6/12 アブラハムの生涯(15)皮袋の水は尽きる 創世記21:1〜21
☆聖書箇所 創世記21:1〜21
1【主】は、約束されたとおり、サラを顧みて、仰せられたとおりに【主】はサラになさった。 2サラはみごもり、そして神がアブラハムに言われたその時期に、年老いたアブラハムに男の子を産んだ。 3アブラハムは、自分に生まれた子、サラが自分に産んだ子をイサクと名づけた。 4そしてアブラハムは、神が彼に命じられたとおり、八日目になった自分の子イサクに割礼を施した。 5アブラハムは、その子イサクが生まれたときは百歳であった。 6サラは言った。「神は私を笑われました。聞く者はみな、私に向かって笑うでしょう。」 7また彼女は言った。「だれがアブラハムに、『サラが子どもに乳を飲ませる』と告げたでしょう。ところが私は、あの年寄りに子を産みました。」 8その子は育って乳離れした。アブラハムはイサクの乳離れの日に、盛大な宴会を催した。 9そのとき、サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムに産んだ子が、自分の子イサクをからかっているのを見た。 10それでアブラハムに言った。「このはしためを、その子といっしょに追い出してください。このはしための子は、私の子イサクといっしょに跡取りになるべきではありません。」 11このことは、自分の子に関することなので、アブラハムは、非常に悩んだ。 12すると、神はアブラハムに仰せられた。「その少年と、あなたのはしためのことで、悩んではならない。サラがあなたに言うことはみな、言うとおりに聞き入れなさい。イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるからだ。 13しかしはしための子も、わたしはひとつの国民としよう。彼もあなたの子だから。」 14翌朝早く、アブラハムは、パンと水の皮袋を取ってハガルに与え、それを彼女の肩に載せ、その子とともに彼女を送り出した。それで彼女はベエル・シェバの荒野をさまよい歩いた。 15皮袋の水が尽きたとき、彼女はその子を一本の潅木の下に投げ出し、 16自分は、矢の届くほど離れた向こうに行ってすわった。それは彼女が「私は子どもの死ぬのを見たくない」と思ったからである。それで、離れてすわったのである。そうして彼女は声をあげて泣いた。 17神は少年の声を聞かれ、神の使いは天からハガルを呼んで、言った。「ハガルよ。どうしたのか。恐れてはいけない。神があそこにいる少年の声を聞かれたからだ。 18行ってあの少年を起こし、彼を力づけなさい。わたしはあの子を大いなる国民とするからだ。」 19神がハガルの目を開かれたので、彼女は井戸を見つけた。それで行って皮袋に水を満たし、少年に飲ませた。 20神が少年とともにおられたので、彼は成長し、荒野に住んで、弓を射る者となった。 21こうして彼はパランの荒野に住みついた。彼の母はエジプトの国から彼のために妻を迎えた。
☆説教 アブラハムの生涯(15)皮袋の水は尽きる
アブラハムの生涯の15回目。もう少しだなぁと思います。 今日は(創世記)21章の少し長い所を読んでいただきましたが、有名でございますのでしばらく話にお付き合いいただきながら、この中にある重要な部分に目を留めていただきたいと思います。
アブラハムとサラには、なかなか子どもが生まれませんでした。そこで妻のサラは、夫にある日申し出ました。 「私の女奴隷ハガルのところに入って、それによって私たちは子どもを儲けましょう」 そのようにして生まれたのがイシュマエルでありました。(***16章最後、アブラム86歳の時)
しかしそれは神さまのご計画とは違っていて、やがてアブラハムが100歳になったときに、まさにイサクという男の子が生まれます。 男の子が生まれた時に、(創世記21章)3節をご覧ください。
3アブラハムは、自分に生まれた子、サラが自分に産んだ子をイサクと名づけた。
イサクというのは「笑う」という意味です。 神さまは99歳のアブラハムに現れて、「あなたは来年の今頃、子どもを抱くようになる」と言った時に、思わずアブラハムもサラも笑いました。 でも、その時の笑いというのは冷たい笑いで、冷笑と言いますが、「そんなことがあるはずはない」と冷たい笑いを発したに違いありません。
「こんな二人とも年寄りで子どもなんかできようか」――でもそれが1年後に、歓喜の笑いに変わります。 本当に神さまのみわざに二人は大喜びいたしました。 そして自分たちの不信仰に反省し、神さまの憐れみに対する歓喜の、両方を込めて「イサク」「笑う」という名前をつけました。
さて、この赤ちゃんが8節、見てください。
8その子は育って乳離れした。アブラハムはイサクの乳離れの日に、盛大な宴会を催した。
「乳離れ」というのは――う〜ん、離乳食を食べる最初の日なのか、私(藤本牧師)もよくその辺りはユダヤの習慣は解りませんけれども――ある程度の歳月が経っていてのことでありましょう、盛大な宴会を催した。9節に――
