ダビデの祈り(1)――主よ、あなたが裁き人となってください
Tサムエル二四章
エン・ゲディの荒野に潜んでいるダビデのいのちをねらって、サウルは追いかけます。たった一人をつかまえるために、精鋭三千人を引き連れて。ダビデは、もう何年も、こうして逃亡しています。 洞穴に隠れていたときに、サウルが洞穴に用を足しに来ます。ダビデとその一行は、洞穴の中でなりを潜めていたのです。ダビデの部下の一人が言いました。 四節「今こそ、主があなたに、『見よ。わたしはあなたの敵をあなたの手に渡す。彼をあなたのよいと思うようにせよ。』と言われた、その時です」
●反撃のチャンス 「今こそ」とは、またとないチャンスだと言うことです。天からふってきたチャンスです。これを逃す手はありません。さあ、煮るなり焼くなり、あなたの好きなようにしてくださいと、部下はダビデをけしかけます。 これまで何年も、サウルの思うままにされてきたダビデです。王宮では、さんざんないやみを言われました。自分を殺そうと荒れ狂ったサウルが槍を投げ、自分をかすめたときもあったのです。王宮を逃げて、ガテのアキシュのところに来たときは、ダビデは非常に恐れて、精神異常者の振りをするはめにもなります。そのようにしてサウルに追われて、洞穴から洞穴への生活を強いられてきました。そのダビデにとって、まさに「今こそ」、神さまがくださったチャンスのように思えたにちがいありません。今こそ、復讐のチャンスなのです。サウルを殺すことは、いとも簡単でした。長い逃亡生活に終止符を打つ絶好の機会なのです。 私たちの人生にも、「今こそ、そのときです」というチャンスがめぐってくるものです。今こそ、リベンジのチャンスです。復讐、いや復讐という大げさな言い方はしなくても、やられた分を少しでもやり返しておいた方がよいと私たちも考えます。このような場面では、やられっぱなしではいけないという正義感も少しは働きます。意地も働きます。相手が悪質であればあるほど、ある程度の報復は必要と思われます。そして、このダビデのケースのように、天は我らに味方せりといわんばかりに、状況がそのように動いて、反撃のチャンスを与えてくれるのです。それが、私たちの生活ではないでしょうか。 朝鮮戦争で戦ったアメリカ軍兵士のことを聞いたことがあります。彼らは、家を借り、家事と雑用をさせるのに近所の少年を一人雇いました。雇われた少年は、けなげなほどいつも笑みをたたえて、前向きの態度で仕事に当たりました。それを逆手に取って、兵士たちは、彼に次から次へと悪質ないたずらを仕掛けては、楽しみます。ある日、少年が、自分の靴を履こうと思って、持ち上げようとすると、床に張りついてはなれません。兵士たちが少年の靴を釘で床に打ちつけたのです。しかし、少年は、何も言わずに釘抜で釘を抜き、何事もなかったように靴をはきました。 兵士たちが、台所の鍋へ釜の取っ手に油を塗ると、少年は、こまめにそれを拭き取って、笑顔を絶やさず、鼻歌を歌いながら料理にとりかかります。兵士たちが、ドアの上にバケツを仕掛けて、少年がずぶ濡れになったこともありました。それでも少年は、着替えて乾かし、一度も文句を言ったことはありません。何をやられても、怒ることはしませんでした。 とうとう、兵士の方が自分たちの悪質ないたずらを恥じて、ある日、少年を呼んで言ったそうです。 「俺たちは、もう二度といたずらはしないよ。君の態度には、敬服した」 少年は尋ねました。 「もう二度と、ぼくの靴を床にくぎ付けにしないということですか」 「そうだ、もう二度としない」 「これからは、鍋やフライパンの取っ手をべとべとにしないんですね」 「二度としない。」 「水の入ったバケツをドアの上に仕掛けたりしないんですね」 二度としないよ」 すると、少年は、いたずらっぽく肩をくすめていいました。 「分かりました。それなら、ぼくもスープの中に唾をはくのをやめますよ」
やられたら、どこかでやり返したい、片を付けたいという気持ちはだれの心の中にもあるでしょう。さて、このとき、ダビデはどうしたでしょうか。私たちだったら、どうするでしょうか。
●悪は悪者から出る
