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::: 説  教 :::


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Name   T・Y
Subject   1/15 戸塚神学生:「一つだけ」に生きる ルカ10:38〜42  
☆聖書箇所   ルカ10:38〜42

  38さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村に入られると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。
39彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。
40ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」
41主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。
42しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」


☆説教    「一つだけ」に生きる

そこで今朝はK兄に読んでいただきましたけれども、ルカの福音書の10章の38節から42節、ここから「一つだけ」に生きる、と題して恵みを分かち合いたいと思います。

今日の説教は神学院の「聖書釈義」という授業で、講師の先生に一度聞いていただいたものです。
で、修正を求められることはありませんでした。
これも一つの解釈としてお話ししたいと思いますので、そのつもりで恵みを受け取っていただければという風に思います。

ここに二人の姉妹の姿が描かれています。お姉さんの名前はマルタ、妹さんの名前はマリヤ、そしてこの物語の場所は二人の家でした。
ヨハネの福音書の11章の1節を見ますと、ベタニヤ村だということがわかります。
迎えたのは、お姉さんのマルタでした。38節――

38さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村に入られると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。

「喜んで家にお迎えした」というのが、マルタだったんです。
喜んで家にお迎えする人――おもてなし好きの方ですね。
しかも人と関わるのが好きだし、きっと料理も好きなんだと思います。得意な料理がいっぱいあるに違いない。
しかも話し好き。そして社交的。で、テキパキと行動する。
あまり細かいことは気にしないで、どちらかというと姉御肌的なタイプ(笑)。そしてみんなを仕切っていくような、そういうタイプですね。
想像すると、こんな人がマルタなのかなぁと思います。

で、何人お迎えしたのか?
38節、「彼らが旅を続けているうち」と書いてありますので、彼ら(というのは)――このルカの福音書のちょっと前から文脈で読んでいきますと――恐らくこの彼らというのは、イエスさまと12弟子ではないだろうか?
そうすると、マルタがこの家にお迎えしたのは13人だったと考えられます。

当時、ユダヤ人たちは宴会や祝宴を好んだようです。
食事を共にすることが何よりも、家族や仲間の絆を強め合うと考えていたからでしょう。
で、マルタはイエスさまとこの十二弟子たちが存分に食べたり飲んだりして、心置きなく時間を過ごしていただきたいと願って、
かなり張り切って、色々なバラエティーに富んだ、こだわりの料理を準備をしようとしたんではないかと想像いたします。

もちろんおもてなしというのですから、お食事だけではなかったでしょう。
先ずは手や足を洗うための水を用意することからスタートしたと思うんですね。で、料理を作る間、待たせている間、お茶を出したり、お菓子を出したり、そしてテーブルクロスを敷いたり、様々なことがある。
しかも13人お迎えしたんですけれども、恐らく泊まるんでしょうかね、この家に?
おもてなし好きのマルタでしたならば、おそらく泊まるような場所が、13人泊まるような場所がもしかしたらこの家にあったのかも知れません。
そうなりますと、シーツとか枕カバーなどの用意もしなければいけないわけです。

以上のような状況設定の中で、今日の聖書の物語は展開していくのです。
そんな忙しさの只中にいるマルタなんですけれども、一つ目――

1)その一方で、マリヤは何をしていたのか?

マリヤは――39節にこう書かれています――

39彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。

「主の足もとにすわって、みことばに聞き入っている」――「主の足もとにすわる」ということは、イエスさまの足もとにすわるということは、
マリヤはイエスさまの足もとから上を、イエスさまを見上げる格好になるのですね。
そして「みことばに聞き入っていた。」――マリヤはイエスさまの語る言葉に惹きつけられるように、じ〜っと耳を傾けていたのです。
イエスさまを見上げ、みことばに聞き入る――まさしくこれは礼拝ですね。
マリヤにとってこの時間は、まさしく礼拝の時間でした。
イエスさまを見上げ、みことばに聞き入る礼拝の時間。

マリヤは、この時がイエスさまと初対面だったかどうか、それはわかりません。
でも恐らくマリヤは、目の前のこのお方が救い主であられることを直感的に理解していたと思われます。だから礼拝したんだと思う。
マリヤにとって、イエスさまを礼拝するということは、もう至福のひと時、この上もない喜びのひと時だった。
「ああ、イエスさま、感謝します。あなたを礼拝します。すばらしい恵みをありがとうございます」
マリヤがこの時選んだ、マリヤにとっての一つだけ――それはイエスさまを礼拝することでした。

2)その同じ時間、お姉さんのマルタの様子はその後どうだったのでしょうか?

