☆聖書箇所 出エジプト33:12〜23
12さて、モーセは【主】に申し上げた。「ご覧ください。あなたは私に、『この民を連れて上れ』と仰せになります。しかし、だれを私といっしょに遣わすかを知らせてくださいません。しかも、あなたご自身で、『わたしは、あなたを名ざして選び出した。あなたは特にわたしの心にかなっている』と仰せになりました。 13今、もしも、私があなたのお心にかなっているのでしたら、どうか、あなたの道を教えてください。そうすれば、私はあなたを知ることができ、あなたのお心にかなうようになれるでしょう。この国民があなたの民であることをお心に留めてください。」 14すると主は仰せられた。「わたし自身がいっしょに行って、あなたを休ませよう。」 15それでモーセは申し上げた。「もし、あなたご自身がいっしょにおいでにならないなら、私たちをここから上らせないでください。 16私とあなたの民とが、あなたのお心にかなっていることは、いったい何によって知られるのでしょう。それは、あなたが私たちといっしょにおいでになって、私とあなたの民が、地上のすべての民と区別されることによるのではないでしょうか。」 17【主】はモーセに仰せられた。「あなたの言ったそのことも、わたしはしよう。あなたはわたしの心にかない、あなたを名ざして選び出したのだから。」 18すると、モーセは言った。「どうか、あなたの栄光を私に見せてください。」 19主は仰せられた。「わたし自身、わたしのあらゆる善をあなたの前に通らせ、【主】の名で、あなたの前に宣言しよう。わたしは、恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。」 20また仰せられた。「あなたは、わたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」 21また【主】は仰せられた。「見よ。わたしのかたわらに一つの場所がある。あなたは岩の上に立て。 22わたしの栄光が通り過ぎるときには、わたしはあなたを岩の裂け目に入れ、わたしが通り過ぎるまで、この手であなたをおおっておこう。 23わたしが手をのけたら、あなたはわたしのうしろを見るであろうが、わたしの顔は決して見られない。」
☆説教 栄光(2)わたしのあらゆる善を
いま開いておられます出エジプト記をそのままにして、週報か何かで挟んでいただいて、もう一度イザヤ書の60章を見てください。 今年与えられた聖書のみことばが、イザヤ書60章の1節であります。 1節、2節、3節ありますので、ちょっと交読をして3節は一緒に読んでみたいと思います。
<イザヤ書60:1〜3> 1 起きよ。光を放て。 あなたの光が来て、 【主】の栄光があなたの上に輝いているからだ。 2 見よ。やみが地をおおい、 暗やみが諸国の民をおおっている。 しかし、あなたの上には【主】が輝き、 その栄光があなたの上に現れる。 3 国々はあなたの光のうちに歩み、 王たちはあなたの輝きに照らされて歩む。
様々なことがこの中に入っています。私(藤本牧師)が元旦礼拝で説き明かすことができなかった要素もこの中に入っています。 でも元旦礼拝で特に目を留めていただいたのは、「【主】の栄光が」、1節の最後の行に、「あなたの上に、あなた目がけて、輝いている」、 あるいは2節 の3行目、「しかし、あなたの上には【主】の栄光が輝く」、「その栄光があなたの上に現れる」 どこにありましても、たとえこの世界がやみにおおわれていたとしても、私たち目がけて、主の栄光が輝いている。 であるがゆえに、1節の一番最初の行「起きよ」と。 「起きよ」というのは、目ざめて立ち上がることですね。 信仰をもって、この一年立ち上がって行こうではないかという話をしました。
その上で、今日は出エジプト記のこの33章を見ていただきたいと思います。 テーマは「栄光」で、そして旧約聖書で恐らく有名な聖書の箇所の一つがここになります。 で、12節からN兄に読んでいただきましたけれども、やはりパッと見て、私たちの目に留まらなければいけない聖句があります。 神の栄光を考えようとしますと、18節――
18すると、モーセは言った。「どうか、あなたの栄光を私に見せてください。」 19主は仰せられた。「わたし自身、わたしのあらゆる善をあなたの前に通らせ、【主】の名で、あなたの前に宣言しよう。わたしは、恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。」
