☆聖書箇所 エゼキエル47:1〜12
1彼は私を神殿の入口に連れ戻した。見ると、水が神殿の敷居の下から東のほうへと流れ出ていた。神殿が東に向いていたからである。その水は祭壇の南、宮の右側の下から流れていた。 2ついで、彼は私を北の門から連れ出し、外を回らせ、東向きの外の門に行かせた。見ると、水は右側から流れ出ていた。 3その人は手に測りなわを持って東へ出て行き、一千キュビトを測り、私にその水を渡らせると、それは足首まであった。 4彼がさらに一千キュビトを測り、私にその水を渡らせると、水はひざに達した。彼がさらに一千キュビトを測り、私を渡らせると、水は腰に達した。 5彼がさらに一千キュビトを測ると、渡ることのできない川となった。水かさは増し、泳げるほどの水となり、渡ることのできない川となった。 6彼は私に、「人の子よ。あなたはこれを見たか」と言って、私を川の岸に沿って連れ帰った。 7私が帰って来て見ると、川の両岸に非常に多くの木があった。 8彼は私に言った。「この水は東の地域に流れ、アラバに下り、海に入る。海に注ぎ込むとそこの水は良くなる。 9この川が流れて行く所はどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水が入ると、そこの水が良くなるからである。この川が入る所では、すべてのものが生きる。 10漁師たちはそのほとりに住みつき、エン・ゲディからエン・エグライムまで網を引く場所となる。そこの魚は大海の魚のように種類も数も非常に多くなる。 11しかし、その沢と沼とはその水が良くならないで、塩のままで残る。 12川のほとり、その両岸には、あらゆる果樹が生長し、その葉も枯れず、実も絶えることがなく、毎月、新しい実をつける。その水が聖所から流れ出ているからである。その実は食物となり、その葉は薬となる。
☆説教 流れに身をゆだねる
さて、エゼキエル書の47章から、ペンテコステのメッセージを「流れに身をゆだねる」と題してお話をいたします。
旧約聖書でエレミヤとエゼキエルは2つ続いています。 エレミヤは、ユダの王国が滅ぼされる前、ユダに、エルサレムに必死になってしがみついている人々に悔い改めを説きました。 エゼキエルは逆ですね。エゼキエルは、ユダの王国が滅ぼされた後、バビロンに捕囚に捕られている民に回復の預言をいたします。 捕囚の地バビロンで70年、神さまがエゼキエルに見せたのは、単に70年のちにイスラエルが捕囚から解放されて故郷に戻ることができる、ということだけではなく、エゼキエルに歴史の果ての究極の回復をお示しになりました。
ちょっと40章を見てください。預言の箇所はこういう風に始まってまいります。 1節からちょっと読んでいきますね。
<エゼキエル40:1〜2> 1私たちが捕囚となって二十五年目の年の初め、その月の十日、町が占領されてから十四年目のちょうどその日、【主】の御手が私の上にあり、私をそこへ連れて行った。 2すなわち、神々しい幻のうちに、私はイスラエルの地へ連れて行かれ、非常に高い山の上に降ろされた。その南のほうに町が建てられているようであった。
という風に、それは単なる回復されて行くエルサレムだけではなく、もう少し大きな神の世界の奥を彼は見るようになります。 そして今日は47章を開いていただきましたけれども、エゼキエルの一番最後48章の一番最後のことばをご覧ください。 48章の35節です。最終的に彼が見せていただいたその町の姿、35節に――
<エゼキエル48:35> 35町の周囲は一万八千キュビトあり、その日からこの町の名は、『【主】はここにおられる』と呼ばれる。」
「主はここにおられる」というのは、主はこの町のことを守っていてくださり、またこの町を養っていてくださり、この町を導いてくださっている主の臨在を、彼はまさにバビロン捕囚後25年に見ることができたわけですね。
