2016キャンドルサービス:決して一番小さくはない マタイ:2:1〜8
☆藤本牧師よりご挨拶
クリスマスおめでとうございます。イブの夕べによく来てくださいました。色々することは有るかもしれませんけれども、共に賛美を歌い、またろうそくの灯の中でハンドベルを聞き、聖書のみことばに耳を傾けること程良いクリスマスはないと思います。
今年も余すところあと一週間になりました。ちょっと先の予定を申しますと、明日がクリスマスの聖日です。礼拝は10時半からございます。それを明けますと、1月1日元旦の礼拝になります。かなり一気に年末を私たちは通り過ぎて行きますけれども、ぜひ覚えてください。
見開きのページの右の欄の一番下にちょっと早いんですけれども、来年のクリスマスのことが書いてあります。私たちはいつも24日の夕べにキャンドル・サービスをやっておりますが、来年は24日が日曜日です。色々二転三転して考えたんですけれども、キャンドルサービスを、23日の土曜日の夜にします。そのことだけまたHPその他でご案内申し上げようと思いますけれども、いつも24日の夜を狙っていらっしゃる方は、忘れないように心に留めていただきたいと思います。
☆聖書箇所朗読――藤本牧師 マタイ2章1節〜8節
皆さん、なかなか見えずに、ちょっとこうかがめると、髪の毛の前がですね――私のように髪の毛がなければ(大笑)いいんですが――ろうそくにかかりますので、それだけ気をつけてちょっと見ていただきたいと思います。
マタイの福音書の2章の1節(〜8節)です。(***3節と6節の《 》は藤本牧師がこの説教のために特別に付けたもの)
1イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。 2「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」 3それを聞いて、《ヘロデ王は恐れ惑った。》エルサレム中の人も王と同様であった。 4そこで、王は、民の祭司長たち、学者たちをみな集めて、キリストはどこで生まれるのかと問いただした。 5彼らは王に言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者によってこう書かれているからです。 6 『ユダの地、ベツレヘム。 あなたはユダを治める者たちの中で、 《決して一番小さくはない。》 わたしの民イスラエルを治める支配者が、 あなたから出るのだから。』」 7そこで、ヘロデはひそかに博士たちを呼んで、彼らから星の出現の時間を突き止めた。 8そして、こう言って彼らをベツレヘムに送った。「行って幼子のことを詳しく調べ、わかったら知らせてもらいたい。私も行って拝むから。」
☆藤本牧師による説教 決して一番小さくはない
少し聖書の歴史的な話をしますので、ま、何となく聞いていただきたいと思いますが――
ヘロデという人物はクリスマスの出来事の中に必ず登場しますが、新約聖書にはいろんなヘロデが出て来ますので、聖書の世界にも他にもいろんなヘロデが出て来ますので、当然私たちの世界にもいろんなヘロデがいるんだと思って、これからの話をちょっと聞いていただきたいと思うんですね。
イエス・キリストの誕生にまつわるヘロデというのは、紀元前37年〜34年までに大体王位に着きます。 当時ユダヤはローマ帝国の支配下にありました。そして彼の父は、ローマ皇帝ジュリアス・シーザーによってユダヤの総督に任じられます。 そして、その息子であった彼は、ガリラヤ地方の軍隊を指揮するようになります。 これは全部歴史的な出来事なんですが。 ジュリアス・シーザーというのは、皆さんよく知っておられるように、自分の右腕であったアントニウスの手で暗殺されますね。 するとヘロデは今度はこの暗殺者のアントニウスに取り入って、彼から「ユダヤ人の王」という称号をもらいます。
この「ユダヤ人の王」という称号は、植民地において与えられた最高の称号であり、最高の権力を握っていました。 ローマ帝国というのは不穏な状況の中で、その後アントニウスが退いてオクタヴィアヌスが皇帝の座に座りますが、お話を元に戻しますと、ヘロデという人物の生涯の中で、ローマの政権は3回交代します。 彼はその度に、自分の立場を揺るがされました。失敗しそうになります。 しかし、非常にしたたかな人物で、一度掴んだ「ユダヤ人の王」という称号を彼は手放すことはありませんでした。