40節をご覧いただきますと――

40ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。……

「いろいろともてなしのために気が落ち着かない」状態になっていたのが、マルタの姿でした。
口語訳聖書を見ますと、「接待のことで忙しくて心をとりみだし」と同じ所がこう訳されています。
接待のことで忙しく、心を取り乱していた状態――あまりにも忙しくなったマルタは、心を取り乱してしまいました。
そして、きっと妹のマリヤを呼んだんじゃないんでしょうか?
妹を仕切るお姉さんだったのかもしれません(笑)。すご〜いお姉さん。
恐らく日頃のもてなしの時には、マリヤにいろいろと手伝いをさせていたんじゃないかと思うんです。
40節の後半を見ますと――

40……「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」

「私の手伝いをするように」――日頃手伝いをさせていたのだと思います。

この「私の手伝いをするように」――これギリシャ語の原文を調べてみました、と言っても、私(戸塚神学生)ギリシャ語がわからないので、ギリシャ語の原文を調べてくださった学者の書いた本を読みました(大笑)、そうしましたらば、
「私の手伝いをするように」という所は――「私に手を貸して、私と一緒に自分の分をするように」――これがギリシャ語の原文の意味だそうです。

「自分の分をするように」――ということは、お姉さんのマルタがする分と妹マリヤがする分という風に分担が決まっていたらしい。
そこで「私の手伝い」ということは、マリヤが当然するべき仕事がある、ということが読み取れると思います。
きっとマルタはこうマリヤに言ったんじゃないかと思うんですね。
「ねぇ、マリヤ。いつものように手伝ってよ。あなたも今やるべきことあるよ〜。あなたのやるべき分があるよ〜」
と、マルタはイライラしながら妹に向かって、何度も何度も呼び続けたと思うんですね。
「マリヤ〜、ちょっと来てよ。マリヤ〜マリヤ〜マリヤ〜」

ところが今日は、いつも手伝ってくれるはずの、私の言うことを聞くはずのあのマリヤが言うことを聞いてくれない。
そしていつもと違う態度を取っている――イエスさまを礼拝してみことばに聞き入って、何の反応もしてくれないマリヤでした。
「私はこんなに忙しいのに、マリヤは好き勝手なことをしている。自分の好きなことをしている。
ずるい!私の呼びかけに反応もしてくれず、何もしてくれない妹。
その原因となっているのは・・・?イエスさまだ。イエスさまよ。イエスさまだわ。
妹にずっとお話ししているせいで、妹は手伝おうとはしないじゃないの。
私はこんなに忙しくて大変なのに、なんでわかってくださらないの?」
マルタのイライラは、今度はイエスさまにもついに向けられてしまいました。
そして40節のカギカッコの中ですね。

40……「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」

このように、ついにイエスさまに向かって言ってしまったんですよ。
恐らく、読むと穏やかなんですけれども、もっと激しい口調で、こう爆発させてしまったようなイメージがあるんだと思うんですね。

3)そこで3つ目のシーンが展開します。

このマルタの一言で、イエスさまは今まで一生懸命マリヤにみことばをお話していましたけれども、この一言で中断された格好になっちゃいました。
そして、カッカカッカとしているマルタに向かって、こう仰ったんですね。41節――

41……「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。」

「マルタ、マルタ」――イエスさまはマルタの名前を二回呼ばれました。
人の名前を二回呼ぶというのは、新約聖書では親愛を込めた表現だそうです。
「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っていますね」――新共同訳聖書では、同じところを――「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している」という風に訳されています。

ここで覚えておきたいことは、イエスさまはマルタのことを、決して責めてはおられないんですね。
マルタのイライラしている、心を取り乱している、その気持ちをしっかりと受け留められている姿がここにあります。
マルタの気持ちをそのままなぞるかのように、イエスさまは「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています」とこう仰ってくださっています。

この後、イエスさまはマリヤではなく、今度はマルタに向けてその場でみことばを語られました。
それは3ポイント・ショート・メッセージでした(笑)。それは42節の三つの文がそれです。
マルタに向けて語られたイエスさまのメッセージの、一つ目――