エゼキエルが見たのは、まだでき上がっていない城壁の幻も見ました。 完全に崩された神殿がもう一度建て上がっていく神殿の幻、所有地の幻、町全体の幻も見ました。 現実としてはまだ存在していません。 城壁は崩れ、神殿は崩され、町は焼かれ、彼らの帰る所も身を寄せる所もありません。 しかしエゼキエルは、「やがてその町に主がおられる。主がその町に住んでいてくださる」という、究極な預言を見させてもらうんですね。
それは私たちにしても同じで、この日本という町に住み、この世界に様々な破れの狭間があり、この世界が崩れて行く。 しかしそういう中で、私たちは神さまによって高い山の頂に連れて行かれ、新しく造られる山を見、その山を見た時に、その町を見た時に、「主はここにおられる。私たちのただ中におられる」ということを実感する世界に生きています。
さてその途中に――今日読んでいただいた有名な――神殿の敷居の下から流れ出る川。 神殿の敷居というのは言うまでもなく、いけにえの血が注がれる所です。 キリストの十字架の血が注がれた所です。 その下から、恵みの水の川が流れ出るようになっているのが、47章の見た幻です。 1節をご覧ください。
1彼は私を神殿の入口に連れ戻した。見ると、水が神殿の敷居の下から東のほうへと流れ出ていた。神殿が東に向いていたからである。その水は祭壇の南、宮の右側の下から流れていた。
最初は「敷居の下から流れ出る」ですから、小さな小さな流れです。 やがてその流れは広がり、川となって行くというのが、この話の最も枢要な、大切な行(くだり)です。 3節から読んでいきます。
3その人は手に測りなわを持って東へ出て行き、一千キュビトを測り、私にその水を渡らせると、それは足首まであった。 4彼がさらに一千キュビトを測り、私にその水を渡らせると、水はひざに達した。彼がさらに一千キュビトを測り、私を渡らせると、水は腰に達した。
もう一千キュビト――渡ることのできない川となった(5節)――水かさは増し、泳げるほどの水となり、渡ることのできない川となった。 しかも7節――
7私が帰って来て見ると、(この時間差の間に、と加えて)川の両岸に非常の多くの木があった。 8彼は私に言った。「この水は東の地域に流れ、アラバに下り、海に入る。海に注ぎ込むとそこの水は良くなる。 9この川が流れて行く所はどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水が入ると、そこの水が良くなるからである。この川が入る所では、すべてのものが生きる(生きるを「良くなる」に変えて読まれる藤本牧師)。
で、私たちはこの箇所を見るたびに、(思い出す聖書の箇所があります。) イエス・キリストが仰いました――「祭りの終わりの大いなる日に」――イエス・キリストは私たちに向かって仰いました。 「だれでも渇いている者は、わたしのところに来て飲みなさい。」(ヨハネ7:37) 「その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(同7:38)
明らかにイエスさまは、エゼキエルの預言にある「生ける水の川」を念頭にこの事を仰いました。 そして(福音書記者の)ヨハネはそのイエスさまのことばに、さらにコメントを加えます。 それが聖霊でありました。 ちょっとヨハネの福音書の7章の39節、これだけは触れておきたいと思います。 38節を私(藤本牧師)が読みますので、皆さんは39節を読んでみてください。
<ヨハネの福音書7章の38〜39節> 38わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。 39これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。
と言いますと、イエスは「わたしの所に来て飲みなさい」と仰いますけれども、この時点、38節の時点では――注意書きが書いてあるように――この「生ける水の川」というのは聖霊を指す、そして当時の時点では、39節にあるように御霊はまだ注がれていなかった。まだであった。