で、私たちの世界にもヘロデは沢山います――周囲の変動に生き延びて行く。そして一度掴んだ権力は絶対に放さない。 しかしながら晩年このヘロデは、非常に猜疑心の深い人物に変わって行きます。 奥さんを疑い、子どもも疑い、子どもは息子三人いますけれども全部殺害してしまいます。 彼の生涯というのは、裏切り、裏切られ、仲間も、同僚も、家族も信用できない世界に育ったヘロデですね。 孤独な世界に閉じこもり、自分を守るために、一番親しい者さえも抹殺していきます。
簡単に、非常に簡単に、三つのポイントでお話をしたいと思いますが――
1)ヘロデにとって、クリスマスはバッド・ニュースでした。
クリスマスは喜びの知らせですね。 先程聖書朗読(***中川麻祐姉による、ルカ2:1〜19)にありましたが、イヴの夜、荒野の羊飼いに現れた天の使いが言います。 「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです」と(同2:10)。 私たちの歌う賛美も全部このクリスマスの喜びに満ちていますが、ところがヘロデにとってはこれは不安な知らせでありました。 ヘロデの人生は今、ひとりの幼子の誕生によって脅かされようとしている。 なぜなら、その幼子がやがてユダヤの王になるというのであれば、自分は追い込まれてしまいます。
東方の博士たちがやって来て、「ユダヤ人の王となる方が生まれたのはどこですか?だれなんですか?」(***藤本牧師朗読箇所マタイ2:2)って言いますと、彼は調べさせて「私も行って礼拝するから」(***同2:8)と口では言いますけれども、しかし心の中では居場所を突き止めて、そして殺してしまおうと思っていました(***マタイ2:13)。 ユダヤ人の王は自分一人であって、新しい王の誕生など許せるはずがありません。
日本でここ15年位、私たちの価値観を変えるために言われ続けて来たフレーズがあります。 歌にもなりました。それは「ナンバーワンよりもオンリーワン」ですね。 特にキリスト教では、そもそもがナンバーワンよりもオンリーワンです。 ナンバーワンを目指して来たのが日本の教育であり、あるいは日本の社会であり、スポーツであり、ずっと私たちはそのような成長、そして効率主義の中を生きてまいりました。 ナンバーワンの世界で求められているというものは、いったい皆さん何だと思います? それは非常に考えて競争です。競争で勝ち抜かない限りは、ナンバーワンにはなれません。 他の人たちよりも抜きん出て成績が良い。抜きん出て優秀である。抜きん出て速い。抜きん出てお金を儲ける。抜きん出て美しい。抜きん出てかっこいい。 つまりナンバーワンになるということは、競争に勝たなければならない。
そう考えますと、ヘロデのタイトルはナンバーワンです。「ユダヤ人の王」ですから。 彼はユダヤ人の王国の頂点に立つことができました。そしてそうなったときに、その地位を脅かすあらゆる存在を、彼は自分に対する敵とみなし抹殺していきました。 3節に、私(藤本牧師)下線で引いておきましたけれども、ヘロデはその地位を脅かすであろうキリストの誕生を、非常に「恐れ惑った」とありますね。 いきなり東方の博士たちが現れて尋ねたのですね。 「ユダヤ人の王となられる方はどこにおいでになりますか?」(***マタイ2:2)――これほどドキッとした言葉は彼は聞いたことがなかったでしょうね。
自分のナンバーワンをどうしても守らなければいけない。 早速その人物がどこで生まれるのか、旧約聖書の学者に調べさせました。 そして5節に、何とこの人物は預言者によると、ユダの地、ベツレヘムで生まれるということがわかりますね。、ユダの地、ベツレヘムで生まれると。 先程言いましたように、ヘロデは「行って詳しく調べて来てください。私も後で行って拝みますから」(***8節)と言いますけれども、 ヘロデが考えていたのは、ナンバーワンをあくまでも見つけ出す事です。そして実際見つけることはできませんでした。 すると彼は、クリスマスの一番悲しい出来事――それは地域一帯の二歳以下の男の子を全部殺す(***16節)という狂気に出ます。 これがナンバーワンに執着するための競争の狂気であったと言ってもいいと思います。