1)どうしても必要なことはわずかです。いや、どうしても必要なことは、一つだけですよ。

これが、イエスさまの一つ目のメッセージでした。
「一つだけですよ」――イエスさまは、先ずこの事を最初に伝えたかったのでしょう。一番最初にこれを語られました。

二つ目、最後なんですけれども「彼女からそれを取り上げてはいけません」って書いてありますが――

2)どうしても必要なことを、彼女から取り上げてはいけませんよ。

これが二つ目のメッセージです。
「どうしても必要なことを、彼女から取り上げてはいけません。
妹から、マリヤから取り上げてはいけません。それを。
マリヤの自由意志、マリヤが選んだこと、自分で決めたこと、さらに言うならば、マリヤの生き方とか、性格とか、マリヤの人間としての尊厳だとか、
そういうようなものを取り上げてはいけない、お姉さんが。
それを認めて、大切にしてあげてくださいね」
ということを伝えたかったんです。

そして三つ目――

3)マリヤは、この時間、その良い方を選んだのです。

こう言っています。
「この時間、その良い方を選んだんですよ。どうしても必要な、一つだけの良い方をマリヤは選んだ。
給仕をするか、みことばを聞くか、その二つの中、マリヤにとって、みことばを聞く方が良いと思った。それを選んで行動したんですよ」
それをマルタにイエスさまは伝えたかったんです。

この裏には、イエスさまのマルタへのメッセージの中に、
「マルタ、あなたにとって、どうしても必要な一つだけとは何ですか?」
という、イエスさまからマルタへの問いかけが隠されているのではないでしょうか?
「マルタ、そのあなたにとって必要なその一つだけを、選べばいいんですよ」イエスさまのマルタへのメッセージが伝わって来る感じがします。

そしてマルタにとっての一つだけ――それは給仕をすること、
そしてマルタは既に無意識のうちに、給仕をする方を選んでいます。
ですからイエスさまは、マルタが給仕をすることを選ぶ、そのことを良しとされている。

私(戸塚神学生)は今までここの箇所を読むたんびに、
「マルタは悪者、マリヤは良い人。
もう礼拝の時間あくせくあくせくしているような人よりも、礼拝に集中してイエスさまのみことばを聞く方が良い。だから、マリヤの方が良い」
という風に、どうしても捉えて読んでいました。

でもよ〜く読みますと、イエスさまはマルタのことを責めておられない。
「どうしても必要なことはみことばを聞くことですよ」とはイエスさまは仰っていない。
「マルタ、気を使わなくていいですよ。給仕なんかやめて、マリヤのように私の話を聞いたらどうですか?」とは仰っていない。
「どうしても必要な一つだけとは礼拝なんですよ」というような教訓的なことをイエスさまは言いたかったのではない。
礼拝も大切、おもてなしも大切。どちらを「一つだけ」にしますか?ということなんです。

私(戸塚神学生)が、今からもう30年以上になっちゃいますけれども、高津教会に転会して初めて礼拝に出た時、
藤本栄造先生がその時当務されておりましたけれど、礼拝の最初のお祈りの時間、皆一生懸命こうやって(下を向いて手を合わせる仕草をして)、皆である方のお祈りに心を合わせてお祈りをしている時間に、
藤本栄造先生がやおら立ち上がって、下に降りて行くわけですね。

「何をするのかなぁ、こんな大事なお祈りの時に」(と思って見ていたら)、そしたら、後ろの空調のスイッチを調整して温度を上げていました。
そしてドアを開けて玄関の受付の所に、そして挨拶をされて、受付の人に
「ご苦労さま。寒いですから、ちょっとしたらばまた入っていいですよ」と声をかけていらっしゃった。
そしてその後、またこっちに来て、そして加湿器にスイッチを入れて、司会者の方を向けてくださって、そしてその後メモを書いて、奏楽者に何かそのメモを渡した。
そして座って、そして礼拝の祈りが終わった。アーメンと。

礼拝のお祈りの時間、藤本栄造先生はフルに活用して(大笑)、その時間いろいろなことをされているわけです。
ああ、藤本先生らしいなぁと思いました。もうおもてなしをしたくてたまらない先生なんです。今でもそうです。
何かしたくてたまらない。だからお祈りはお祈り。でも私はお祈りも大事だけれども、やるべきことがある――そういう先生です。