しばらくしますと、聖霊が注がれます――それがペンテコステの出来事でありました。 そして今の私たちは「イエスに来て飲む水」というのは、「聖霊の水」であって、私たちはそれを柄杓にすくって飲むのではなく、その聖霊の水は私たちの足首を流れ、ひざを流れ、腰まで届き、やがてその流れは私たちを押し流す、という文脈で記されていることがよくわかります。 聖霊は神殿の敷居の下、すなわちキリストの十字架の下から流れ、大きな川となって、私たちはもう、それに身を任せるほどの流れになっています。
水というのは、いのちの源です。 地上のあらゆる生物を支えているのが水です。 砂漠にもサボテンやサソリがいますけれども、しかしそれもまた水を蓄えて生きています。 地球という惑星は水の惑星です。水のない所にいのちはありません。
で、イエスさまはペンテコステに注がれた聖霊を、この水に譬えて、 しかもそれが「生ける水」のみならず、「人を生かす水」だ。 その水に触れているならば、私たちは実をつける。私たちの木は生長する。そして私たちの葉は薬となる。 そういう風に仰った所を、いま一つじっくりご一緒に見ていただきたいと思います。
1)流れに身をゆだねる
先ほど読んでいきました。 神殿から一千キュビトずつ、水かさを測ります。するとそれは明らかに深くなっていきます。 あたかも聖霊との関わり、イエス・キリストとの関わりに、私たちが足首を浸すぐらいの所でとどまっているのか? その時点であったら、まだ自由に、自分の好きなように生きることができるでしょう。 自分の勝手が効く世界で、聖霊に身を浸している程度なのか? もう一千キュビト行くことによって、聖霊の力を直に感じ、私たちの腰まで浸かり、いかようにも聖霊によって動かされるようなレベルで私たちは生きているのか?
やがてもう一千キュビト行って、水が腰に達して行った時に、勝手に行こうとしますと、却って私たちは不自由さを感じます。 もう自分の自由で、聖霊の流れの中を歩むことはできない。 逆に自由の主体性は聖霊に移ってしまって、自分が勝手な行動をすると、却って苦しむようになってしまう。 そしてやがて聖霊は私たちの身体を包んで行く、その流れは私たちを圧倒する。 となりますと、私たちは完全に聖霊に委ねる以外にない。 自分の泳ぐという行為が、逆に自分の不自由さを感じるようになる。
すると、このたとえを見ますと、自分が一千キュビトの距離で泳いでいるのか、4千キュビトの距離で泳いでいるのか、この聖霊という川は深く広く流れているんですけれども、いったいこの聖霊の川と自分をどのように関わらせているのだろうか、ということを考えさせられていきます。
エゼキエルは神の使いの声に従って、流れが深い方へと足を進めて行きました。 エゼキエルは立ち止まりませんでした。 「いや、これくらいで私は十分です。ひざくらいがちょうどいいんです」(笑)とは言わずに、彼は深く深く連れて行かれます。もっと深い所に連れて行かれます。 腰ぐらいで「神さま、私は泳げませんから、もう一度足首のところに戻ります」(笑)とも言いませんでした。 神の御使いが連れて行かれるまま、彼は抵抗せずに連れて行かれます。
皆さんの中には「聖地旅行」といったものに行ったことがありますでしょう。 聖地旅行にいらっしゃったら、必ずきっと死海に行って湖の上を浮いてみたい、と皆さん思うと思います。 これは聖地に行かなくてもできるんですね。 私は以前家内と一緒で箱根K園に(大笑)行きました。 そこに死海風呂というのがあった。死海と同じ塩分濃度です……いろいろ説明書きが書いてありました。 そしてそこで浮くことができます――これがなかなか難しいですね。 確かに浮力を感じます。ですから、あ、浮くんだろうなと。そして掴まる所があって、浮くわけですね。 そして手を放した途端に、やっぱりバランスを取って沈みます。
ひと言でいうと、聖地旅行へ行って死海に行くのも良し、K園に行って死海風呂にするのも良し(大笑)、この体験することは全く同じですね。 水に委ねるってことはできないですよ。私たちは必ずバランスを失って溺れる。 なぜ水に委ねることができないのか?それは泳ぎを知らないから。 子どもの方が割と簡単に浮きますよね。
