☆聖書箇所 創世記17:15〜21
15また、神はアブラハムに仰せられた。「あなたの妻サライのことだが、その名をサライと呼んではならない。その名はサラとなるからだ。 16わたしは彼女を祝福しよう。確かに、彼女によって、あなたにひとりの男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福する。彼女は国々の母となり、国々の民の王たちが、彼女から出て来る。」 17アブラハムはひれ伏し、そして笑ったが、心の中で言った。「百歳の者に子どもが生まれようか。サラにしても、九十歳の女が子を産むことができようか。」 18そして、アブラハムは神に申し上げた。「どうかイシュマエルが、あなたの御前で生きながらえますように。」 19すると神は仰せられた。「いや、あなたの妻サラが、あなたに男の子を産むのだ。あなたはその子をイサクと名づけなさい。わたしは彼とわたしの契約を立て、それを彼の後の子孫のために永遠の契約とする。 20イシュマエルについては、あなたの言うことを聞き入れた。確かに、わたしは彼を祝福し、彼の子孫をふやし、非常に多く増し加えよう。彼は十二人の族長たちを生む。わたしは彼を大いなる国民としよう。 21しかしわたしは、来年の今ごろサラがあなたに産むイサクと、わたしの契約を立てる。」 ☆説教 アブラハムの生涯(10)ひれ伏して、笑った
創世記からアブラハムという人物からず〜っと学んでいます。先週学んでいただいたこの聖書の箇所を、もう一回見ていただきたいと思いますが、17章の1節です。
1アブラムが九十九歳になったとき、【主】はアブラムに現れ、こう仰せられた。 「わたしは全能の神である。 あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。
そして、神さまは4節から、アブラハムに与える祝福をず〜っと記しておられます。 神さまがアブラハムに最初現れ、「わたしはあなたを祝福する。あなたは多くの子孫の父となる。あなたから数えきれない、海の砂のような、空の星のような子孫が約束されている」という約束をいただいたのが、24年前です。24年前。 その約束を信じてアブラハムは自分の父の家を出て、故郷を出て、神さまが示してくださる地がどこであるのかを知らずして出て行きました。 信仰の決断をもって、自分の新しい生涯を始めました。 一重に神さまの祝福の言葉を信じたからです。 それがアブラハムが75歳の時でありました。
彼は約束の地にたどり着き、そこから数えて24年も経過してるのに、いまだに最初の子どもが与えられないという苦悩が、(17章の)17節に記されています。 その時アブラハムの年齢は1節にありますように、99歳であった。 もう人間的な希望が絶たれている場面で、神さまはご自身をこうお示しになります。 3行目に――「わたしは全能の神である」 聖書の中に、「わたしは全能の神」「エル・シャダイ」というへブル語が出て来るのはここが初めです。 できないことは何一つない――それは人間の有限性、アブラハムと妻サラの限界を前にして語られた神の(約束の)言葉でありました。
絶対に子どもは無理だと。自分にとっての子孫は、奴隷の女ハガルとの間に儲けたイシュマエルに違いない、これ以外にないと(いう風にしか考えられないアブラハム)。 しかし神さまは「イシュマエルではない。わたしはあなたに子どもを授ける」(と祝福の約束をされた)。 4節「わたしはあなたと契約を結ぶ」 5節「わたしは、あなたを多くの国民の父とする」 6節「わたしは、あなたの子孫をふやす。いくつかの国民とする」 7節「わたしは、永遠の契約を立てる」 8節「わたしは、全土を永遠の所有として与える」
神さまは表現は何度も変えますが、しつこいまでに同じ約束を繰り返されます。 「わたしは、あなたに子どもを授ける」 何度も強調するということは、その約束が確実であるということの強調でありました。 「もしかしたらそうなるかもしれない」「うまくいったらそうなったらいいね」ではなくて、 「わたしは、あなたを祝福する」――それは契約でありました。 私たちはそれを信じるべきです。なぜなら、神は全能の神だからです。 私たちの可能性と能力がどんなに乏しくても貧しくても、「神さまが祝福すると仰ったら、それは実現するんだ」と信じなければ、信仰者とは言えないです。 しかしそう簡単にはいかない、という話を今日いたします。
