待てないサウル Tサムエル28:3−15
六節「それで、サウルは主に伺ったが、主が夢によっても、ウリムによっても、預言者によっても答えてくださらなかったので」――と物語は始まります。
●神の沈黙
イスラエルのすぐそばに来て、敵のペリシテが陣を敷きました。それを出て行って迎え撃つのが良いのか、何もしないで守りにはいるのが良いのか、サウルは一生懸命に神に伺いを立てます。しかし、答えは返ってきません。ウリムというのは、預言者の道具で、それによって神の御心を聞き分けるものでした。それを通しても答えはありません。 神の沈黙です。詩編にも何度も出てきます。「いつまでですか、主よ、いつまでですか」。祈り訴えても、答えらしき答えが出てこないのです。主がしばらく沈黙しておられるのです。 あの偉大な祈りの人ジョージ・ミューラーは、大きな孤児院を信仰一つで、祈り一つで運営した人です。何百人という孤児を養うために、だれにも募金のアピールをせずに、彼はひたすら主が備えてくださることを祈って待った人です。そして、主は彼の祈りに答えてくださいました。彼が祈ると、一日に、一週間、一ヶ月中には、なんらかの結果を見ることができたのです。このミューラーが友人の救いのために祈っていました。その友人が救われるために、何と彼は五〇年祈りました。五〇年間、この課題については、主は沈黙を保たれた。大きな孤児院を支えるだけの答えを、神はいつもくださるのに、友人の救いを祈る祈りに、五〇年沈黙されました。
●困り切って霊媒にたよるサウル
サウルは追いつめられていきます。その果てに、彼は、実に奇っ怪な行動に出ます。 「霊媒をする女を探して来い。私がその女のところに 行って、その女に尋ねてみよう」(七節)。 なんとか死んだサムエルの霊を呼び出して、助言を得ようとするのです。興味深いです。死者の霊を呼び寄せるという、当時のイスラエル周辺文化ではごく普通になされていたことでした。興味深いと申し上げたのは、この古代の風習が、恐山のイタコのように、現代も受け継がれている日本という国です。 いやそれ以上に興味を惹くのは、ここで実際に死んだサムエルがここで上がってくるということです。一三〜一四節。 王は彼女に言った。「恐れることはない。何が見えるのか。」この女はサウルに言った。「こうごうしい方が地から上って来られるのが見えます。」 サウルは彼女に尋ねた。「どんな様子をしておられるか。」彼女は言った。「年老いた方が上って来られます。外套を着ておられます。」サウルは、その人がサムエルであることがわかって、地にひれ伏して、おじぎをした。 霊媒の力を侮ってはならないと思います。実際に、死の世界と通じる力を持っている人がいるのです。そしてそれは、非常に暗い危険な世界です。ここで注意しましょう。聖書では、霊媒と占いが同じ世界で論じられています。霊媒が霊の世界に通じているように、占いも霊的な力に通じます。当たらない占いはばかげたものでしょう。しかし、占いは当たれば当たるほど、霊の世界にあやしく通じていると考えた方が妥当でしょう。あさのテレビ番組の最後には、毎日の運勢を血液型で占ったり、星座で占ったりするものが必ずくっついてきます。「山羊座のあなた、今日のラッキーカラーはピンクです。何かピンク色のものを身につけましょう」とか、「Bがたのあなたは今日は最悪です。でもラッキー食材はピーマンです。これを食べれば大丈夫」というようなことを聞かされると、「おいおい、日本はどうなっているんだ」と真剣に心配してしまいます。笑い事で住むこともあるでしょう。しかし、しかし、本来占いは悪霊に関わる世界で、非常に危険な、暗い世界であって、聖書では固く禁じられていることを忘れないでいただきたいのです。 実は、そのことをサウルはよく知っていました。 「サウルは国内から霊媒や口寄せを追い出していた」(三節)。 聖書の中には、サウロについて信仰的には優れたことが何一つ記されていないなか、彼はせめて霊媒行為は禁じていたのです。このあやしげな風習を追い出してしまうことが、神の御心にかなっていると自覚していたのです。ところがサウルは、自分がせっぱ詰まって困り果てたとき、どんなに祈っても答えを得られないとき、何とか死んだサムエルを呼び出そうとして、霊媒に走りました。 私は、こんな会話が、天国であったのを想像します。下界から、霊媒の声がサムエルを呼びます。そしてその脇に、変装したサウルが座っているのが見えます。サムエルが言います。 「神さま、変な奴が呼んでいます。どうしましょうか。私は、もうあんな厄介なやつとは関わりたくありません」 神はしばらく考えて、こうおっしゃるのです。 「行ってこい。わたしは、霊媒が大嫌いだ。でも、サムエルよ、おまえに最後の仕事を与える」 「行って、あの女の中に入って、最後の預言をしろ。サウルの死を宣告してこい。」 会話の部分は私の想像です。しかし、実際、サムエルは霊媒女の口を借りて、サウルの死を宣告します。そしてサウルは、惨めな最後を遂げます。 祈っても答えられないからといって、私たちは自分の信仰を投げ捨てるような、否定するような行動に出てはならないということでしょう。祈りの答えが出るか出ないかで、私たちの信仰があるのではないのです。祈りが答えられても答えられなくても、私たちの信仰は、神のみことばである聖書の真理と、私を愛し、私を救うために十字架にかかり、私を生かすために復活されたイエス・キリストにあるのです。