エゼキエルの幻を見ますと実に不思議です。 彼は千キュビト、もう千キュビトと、いくらでもその奥へ奥へと連れて行かれることを疎(うと)まない。 そして彼は実際に、むしろ積極的に聖霊の水の流れに、自分の身をゆだねてみたい。 どれくらいの強さで私は流されて行くのか?いや、その川の流れがいったいいかなるものなのかを、自分で確かめたいと思うばかりに、深い方へ深い方へ行くんです。 で、私たちは浅い方に、浅い方に行くんです。
海に行きますと、波がこう被って来ますよね。 家には小さな子どもが二人いた時に、この二人が全く対照的な反応でした。 一番最初にその水際に、波打ち際に二人の子どもを座らせておきますと、N(長男・上)は波が来るたびに引くんです。 時々大きな波が来ます。するともっと引くんですね。 A(長女・下)は波の来る方に来る方に、どんどん動いていくんです。 だから親は危ないからそ、それ以上行くな行くなというんですけれども、Aは波の深い方深い方に身体を移していくんです。 これは恐らく本能的なものだろうと思いますけれども、たとえて言うならば、霊的に、本能的に私たちの反応というのは違うんです。
新しい讃美歌が導入される。 自分とは全然違う礼拝スタイルの場所に自分は連れて行かれた。 聖書をもっと深く読めるような講座が開かれた。 自分の霊的な部分を反省させられるために、新しい本が出た。 新しい本が出れば出るほど、古い本を何度でも読む人いますよね。 それは古いものに良いものがあるからいいわけですけれども、だからと言って新しいものを読まない理由はない。 でも自分が以前触れた20年30年前の本に、むしろ自分の居場所を見出す――それが確かなものだからいいんですけれども。
でもエゼキエルに語りかけている神の使いは、エゼキエルをより深い方へ、より自由な方へ(と連れて行き)、そして中途半端な所で泳いでいる君は一番難しい(と私たちに教えます)。 腰ぐらいが、水の流れと自分の力のその微妙なぶつかり合いで君は一番苦しい所にいるんだよと。 さあ、泳げないあなたでも、圧倒的な聖霊の流れに身を任せてごらん。 その時に、所詮泳げないんだから、泳ごうとすればするほど君は沈む。 むしろ聖霊に身をゆだねるなら、聖霊はあなたに自由を与える。
2)聖霊が自由を与える
聖霊という御霊は自由の御霊です。 その聖霊の自由は私たちにはさっぱりわかんない。 なぜわかんないのか? それはその聖霊の自由とぶつかる所の自我を(私たちが)持っているからです。
その自我が最初の内は強いものですから、聖霊の自由が全く分からない。 しばらくしまして、聖霊に委ねることを学び始めますと、今度は逆に両方がぶつかるという非常に苦しい思いをする。 でもやがて私たちが聖霊に委ねるなら――「すべての人生、すべて委ねなさい」――これは少し難しいでしょう。そんなことは言いません。 自分が関わっているある種の問題課題を御霊に委ねる、ということをしている内に、私たちは1キュビトずつでも奥へ奥へと進んで行くんです。 訳のわからない自分の人生すべてではなく、1キュビトずつでも、自分の本来あるべき自分から、聖霊が私たちに期待しておられる自由の恵みに委ねるなら、ちょっとバランスを崩した瞬間、イエスさまは私たちを持って行かれる。 そして私たちはイエスさまの恵みの深さを感じる。
信仰生活の中で、聖霊が私たちを無理やり深い所に連れて行く、という所が必ずあると思うんです。 今年必ず一回は来ますように。 聖霊が私たちの手を引いて、もう五百キュビト、私たちを深みに連れ出すことでありましょう。 その時に、必ず私たちは自分の身にあたる所の聖霊の流れに抵抗を感じる。 しかし逆に、それに身を委ねる時に、私たちは遠くまで行くことができるんですね。
忘れもしない、息子の結婚式をグァムでした時に、私(藤本牧師)は娘と一緒にホテルの前のサンゴの長〜い所を行って、そしてやがて向こうに泳げるように……。 サンゴの部分は、ちょうど腿ぐらいまでなんですね。そして腿ぐらいまでのサンゴの区間が100メートルぐらいある。 それを超えると、泳げるんですが、ま、腿ぐらいですから私(藤本牧師)は一生懸命歩いていました。