ちょっと前後のことを、文脈をちょっと考えていただきたいと思うのですが―― イスラエルの民は奴隷のエジプトから解放されて、エジプトを出て荒野を旅しているという場面ですね。 で、モーセがシナイ山で十戒の板を神さまから受け取っている間に、40日間不在になりました。 指導者モーセが不在ということで、彼らは一気に不安に陥り、 そしてなんとエジプトから持ち出して来た金銀を集めて、偶像を作って山のふもとでお祭りをするという。 自分たちを解放してくださった神さまのことを忘れ、自分たちで神を作って、一気に自分のための神、自分の願いを叶えてくださる神として、金の子牛を拝んでいる姿。
神さまは民の心変わりの早さ、その信仰の薄さに呆れて、一旦はこの民を見捨てようと思います。 そこにモーセが割って入って、自分のいのちを賭けたとりなしのゆえに、神さまは許してくださいます。
私たちも、心変わりの早さっていうのはありますね。 私(藤本牧師)自身、「自分の人生で三日坊主はない」と宣言しています。 三日坊主はない。なぜなら、三日続いたことがないからですね(大笑)。三日も続かないんですから。 大体私は物から入りますので、腹筋を鍛えようと思いますと、先ず何か買うんですね。 圭子(夫人)は、腹筋を鍛えようと思うならまず腕立てから入ればいいのに(と言うんですが)、私はそれじゃ済まなくて、何か買わないとそこに入れないんですが(大笑)。 買うとやった気になってしまって、そして、ま、箱は開けるんですけれども、使ってないわけですよね(大笑)。 これはもう三日坊主じゃない。一日もやっていないわけだから。でもその内必ずその一日が来ると言って十年とかですね(大笑)、そういうものがいくつかあります。
民の心変わりの早さ、元旦で決意して、しかし私たちの信仰は根を張っていませんから、モーセが40日間不在というそういう状況で、つまり神の恵みを二週間、三週間感じなければ、いっぺんで心変わりしていく弱さを持っています。 そういう時に、私たちのそばにしっかりとした信仰を持っている人物、つまりモーセのような人物がいてくれるということは、とっても大切ですね。 モーセは、この心変わりの早い民の代わりになって、とりなしをしました。 いのちを張ってとりなしをしました。 ちょっと33章の3節を見てください。神さまはこういう風に仰います。
<出エジプト33:3> 3乳と蜜の流れる地にあなたがたを行かせよう。(***しかし、と強調して)わたしは、あなたがたのうちにあっては上らない(***からである、を省略して、わたしは上らない、と二回繰り返す藤本牧師)。あなたがたはうなじのこわい民であるから、(***うなじのこわいというのは頑固、自己中心ですね、と説明)、わたしが途中であなたがたを絶ち滅ぼすようなことがあるといけないから。」
「わたしは上らない。あなたがたを信用できない」 神さまは代わりに、(33章)2節に、こう仰いました。
2わたしはあなたがたの前にひとりの使いを遣わし、……
「わたしは上らない。しかしわたしはひとりの使いを遣わす。でも、わたしはあなたと共には上らない」です。
今日の所、12節、冒頭で「さて、」とこう始まります。 「さて、」つまり「使いは送るけれども、わたし自身は同行しない」と仰った神さまに、モーセがなお食らいついて、「どうか一緒に行ってください」と言う、 その場面から3点、一緒に見ていただきたいと思いますが――
1)モーセが改めて12節から神さまに訴えているところに注目してください。 (※いつも主が同行してください、そうでなければ行かせないでください、という祈りを忘れないことが大事)
12……「ご覧ください。あなたは私に、『この民を連れて上れ』と仰せになります。しかし、だれを私といっしょに遣わすかを知らせてくださいません。しかも、あなたご自身で、『わたしは、あなたを名ざして選び出した。あなたは特にわたしの心にかなっている』と仰せになりました。
しかし、一緒に上らないと突き放すのですか?というモーセの戸惑いですね。 モーセの戸惑いです。一緒に行くか、行かないか。