アブラハムのもともとの名前は、アブラムです。「高められた父」。 そこにハという言葉が入って、「多くの人々の高められた父」と名前も変わります、17章で。 サラの名前はもともとはサライでした。サライは「私の王妃」です。 そのイを取ることによって、単なる「王妃」となります。それはつまりサラもまた「多くの人々の王妃となる」という意味ですが、
全能の神は、アブラハムとサラがこの祝福を確実に信じることができるように、割礼(肉体の一部を切り取る)を受けさせた、という部分を先週学びました。 13節をちょっと見てください。
13あなたの家で生まれたしもべも、あなたが金で買い取った者も、必ず割礼を受けなければならない。(つまり、あなたに属する者は全員割礼を受けよ、と説明)。わたしの契約は、永遠の契約として、あなたがたの肉の上にしるされなければならない(“しるされなければならない”を“刻まれる”、と変えて)。
先週話した最後の話は、多分覚えていらっしゃらないとは思いますが、ナサニエル・ホーソンの「緋文字」という言葉から、私たちの肉の上に刻まれているのは十字架である、という話をしました。 「私たちはいつも自分の肉の上に、自分が所有するすべての上に、十字架が刻まれている。十字架こそを肉の上のしるしとしなさい。 それは私たちの罪の赦されていること、私たちが罪赦されて神の子どもとなっていること、そして十字架の恵みにあずかる者はまた復活の恵みにもあずかるということを、あなたがたの肉の上にしっかりと刻みなさい」と、 神さまは、アブラハムに、私たちに、そのように命じられました。
しかし、今日の読んでいただいたところには、サラとアブラハムの疑いが出て来ます。 それが独特な表現で出て来ますので、今朝はそれを説教題――「ひれ伏して、笑った」――にしました。 (創世記17章)16節をちょっと読んでみます。私が16節を読みますので皆さんで17節を声を合わせて読んでみてください。
16わたしは彼女を祝福しよう。確かに、彼女によって、あなたにひとりの男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福する。彼女は国々の母となり、国々の民の王たちが、彼女から出て来る。」 17アブラハムはひれ伏し、そして笑ったが、心の中で言った。「百歳の者に子どもが生まれようか。サラにしても、九十歳の女が子を産むことができようか。」
神さまの約束が16節に書いてあります。 「わたしはあなたを祝福する。確かに祝福する。わたしは彼女を祝福する。彼女は国々の母となり、国々の民の王たちが彼女から出て来る」と。 それを聞いたアブラハムは、17節で、ひれ伏して笑います。 「ひれ伏して、笑う」というのは、非常に興味深いです。 「あり得ない。私は百歳になります。サラは九十歳になります。従って、あり得ないです」と(***神の約束に対して疑いを通り越して、笑ってしまう不信仰なアブラハム)。
実はこの同じ出来事が、18章でサラの角度からも語られています。 ちょっと18章の9節から読んでいきますので、目で追ってください。同じ出来事だと私(藤本牧師)は思うんですが、違う描写で書いてありますね。
<創世記18:9〜12> 9彼らはアブラハムに尋ねた。「あなたの妻サラはどこにいますか。」それで「天幕の中にいます」と答えた。 10するとひとりが言った。「わたしは来年の今ごろ、必ずあなたのところに戻って来ます。そのとき、あなたの妻サラには、男の子ができている。」サラはその人のうしろの天幕の入り口で、聞いていた。(――聞いていたんですね、11節に――と続けて) 11アブラハムとサラは年を重ねて老人になっており、サラには普通の女にあることがすでに止まっていた。 12それでサラは心の中で笑ってこう言った。「老いぼれてしまったこの私に、何の楽しみがあろう。それに主人も年寄りで。」
サラも笑うんです。「心の中で笑う」(12節)のです。 アブラハムの姿、そしてサラの姿は、私たちそのものであるように思います。 それは(私たちも)「ひれ伏して、笑う」んです。 二つポイントでお話しいたします。先ず最初に――
1)この「ひれ伏して、笑う」という姿が、私たちの姿であって当然である、と言わなければならないと思います。