この時、私たちは礼拝をしていますけれども、受付の仕事をされている(今日の受付の)竹内さん、頑張ってください(大笑)。
受付の仕事をされている方、今頃靴の数を数えているでしょう。きょう何人来たか。
こちらは(準備室出入口を指して)私だけですから、外側。こっちも出て数えなくちゃいけません。
大変ですよね。もうみことばを静かに聞いているということはない。
外にも出たりなんかしなければいけない。
時々「まだ集会やっていますか?」って覗かれる方もある。「どうぞ。初めてですか?」「いや、昔ミッションスクールに行っていたんですけれども、入れますか?」って言う方も時々通る。
礼拝どころじゃない。静かにみことばなんか聞いていられない。
礼拝も大切。おもてなしも大切。

きょう久しぶりに復帰したY兄、今どこにいますか〜?(笑)どっかにいるんですよ。どっかにいます。Y兄が。ここに座っていらっしゃらないんです。いつも。どこかにいます。何かしていらっしゃる。
もう動きたくて動きたくて仕方がない。もう水を得た魚のようでした(笑)、今朝お会いした時。
礼拝も大切。おもてなしも大切。

更にイエスさまは、マルタに対してこんな思いであったと想像します。
「はじめ私がこの村に入った時、マルタ、あなたは喜んで私たちを家に出迎えてくれたではないですか?」
38節を見ますと――

38さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村に入られると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。

と書いてあります。
「喜んで出迎えてくれたではないですか。マルタ、あなたにとって良い方の一つだけとは、みことばを聞くのではなく給仕をすること、喜んでおもてなしをすることではないでしょうか?」
イエスさまはそうマルタに言いたかったんですね。

確かにマルタは給仕していました。おもてなしに一生懸命でした。
マルタも、自分にとってどうしても必要な良い方、給仕することを選んでいるんです。
では、あれ程喜んでイエスさまたちを出迎えたマルタが、今なんで喜んでおもてなしができなくなって、気が落ち着かなくなって、イライラしてしまって、心を取り乱してしまっているのでしょうか?
その原因はいったい何なのでしょうか?

私(戸塚神学生)がここを何回も読んで、これではないかな?原因は、と思ったことがあります。
そのキーワードは――40節、「ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず」とあります――ここに「いろいろと」という言葉が出ています。
41節、イエスさまの言葉の中に――「マルタ、マルタ。あなたはいろいろなことを心配して」――「いろいろなこと」って出ています。
「いろいろ」――これがキーワード。「いろいろ」

この「いろいろ」が曲者だった。つまり一つだけではなかったんです。マルタは一つだけに生きていなかった。
この曲者の「いろいろ」――「いろいろ」には色々あるんですけれども(笑)――あれもしなければいけない。これもしなければいけないという「いろいろ」。
マルタが喜んでおもてなしをできなくなってしまった原因は単なる忙しさでなくして、「いろいろ」にあった。
あれもしなければいけない。これもしなければいけない。自分の能力を超えてしまうようなことをしてしまった。
つまり自分の身の丈ではなかった。もう自分ができる以上のことをやってしまった、「いろいろ」。

また想像します。
イエスさまはマルタに対してこんな思いだったかもしれません。
「マルタ、私たちのためにいろいろとありがとう。張り切っておもてなしをしようと頑張りましたね。
たった一人で本当にいろいろと大変でしたね。お疲れさま。
でもマルタ、今やっているいろいろな中で、私たちのために喜んでおもてなしがしたい一つだけを決めてくだされば、それで充分なのですよ。それで嬉しいですよ」
マルタは自分の身の丈の給仕、自分の身の丈の歩みを問われたんですね、そこでイエスさまから。
そしてこの後、マルタはそこで思ったに違いありません。
「ああ、イエスさまは私の気持ちを解ってくださった。いろいろ一人でやりすぎたのかしら。
そうか、いろいろではなくて、よい方の一つだけかぁ。身の丈でいいんですね。
それならばイライラしないで、心配しないでおもてなしができるわ。
じゃあ、私の自慢料理は一品だけにしましょう」(大笑)って、そう思ったかもしれません。
一人でやっているんですよ。全部ね。

もう一つのいろいろ。もう一つの「いろいろ」は――
「あれもしなければならない、これもしなければならない」ではなくて、
「あれもしたい、これもしてあげたい」という「いろいろ」。
「したい」といういろいろです。
自分がしたい、自分がしたい、自分がしたい。

で、いつの間にか、この「自分がしたい」という思いが、イエスさまのためではなく、人のためではなく、何か自分を満足させるためになってしまう危険性があるということを、イエスさまは示そうとしたのではないかと思うのです。
このことに気づかされたマルタは、この後どうしたか?
聖書には書いてありません。
恐らく気持ちを切り替えて、イエスさまのためにおもてなしをし続けたかもしれません。