ダビデは、悪を持って悪に報いるというやり方に、良心の痛みを覚えました。 四節「そこでダビデは立ち上がり、サウルの上着のすそを、こっそり切り取った」 ダビデは手に汗を握り、心臓の鼓動を押さえるように、そーっと後ろから近づいたに違いありません。しかし彼は、上着の裾を切ったことさえ、心を痛めています。 五節「こうして後、ダビデは、サウルの上着のすそを切り取ったことについて心を痛めた」 ダビデは、主が油注がれた相手に、手を下すことなどできなかったのです。 出て行ったサウルにダビデは正体を明かし、そのとき、昔のことわざを引用して言います。 一三節「昔のことわざに、『悪は悪者から出る。』と言っているので、私はあなたを手にかけることはしません」 悪を持って悪に報いる人は、悪人と同じレベルに自分を落とすことだ、というのです。仕返しをすると言うことで胸はすっきりするかも知れません。しかし「悪をもって仕返しをした」ということに心を痛みを覚えるのが、クリスチャンです。ダビデ以上に、私たちはそれを感じるはず。なぜなら、それがイエスさまの生き方だったからです。そして、新約聖書に繰り返し強調されているのが、この教えだからです。 「悪い者に手向かってはいけません」(マタイ五・三九) 「敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。……悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい」(ロマ一二・二〇〜二一) 「悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです」(Tペテロ三・九) クリスチャンは、決して「やられっぱなし」ということではありません。それは無責任です。ダビデも、無抵抗ではありません。全力で逃げ、この逃亡期間を利用して力をつけていきます。ただ、彼は悪をもって悪に報いるという方法に、非常な躊躇を感じました。ダビデが、サウルの上着の裾を切ったとき、そこには脅しの気持ちがあったはずです。彼は、それに心を痛めました。それはやはり、「悪は悪者から出る」からです。
●神にゆだねる
第二に、どんなに状況が自分の味方をしているように見えても、それを 自分の力で動かそうとはしないことです。神の手にゆだねるのです。キャンベル・モルガンは、この箇所に注釈を加えて、「これこそが、人間の心が学ぶのに最も難しいレッスン」だと言います。何度やっても、修得がむずかしいレッスンだと言うのです。なぜなら、痛い目を受けているとき、ダビデのように、反撃のチャンスは必ず訪れるからです。そういうチャンスが、私たちのところにも巡ってきたら、飛びついてしまうのが私たちの本能でしょう。それを警戒しましょう。状況を自分の手に握ってはなりません。 ダビデは、自分の手でサウルに仕返しをせず、神にすべてをゆだねました。 一二節「どうか、主が、私とあなたの間をさばき、主が私の仇を、あなたに報いられますように」 一五節「どうか主が、さばき人となり、私とあなたの間をさばき、私の訴えを取り上げて、これを弁護し、正しいさばきであなたの手から私を救ってくださいますように」 「どうか主が」とあるように、これはダビデの祈りです。彼は、仕返しをする権利を放棄して、すべてをご覧になっている主にゆだねているのです。逃亡して、洞穴生活をしていたとき、ダビデが歌った詩に詩篇五七があります。 一節「神よ。私をあわれんでください。私をあわれんでください。私のたましいはあなたに身を避けていますから。まことに、滅びが過ぎ去るまで、私は御翼の陰に身を避けます」 このようにして洞窟に隠れたダビデは、主の御翼の陰にその身を隠しました。そして、二節「私はいと高き方、神に呼ばわります。私のために、すべてを成し遂げてくださる神に」と祈って、主にゆだねたのです。
●ゆだねることの難しさ