元旦礼拝が終わって、夜になって孫が仙台から来ました。それが先に嫁さんの実家に行きまして、何かにぶつけて縫ったんですね。 そして抜糸をしなければいけないので、私(藤本牧師)が町田の病院に連れて行ったのですけれども、車の中でず〜っと、 「今日は抜糸はしない。今日は抜糸はしない。今日は抜かない。今日は抜かない」ってず〜っと言っているんですね(大笑)。 それで、私もちょっとイライラしてしまって、 「いや、抜くか抜かないか、お医者さんが決めるから、君が決めるんじゃないんだよ。抜かないかもしれないし、抜くかもしれないよ」と(大笑)言うと、 また「今日は抜かない。今日は抜かない」とピースカキャースカ(大笑)言っているんですね。
そして病院で待っていて――町田まで一時間ですね、病院で待って一時間――二時間ですよ。二時間。 「今日は抜かないよね。今日は抜かないよね」と延々と心配しているんですね。 そして名前が呼ばれて、「藤本Kくん」って言ったら、お母さんがすっと立ち上がって、そしてお母さんが連れて行った。 それで抜かれたんですよ、(大笑)結果は。結果は。でもお母さんが一緒だったんですね。 「ちょっと痛かったけど、僕は泣かなかった」と誇らしげに帰って来ましたね。 お母さんが一緒だというのはすごいことだなぁと思いますよ。お母さんが一緒。
モーセは「自分は同行の者が使いの者では満足できない。あなたが共に行ってくださらなければ、私はどうしても平安をいただくことはできない。まして私一人ではこの民を連れて上ることはできない」と何度も、何度もせっつきます。
とりなすモーセの姿は私たちの姿ですね。 私たちは、このモーセのように、家族に代わってとりなします。友人に代わって、教会に代わって、神さまの憐れみにすがります。 「どうか、私の家族と一緒に行ってください。どうか、私たちから、私の家族から、私の教会から離れずにこの一年間、あなた自身が伴ってください」と。
15節をご覧ください。15節に――
15それでモーセは申し上げた。「もし、あなたご自身がいっしょにお出でにならないなら、私たちをここから上らせないでください。
明確ですね。私たちはこの願い、この祈りを決して忘れないようにしたいと思います(アーメン)。 私たちは、様々な場面で「一年間助けてください。導いてください。守ってください。願いを叶えてください」と祈ります。 しかし何よりも、私たちの祈りはモーセと同じです。 「私と一緒に行ってください。私の家族と一緒に行ってください。私の教会と一緒に行ってください。 この一年間、あなたが共に行ってくださらないならば、どんなすばらしいことも私にとってはつまらないことです」 と、心にくくっておく、しっかりと心に捕えておく――これが第一番目です。
2)「一緒に行ってください。伴ってください。私と共に歩んでください、この一年を」と願う私たちに、神さまは仰いました。 (※14節「わたし自身がいっしょに行って、あなたを休ませよう」――神さまが働いてくださることを信じて、休んで平安を得る――励ましを与えるみことば)
14節を見てください。14節、あまりにも有名ですから、ちょっと一緒に読んでおきたいと思います。
14すると、主は仰せられた。「わたし自身がいっしょに行って、あなたを休ませよう。」
「わたし自身がいっしょに行って、あなたを休ませよう」ですね。 ヘブル語では、「わたし自身」となってないです。「わたしの顔」がいっしょに行って休ませる。 御顔の特色というのは何か?御顔の特色はもう決まっています、旧約聖書で。 「御顔の輝き」です。 「神の顔が共に行く」というのは、「神の栄光が共に行く」という意味ですね。 それが一番代表的な聖書の箇所をちょっと見ていただきたいと思うんですが、民数記の6章をちょっと見てください。 民数記の6章の23節〜26節を交替に読みます。
<民数記6:23〜26> 23「アロンとその子らに告げて言え。 あなたがたはイスラエル人をこのように祝福して言いなさい。 24『【主】があなたを祝福し、 あなたを守られますように。 25【主】が御顔をあなたに照らし、 あなたを恵まれますように。 26【主】が御顔をあなたに向け、 あなたに平安を与えられますように。』
これですね。御顔をあなたに向け、御顔をあなたに照り輝かせ、そしてあなたを守られるように。あなたを恵まれるように。あなたに平安を与えられるように。 「主の御顔」というのは、「主の栄光そのもの」です。 そしてその「主の栄光」と言った時に、主の栄光はあなたを祝福し、あなたを守り、あなたを照らし、あなたに平安を与える。平安を与えると。
