである。
「エル・ロイ」――エルとは「神」です。ロイとは「見る」です。 「エル・ロイ」――誰かが私を見ている。しかも、それが神であったという。 (***藤本牧師の説明を加筆します――神がハガルをご覧になったとも、ハガルが神を見た、とも解釈できます。実際は両方なので、「ご覧になる方のうしろを私が見た」と言っている。私は神を見た。神と出会った。そしてその方は「ご覧になる方」であった。)
昔、いじめに関する本を読んでいたとき――ま、ここに出て来るハガルはいじめられているわけですから――ある中学生の告白が心に留まったことがあります。 中学生の時に、クラスのリーダー格の女の子に目をつけられて、二年間無視され続けるんですね。 挨拶をしても返って来ない、一緒に遊んでもくれない、自分だけクラスでず〜っと無視され続けて来た女の子が、後に自分の中学時代を振り返って、とっても温かな思い出がそんな自分の中学時代にもあった(と言っています)。
ある日彼女が自分のペンケースを開けてみますと、紙切れが入っていた。 紙切れに――「何もしてあげられなくてごめんね。でも、私は味方だからね」――って書いてあった。 その紙切れを入れてくれた人は、名乗り出ませんでした。 いったい誰なのかも解らない。 でも彼女が言うには、この冷た〜いクラスの中で、自分の味方である温かい目が一つあるということが、自分を生かしたと。
ハガルは誰にも目を留めてもらえない不遇な環境に生まれ、不遇な一生を歩んだ人物です。 アブラハムの奴隷であったということは、当然エジプトでも奴隷でした。 エジプトの奴隷であったハガルが、アブラハムに買い取られて奴隷の人生を歩むようになる、だれにも気にも留めてもらえない奴隷の人生です。
お腹に子どもがいながら、いじめられて、荒野に逃亡を図って、疲れて呆然と泉のほとりに座っているハガル。 気の毒な、孤独な生涯をたどる宿命にあったハガル。 しかし、神は見ていてくださった。 神は私を見逃さない。神は私の苦しみの祈りを聞いておられた。そして神は私を見ていてくださった。
ハガルはその神さまの視線を感じて、自分の人生の戦いの場に戻って行きます――戻りたくない場所です。 でも今の自分にとっては、そこが最善であろうということを納得しながら、(逃げることをせず)戻って行きます。
聖書学舎神学校の先生でありました松田明三郎(まつだ・あけみろう 1894〜1975 旧約学者)という方がいらっしゃいますが、この先生の小さな話はとっても有名で、よくクリスマスの時に聞く話です。「星を動かす少女」。
クリスマスの劇で日曜学校の生誕劇がありました。 みんなそれぞれの役をもらいます。三人の博士、羊飼い、マリヤ、ヨセフ、それぞれ、舞台の上に上がって、そしていろんな(人の目に付く)役を演ずるんですが、 一人の少女が誰も見ていない舞台の背後に隠れて、星を動かす役を振り当てられたんですね。 でも一人の少女は、家に帰ってお母さんに言います。 「お母さん、私、今晩星を動かすから、教会学校の劇、見に来てね」 その夜、教会堂に満ちた会衆は、ベツレヘムの星を動かしているのが誰であるかというのは解りませんでした。 解っていたのは、彼女の母親だけですね――でもそこにこの少女の喜びがある。
別に全員に知ってもらわなくてもいい。自分の大好きなお母さんが見ていてくれる。 だれも目を留めてくれていなくても、お母さんは知っている。私が星を動かしているのをお母さんは知っている。 そしてお母さんは後で言ってくれるんですよね。 「よくやったね。星は上手に動いていたよ」と。
この少女と同じ喜びと勇気がハガルに与えられるんですよ。 神さまが見ていてくださるということに気づいた。 彼女は女主人サライのもとに戻ります。そこがどういう境遇であるかはわかっていました。 でもこのハガルもまた、アブラハムと同じように、自分に与えられた祝福を信じるんですね。 アブラハムが「アーメン」と言ったように、ハガルもまた「アーメン」と言う。 もしこの方を信じるなら、私もアブラハムのように祝され、(子孫は)大いに増え、数えきれないほどになるという(神さまの約束をアーメンと信じた)。 人生様々なことがあるのかもしれない。しかし、「神はいつも私を見ていてくださる」という安心感を胸に、戦いの場に帰って行くんです。
私たちはこのハガルの出来事を見る度に思う。 私たちはアブラハムにはなれないかもしれない。自分の人生の物語を長々と語ってもらえるような存在ではないです。 (交読しました)先程の詩篇(8:4)にありますように、「人とはいったい何者なのでしょう。神が私のことに目を留めてくださるとは」――それ位、自分の小ささを痛感しながら、それでも「神が私を見ていてくださり、私のことを心に留めていてくださる」ということを感激できる、感動できる、感謝できるような信仰者になることができれば、私たちの物語もハガルの物語のように祝されると私たちは信じています。
☆お祈り
恵み深い天の父なる神さま、あなたは私の涙を、私の苦労を、私のしんどい様を、「見ていてくださるお方」であります。この全宇宙を創られ、アブラハムのような偉大な人物を選ばれた神は、エジプト人の女奴隷であったハガルをも祝福してくださり、そして「いったい私は何者なのでしょう」(詩篇8:4)と驚くばかりの恵みを、小さな私たちにも注いでくださることを心から信じています。 アブラハムが、ハガルが、その祝福を信じ切ったように、私たちもまた信じ切ることができるように。様々な嫌なことは沢山あるかもしれませんし、なんでこんな境遇に立たされているんだろうと思わされることもあるかもしれません。しかし、その境遇の中においても、祝してくださるあなたに目を向けることができるように、私たちにハガルのような信仰を与えてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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