9そのとき、サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムに産んだ子が、(***つまりイシュマエルが、と説明)、自分の子イサクをからかっているのを見た。
「からかっているのを見た」――大した出来事ではないでしょう。しかし言えることはここ一回ではないと思います。 やっぱりイシュマエルはお兄さんですから、一緒に遊んでいれば、親たちの見ていない所で、イサクのほっぺたをぎゅーっと握ってつねったり(大笑)…… 私たちも子どもたちを見ていますと、親の見ていない所で、お姉ちゃんは弟のほっぺたをぎゅーっとこうやってつねっていますね(笑)。 それを、きっとサラは何度か見て来たに違いない。 そしてここで堪忍袋の緒が切れて、10節で夫に言います。
10それでアブラハムに言った。「このはしためを(***ハガルを、と説明)、その子といっしょに(***イシュマエルといっしょに、と説明)追い出してください。……
「追い出してください」――とっても厄介な出来事がここから始まって行きます。
もともとハガルを使って子孫を得ようとした、その発想はサラから来ました。 でも一旦自分に子どもができたら、女奴隷のハガルもイシュマエルも用無しです。 先にハガルを使ってイシュマエルができて、これは何とかなると思っていたんですけれども、ほんとにアブラハムと自分との間に子どもができたらイシュマエルは用無しになってしまうというのは、皆さん、用無しになってしまうというのは何とも残酷に思えますね。 でも奴隷のハガル、奴隷の子のイシュマエルにとってはそういうものだったのかもしれません。
サラによるいじめが始まり、耐えきれなくなったハガルは行く当てもなく荒野に逃亡せざるを得ない。 ろば一頭渡されませんでした。聖書をちょっと見てください。14節――
14翌朝早く、アブラハムは、パンと水の皮袋を取ってハガルに与え、それを彼女の肩に載せ、その子とともに彼女を送り出した。それで彼女はベエル・シェバの荒野をさまよい歩いた。 15皮袋の水が尽きたとき、彼女はその子を一本の灌木の下に投げ出し、
そして16節の一番最後――大泣きに泣くんですね。
翌朝、パンと水の皮袋だけをハガルの肩に載せて、アブラハムは(ハガル親子)を追い出してしまう。 ろば一頭も許されない。荒野で餓死しろと言わんばかりに、パンと水の袋だけを持たせて。 さまよい歩くイシュマエルはこの時14歳の少年でした。 15節に読みましたように、皮袋の水が尽きるんですね。 そしてハガルは大声を上げて泣きます。
3つ(ポイントを)お話しします。第一番目は――
1)皮袋の水は尽きます。
以前サラの発案で、夫アブラハムが自分の奴隷ハガルと結ばれることによって子どもを得ようとしましたよね? その時ハガルは子どもができますと、自分が奴隷であるにもかかわらず、女主人サラを見下げるようになります。 そして結果、今回と同じ状況です。十数年前です。女主人サラにいじめられ、いたたまれなくなったハガルは、主人のもとを離れて荒野に逃亡します。まだお腹が大きいままです。 そして荒野の井戸のそばで神さまに見い出されて、神さまに諭されて言われます。 「あなたは今お腹が大きいのに、一時の感情でサラのもとを離れても仕方がないだろう。あなたはいま子どものためを考えたら、おとなしく帰って、そして謙遜に女主人に仕えなさい。わたしは後の日に、あなたの子どもを祝福するから」
そう十数年前に言われて以来、ハガルは精一杯の努力をして来たに違いない。 いつでも出過ぎたまねをしそうになると自分を抑えて、 「あ、あの時のことがあるから、私は謙遜に女主人サラに仕えなければならない」と謙遜に振る舞って来たはずですよね。
今回、アブラハムと自分ではなくして、アブラハムと正妻サラのもとに男の子が生まれたことで、彼女は喜んだに違いありません。 「ああ、これでよかったんだ。主人と奴隷の間の子どもでなくして、ああ、ほんとにこれでよかったんだ。これが一番よかったんだ。 私は別に大きなことを望んだわけではなかったんだ。ご主人さま夫婦に子どもができた、それでよかったんだ」と。
しかしこのちょっとした出来事、自分の息子イシュマエルが、また赤ちゃんのイサクをからかっているのを見られてしまった。 その時、女主人が逆上しますよね。 それでもハガルはアブラハムには期待したに違いありません。なぜならアブラハムは父親ですから。 11節を見てください。アブラハムは悩みますね。
11このことは、自分の子に関することなので、アブラハムは、非常に悩んだ。
母親は違ったとしても、イシュマエルもイサクも父親はアブラハムですから、アブラハムはとっても悩む。 (ハガルは)その悩んでいる姿を見て、「きっとアブラハムは助けてくれるに違いない」と思ったんですね。 「きっと私たちを守ってくれる。まさかイシュマエルと私を追い出しはしない」 しかし、実際追い出されてしまいます。
しかも神さまも見放されるような事態に展開していきます。12節(〜13節)、見てください。