私(藤本牧師)は昨年夏ぐらいからもうず〜っと一つのプロジェクトにかかりっきりでというか、かかりっきりになれないのがストレスなのですけれども。 今年宗教改革の500年ですね。で、日本基督教団の出版局から宗教改革の5つのシリーズを出す。 監修は、出村彰(***でむら・あきら、1933年生れ、神学者、東北学院大学名誉教授)先生という非常に宗教改革第一人者なんですけれども、その私が第一巻目なんですね。「歴史の中の宗教改革」。 他の先生方は「宗教改革と聖書」とか、「宗教改革と讃美歌」とか、「宗教改革と信仰告白」とか、割と個別なタイトルで、私のところだけが「歴史の中の宗教改革」というのは、大きすぎる。大きすぎますよね。
それを、ま、A5判というちょっと大きな判なのですが、「200ページで書け」――それは無理ですね。 私は、自分のプロジェクト70パーセントを書いた段階で既に270ページです。 ですからお願いしてマックス200じゃなくて250にしてくださいと。 それでも50ページ削らなきゃいけない。 しかもその発行が5月と言われたら、えっ、3月に原稿が入っていなければいけない。 で、私は、実は先週金曜日に原稿の70パーセントを入れる、という約束をしたんですけれども、元旦からどんなに頑張っても減らせないです。 自分の原稿を、既に270ページ書いた原稿を200ページにまず削るということがもうできないですね。 で、私は出版社にとうとう手紙を書きました。 「今の私(藤本牧師)の状況というのは、両手で沈みそうな船から水を掻き出している。同時にその手で、さらに前進するために執筆をしている」(笑)
そして寝られなくなった。何回も起きますね。何回も起きます。 私、ものを書くのがそんなに嫌いな人間じゃないので、こんな状況に陥ったことはないですね。 一生懸命書いたものを削りながら、ボートの中に入ってしまった水をこう掻き出している。 そして同じ手で、少しでも書けるように先に進んでいるというのは、自分の中でこれほどの矛盾に直面した時に、自分の心理がどういう風に行くのかというのはわかりませんでしたね。 何度も起きては見る夢は、追いかけられる夢ばかりですよね(大笑)。
そして今日の説教の準備のために、このみことばを見ている内に、 「あなたを休ませよう」――全然休んでない(大笑)。 このみことばを自分は語れるのかどうか?と思って。そりゃ、全然語れないです。ですから皆さんとともに学ぶ。
私たちは、順調なときには――「わたし自身がいっしょに行って、あなたを休ませよう」――そして、ものすごく不安な人を見つけますとね、その不安な人にこのみことばを渡すんです。「神さまご自身が行って、あなたを休ませてくださいますから」と。 でも自分にみことばを当てはめるというのは、そう簡単にいかないです。 祈れば祈るほど、考えれば考えるほど心は休まないです。却って無駄な動きばかりに手も足も動いていくんですね。
「わたし自身がいっしょにいて」ということは、一緒にいてくださる神さまが働いてくださる。守ってくださる。祝福してくださる。 であるがゆえに、あなたは休むことができる(アーメン)。 少なくとも「夜の間も、主はまどろみなく私たちを守っていてくださる」(***詩篇127:2)んですから、私たちは安らかに休むことができる。 何にもしないんじゃない。しかし平安が与えられ、安らかな眠りにつくことができる。所詮寝ている間は、私たち何もできないわけですから。 「ゆっくり休みなさい」というこの休みさえも、まともに取ることができない私たちの信仰の薄っぺらさというものを痛感しますね。 そういう時に、このみことばは、改めて私たちに励ましを与えてくださいます。
3)今日特別に見ていただきたいみことばに、心を集中したいと思います。19節です。 (※19節「わたし自身、わたしのあらゆる善をあなたの前に通らせる」と主は言われるが、それは神の善が通った後に初めて私たちに解るもの――神さまの栄光に照らされて生きるとは、神の最善を味わいながら生きること。)
18節に、モーセは思わず言いました。
18……「どうか、あなたの栄光を私に見せてください。」
「一緒に行くというのであれば、あなたの御顔を見せてください。あなたの存在を私に見せてください。あなたの力を私に見せてください」(と、栄光ということばを詳しく説明)。 でも20節、見てください。
20……「あなたはわたしの顔を(直接、を入れて)見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」
