☆聖書箇所 マタイ20:17〜23
17さて、イエスは、エルサレムに上ろうとしておられたが、十二弟子だけを呼んで、道々彼らに話された。 18「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。彼らは人の子を死刑に定めます。 19そして、あざけり、むち打ち、十字架につけるため、異邦人に引き渡します。しかし、人の子は三日目によみがえります。」 20そのとき、ゼベダイの子たちの母が、子どもたちといっしょにイエスのもとに来て、ひれ伏して、お願いがありますと言った。 21イエスが彼女に、「どんな願いですか」と言われると、彼女は言った。「私のこのふたりの息子が、あなたの御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるようにおことばを下さい。」 22けれども、イエスは答えて言われた。「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。わたしが飲もうとしている杯を飲むことができますか。」彼らは「できます」と言った。 23イエスは言われた。「あなたがたはわたしの杯を飲みはします。しかし、わたしの右と左にすわることは、このわたしの許すことではなく、わたしの父によってそれに備えられた人々があるのです。」
☆説教 母の願い
マタイの福音書の20章を開いていただきました。 17節から、イエスさまはご自分が十字架に向かわれることを話されます。
17さて、イエスは、エルサレムに上ろうとしておられたが、十二弟子だけを呼んで、道々彼らに話された。 18「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子は(そしてご自分は、と言い換えて)、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。彼らは人の子を死刑に定めます。 19そして、あざけり、むち打ち、十字架につけるため、異邦人に引き渡します。……
イエスさまは初めてここで十字架を明かされます。 でもそんなことを全く知らない三人がイエスさまの所にやって来て、20節――
20そのとき、ゼベダイの子たちの母が、子どもたち(と言うのは、ヨハネとヤコブです、と説明)といっしょにイエスのもとに来て、ひれ伏して、お願いがありますと言った。
お母さんが、子どもたちのことを思って、イエスさまの前でひれ伏してお願いをしている。 21節に――
21イエスが彼女に、「どんな願いですか」と言われると、彼女は言った。「私のこのふたりの息子が、あなたの御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるようにおことばを下さい。」
「おことばを下さい」というのは、約束してください。 何の資格があって、そんな約束を求めたのかは書いてありません。何の資格もないでしょう。 ただ、現れているのは母親の自分の子どもに対する特別な思いです。 弟子は12人います。でも私の愛するこのふたりの息子を、どうかあなたの一番近い所に置いてあげてください――というのは、どんな母親も理解することでありましょう。 イエスさまは22節でこう仰います。
22けれども、イエスは答えて言われた。「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。わたしが飲もうとしている杯を飲むことができますか。」彼らは「できます」と言った。
ということは、ヨハネもヤコブも「できます」と言った。
23イエスは言われた。「あなたがたはわたしの杯を飲みはします。しかし、わたしの右と左にすわることは、このわたしの許すことではなく、わたしの父によってそれに備えられた人々があるのです。」
で、この出来事を聞きますと、24節に――
24このことを聞いたほかの十人は、このふたりの兄弟のことで腹を立てた。
というのは、皆同じように思っていたでしょうし、この十人の母親もいたとすれば、みな同じように思ったに違いないですね。
マルコの福音書を見ますと、「イエスさまの右に左にすわらせてください」と言っているのは、母親ではなくゼベダイの子ヨハネとヤコブです(***マルコ10:35〜37)。 しかしマタイの福音書ですと、実はその願いを言っているのは母親です。 でも考えてみれば、恐らく願いを言っているのは三人。 そして誰が先頭かといえば、たぶん母親なんだろうなぁと思います。 やっぱりお母さんなんだろうなぁと思います。
1)母の祈り――切実な祈りをイエスさまの所に持って行く資格が母にはある。