そして3節のその棒線の下、「ヘロデ王は恐れ惑った」という言葉の後に、「エルサレム中の人も王と同様であった」とあるのは、 もちろん人々が恐れたのは、「もし政権が交代するというような政情不安定な状況に入ったならば、自分の生活も脅かされるかもしれない」と、そういうことも考えたに違いないと思いますが、 しかし聖書全体から考えますとね、そして少し象徴的な解釈をしますとね――私たちはみんな自分の人生でナンバーワンになろうとしています。自分が自分の人生の頂点に立とうと。 ま、自分の人生ですから、自分が頂点に立ってどこが悪いと思いますが。
ですから、聖書のみことばの中で、「私の行く道を導く救い主」というのは、ある人にとってはざわざわするでしょうね。 「私のすることをご覧になる天の神」という、それを聞きますと、なんか見られるのは嫌だなぁと思いますね。 私の心の中も、私の言葉もすべて見通しておられる神の存在というのは、それは明らかに自分の人生の頂点に自分がいない。 他の人物が、神というお方が、自分の人生を見ておられる――この存在を非常に私たちは嫌がります。 しかも神は私たちがひれ伏して拝むことを求めておられるとなりますと、私たちはこの神が私たちの人生に来られるのを拒むヘロデと大して変わりはないと思います。 ですから、クリスマスは礼拝ではなくして、ロマンチックな世の中の出来事で済ませておこうとついつい思ってしまうんです。
2)でも今晩、皆さんは違います。
救い主の誕生を礼拝しに教会にやって来られました。 喜びの知らせを喜びとして受け取るために、私たちはこの方を礼拝します。 私たちはクリスマスに出て来る他の登場人物と同じく小さな者です。小さな者です。 でも神さまに選ばれたオンリーワンです。オンリーワン。
いきなり聖霊によって救い主をみごもったと告げられた乙女マリヤもオンリーワンです。 戸惑いの中でその事実を受け入れます――「おことばどおりこの身になりますように」(***ルカ1:38)という信仰はオンリーワンです。
許嫁(いいなずけ)のヨセフはナザレの大工でありました。 彼も自分が関わることなくみごもってしまったマリヤを疑い、ひそかに去らせよう(***マタイ1:19)としますが、それでも天使の言うことを受け入れ、神に従う小さなオンリーワンです。
クリスマスを祝うように最初に告げられた、夜、羊の番をしていた荒野の羊飼いたち(***ルカ2:8)も遊牧民で、日頃は神殿の礼拝などすることもなく、社会の特権にあずかることもなく、静かに遊牧民として暮らしていました。 そこにいきなり、神の栄光が彼らを照らします(***同2:9)。彼らもまた小さなオンリーワンですね。
ここに出て来ます星に導かれて、救い主を礼拝するために、東方の国から、東の国からやって来た博士たち(***マタイ2:2)もやっぱりオンリーワンです。
彼らは競争を勝ち抜いてナンバーワンになろうと思ったのではない。 彼らは自分が手にしたナンバーワンの地位をどうしても握りしめようと思っていたわけでもない。 また彼らは自分の人生を支配するのは自分だと思っていたような人物ではない。 彼らの人生に平気で突然介入して来る神さまを、彼らは受け入れる勇気を持っていました。 皆がそれぞれいなくてはならない存在。とって代わることのできない存在。そして究極のオンリーワンは幼子イエス・キリストでありましょう。 この方にとって代わる者は誰一人としていません。
三番目に、身近なポイントをもって終わりにしたいと思いますが、ここで注目してほしいんです。これが今年のクリスマスの祝福ですね。
3)幼子イエスを含めて、クリスマスの登場人物は皆小さき者たちでした。
事実、今、きょう読んでいただいた聖書の箇所で、ヘロデが調べさせた旧約聖書の専門家たちは、旧約聖書を調べて見つけ出したんですね(***マタイ2:4〜5)。 どこで生まれるのか?そして見つけ出したのが、プログラムの左側の一番下にありますのでちょっと見てください。ミカ書という場所です。 この聖書の箇所を、分厚い旧約聖書の巻き物から学者たちは見つけて来ました。 こう書いてありますでしょう。
<ミカ書5:2> 2 ベツレヘム・エフラテよ。 あなたはユダの氏族の中で《最も小さいものだが、》 あなたのうちから、わたしのために、 イスラエルの支配者になる者が出る。 その出ることは、昔から、 永遠の昔からの定めである。