これは聖なる神さまの栄光の強さ、輝きの強さを示しています。 罪人である私たちは、神さまの顔を面と向かって見ることはできません。 「あなたの栄光を輝かせてください」――それでも実はその栄光の輝きには、圧倒され、滅ぼされる以外にない。 それほど神さまの栄光は、直接的に見ることができない程、輝いている。
ですから、神さまはその栄光を直接に通り過ぎさせることがあるなら、22節、見てください――
22……わたしはあなたを岩の裂け目に入れ、わたしが通り過ぎるまで、この手であなたをおおっておこう。
通り過ぎるまであなたをこの手であなたを覆っておこう。あなたを滅ぼさないためです。 そしてこのことばが出てくるのです。19節の頭――
19主は仰せられた。「わたし自身、わたしのあらゆる善をあなたの前に通らせ、……
あらゆる善――それは民数記では神さまの祝福、神さまの平安、神さまの恵みだったわけですけれども、 すべてを働かせて益としてくださる神の善(***ローマ8:28)、 試練の中にあっても、勝ち得て余りありという勝利を与えてくださる神の善(***同8:35〜37)、 小さな者も大いなるなる者も等しく祝福してくださる神さまの善(***詩篇115:13、ルカ12:32)、 「神さまの栄光に照らされて生きる」ということは、「神さまの最善を味わいながら生きる」ことです。
神さまの最善を味わいながら生きること。 年末の祈祷会に、k.T兄とY子姉がいらっしゃいました。 一年最後の祈祷会で、一年間祈祷会で祈っていただいたお嫁さんのYさん、そして息子さんの、お孫さんの善(ぜん)くん。 善くんは一歳になって、本当に小さく生まれましたから、いろんな障害があることが案じられて来ましたけれども、本当にすくすく元気に育っているということ。 それからY姉は、産後、まだもう一つ手術をしなければいけないですね。その病院が見つかり、手術の日程まで決まった。
この一年間、最初の頃は体力もなく、赤ちゃんを抱っこすることもできない。 動くと、ま、妊娠期間中は出血してしまいますから、病院の中で数か月じ〜っと寝ておられました。 それがゆえに筋力も落ち、最初は車いすで、善くんは小さいですからお母さんは車いすで退院、そして善くんは病院にいたまま。 それが、神さまによってここまで守られて来た、ということを証しされたんですね。
普通に考えれば、「最善」というのは、順調な妊娠と、順調な出産と、健康な子どもと、元気なお母さんですよね――それが(私たちが普通に考える)最善なんです。 でもK兄姉が年末最後の祈祷会でお証しになったのは、その最善よりはるかに違う状況でも、「神さまの最善」を味わって来たことへの感謝をもって来られたのです。 「神さまの最善」というのは、私たちが考えているいわゆる一番いい善、一番いい方法ではない。 私たちの小さな小さな頭、私たちの人生そのものを変える力があるのが、「神の最善」です。 「私たちの善」というのは、私たちの人生そのものまでは変わらないですよ。
私たちが親しんでいる、日本のキリスト教文学を担った三浦綾子さんの「道ありき」という(本に)、ま、三浦綾子さん(***1922〜1999・旭川市出身)が信仰を持たれたその自伝を記しておられるわけですね。
三浦綾子さんは、戦争以前、戦中ですね、小学校の先生をしておられました。 一生懸命教育勅語を子どもたちに叩き込んで、日本のやっていることが、戦争が正しいことだと信じて、ま、子どもに向かって来ました。 そして敗戦。これまで自分がやって来たことが無残に崩れて行きます。 当時はまだ堀田綾子さんですが、敗戦と共に、自分が教えて来たことは一体何だったんだろうかと、信じることに臆病になり、虚無的になり、そして教師の仕事を辞めてしまわれます。
その後彼女を襲ったのは、肺結核という病気でした。当時は死の病と恐れられていました。 そんな彼女の前に現れたのが、幼なじみの前川さんですね。 前川さんも同じ結核で入院されたわけですけれども、堀田綾子さんは前川さんの誠実で愛に溢れた行動や言葉に心を動かされていきます。 その方は神の栄光を放っていました。どのように放っていたのか? 「道ありき」の中で、前川さんが当時の堀田綾子さんに語った言葉が記されています。 「綾ちゃん、人間はね、一人ひとりに与えられた道があるんですよ……ぼくは神を信じていますからね。自分に与えられた道が最善の道だと思って感謝しているんですよ……」と。