12すると、神はアブラハムに仰せられた。「その少年と、あなたのはしためのことで、悩んではならない。サラがあなたに言うことはみな、言う通りに聞き入れなさい(***追い出せ、と説明)。イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるからだ。 13しかしはしための子も(***ハガルの子も、イシュマエルも、と説明)、わたしは一つの国民としよう。彼もあなたの子だから。」
「彼もあなたの子だから。でも追い出せ」と(神さまは)言います。 この時点で、ハガルとイシュマエルは神さまにも見放された、と言っても過言ではないです。 神さまが「後に祝福する」と言っても、そんなことは現実にはわかりません。 私(藤本牧師)は思うんです。ハガルはサラにいじめられ、アブラハムが何とかしてくれるだろうと思いながら、結局何にもできず、神さまは祝福を約束してくださったはずなのに、神さまからも見放されたと。 サラははじめから信用できない。せめてアブラハムはこのイシュマエルの父親ではないかと期待し、しかしそれも怪しい。 しかし、決定的に悲しいのは、荒野に息子とともに追い出されてしまったという状況を神さまがお許しになったということでしょう。 そしてしばらくして、皮袋に水が尽きるんです。
私たちは聖書の物語で様々なことを読んでいますから、きっと神さまは最後に何とかしてくださるに違いないと思います。 私たちはそう信じています。その信仰を私たちから抜いてしまったら、私たちには何にも残らないです。 でも私たちが覚えておかなければいけないのは、イエスは十字架にかかられました。 イエスさまでさえ、きっと最後は事態が逆転するに違いないと(私たちは期待していたかもしれないけれども)。 しかし最後イエスは十字架にかかった。 最後ハガルは、持っていた皮袋の水は尽きるんですよ。
聖書の中に「あなたのつぼの油はなくならない。かめの粉は尽きない」(***T列王記17:16)と書いてある。 神さまを信じていれば決して尽きないと書いてある。 でも見てください。皮袋の水は尽きるんです。イエス・キリストは十字架におかかりになるんです。 物事何でもハッピーエンドなら待っているわけではない。 私たちはハッピーエンドを期待し、その結果病気が治らず、結果自分の自由は奪われ、結果自分の家族が非常に難しくなり、でも私たちは信仰を失わない。 なぜなら十字架の先に復活があったように、この事態の先に、きっと神さまの祝福が続いていく、と私たちは信じているんですね。
2番目を見ていただきたいと思いますが――
2)17節です。ちょっとご一緒に読んでみたいと思います。
17神は少年の声を聞かれ、神の使いは天からハガルを呼んで、言った。「ハガルよ。どうしたのか。恐れてはいけない。神があそこにいる少年の声を聞かれたからだ。
この展開は興味深いです――「神は少年の声を聞かれた」。 神さまはハガルが泣いている声を聞かれたのではない。 そして聖書には、この少年がどういう声を発していたかはわかりません。 でも17節に二回出て来る――「神は少年の声を聞かれた」と。 当然少年の祈りを聞かれたのでしょう。
少年イシュマエルは泣いている母を見ました。 彼は一生懸命母の代わりに祈りました。自分のためにも祈りました。
私たちは母親が子どものために祈ることを通常考えます。 しかしこの場面では逆ですよ。子どもが母親のために祈っています。そして神さまは子どもの祈りを聞いてくださいます。 神さまは子どもの祈りを聞いてくださいました。
私(藤本牧師)がひど〜い病気になったら、役員会の信仰の重鎮に「どうか私のために祈ってください」と言うよりも、 多分私(藤本牧師)は先ずO.K.くんのところに行って(大笑)、「神さまに、先生のためにKちゃん祈ってくれる?」って、私はほんとに言うと思います。 祈祷会で皆さんに言う前に、私(藤本牧師)はM.K.ちゃんの所に行って(笑)、「Kちゃん、悪いんだけど先生のために、毎日祈ってくれない?」 私(藤本牧師)はきっとそう言うと思います。
それは子どもには不思議な声があって、神は子どもの声を聞いてくださる。 別に子どもが無垢だとは言いません。 子どもを見ていますと、それはイシュマエルだって、親の見ていないところで平気で、小さな小さなイサクのほっぺたをつねるぐらいですから、無垢なわけがない。 神さまは不思議に子どもの祈りを聞いてくださる。
私(藤本牧師)は2013年の母の日に、説教にこの話を引用していますが、私はこの話に勝るものはないと思いますので、きっと皆さん忘れておられるので、もう一回この話をいたしますね。
私(藤本牧師)が一番尊敬している宣教師に、イギリス人の女性のヘレン・ローズベリーという人がいます。 1960年代にケンブリッジの医学部を出まして、そして彼女は医療宣教師として、お医者さんとしてコンゴに宣教に行きますが、彼女の証しをちょっと読みますね。
ある晩、私は難しい出産と必死に格闘し、残念ながら母親の生命は救うことはできなかった。 真夜中、母親は、生まれたばかりの小さな赤ちゃんと二歳の女の子を残して、この世を去ってしまった。
赤道付近とは言え、標高の高いこの村は、夜になると冷える。 保育器はあっても、電気は止まっていた。 果たして、明日まで、この赤ちゃんは大丈夫だろうか?