どんどんどんどん娘との距離が離れて行って、そして「いったいいつになったら、こっちへ来るんだ」という風に叱られて、いや、全然僕は一生懸命なんだけれども、全然そこに辿り着けない。 「大人なのにわからないの。歩いているから悪いんじゃない? 一生懸命歩いているから、向こうからやってくる水に抵抗を受けて前に進めないんだよ。 私(A姉)みたいに泳いでご覧。たとえ水かさが70メートルでも、自分の足で泳ぐことを止めて、自分の身体を水に委ねて、適当に泳いでご覧。 そしたら引く波とともに、どんどんどんどん沖に流されるよ」と。
あ、なるほど。泳げばいいのか。 水の流れに自分を乗せたら、引き波と一緒に自分の身体を海の方に持って行かれればいいんだというような体験を、私たちはもう腐るほどしているんです。 ところが霊の世界になると、むしろ自分は浅瀬を好むというのは、いったいどういうことなのか? それは言うまでもなく――自分の人生、自分で握っておきたい。そして水をすくって、適当な所で聖霊のたましいの潤いをいただきたい。 エゼキエルは、「そんなことでは、あなたの人生はダメだ」と言わんばかりに、この幻を私たちのたましいに、教えてくださるのでしょう。
3)聖霊の流れは生かす
これは何回も書いてあります。9節に――
9この川が流れて行く所はどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、……
あらゆる生物というのは、私たちのことです。聖霊が流れ入る所はいかなる者も生きる。 のみならず、12節――
12川のほとり、その両岸には、あらゆる果樹が生長し、……
これも私たちのことです。私たちは聖霊の川のほとりに植えられた木です。 実がなる。そして葉っぱは乾燥させられて、粉のように砕かれて、だれかの薬となる。 それは砂漠のオアシス、荒野に流れる川のほとりのように、周囲が乾燥したいのちを感じない世界の中にあって、私たちの言葉が、私たちの存在が、彼らの食べ物となり、薬となって行くようなことなのだろうと思います。 私たちの存在が、私たちの行いが、私たちの言葉が、周囲の荒野に生きる人々の薬となり、食べ物のようになることができたら感謝ですね。
先日、私(藤本牧師)が親しくしてもらっている(JECA)甲府の(教会の)松村先生からこんな話を聞きました。その話をもって終わりにしますが――
教会のひとりの姉妹が突然脳腫瘍に襲われて、そして手術から闘病を経て、しばらくしてクリスマスの時期に病床で洗礼を受けたという話でありました。 洗礼式に行った時にその場で発せられた二つの言葉が、今でも心に残っていると言うんですね。 ちょっとそのまま言葉を引用しますね(と言って、読んでいかれる藤本牧師)。
※この引用箇所は、松村先生の大切な思い出となるその出来事の背景ですから、松村先生の説教原稿を拝借して、いくらかの編集の上、以下のように書き変えさせていただきます(T・Y)
訂正⇒ちょうど11年前のことです。今日祝う母の日の直後、W姉はわずか40歳そこそこで天に召されました。 その一年半ほど前のこと、突然襲われた脳腫瘍のため、彼女は緊急で手術を受けました。年の瀬が迫ったクリスマスイブのことです。 しかし、その進行を完全には止めることはできませんでした。 いよいよ、余命わずかとなった時、彼女は信仰を告白して洗礼を受け、それから1か月半後に召されたのです。 (***ということは、逆算すると、W姉がご自宅で病床洗礼を受けられたのはイースターの頃かと思われます。T・Y) 私(松村先生)は今でも思い起こす二つの言葉があります。