「自分に与えられた道が神の最善の道だと思って感謝しているんですよ」ということはどういうことかと言いますと――神さまは私にご自身の最善しかくださらない(と、彼はそれを味わいながら生きているということ)。 いろんなことがありますよ。いろんなことがあります。 「でも、この方は私に最善を尽くしてくださる」ということを信じて、感謝して生きているわけですね。
時にそれが試練の道であったとしても――善にして善を為してくださる神は、すべてのことを相働かせて益としてくださる神は――私に、私だけが行くその道に、私と共に同行してくださる。 そしてそんな私に、ご自身の栄光の光を私目がけて注いでくださる。 そしてその栄光の注ぎは絶対的だと、19節の最後に書いてありますよね。
19……わたしは、恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。」
ということは、「わたしは絶対に恵む。絶対に憐れむ。わたしの憐れみの決意を妨げる存在はない」ですね。
「通り過ぎる」というのは、モーセの上を神の善が通り過ぎたんですけれども、モーセは――ちょっと見てください、22節ですね――
22わたしの栄光が通り過ぎるときには、わたしはあなたを岩の裂け目に入れ、わたしが通り過ぎるまで、この手であなたをおおっておこう。
ということは、ちょっと抽象的に言いますと、「通り過ぎて初めて見ることができる」(ということです)。 「モーセは神の後ろ姿を見た」というような表現に(23節では)なっていますけれども、私たちは神の善が通り過ぎてから、初めて分かる。 【23わたしが手をのけたら、あなたはわたしのうしろを見るであろうが、わたしの顔は決して見られない。」】
そしてこの方は本当に私に最善を為してくださったのだということを、改めて実感できるような2017年であればいいなぁという風に思います。 栄光を直接見ることはできないかもしれません。また今週の歩みの中で、私たちの願っている最善は全く叶わないかもしれない。 でもそんな私たちの上を神の最善は通り過ぎ、やがてしばらく経った時に、 「あ、なるほどこれが神の最善だった。 今回もまた守られ、恵まれ、平安を与えられた。 であるがゆえに、次回の様々な試練の中にあっても、必ず神は守ってくださる」(と神の最善に感謝し、また神に期待する私たちでありたいものです)。
三浦綾子さんを導かれた前川さんは35歳の人生を閉じられます。 それでも彼は、主の最善が私に注がれ、私の上に輝いていた、と信じて感謝して天に召されて行きました。 この心と身体を主の最善に、主の栄光に向けるために、「起きよ」――信仰を起こしなさい。 寝ている信仰(笑)を起こして――私(藤本牧師)も起こさなければいけないですね――主の光の中を歩んでいきたいと思います。
☆お祈り
主は仰せられた。「わたし自身、わたしのあらゆる善をあなたの前に通らせる。」 (出エジプト記33:19前半)
恵み深い天の父なる神さま、K兄姉のお孫さんの名前が善くんであることを感謝いたします(アーメン)。まさにこの小さないのちの中にあなたの善が込められています。本当に厳しい一年半、あるいは二年を闘って来られました。しかし振り返ってみると、その新しいいのちの中にあなたの善が凝縮され、小さな小さな子どもが笑顔でぷくぷくと太っている姿を拝見することができました。
その喜びは、私たち教会全体の喜びであり、そしてあなたは同じような喜びを、私たちに与えてくださることを知っています(アーメン)。涙の谷を過ぎる時、忍耐を与えてください。耐える所の信仰を与えてください。そして「あなたが最善であられる」ということを決して見失うことがないように。また「あなたが同行してくださるならば、私は休むことができる。平安にあなたに委ねることができる」という思いをしっかりと私たちの中に植えつけてくださるようによろしくお願いいたします(アーメン)。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
※この説教は1/1に続くものとして、栄光(2)とさせていただき、元旦礼拝の方にも、栄光(1)とつけさせていただきます。 ※また、今回のお話の3つのポイントでは、( )の中に書いていることを内容のポイントとさせていただきました。以上T・Y
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