ジェームズ・ドブソンというアメリカの児童心理学者が、自分の子どもが小さかった頃の自分の家庭のことを記しています。 まだ息子が赤ちゃんだった頃のことです。 家に帰って来ると、いつもそこら中散らかって異様な匂いがする――それがお父さんの悩みでありました。 小さなライアンは病気で一日中寝ていたらしい。 オシメを変えようとしているところに電話が鳴って、その電話を取りに行った瞬間、まだ新しいオシメがつけられていないのに、ライアンはそこで用を足してそこら中を汚してしまった。 お母さんは片づけて、ベビーベッドの布団を洗って、身体を拭いてあげて、またオシメをして、新しいベビー服を着せてあげて一段落。 そこから抱っこして、ソファーのところに座って、ミルクをあげて、ゲップを出してあげた途端に、いきなり赤ちゃんが全部戻して(笑)、お母さんの洋服もカウチも戻したものでいっぱい。 そこへお父さんが帰って来て「どうした!?この異様な匂いは」(笑)って言う――その場面というのはものすごくよくわかりますよね。
うちの息子は、よく戻しました。 小さく生まれましたので、一生懸命食べさせようと思って、母親が時間をかけて、じっくり食べて一生懸命食べて、ようやく終わったと思った瞬間に戻すんですね(笑)。 一日終わって、さぁ、これからゆっくり寝させてあげよう、と横にした時にまた戻すんですね。 すると布団を持って、その寮の洗濯機それから乾燥機のところへ行って、洗濯機を回して乾燥機を回して、私たちも後々振り返って、寮のみんなはあんな洗濯機乾燥機で、知らずにみんなは自分の洗濯をしていたんだろうなぁ(大笑)って、今に思って考えるとなんと迷惑なことをしていたんだろうなぁ(大笑)という風に思いますけれども、当時の私たちはそんな考える余裕もなく、必死でありました。
お母さんの苦労というのは、半端ではないですね。 礼拝に来て教会学校に来ている子どもたちの様子、お母さんの様子を見ていても、半端ではないなぁと思います。 そしてそのお母さんが祈るとしたら、そのお母さんだけが子どものために、何でも祈れる。 「いいよ、何でも祈りなさい」とイエスさまは仰ってくれるんじゃないかと思います。 お父さんが家族のために何でも祈ると言った時に、きっとイエスさまは「よ〜く考えてから祈りなさい」(大笑)と仰ると思うんですけれども、お母さんが祈るんだったら「何でもいいよ」(と仰る)。 21節をちょっと見ていただきますと――
21イエスが彼女に、「どんな願いですか」と言われると、彼女は言った。……
もちろん、彼女が願いを言う前にイエスさまはその願いを知っているんですが、「いいよ、言ってご覧」(と言ってくださる)。 どうしてお母さんの願いは、そのように大胆に聞いてもらえる資格があるのか? それはお母さんは「この子のためなら、私のいのちも惜しまない」という愛情を持っているから。
2)そしてその母親の愛情というのは、神の愛です。
神さまも私たちのためならば、御子イエス・キリストのいのちも惜しまない、という愛情を持っておられるわけですから、母親の愛情がよくわかる――それが神さまです。 母親はいつも子どものために、その最善のために、わが子のために全力を尽くします。 それが祈りとなって現れます。 ですからお母さんの祈りというものは格別です。 それは圧倒的に自分のためではない。子どものために祈ります。
私(藤本牧師)は前にも話をしたんですけれども、またこの前も思いましたね。 もう何十年、このアナウンスを聞いているんだろうという思いです。 飛行機に乗りますと、緊急時の対処法を一応知らせてくださいまして、そしてだーれもだーれも聞いていませんし(大笑)、その対応する非常口のそのビデオもだーれもだーれも見ていないわけです(大笑)。 それは一つには彼らが悪い。昔から全くおんなじ。全く同じものを見させられるというのは。 ま、緊急時には酸素マスクが降りて来ます。 「小さなお子さんをお連れのお母さんはまず自分がマスクをつけ、それからお子さんにつけてください」 これはもう恐らく百年ぐらい――ま、旅客機が始まってからどれくらいかわかりませんけれども(笑)――あの50年間、70年間おんなじアナウンスですよね。 それだけ何かあったらまず子どものために、その徹底して母親の姿勢で、お父さんは、そのお母さんの「まず子どものためにという姿勢」を見ていながら、お父さんはそれを学ぶんですよね。
私(藤本牧師)は自分が父親になった時に、自分がどうやって父親になるのかがわからないですよ。 父親って、父親になれない(大笑)。 でもお母さんが一生懸命子どもにしていることを見ながら、あ、ああいう風にして子どもを大事にし、ああいう風にして子どもを愛するのかということを、お父さんは徐々に学んでいくわけですよね。
すると私たちはある意味で、お母さんの祈り、お母さんの愛情を見ながら、神の愛がいったいいかなるものなのかということを学ぶようになるわけです。 小さい頃、母親の愛がわからなければ、なかなか神の愛が分からない、と言っても過言ではないぐらい、母親の愛は神さまの愛です。 その母親が神に何か祈るのであれば、神さまは一番先に聞いてくださる。
3)さてそのことを前提に、このお母さんの祈りを、願いを見ていただきたいと思います。 ⇒究極の子育てとは、自分が願う子どもの最善が子どもにプレッシャーになるとしたら、神の前に遜り自分の愚かさをゆるしていただき、神のみ旨の中で成就されることを祈ることと藤本牧師は教えられる。
21節、ちょっともう一回ご一緒に読んでいきましょうか。