こうありますね。いいですか。 棒線を引っ張りました(※HPでは《 》です)けれども、 「このキリストが生まれる氏族は最も小さいもの」と書いてありますよね。 ということは、ヘロデによって調べた旧約の学者たちは、ヘロデに報告します。 そして報告された事項は東方の博士のところにも行き渡ります。 それは、「救い主の部族は、ユダの氏族で最も小さい氏族で、そしてベツレヘムで生まれる。神さまはこの最も小さい氏族を選ばれた」ということをですよ、いいですか、 学者はヘロデに伝え、そしてその報告を東方の博士たちも聞くんです。
しかし、この出来事を改めて記したマタイ――いま私たちが読んでいるマタイの福音書ですが――マタイはなんと表現を意図的に変えました。 それが6節の――
<マタイ2:6> 6 『ユダの地、ベツレヘム。 あなたはユダを治める者たちの中で、 (ここも棒線を引いてしまいました、と説明)、 《決して一番小さくはない。》
これ、表現が変わってますでしょう? 実際東方の博士たちがヘロデのところに来て、ヘロデが調べさせ、そこで聞いた話は、当然ミカ書しかありませんから、ミカ書のことばを全員聞いているはずなんです。 全員聞いているんです――「それは一番小さい。最も小さい。そこから生まれる」と。 ところがキリストが生まれ、やがて十字架にかかり復活し、そして初代の教会ができ上がって行ったときに、マタイはそのミカ書のことばを引用しながら、あえて微妙に表現を変えてしまう。 いや微妙どころではない。「最も小さい」という表現を覆して、「決して最も小さくない」と言い換えていますでしょう。 これが聖書の妙技と言いますか、今年皆さんに注目していただきたいところなんですね。
つまり私たちはナンバーワンではなく、オンリーワンという言葉を聞きますとね――オンリーワン、小さなオンリーワン、それでも私たちは道ばたのたんぽぽのように咲くというそのオンリーワンの小ささ、またはかなさ――オンリーワンだけれども、小さな小さな価値をもって生きている私たちなんですが、 マタイは「決して小さくはない」と、「最も小さい」という言葉を否定してしまいます。
つまり――救い主が生まれるベツレヘム、そしてその氏族は決して一番小さくはない。 それと同様に、主イエス・キリストを礼拝する私たちも、小さなオンリーワンであるけれども、決して一番小さくはない。 神さまに愛され、神さまに守られ、神さまに祝福される小さなオンリーワンで、そういう私たちは大きな祝福を得る。 神の栄光に照らされて、輝いている自分をもう一回見つめてご覧なさい。 あなたに与えられる祝福は決して小さくないですよ。 ――ということをマタイは伝えたいわけですね。
やがてイエスさまは仰います。 「小さき群れよ。恐れることはありません。神は、喜んで神の国をあなたがたにお与えになります」と(***ルカ12:32・二回繰り返して)。 私たちはどこまで行っても別に、もしかしたらナンバーワンを目指しているわけではないかもしれない。 オンリーワンでいいんです。そしてそのオンリーワンである自分が、ものすごく小さなオンリーワンに思えることがあります。 でもマタイがあえて表現を変えたように、「いやいや、決して一番小さくはないんだよ。神さまに祝されたあなたは、神の国を相続する祝福を得ている」ということを忘れてはいけない。
☆お祈り――藤本牧師
恵み深い天の父なる神さま、「小さい」という言葉は、聖書の中では決して「価値が低い」という意味を与えられているものではありません。小さいがゆえに神に目を留めていただき、小さいがゆえに神さまを味方につけ、その人物の小さな小さな勇気が、神の手に握りしめられて大きく用いられ、私たちの小さな、時にはかないと思われる存在が、神の御前に輝いているんだと。
主よ、どうか、マタイがミカ書のことばを変えて表現したように、私たちも自分自身決してオンリーワンではありません。競争の中を生き抜いて、自分が輝き出ようとは思いません。しかし、あなたの栄光がこの小さな心に輝いているという現実を、優しく、温かく、しっかりと受け留めることができますように。今日ここに来られたお一人お一人のご家族を全員、あなたの御手に握りしめて祝福してくださり、新しい年に向かうための備えをすることができますようによろしくお願いいたします。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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