●待てないサウル
サウルの問題の本質はどこにあるのでしょうか。彼は待てないのです。これこそが、彼の人生を大きく左右してきました。 王になってしばらくして、サウルは決定的な過ちを犯します。ペリシテとの戦いが始まりますが、イスラエルは劣勢を強いられます。イスラエルの軍隊には、逃げ出す者たちもいました。戦いを前に、神に全焼のいけにえを捧げ、勝利を祈願することに、祭司職のサムエルと約束をしていました。ところが七日待ってもサムエルは現れません。 「サウルは、サムエルが定めた日によって、七日間ほど待ったが、サムエルはギルガルに来なかった。それで民は彼から離れて散って行こうとした」(一三・八)。 サウルが王になって以来、彼にはいつも不安につきまとわれていました。民が自分を王として認めてくれるだろうか。この劣等意識が、周囲の目を鋭くさせ、結果的に彼は追いつめられたように自分でいけにえを捧げてしまいます。「神の時」を待てないのです。民を前にして早く決着したい、早く結果を出したい、とばかり考えて、神の御心がどこにあるのか考えることができませんでした。まして神に絶対的な信頼を置くことができません。 サムエルは、そんなサウルにあえて「おあずけ」をしのではないでしょうか。あえて彼を待たせたのでしょう。その間に、彼の信仰が目覚めることを願っていたのでしょう。彼に神を恐れる気持ちが明確になるのを見たかったのでしょう。 神が沈黙されるとき、すなわち私たちが待たされるときに、はじめて信仰が練られるのです。長い七日間でした。サウルにしてみれば、永遠に感じる七日だったのでしょう。 私はサウルに同情します。それは私も、人生何が苦手かと言えば、待つのが苦手だからです。 私は一〇年前の夏インドの神学校で教鞭を執りました。慣れない食事と環境に病気をして入院しながらのことでした。当時は今よりも一〇キロ痩せていましたから、そから病気でまた三キロ痩せて、精神的にもぎりぎりでした。帰国の朝、神学校全員が宣教師館の前に来てくださり、そこから見送られて空港に行きました。見送られて空港でお別れしたのはいいのですが、ハイデラバードから飛んでくるはずの飛行機が当地の嵐のために到着しません。六時間空港で待って、何とかバンガロールからマドラスには飛んだのですが、その時点で乗り継ぎのシンガポール行きを逃してしまいました。 マドラスのホテルに泊まって、ひたすらシンガポール便に空席が出るのを待つのですが、何しろ週に二便しかありません。毎朝、一番にオフィスに行きます。その時点で外の気温は四〇度以上でした。だんだん現金が底をつきます。毎日、効き目のないエアコンの部屋でぼーっとテレビを見るくらいです。空席が出るまで五日、猛暑のマドラスに缶詰でした。祈っても、祈りが不平になります。それは私にとっては、永遠に感じるような五日でした。そしてあの時の私には、この「待つ」ということが信仰のレッスンになりませんでした。 私は帰国して教団に報告する機会を得ました。こうしたトラブルを聞いた後、当時教団の責任者であった朝比奈先生が、ひと言おっしゃいました。 「一人でよくがんばった。でも、このインマヌエルを創設された蔦田次雄先生は、戦争中、弾圧を受けて、三年半東京拘置所で生活されたんだよ」 蔦田先生は、その孤独な、どこまで待ったら良いのか分からない拘置所生活で真の信仰を鍛えられ、終戦後、インマヌエル綜合伝道団を独立独歩、神のしめしによって創設されました。 待つことで、信仰は鍛えられるのです。それは信仰は本来、待ち望むものだからです。ですから信仰は、それ以外の方法では鍛えられないと言っても過言ではないでしょう。 私たちはせめてサウルの物語から学ぼうではありませんか。早く結果を出したいと、自分の出来映えを気にしたサウルは、信仰を鍛えるどころか、勝手に職分を超えて、祭司のまねごとをしてしまいました。そして待てないサウルは、「困り切った」はてに、変装して、霊媒師を訪ねます。王としてのサウルの生涯、その始まりに待つことができずに失敗し、それから先も忍耐を学ぶことはなく、王としての生涯最後も、待つことができずに失墜していきます。 主よ、私たちは待つことができますように、どんなことがあってもあなただけを待ち望むことができますように。
「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の望みは神から来るからだ。 神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私はゆるがされることはない。 私の救いと、私の栄光は、神にかかっている。私の力の岩と避け所は、神のうちにある。 民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神は、われらの避け所である」(詩篇六二・五〜八)。
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