で、このマルタの姿を見ますと、あぁ、私の姿だなぁという風に思うことがあります。
忙しい時に何かあると、すぐに気が落ち着かないでイライラしてしまう自分。様々なことに思い悩み、心を取り乱してしまう自分。
そして自分の能力以上のことをしなければならない時に、すごいストレスに打ちのめされてしまうような自分。
更には、いつの間にか一生懸命になり過ぎて、イエスさまのためではなく、人のためではなく、自分の満足のためにがむしゃらになっている、そんな自分。

イエスさまはマルタに語られたように、私たちにも語っておられるのではないかと思うんですね。
「ほんとに大変ですねぇ、毎日。
でも今、この瞬間にやることは、いろいろではありません。
どうしても必要なことは一つだけなんですよ。一つだけでいいんですよ。
自分の身の丈でいいんですよ」

このことに気がつかされると、本来の自分がやらなければいけない、自分がやりたいこと、更に言うならば、自分らしい生き方が見えて来る。
喜んでおもてなしをするのが本来のマルタらしい生き方のように、一つだけ、それは何でしょうか?
それは、神さまによって与えられた自分を生きることだと思うんです。

自分らしさを生きる。
で、マルタにとって「一つだけ」とは、イエスさまのために喜んでおもてなしをする生き方でした。
マリヤにとって、「一つだけ」とは、イエスさまを礼拝し、みことばを聞きお仕えする生き方でした。
マリヤはその良い方を選んだ。
マルタはその良い方を無意識のうちに選んだのに、いろいろのためにそれがわからなかった。いろいろやり過ぎて。
でもそれぞれにふさわしい「一つだけ」を備えておられるのが神さまです。

さて、最後にその後のマルタはどうだったでしょうか?
◇自分の弟ラザロが亡くなった時に来られたイエスさまを、また出迎えました。
ヨハネの11章(***20節)に書いてあります。イエスさまのことを出迎えた。

◇それから「過越しの祭りの六日前にベタニヤに来られた」イエスさまのために、人々は夕食を用意していましたけれども、そこで「マルタは給仕をしていた」(***ヨハネ12:1〜2)。
ヨハネの12章に書いてあります。

相変わらず出迎え、その後も相変わらず給仕をしているマルタの姿が書かれているんですね。
もう一人でおもてなしなんかしておりません。
夕食を人々が用意していた。そこでマルタが給仕をしていた。人々と一緒に夕食の前に給仕をしていたんです。
喜んで給仕をしていたに違いありません。これがマルタにとっての「一つだけに生きる」姿でした。
マルタらしい、ぶれない生き方でした。

マリヤはマリヤで、また大変なんですけれどもね、この後。
それは省略しますけれども、部屋中香油の匂いでいっぱいにしちゃったんですけれども(***マルコ14:3〜9)。
マリヤはマリヤらしいことを一つだけ選んだんですけれども。

マルタに言われたイエスさまは私たち一人ひとりにも言われます。
「あなたは、いろいろなことを心配しています。しかし、どうしても必要なことは一つだけです。マリヤはその良い方を選びました」

新しい2017年が始まりました。早くも今日は1月15日ですけれども。
この年、神さまが備えてくださっている私たちにとっての一つだけ、それを祈り求めていきたいと思います。
神さまが備えてくださっている自分らしい生き方とは何か?
それをもう一度神さまに求めて、輝いて歩む1年でありますように。

☆お祈り――戸塚神学生

神さま、感謝いたします。日々の生活の中で、また私たちの人生において、どうしても必要なことは一つだけである、とイエスさま、あなたは示してくださいました。

マルタの姿は私の姿かもしれません。自分の手に負えない状況に振り回される時、いろいろと気が落ち着かず、いろいろと心配し、なんで自分はあれもしなければならない。どうしてもこれがしたい。何でこんなことをやらなければいけないんだと、イライラして心を取り乱してしまいがちです。

しかしそんな時どうかイエスさま、あなたが私のすぐそばにおられることを思い出させてください。そして、今一番必要な一つだけを示してください。それを選ばせてください。そして、あなたを見上げながら、その「一つだけに生きる」自分らしい歩みにこれからも、この一年もお導きください。イエスさまのお名前によってお祈りいたします。アーメン。


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