子どもが生まれると言われて、待ち焦がれ、なかなかできないので、自分の奴隷と夫を結ばせて、それによって、アブラハムの家庭はさらに難しくなります。 それでもって、自分が90歳になった時に、神が現れ「あなたは妊娠する」と言われて、笑わずにおられないでしょう。
いくらなんでも無理です。 しかも先ほど申し上げましたように、自分たちの可能性がある時には、待ち焦がれても与えられず、 自分たちにそれなりの可能性を、ハガルという女奴隷に託して、用いて、それもまた複雑になってしまって、 今アブラハムが99歳、妻サラが90歳になって、改めて「必ず子どもが与えられる」と言われても、誰が本気にできましょう、ですね。
これまで神さまは何度も現れて、祝福の約束をしてくださいました。それが未だに実現しない現実です。
「ひれ伏して、笑う」とはどういうことか?――それは全能の神を信じて、全能の神を礼拝しながら、現実の厳しさに直面し、その厳しさに困難を覚え、疑い悶える私たちの姿です。 私たちは使徒信条を告白する度に、「我は全能の神を信ず」って、心を込めて「信ず」と言っているんです。 しかし私たちが直面する様々な困難の中で、厳しさの中で、「全能の神を信ず」と神の御前に「ひれ伏しておきながら、心の中で笑っている」自分というのは必ずいますね。
自分のお子さんの受験勉強の取り組みの姿を見ながら、お母さんがこんなことを言っていましたね。 「あの子が合格するとしたら、ほかの子に申し訳ない。(大笑)一生懸命勉強している子どもに申し訳ない」と言う。 ま、その気持ちも解るわけではないですが、片方で何とか受かってほしいという気持ちもあるでしょうけれども、当然ダメなんだろうなぁと思います。 受験というのは、必ずしも全能の神の問題ではないです。 それはあなたが勉強したか、しないか(笑)という、もう少し偏差値の問題でもありますので、ものすごく偏差値が低いのに(笑)、無理矢理全能の神を信じて、ここに受からせてくださいと一生懸命祈ったところで、多分受かってもついて行けないですよね?
英語のことわざに、こういうのがあります。 「熱いストーブに触った猫は、冷たいストーブにも触らない」 神さまに期待してそれが叶わなかったという、非常に痛い体験をした。熱いストーブに触ってしまったのです。 すると、そういう猫は、冷たいストーブにも触ろうとしないというのは、どんな時にも神に期待をかけない、という風になってしまう。 アブラハムとサラは、そういう意味で非常に常識的な人物であり、私たちは彼らの不信仰を、あ、本当に不信仰だったんだと言う前に、 自分もまた全能の神の前に「ひれ伏し」て、心の中では、そんなこと絶対に無理だと「笑っている」ような人間だと、少し現実的になって自分の姿を認めた方がいいのかもしれません。
しかし、全能の神を信じる私たち、アブラハム、サラはいつも一つの緊張関係の中に置かれているんです。 それは、全能の神を信じているんだから、「神さまは絶対に何とかしてくださる」という思いと、「人間的に考えれば何とかなるわけがない」という、この信仰と不信仰の緊張関係が必ず私たちの内側で行き巡って戦うんです。ぶつかり合うんです。 問題は、ぶつかり合った時にどちらの方向に傾くか、です。 「一旦熱いストーブに触った猫は、二度と冷たいストーブにも触りもしない」ということは、いつも不信仰の側に傾くということです。 私たちはこういう記事を読むたびに、現実主義と言ってしまえばそれまでなんです。 しかし、そもそもその厳しい現実を貫いて行くのが信仰でありますから、「私たちは意識して、信仰の方向に傾かなければならない」と、腹をくくる必要が信仰者として出て来ます。
16世紀、宗教改革者のカルバンという人がいます。 彼は「信仰というのは、感情ではない。決意だ」と申しました。 人間的な疑いと無気力の中で、ひたすら、とこしえに立つ神のことばを土台とし、みことばに養われながら、支えられ、強められる――それが信仰だと。
私たちは一生懸命聖書のことばに自分の信仰を託します。 それは――イエスさまが仰いました。 「たとえ全地が滅んでも、わたしのことばは滅びない」と。「たとえ全地が滅んでも、わたしのことばは過ぎ行くことなし」(***マルコ13:31) と仰った、イエス・キリストのそのことばに自分の信仰を置くために、みことばを握りしめて、不信仰の方向に傾きそうになる自分を、信仰の方向へとしっかりと身体を向けて行くんですね。
