2004 元旦礼拝 一粒の種の力 マルコ4:1−20
昨年12月から、この年のために与えられた霊的なビジョンがありました。それは、神の国の原点に戻る、ということです。そして神の国の原点は、一粒の蒔かれた主のみことばという種にある、ということなのです。このビジョンは、それは、クリスマスのために黙想を作っているときに与えられました。あの忙しい12月に、世の中はクリスマス騒ぎです。しかし私たちは、どのように迎えればいいのだろうか。そう思いながら、聖書を読んでいたとき、改めて考えさせれたのです。それは、クリスチャンにとって、神を信じる者にとって、すべての祝福は、みことばから始まるということです。もし、祝福が、みことばから始まっていなければ、それが神の祝福であるかどうかも、私たちはわからない、といっても過言ではないでしょう。みことばという種は、神の国においてそれほど、決定的なのです。一つの種の力です。
●収穫か種まきか
今日見ていただいたのは、神の国のたとえと呼ばれる聖書の箇所です。イエスさまの福音の第一声は、「時は満ちた。神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい」です。神の国は近づいた。いや、イエスさまは、神の国はもうそこに、あなたがたの中に来ているのです、ともおっしゃっています。 しかし、そこといわれても、いるのは漁師だった弟子たち、取税人、病人、群衆。彼らの頭の中は「?」でいっぱいです。神の国って、どんなものなのだろう。その力は、その支配者は、その影響力は?――具体的に何も見えてこないのです。 当時の人々には神の国のイメージがありました。ダニエル7:13−14「私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、……この方に、主権と光栄と国が与えられ、諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、彼に仕えることになった」。 しかし、目の前にいらっしゃるイエスさまは、雲に乗ってきたのではない。王たちは、ひざまずかない。イエスさまのおっしゃる神の国と、彼らのイメージが違うのです。 さらに違うことがあります。「神の国がやってくる」「神の口が近づいた」ということについて、人々は特有のイメージを抱いていました。それは、収穫です。ヨエル3:13「かまを入れよ。刈り入れの時は熟した。来て、踏め。酒ぶねは満ち、石がめはあふれている。彼らの悪がひどいからだ」。 神の国がやってくる=収穫の時が来た。裁きの時です。鎌が入ります。毒麦は捨てられる。実を結んでない穂は焼き捨てられる。神の国がやってくれば、すべて決着がつくのです。ローマ帝国は追い払われ、散らされたユダの民は集められ、収穫の喜びがやってくるのです。 神の子が天の雲に乗って、天の軍勢と共にやってくる、そして世界の収穫が始まる、というのが人々の期待していたことです。ところが、イエスさまは、ここでまったく違ったたとえを説明されました。神の国がやってくるというのは、収穫とは逆の、種まきだというのです。「えーっ」というくらい、イメージは正反対です。救い主が馬小屋に生まれる、というぐらいイメージは正反対です。 種まきです。私は種蒔きのイメージは一つしかないのです。普段見たことがありません。インドの神学校の斜め前が大きな畑でした。最初行きましたとき、一面土色、山も道路も建物も人も土色。広大な土地を、痩せた牛と痩せた人が耕している。来る日も来る日も。一面、でこぼこになったあたりで、トラックがやってきて重そうな麻袋を道路脇に積み上げていきます。これが種です。それからひたすら待つのです。雨が降るのを。雨期にはいると、その種入れの袋を抱えて、人があるいて畑に種を蒔くのです。やがて、見渡す限り緑になります。 さて、神の国が私たちの中で成長し、御国の祝福でいっぱいになるためには、3つのことを覚えておきたいのです。
●14節「種を蒔く人は、みことばを蒔くのです」 なんと、神の国は、イエスさまが蒔いてくださるみことばに始まるものでした。雲に乗って、天の軍勢を従えてくるのではありません。奇跡と力に始まるものでもありません。 私たちはともすると、神の祝福を,種まきではなく、収 穫のように期待してしまいます。祈ったことがすぐ解決するように、願ったことがすぐにかなえられるように、努力もせず、働くこともせず、それが実現するように、天の軍勢が降りてきて、全部片を付けてくれるように。 しかし、イエスさまはおっしゃいました。「わたしの働きはすべて、わたしの祝福はすべて、みことばという種からはじまる」。神の国でのすべての祝福は、そのおおもとをたどっていけば、小さなみことばに行き着く。逆を言えば、みことばに行き着かないのなら、わたしの祝福ではない、ということになります。 この年、信仰者の原点にしっかり立とうではありませんか。「主を、おことばをいただかせてください」。まず、みことばをください。神の国の種をください。それを育てる喜びを教えてください。そのような気持ちで、日曜日の礼拝を一週間の原点にしたい。