私は、助産婦の勉強をしている二人の看護学生に命令して、一人には赤ちゃんを入れる箱を探して、そこに暖かい布を敷いておくように、指示した。 もう一人には、火をおこして温かい水を用意するように。
ところが、哺乳瓶は煮沸している間に割れてしまった。そして、それが残っている最後の一本だった。ああ、なんということだ。 「わかった。じゃあ、あなたたち二人が、火のそばで寝なさい。そしてあなたたちの間に赤ちゃんを置いて、絶対に身体を冷やさないように、気をつけてあげなさい」
次の日、私はいつものように孤児院の子どもたちと祈りの時間を持った。 子どもたちを回りに集めて、一緒に祈るのが習慣だった。 子どもたちに、昨日の出来事の話をした。生まれたばかりでお母さんが死んでしまって、身体を温めることができなければ、哺乳瓶もない。寒さで赤ちゃんが死んでしまう。そして二歳のお姉ちゃんも残されて、泣いてばかりいると、(子どもたちに)そんな話をした。
すると、10歳になるルツが、お祈りを始めた。 「神さま、哺乳瓶を送ってください。明日には届かなければ、赤ちゃんが死んでしまいます。ですから、今日の午後にどうしてもお願いします」 まったく、ため息の出るような、子どもの祈りだった(笑)。 ルツは最後にもう一つ祈りを加えた。 「神さま、それから小さな女の子のために、かわいいお人形を送ってください(笑)。そうすれば、あなたの愛がわかると思います」
往々にして、子どもはこういう祈りをするものだ(笑)。 私は最後にアーメンとは言ったものの、それはそれとして忘れることにした(笑)。 もちろん、神さまにおできにならないことは一つもない。でも、神さまは、こういう風にお答えにはならないものだ。
送ってくださいと言っても、この数年、母国から小包一つ届かない。哺乳瓶や人形なんてあり得ない。私は赤道直下に住んでいるのだ。
夕方に近づいた頃だった。看護師の卵たちに教えていた時、私の家の前に車がやって来たという知らせが届いた。 家に帰ってみると、車はなかった。代わりに、大きな荷物が一つベランダに置いてあった。 一人で開けられないほどで、孤児院の子どもたちが集まって来た。 厳重に縛ってある紐を、みんなでほどいた。 いろんな物が紙に包まれて、中に入っていた。十数人の子どもたちの目が釘付けになった。
一番上にあったのは、きれいな色の子どものセーターだった。私が取り上げると、我先にと手が伸びてきた。 それから、出てきたのは、包帯の数々。子どもたちはちょっとがっかりした。 そして干しぶどうとナッツの缶詰め。
驚いた。真新しい哺乳瓶が一本入っていた。 私が祈ったのではない。まさか、神さまがこれを送ってくださるとは信じていなかった。
脇にいた10歳のルツが私のところに来て言った。 「先生、神さまが哺乳瓶を送ってくださったのなら(笑)、きっとかわいいお人形も入っているよ」(笑) そしてルツは、大きな包みの下の方へとどんどん手を伸ばし、叫んだ。 「ほうら、先生、お人形あるじゃない!」
ルツは言った。 「先生、いっしょに女の子のところに行こうよ。このお人形をプレゼントしよう。お母さんがいなくても、神さまが愛していてくださることが、女の子にわかるよ。」 彼女の目は輝いていた。(***私たち聴いている者にも驚きと喜びが)
私は驚いた。この大きな荷物は、5ヶ月も前に、私が以前教会学校で教えていた生徒たちによって送られたものだった。 イギリスからはるばる、この赤道直下の村に、この荷物が届いた。5ヶ月前に送られた荷物が届いた。 5ヶ月前に教会学校の生徒が入れてくれたお人形が、今朝10歳の女の子の祈りの答えとして、今ここに届いた。
こうして子どもの祈りに答えてくださる神さまの恵みに、あらためて私たちは生かされているということがわかった。 (――ヘレン・ローズベリーの証しはここまで――)
