「イエスの祈りに包まれて」
「父よ、わが霊を御手にゆだねます」(ルカ二三・四六) 「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです」(ルカ二三・三四)。
クリスチャンが自らの死において、おそらく用いるであろう、独特な表現があります。それは、「主よ、我が霊を、御手にゆだねます」という祈りです。どれほど多くのクリスチャンが、この祈りをもって生涯を閉じたことでしょう。いやおそらくクリスチャンのすべてが、この祈りをもって生涯を閉じると言っても過言ではないでしょう。この祈りを、キリスト御自身が教えてくださいました。 今週、キリスト教会は、教会の暦のなかで一番大切な週を過ごしています。受難週といいます。木曜日が最後の晩餐、金曜日が十字架の金曜日、そして日曜日がイースター(復活祭)です。イエス・キリストは、十字架の上で、その苦しみのなかで七つの言葉を残されました。その最後が、「父よ、我が霊を御手にゆだねます」です。 こう祈られて、主は息をひきとられました。これは、当時のヘブルの世界で、子どもが夜寝る前にする祈りであったと言われています。いったん眠りについたら、まったく無防備な私たちです。どんな危険があるのか、どんな災害があるのか、森廣さんは、神戸の銀行で活躍されていた頃、神戸の震災を体験されました。私たちだれもがふと思います。寝てしまったら、果たして無事に目覚めることができるだろうか? ですから毎晩、目を閉じる前に祈ります。 「神よ、我が霊を御手にゆだねます」
●大切なものをゆだねる信仰
ゆだねる――それは、ゆだねようとしている相手を信頼している、ということです。必ず受け取ってくださると信頼している、ということです。 日曜日の礼拝の後、奥様からお電話をいただきました。突然の死でした。春うららかな日曜日の午前、まさかこんな事態になろうとは、ご家族のみならず、友人も、会社の方々もまったく想像もしていません。私は、礼拝にいらっしゃった方々を見送りながら、このニュースを受け取りました。さーっと自分の顔から血の気が引いて、表情を失うのがわかりました。胸がどきどきしていくのがわかりました。 電話を折り返しかけますと、事情の説明と、葬儀を教会でしてくださいとのご依頼でした。奥様もお嬢様も、私たちの教会で洗礼を受けておられます。お嬢様お二人は、小さい頃から教会学校に通っていて、お父さまが車で送り迎えをなさったこともありました。故人のお母様は、長い間、青山学院の理事を務めておられたほど、格式のあるクリスチャンでいらっしゃいました。幼い頃からキリスト教の影響を受けておられた故人は、洗礼は受けておられませんでしたが、教会での葬儀を望んでおられたことでしょう。 奥様からのお電話をいただいたときに、私が意識しましたのは、奥様はご主人の魂を、教会に、恵み深いキリストの御手にゆだねようとしておられる、ということでした。イエス・キリストの御手以外に、ゆだねることはできない。どうしても、主の御手に。 なぜ、このお方にゆだねるのでしょうか? それは、このお方があわれみに満ちておられることを知っているからです。十字架の上で、隣に十字架につけられていた犯罪人が、「主よ、あなたが御国の位につかれるとき、私のことを思いだしてください」と願ったとき、主イエスはおっしゃいました。「まことにあなたに告げます。今日、あなたは私とともにパラダイスにいます」。 「思い出してください」と願った初対面の人物に、これほどのあわれみをくださるお方です。痛んだ足を折ることもなく、くすぶる灯心を消すこともない、.とおっしゃったお方は、病める者、悩める者、悲しむ者、貧しき者を愛をもって包まれました。 主イエス・キリストの愛とあわれみに満ちた御手以外に、ゆだねることはできない――それが奥様の信仰です。 そして、信仰とは、まさにこのように一番大切なものをゆだねることを言うのです。信仰を道具のように考えている人がいます。神を信じることによって、自分の生涯を、自分の自由に動かしたい。信仰とはそういうものではありません。自分の大切なものを自分の意のままに動かすために神の力を借りるのが信仰ではありません。信仰とは、自分が最も大切にしているもの、自分の命、自分の生涯を、神の御手にゆだねることです。 真実な主イエスさまは、最も大切ないのちを、すなわちご主人の魂を、御前にもってこられた、ご家族の信仰を受けてくださらないはずがありません。 ●はかりしれないあわれみ
この方の、あわれみは、はかり知れません。なぜなら、イエスキリストは、ご自分を十字架につけた人々に向かって、十字架の上でこう祈られました。 「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです」(ルカ二三・三四)。 私たちの人生は、このキリストの祈りに究極的に包まれているのです。私たちは、自分で何をしているのかわからないものです。わかっているつもりでわかっていないのです。良きと思って考えたことが、例えば会社を難しくしたり、これしかないと思ってしたことが、家族に辛い結果をもたらしたり、と。 わかっていて悪いことをすることは罪深いことです。しかし罪の罪深さというのは、実は、私たちはとんでもない選択をしていながら、それが自分でわかっていことにあるのです。自分の罪がわからない、またわかろうとしない、そこに、私たち人間の本当の罪深さがあるのです。 十字架の上で、主は祈られました。私たちのために。 「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです」 森廣さんは、キリストにあわれみ深き御手にゆだねられ、キリストのこの祈りに包まれ、天の御国にのぼっていくのです。
祈ります 恵みと愛に満ちておられる天の父なる神よ。あなたの御子イエスキリストは、あわれみに満ちておられました。病める子どものために、必死に懇願する母親の祈りを、悩める子どものために、ひれ伏して願う父親の祈りを、あなたは聞き入れてくださいました。 主よ、お願いします。真実な思いで、もっとも大切なものを、ご主人の魂を、御手にゆだねる森廣姉、お嬢様たちの信仰をお受け取りください。あなたの腕で抱き留めて、天にお連れしてください。そうしてくださると、私は確信しています。 私たちはみな、自分でしていることさえもわからない愚かな者たちであります。しかし、それをすべて包み込むために、主よ、あなたは十字架にかかり、いのちを投げ出し、私たちにそのいのちを注いでくださいました。 恵みと愛に満ちておられる神よ。残された者たちをあわれんで、慰めて、力づけてください。奥様を、真奈さんを、華奈さんを。ご兄弟、多くの友人を。お仕事の半ばで倒れられ、責任を果たすことができなかった、その志を生かして、株式会社フジタを助けてください。今ここに、座して、あなたに祈る我らすべてをあわれみ、助けてください。 やがて、天国での再会にすべての希望を託します。天国で、神よ、あなたは森廣さんの苦労に報いて、その涙も苦しみもない世界で憩わせておられることでしょう。主よ、地上に残され、悲しみに包まれている私たちに慰めと希望を与えてください。 我らの救い主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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