21イエスが彼女に、「どんな願いですか」と言われると、彼女は言った。「私のこのふたりの息子が、あなたの御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるようにおことばを下さい。」
贅沢で図々しい願いとも聞こえますし(大笑)、非常に優れた願いとも考えられますね。
私(藤本牧師)は小さい頃から、医者になりたいと思いましたし、医者になろうとも思いましたし、振り返ってなぜそうなったのかなと考えますと、小さい頃母親がよくシュバイツァーの伝記を読んでくれました。 これしか伝記はないのかというぐらい(大笑)、いつもシュバイツァーの伝記で、時々話は変わるわけですけれども、いつもシュバイツァーの伝記ですから、当然その子どもは医者になりたいなぁと思うでしょうね?他を見せてくれないわけですから(大笑)。
医者になりたいというのも非常に崇高な願いですね。 ある意味にしてみれば、そりゃその子どもの知的能力の問題もあるでしょうし、勉強好きかどうかという問題もあるでしょうし、そんなことを考えたら、それは無謀な願いかもしれませんよね?これは全く無謀な願い。
ヤコブとヨハネ、ひとりをあなたの右に、ひとりを左にすわらせてください」という願いの意味を、しかも「おことばを下さい」――絶対に約束してください――という意味を母親はわかっているわけではない。 ですから(イエスさまは)母親に言いますね。「あなたがたはわたしの杯を飲めますか」と。 「自分が何を求めているのか、わかっていない」(***マタイ20:22)。 わかってない――これも、私たち母親は、あるいは人間は皆知っています。 自分の子どもにベストを思う気持ちはどの母親にもあります。 イエスさまはそれを拒まれているのではないですね。
でもイエスさまは、ヨハネとヤコブの母親に向かって仰った。 「そんな図々しい願いをするものではない」――そうは仰いませんでした。 「あなたの願いは聞いた。でもあなたは自分が何を求めているのか、解っていないですよね」と(イエスさまは仰った)。 つまり、イエスさまはこれから十字架にかかります。そして天に昇り、神の右に座するわけですけれども、 そのイエスさまの右と左ということは、ヨハネとヤコブも殉教の道を行かなければいけない――そんなことをゼベダイの母は知っているわけがないですね。 大胆に祝福を願う、その母の姿をイエスさまは否定されません。 しかし、母親は自分の願っていることが、どういう願いであるのかを理解しているわけではない。
お母さんは子どもに最善を願います。しかも信仰を込めて願います。 それが最終的にどのような杯に導かれるのかはわかりません。 「この子が早く歩きますように」とは祈らないでしょうけれども、でも普通の子どもよりもなかなか歩かないのであれば、きっとお母さんはどこかで「早く歩け、早く歩け」と(笑)お祈りをしているように思えますね。 「おむつが早く取れますように」「この子が一晩通して寝ることができますように」「早く言葉を話すことができますように」――気になることを全部神さまに祈りますね、お母さんは。 そしてイエスさまはその話を聞いておられる。祈りを聞いておられる。
でもだんだん状況が変わってきますよね。 その子の最善を願って習い事にも行かせますし、勉強に専念させることも、この学校に行ってほしいと一生懸命祈ることも、おおよそその子には難しい学校であっても、何とかして神さまはこの子に新しい力を加えて、その学校に行くことができますようにと。 その子の信仰のことも祈って、もしかしたら時には無理やり教会学校に連れて来るかもしれません。 家族の信仰のことを思って、無理にでも家庭集会をするかもしれません。
イエスさまは、私たちのそのベストをよく解っていてくださる。 ですからイエスさまは、私たちのベストを、「あなたねぇ、そんな願いをするけれども、あなたにはそういう資格も力量もないでしょう」――そんなこと一切仰らない。 「資格は十分にある。何でも持って来なさい、子どものためなら。 力もわたしは加えることができる。 それがその子にとってのベストなら、わたしはいくらでもその力を加えてあげる。 だから何でも持って来て、わたしのところで祈りなさい。 しかし覚えておきなさい。 私たちはみな、『あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです』(***マタイ20:22)」(と仰る)。
ということは正しい。 もしイエスさまの杯、「これを飲め」と言われる試練の杯があるならば、その杯はおおよそ飲めもしない私たちが、22節の最後で口をそろえて、「杯が飲めますか」と言った時に「杯が飲める」と言ってしまう私たち。 いや、飲めない。子どもの頃無理したら、きっとその無理が大人になって子どもの内側に出て来るでしょう。 それは私たち親が全員知っていることです。それを知っていない親はいないと思いますね。