私たちは、子どものためにしょっちゅう祈ります。 でも私たちは子どもに、「お母さんのために、お父さんのために祈ってね」とお願いしなければならないですね。
神さまは井戸端で泣いているハガルの声を聞いて現れたのではない。 泣いているお母さんを不憫に思い、事情もよくわからず、これから先のこともわからず、とにかくお母さんのために一生懸命祈っていたイシュマエルの声を聞いて、神さまは答えてくださいました。
子どもの祈りにぴたりと張り付く神さまの存在というものを、私たちはもう少し自覚的に考え、大事なことであればあるほど、理由は解らなくてもいい。 でもKちゃん(笑)、……ね、お母さんのためにも、お父さんのためにも祈ってほしいのです。
3番目、とても短いですが――
3)今度は神さまが皮袋を再び水で満たしてくださいます。
19節をご覧ください。19節にこうあります。ご一緒にお読みしましょう。
19神がハガルの目を開かれたので、彼女は井戸を見つけた。それで行って皮袋に水を満たし、少年に飲ませた。
また皮袋が出て来ます。 「皮袋の水は尽きた」とこのクライマックスの出来事は始まりますよね。 そしてこの出来事の一番最後に、彼女はもう一度皮袋に水を満たし、少年に飲ませに行くのです。
覚えておきたいことは、私たちは荒野の果てで、どこかで「皮袋の水は必ず尽きる」。必ず尽きるんです。 サラは難しかった。期待していたアブラハムもそれほどではなかった。あれほど神さまに祈ったのに、神さまはいとも易々と私たちをアブラハムとサラのもとから去らせてしまわれた。 荒野を歩いて歩いて、放浪して、そしてとうとう皮袋の水は尽きたという(ハガルの)ような状況が、私たちの中に何度も何度もやって来ます。 尽きた時に、この場合、だれのいのちも大丈夫でした。でも時には私たちは家族のいのちを失うような場合もあると思います。 でも神さまは私たちの目を開かせてくださり、新しい井戸を見つけさせてくださる。 「あなたの人生はまだ続く」と。「わたしの祝福はあなたから途切れたわけではない。もう一度皮袋に水を満たし、わたしの祝福を受けなさい」
やがてアブラハムは死にます。その時アブラハムを葬るのは、なんとイサクとイシュマエルです(***創世記25:8〜9)。 ここで兄弟は別々になって行きますけれども、しかし兄弟は仲良く父親を葬るんです。 そう考えますと、創世記はこの21章のこの出来事で終わってないんです。 アブラハムの人生にもまだ先があり、いやイシュマエルの人生にもハガルの人生にもまだ先があった。
一見して皮袋の水が尽きた段階で、すべてのことが終わったかのように思えるのが私たちでありますけれども、 実は神さまは、新しい井戸に目を開かせてくださり、もう一度皮袋に水を満たすことをさせてくださる。 その神さまに信頼を置いて、私たちは時に井戸端で泣き、時に子どもに祈ってもらうようにお願いをする。
☆お祈り
恵み深い天の父なる神さま、私たちの教会に、これだけ沢山の子どもを与えてくださいました。そして振り返って考えてみますと、私たちはいったいどれほど子どもたちに「祈ってくれ」とお願いしたでありましょうか? 子どもは子どもだと思いますが、実はあなたは子どもの祈りを一番耳を傾けて聞いてくださる。そう考えますと、親が子どものために祈り、大人が子どものために祈り、子どもが大人のために祈るような教会でありますように。
そして私たちの人生の中において、何度も皮袋の水は尽きますが、どこにあってもあなたは井戸を新しく用意してくださり、私たちの目を開いてその井戸を見せてくださり、そこからまた水を汲むような人生でありますように。 私たちを捨てずに、私たちを祝福するために、いつでも私たちを追いかけてくださる(***詩篇23:6)愛するイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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