このことが、現実にどんなに難しいかをダビデはその身をもって次の二五章で証明してくれます。王であったサウルに対しては、これほど礼儀正しく毅然として振る舞うことができたダビデですが、二五章にナバルのケースでは、必ずしもそうではありませんでした。 逃亡生活をしていたとき、かつて自分がお世話をしたことがあるナバルがそばにいることを知ります。何とか助けになってもらおうと、ダビデは部下をナバルのところに送り、「どうか、このしもべたちと、あなたの子ダビデに、何かあなたの手もとにある物を与えてください」(八節)と懇願します。ところがナバルは、ダビデを侮辱します。 一〇〜一一節「ダビデとは、いったい何者だ。エッサイの子とは、いったい何者だ。このごろは、主人のところを脱走する奴隷が多くなっている。私のパンと私の水、それに羊の毛の刈り取りの祝いのためにほふったこの肉を取って、どこから来たかもわからない者どもに、くれてやらなければならないのか。」 これを聞いたダビデは、怒って報復に出ようとします。 一三節「ダビデが部下に『めいめい自分の剣を身につけよ。』と命じたので、みな剣を身につけた。ダビデも剣を身につけた。四百人ほどの者がダビデについて上って行き……」 相手次第では、逆上する――これが人間です。王という油注がれた目上の相手には侮辱されても耐えるのに、目下の者に対しては、いとも簡単に剣を上げます。 このときは、ナバルの妻、聡明なアビガイルが食料と飲み物をもって、剣を上げたダビデを待ち受けて訴えます。 三一節「むだに血を流したり、ご主人さま自身で復讐されたりしたことが、あなたのつまずきとなり、ご主人さまの心の妨げとなりませんように。主がご主人さまをしあわせにされたなら、このはしためを思い出してください」 この聡明な言葉に、逆上していたダビデが我に返って、そして主をさんびし、アビガイルに感謝していいます。 三二〜三三節「「きょう、あなたを私に会わせるために送ってくださったイスラエルの神、主がほめたたえられますように。あなたの判断が、ほめたたえられるように。また、きょう、私が血を流す罪を犯し、私自身の手で復讐しようとしたのをやめさせたあなたに、誉れがあるように」 逆上する私たちをなだめてくれる人は、神より遣わされた聡明な人です。二四章で、ダビデの部下は「今です。今こそサウルを打つときが来ました」とダビデのこころを奮い立たせます。これもまたダビデを全身全霊でサポートしてきた部下の正直な気持ちでしょう。私たちにも、その気持ちもよく分かります。このような支援者を私たちもまた必要としています。しかし私たちにとって本当にありがたいのは、神より遣わされた聡明な人です。その人は言います。 「そんなに怒りなさんな。だいじょうぶ。神さまが見ておられる。」 「きっと主が、裁いてくださる。無駄な血を流すようなことはやめましょう。」 「復讐と仕返しは、神さまのものです。それを自分の手に取ったら、あなたのつまずきになり、あなたの心の妨げになります」 よく聞く言葉ではありませんか。しかし、この言葉の中には聡明な信仰が込められているのです。そして聡明な助言を受けて、私たちはあらためて祈るのです。 「どうか主よ、あなたが裁き人となり、私の訴えを取り上げてください」
高津教会の中には、いろいろと不当な扱いを受けて苦労された方もおられます。私はあまり事情を知らないまま、その方に「たいへんだったんですって……」とおたずねしました。ちょうど、林間聖会の期間中でお風呂場の脱衣場の話しだったのです。すると、そこでですが見事な信仰的な答えが返ってきたのです。 「ええ、もし神さまがおられなかったら、自分がどうなっていたことかと思います。神さまにお任せしました」 淡々とした答えに、私は脱帽……、いや脱衣場ですから服さえも着ていなかったのですが、ともかくその答えをうかがって,こころに熱い物を覚えました。それはそれは言いたいことはあったでしょう。しかし言い分も権利もすべて放棄されたのです。その方はダビデのようでした。自分で状況を握ろうとせず、すべてを裁いてくださる主、そして私たちのためにすべてを成し遂げてくださる神に祈ってゆだねられました。私もまたダビデになれるのです。そうなれるように、アビガイルのような聡明な兄弟姉妹をも、主は備えておられるのです。
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