神さまは強烈に迫ります。 (創世記)18章の14節をちょっと見ていただきたいと思います。 私(藤本牧師)が18章の13節を読みますので、皆さんで14節を読んでください。
<創世記18:13〜14> 13そこで、【主】がアブラハムに仰せられた。「サラはなぜ『私はほんとうに子を産めるだろうか。こんなに年をとっているのに』と言って笑うのか。 14【主】に不可能なことがあろうか。わたしは来年の今ごろ、定めた時に、あなたのところに戻って来る。そのとき、サラには男の子ができている。」
この「【主】に不可能なことがあろうか」(14節)というのは、不信仰の方向に傾きかけているサラを、神さまが呼び戻している場面ですね。呼び戻しているんですよ。
この言葉は新約聖書にも出て来ます。(***ルカ1:26〜38) 処女(おとめ)マリヤのところに天の使いが現れ、(告げて言います)。 「あなたは子どもを産む」と。 マリヤは思わず言いました。 「どうしてそんなことがありえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに」 その疑いの中で、その人間的な限界の中で、不可能さの中で、天の使いは最後マリヤに詰め寄りますね。 「主に不可能なことがあろうか」と。 その詰め寄られた時にマリヤは、「みことばどおりこの身になりますように」 信じる方向にぐ〜っと自分が引っ張られて行くんですね。 神さまが信じる方向に引っ張ろうとした時に、「いえいえ、結構でございます」とマリヤは言わなかった(笑)。 もしあなたがそう仰るのであれば、「みことばどおりこの身になりますように」と、彼女は神さまの引っ張る力に自分を委ねたのですね。
マリヤは妊娠します。そして親戚のエリザベツという、同じように高齢にして神の力によってみごもった女性の所を訪ねた時に、エリザベツはマリヤを見て感激しますね。 その言葉は―― 「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、なんと幸いなことでしょう。」(***ルカ1:45)
あ、幸いっていうのはそういうところにあるのか。 自分の計画通り、思い通りに事が転ずるというのが、必ずしも幸いではない。 非常に難しい。 つまり「ひれ伏しながら、笑ってしまう」ような状況の中で、「ひれ伏しながら、疑う」ような状況の中で、一生懸命信じていながら、あ、これはダメだろうなと冷めてしまうような状況の中で、神さまがみことばをもって、私たちに迫る。 「主に不可能なことが一つでもあろうか。わたしは必ずあなたを祝福する」といった(神さまが詰め寄られた)時に、辛〜い職場の学校の一日の中で、「きっと神さまはみことばどおりに、私に良い計画をもって祝福してくださる」と(信じる方向へと)引っ張られていくんですね。
2)二番目に、もう一つ見ていただきたいと思うんですが、こちらも大切ですね。
天幕の中で笑った、疑ったサラについて、神さまはいま申し上げましたように、(アブラハムに)詰め寄りましたね。 (創世記)18章の13節で、「そこで【主】がアブラハムに仰せられた。『サラはなぜ、そんな風に言って、笑うのか?なぜ現実主義に捕われ、冷たく笑うのか?』 (14節で)『わたしの全能性を疑うのか?』」と、詰め寄られた時に、サラは思わず、15節、こう言うんですよ。
<創世記18:15> 15サラは「私は笑いませんでした」と言って打ち消した。恐ろしかったのである。……
私(藤本牧師)はこれは、ものすごく大切だなぁと思います。 サラは「私は笑いませんでした」と言って打ち消した。恐ろしかったからであると。(15節前半)。 サラは神さまの全能の可能性を前に、自分の苦労も自分の努力も自分の現状を全く問題としていない神さまの約束の前で、思わず恐ろしさを感じて、自分の笑いを打ち消したんです。
もちろん笑ったという事実は消えません。 でも「恐くなって打ち消した」というこの状況を、プラスに理解するならば、神さまに責められた時に、自分の心の中にあるその不信仰な疑いの雲を、何とか打ち消していただいた。振り払った。 神にひれ伏すことを知っているアブラハム、サラ、そして私たちは、ひれ伏すお方に詰め寄られれば圧倒されるんです。圧倒されなければならないと思います。