とんでもない要求を出してきたのは、母親とヤコブとヨハネ。 そして一番その幸せを願っているのは、母親。 でも実はこれが“究極の”ま、『子育て論』のようになるんだろうと思いますけれども、 「主よ、私は親ですから子どもの最善を願います。しかし、私の願いがこの子をどこに連れて行くのかわかりません」と言わなければいけない。 「もしかしたらいつの間にか、子どもに無理を強いていて、子どもに背伸びをさせていて、子どもに飲めない杯まで、あなたが願ってない杯まで母である私が子どもに強いているとしたら、イエスさま、どうか私をお赦しください。 私はこの子のために一生懸命です。でももしこの子にふさわしくない杯を私が一生懸命飲ませているとしたならば、どうかあなたの御前に遜ります。 子どもの無知ではなく、子どもの不出来でなく、私の無知・私の不出来のゆえにうなだれます。 主よ、私を憐れんでください。私の愚かさを、私の足りなさを、私のがむしゃらさを赦してください」と。
そして私の信仰を込めた子どもへの祈り、「どうかこの子を最善の道に導いてください」というこの祈りを、「あなたのみ旨とあなたのご計画の中で成就させてください」と祈るなら、 主は、わが子を思う私たちの思いをみ〜んな受け取ってくださる。 み〜んな受け取ってくださる。
4)イエスさまは仰ると思います。⇒わたしがあなたの母だ。あなたをいつも守っている。
「わたしには解る。あなたの気持ちは解っている。 わたしはヤコブとヨハネの母を責めはしなかった。あなたのことも責めない。 そして覚えておきなさい。わたしがあなたの母だ」 イエスさまはすべてのそのようなお母さんに仰る。 「わたしがあなたの母だ。わたしは母の愛をもって、あなたを愛する。 あなたが子どものいのちを、自分のいのちを張って守っているように、わたしはあなたを守っている」とイエスさまは仰いますね。
ユダヤ人でしたソロモン・ローゼンベルグという実在の人物がいますが、彼の妻、ふたりの息子、そして両親が収容所に入れられます。 収容所では体力・気力が失われて行った順番に皆処分されていきます。 ローゼンベルグは、やがて自分の両親がガス室に送られて行くのをその目で見ました。 毎晩彼は収容所のバラックに帰って来ますと、先ず自分の家族の顔を確認します。捜します。 一生懸命捜して生きてる顔を見つけると、みんなで抱き合って、そして今日も生き延びることができたと神に感謝する毎日。
ある日、ソロモン・ローゼンベルグが戻って来ますと、家族の顔が見当たりません。 部屋の隅っこで長男のジョシュアが泣いています。泣きながらお祈りしています。 お父さんは胸騒ぎがして、そして彼を抱き上げて尋ねました。 「どうした。いったい何があった?」 「パパ、奴らがやって来たんだ。そしてデイビッドが役に立たないって連れて行かれた」 「わかった。じゃ母さんはどこにいるんだ?」 「デイビッドを連れて行った時に、デイビッドはものすごく泣いた。 でもママがデイビッドの手をしっかり握って言っていた。 『怖がらなくてもいいのよ。ママが一緒だから』 それで、ママがデイビッドの手を握って、デイビッドと一緒に歩いて行った。 ママがぼくに最後こう言った。「パパに守ってもらいなさい」
怖がる息子の手を取って、たとえそれが死の陰の谷であろうとも共に行くという、この母の姿を解らないお母さんはこの世界にいないと思います。 だとしたら、イエス・キリストが「母の愛をもって、わたしはあなたを愛する」と言った時に、イエスさまは同じように子どもたちである私たちの手を取って、死の陰の谷を共に歩いて行かれます。 詩篇23篇(4節)、「たとえ死の陰の谷を行く時があっても、私はわざわいを恐れません。あなたが共にいますから」というこのあなたと呼ばれている神さまは、母の愛を持った神です。 子どもが死の陰の谷を行くとしたら、自分もその子の手を握って一緒に行きたいと母親は思うでしょう。 神もまたそのように思って、私たちの手を握ってくださる。 私たち父親も母親も、何一つ杯の意味するところがわからない。 であるからこそ、イエス・キリストは私たちにとっての父となり母となり、私たちを守り、私たちの手を握って、谷間を共に歩いてくださることを覚えておきたいと思います。
☆お祈り
恵み深い天の父なる神さま、おおよそのことはできない杯を私たちのために飲んでくださったイエスさまが、私たちの祈りを聞いてくださることを心から感謝いたします。少々わがままな祈りであっても、無理な祈りであっても、もしそれが愛する者のためなら、どんな祈りにもあなたは耳を傾けてくださる。なぜなら、あなたは愛なる神であるからです。
主よ、どうか、この信仰家族の中にいるすべての母親の子どもを思う祈りを、耳を傾けて受け留めてください。そしてどうかその祈りが、実現の仕方が違うかもしれません。私たちはよくわかっています、自分が時に法外な祈りをしていることを。しかしそれでもあなたが憐れんでくださるなら、私たちが願ったのと違う方法で願いを聞き留めてくださる、実現してくださることを心から信じています。
どうか母親に、お母さんに力を与え、勇気を与え、そして何よりもどんなことでも祈ることを教えてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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