●蒔かれたみことばは、どのように受け止められるか、私たちの心で決まる。
3節「良く聞きなさい」。9節「聞く耳のあるものは聞きなさい」。良く聞くとは、ひと言で言えば、信仰をもって聞くということです。それをイエスさまは、たとえ話の中で具体的に説明してくださいます。ある種は、道ばたに落ちて、サタンが持ち去っていく。サタンは、みことばという種の力をよく知っています。それが根づくことがないように、ぼーっとしているとあっという間に持ち去ります。 ある種は、岩地に蒔かれました。最初は喜んで受け入れているのですが、17節「根を張らないのです。困難や迫害が起こると、すぐにつまずきます」。 みことばが、日常に根を張っていく。アメリカのスウィンドルという牧師が、子どもとのやりとりを興味深く話しています。当時彼は忙しくて、食卓では上の空、あわてて食べて食事を喉に詰まらせて、終わると書斎に飛んでいく始末。いつもどこかイライラしていたというのです。ある晩、夕食の後に小さなお嬢さんが話しかけてきました。早口で、「お父さん聞いて、話しがあるの。ちょっ とだけ良い、なるべく早く話すから」。 慌てて話しを始める娘に向かって、お父さんは言いました。「おいおい、コーリーン、もっとゆっくり話していいんだよ」するとお嬢さんはこう言いました。「じゃあ、お父さん、ゆっくり聞いてね」。その言葉に、先生は自分の生活スタイルを深く反省したそうです。ゆっくりとじっくりと聞かないと、話す方も話せない。まして、話の内容は心にとどまらない。 みことばの種が根を張る、ということは、ゆっくりと聞く、じっくりと思い巡らさなければ、不可能です。 ある種は、成長しましたが、19節「世の心遣いや、富の惑わし、そのほかいろいろな欲望が入り込んで、みことばをふさぐ」というのです。言われなくても分かっている、と言いたくなるほどです。 先日、テレビで見ました。ロバート・カプフェーシュミットという81才のおじいさんが、セスナ機着陸に成功した、という話しです。1998年、52才のベテランパイロットに載せてもらっている途中、パイロットが心臓発作でとつぜん息絶えてしまいます。傾いていく飛行機の仲でおじいさんは必死で操縦桿をにぎって、無線機をもって、助けを求めました。やがて、別の飛行機が、この飛行機の横を飛びます。そして、その指示一つ一つを確認して、始めて操縦桿をにぎったおじいさんは、無事にセスナ機を着陸させます。おじいさんは、注意深く、無線機から聞こえる言葉を確認して、その通りに動くことに全神経を集中させます。 なぜでしょう? その指示にいのちがかかっているからです。自分では、飛行機を飛ばせないからです。真剣です。そこに、世の心遣いや富の惑わしが入る余裕はありませんでした。そんなみことばに対する真剣さが、いまの私の人生に求められていることを強く感じます。
●神の国が私の中で成長して行くには、種に対するイエスさまの圧倒的な自信がある。
種であるみことばが、信仰ある心の中に落ちたとき、神の国はそこから、絶対に芽を出していく、という自信です。27−29節「夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実がはいります。実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです。」 この圧倒的な神の力への自信は聖書にあふれています。パウロはコリントの教会の人々に言いました。私が種を蒔いて、アポロが水をやって、しかし育ててくださったのは神です、と。パウロはピリピの教会の人々に言いました。あなたがたのうちに良い働きを始められた神は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成してくださることを私は堅く信じているのです。 それはすべて、種であるみことばの力、そのみことばが育つようにはかってくださる神の恵みです。私たちの成長は、イエスさまの圧倒的な自信に支えられています。「大丈夫、そうこうしているうちに、育っていくのだ」と主はおっしゃいます。 聖餐式は、イエスさまの圧倒的な自信への招きです。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲むものは、永遠のいのちを持つのです、との主の圧倒的な自信に招かれ、今朝、すべての罪汚れからきよめられ、新しい心となるために、聖餐の恵みにあずかりましょう。
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