昨年の聖書のことばで、私たちは学びましたね。(***ローマ8:28) 「神を愛する者のためには、神はすべてのことを働かせて益としてくださる」と。 神を愛する者のためには、神はすべてのことを働かせて益としてくださる――そのすべてのことの中には、自分が悔いても悔いても仕方がない出来事も入っているんですよ。 自分の罪深い人生のあまりに、様々なことがバラバラになってしまった、失ってしまったという事実もあるんですよ。 そんなものがいかにして益になるのか、私にはさっぱりわからない。 でも全能なる神が、私たちの前に現れて、 「あなたがわたしを愛するなら、あなたのバラバラになった断片をわたしがもう一度一つにして、あなたの人生を美しいものに創り変えよう」 と仰った時に、私たちはその言葉に圧倒されなければならないんです。 ああ、全能なる神が私の前に現れて、そんな言葉を私にかけていてくださるのかと、この神のことばに圧倒されるんですね。
もし私たちが――振り払っても振り払っても自分の心から不安が消えない。いつまでたっても自分の心が思い煩ってしようがない――そんな時に聖書を開いていたら、イエスさまのことばが目に留まり、 「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」(***ヨハネ14:1) というみことばに目が留まった時に、どんなに心騒ぐ者であったとしても、そのことばを神が私に語っていてくださるということを恐れ、圧倒されなければならないんです。
私たちはサラやアブラハムのように、全能の神を前にしても、その神にひれ伏しても、その神の可能性を笑うような者たちです。 それが人間の弱さです。 しかし、笑っている事実を、疑っている思いを、みことばによって指摘されたら、私たちは打ち消します。 笑ったという事実を打ち消すことはできませんが、打ち消すというのはその事実でなく、自分の中にまだまだ湧いてくる笑いを打ち消すんです。 まだまだ湧いてくる不安を打ち消します。まだまだ湧いてくる疑いを打ち消します。 それを振り払うように打ち消す。
神さま、どうぞその力を与えてください。つまり、信仰を与えてください。 信仰は自分の力で作りだすものではないです。 あなたのみことばを、信じる信仰をどうか与えてください。 神さま、どうかこの不信仰な雲を私の心の中から吹き飛ばしてください。そして、笑った私の現実を許してください。 私は(藤本牧師)は思うんです――そう願うと、そのように真実に願うと、神さまはそうしてくださる。 なぜなら、神さまはアブラハムとサラにそうしてくださいました。 そうして、その次の年に二人に子どもができるんです。
神さまが問題を解決される時に、私たちの想像もつかないような方法で解決されますので、全能の神が何をなしてくださるのか、それは私たちにはわかりません。 しかし、イエスさまは仰いますよね。 「あなたの心の中に冷たいストーブも触らないという恐れがある限り、あなたの心の中に不安の渦がある限り、あなたは持てる力さえも出せないよ」と。 「全能の神の助けどころか、自分の持てる小さな可能性さえも発揮できないよ」と。 「だからあなたは祈りなさい、その不安や疑いが消されていくことを。 わたしはあなたのために備えている計画は、わざわいの計画ではなく、幸せの計画であることを(***エレミヤ29:11)、少しはみことばから悟ったらどうか?」と迫られたら、 「解りました。みことば通り、この身になりますように」と言わざるを得ないのが私たちだということを覚えておきたいと思います。
☆お祈り
恵み深い天の父なる神さま、年度替わりでありますので、私たちの人生にさまざまな事があります。そうでなくても今週の出来事を振り返れば、一つの津波で私たちのいのちが奪われ、世界がひっくり返るような、そんな弱き私たちであります。
でもいつでもそれを越えて、全能なる神というお方がおられれば、そのお方を信じ愛する者のためには、すべてのことを働かせて益としてくださる(と聖書にあります***ローマ8:28)。 「決して絶望の淵にはまり込むな」と仰るあなたに、私たちは顔を向けます。どうか、聖書の中にある様々なあなたの声に、圧倒され、恐れ、信仰の側に傾く私たちであらせてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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