一つは彼女のお母さんの言葉です。余命迫る病院で、 「先生、なぜ人は死ななければならないのでしょう」と私(松村先生)に尋ねました。 尋ねたというより、つぶやいたと言った方が正確かもしれません。 納得する答えなど期待している訳ではないことがよくわかりました 死にゆく別れの悲しみが口からこぼれて来た言葉であろうと思うのです。 もう一つの言葉は、彼女が自宅のベッドの上で、まさにベッドの上で洗礼を受けた時に言った言葉です。 彼女は「私たち、兄弟姉妹なのよね。いつまでも一緒なのよね」と言いました。 彼女はもう余命いくばくもないことが分かっていました。 そこに居合わせた者たちと一緒に過ごした時間も人生の時間の中で言えば、ごくわずかな時間にすぎません。 しかし、天に迎えられてともに神の家族とされる。決してひとりぼっちで死んでいくのではない。それが彼女の最後の喜びとなったのだと思うのです。 ――ここまで引用終わり――
この二つの言葉は、松村先生の心を捕えたように、私の心をも妙に捕えますね。 人はどうしても死ななければならない――その現実は答えを待つまでもありません。 聖書は神学的にいろいろ説明します。 しかし理由を説明されてもいまだに納得がいかないほど、圧倒的な現実として、私たちは死ななければいけないんです。いつか死ぬんです。 人はどうして傷つくんでしょう? 人はどうしてこんなに孤独なんでしょう? 人はどうしてこんなに空しいんでしょう? 人はどうしてこんなに罪深いのでしょう? 人はどうしてこんなに弱いのでしょう? 人はどうしてこんな試練に遭遇するのでしょう? それは、私たちは人生の荒野に生きているからですよ――それはもう当然と言わなければいけないほど、圧倒的な現実です。
しかし、その荒野の真ん中に、聖霊の川が流れている。 その川の水に触れると、その川に浸ると、いや、その川の流れに身をゆだねると、全く新しい世界が開けて来る。 なぜなら、私たちは永遠のいのちに触れるからです。 その川の流れの中で、愛する兄弟姉妹と一つにされ、永遠のいのちを受け継ぐ者となる。
死んでいく私たち、老いていく私たち、苦悩する私たち、悲しむ私たちが、その聖霊の川の水に浸され、癒され、私たちは神の霊に生かされた、別の世界の喜びを証しする者と変えられて行きます。 そして私たちの小さな信仰、小さな行い、拙い言葉が、周囲の食物となり、周囲の薬となる。 私たちは聖霊の川の流れのほとりに植えられているちっちゃな木です。 でも生きています。ですからちっちゃな実をつける。ちっちゃな、きれ〜いな葉をつける。 聖霊の川の流れのほとりに植えていただいた、ちっちゃな木です。 でも生きていますから葉っぱもきれいで、小さな実は確かに栄養となります。
主よ、どうか、荒野であるこの世界にあって、私をもっと深い所へ連れて行ってください。 そして抗う私を抑えて、主の流れに身を任せることを教えてください。 そして――私の周りが、私の生きている世界が、荒野であることをよく知っています――その中にあって、人々を生かす行い、人々を生かす言葉、人々を生かす存在として、私を用いてください。
☆お祈り――藤本牧師
恵み深い天の父なる神さま、川のほとりに植えられ、川から水を飲んでいる私たちもなお渇きます。ですから今朝の礼拝、あなたのみもとにやってまいりました。そしてあなたは、一つの柄杓を出して私たちに水を飲ませようとなさらずに、私たちを代わりに大きな生ける川の水に連れて行かれました。これが聖霊の川だよと。
あなたがどこに立って、どこでどういう形で飲むかは、あなたの自由だ。でもいつまでも浅〜い水の中で、自分の足元だけを見て浸すような飲み方ではなく、一度飛び込んでご覧。あなた自身も自由を味わい、あなた自身も聖霊の力に圧倒され、そのあなたを固着させている、固まらせている様々な不安や恐れをあなたから解き放ち、あなたを解放する。
そしてあなたは聖霊の川のほとりに植えられた小さな木として、生ける木としてこの世にあって奉仕しなさいと、私たちに御霊の流れに身をゆだねる、その生き方を教えてくださいますように。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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