「見つけるまで捜す神」(たとえ1) 2004.1.4 ルカ15:1−7
今年、しばらくイエスさまのたとえ話を共に学んでいきたいと計画しています。その一番最初に、ルカの福音書15章を開きました。私たちが最もなじんでいるイエスさまのたとえの一つでしょう。たとえは3つでてきますが、今日はその二つを扱います。いずれも神さまと人間の関係を描いたものです。 人間――それは、神の御前から失われた、迷いでた存在です。あるべき姿から迷いでて、正しいと思う道からはずれて、羊のように迷いでて、しかし自分で帰ることもできないず、傷つきおびえている羊です。銀貨のように失われ、しかしだれにも顧みられることなく、汚れて端に縮こまっているのです。いったいいつからか、どの曲がり角を間違えたのか。そして神――それは、失われた私たちを捜し求る神です。 このたとえほど、人間と神さまとの関係を見事に描いているものはない。それはある意味で、イエスさまの御生涯を描いていると言ってもいいでしょう。そこに見るものは、二つです――「神の決意」、そして「神の愛」です。
●神の決意――見つけるまで
99匹を野原に残してまで、それほどの犠牲を強いても探します。そこら辺をぐるりと捜して、名前を呼んで、そろそろ暗くなってきたし、安全を考えて捜索打ち切り、ではなく、「いなくなった一匹を見つけるまで」探し歩くのです。 見つかると、その羊をかついで帰ってくると記されていますから、羊は岩場に足を取られていたのか,崖を降りて、上がって来られなかったのか・・・ともかく羊飼いは、羊がはまりそうな危険な場所を中心に捜したことでしょう。 銀貨の場合はどうでしょうか。灯りをつけて、家を履いて、見つけるまで「念入りに」捜すと記されています。 私たちが、このたとえで一番びっくりするのは、ここまでして捜し出そうとする神さまの情熱です。適当なところで切り上げたらいいのに、諦めたらいいのに。何しろ、羊はまだ99匹いるんですよ。銀貨は9枚残っているのです。イエスさまは「見つけるだで捜し歩かないでしょうか」「見つけるまで念入りに捜さないでしょうか」と尋ねられますが、それを聞く私たちには、どうして、そこまで捜すのか、これが私たちにはわからない、という質問が逆にあがってきます。 この疑問、それがこのたとえの鍵です。 私は2年半前に直樹といっしょにアメリカに行きました。仕事で理事会に行ったのですが,一人でアメリカまで行くのがいやですから、直樹を誘いました。仕事につきあってくれた埋め合わせとして帰りに、ニューオリンズで観光しました。ミシシッピー川沿いの、蒸し暑い、湿地帯のある町。犯罪率の高い町。食事のおいしい町。 滞在して2日目の昼ごろ、ぼくのパスポートが見あたらないのです。「おっかしいな。そこら辺にあるはずだけど。」見なかった、知らない? おまえ隠した? 疲れたらから、後で改めて捜そう、部屋の中全部を捜そう。 それから捜しました。全部の洋服のポケット、スーツケースの隅々、ベットの下、ありとあらゆるところです。そうそう、捜す前に二人でお祈りしました。でも、やっぱり出てこない。「おっかしいな」。息子は、「いいじゃん。そのうち出てくるんじゃない」と慰めてくれます。 「いや、そういうもんじゃないんだよ、パスポートっていうのは、これがないと日本に帰れないわけ。」「いいかい、ようく聞けよ」。それから、私は、説明しました。明後日の朝ニューオリンズの空港まで送っていく、荷物だけは東京までチェック・スルーしろ、ヒューストンで乗り換える、乗り換え時間が少ないから急げ、まずゲートを確認しろ、ぼくは日本領事館に行く、パスポート発行まで3日はかかる。 それから私は、昨日立ち寄ったところに、全部行きました。ホテルのフロント、蒸気船の切符売り場、カフェ、・・・どこにもないです。警察にももちろん行きました。たぶん蒸気で水車を回して前に進む巨大な観光船に乗ったとき、それをふかくのぞき込んだんですが、下向いてのぞいているときいつも胸のポケットにしまっているパスポートが落ちたとしたら、もうどこからもでてこないだろうと絶望しました。 がっくりして、帰ってきて飛行機会社に電話使用と思ったとき、そうだ昨日行ったレストランに電話をしてみよう。悲壮感、焦り、疲れ、諦め、でも、諦められない、最後の最後までがんばります。そして、なんと感しゃなことにそのレストランに、あったのです。 これまでの人生で失ったものはたくさんあります。捜したことも数限りないです。しかし、こんな思いは初めてでした。あきらめるわけにはいかないのです。観光どころではありません。「見つけ出すまで」捜します。おもしろい大道芸人に出会っても、足を止めません。ご飯もおいしくないのです。失ったものを捜す、それを取り返す、それしか頭にないからです。どうしても探し出す、探し出すまでは、という決意 です。 失われた一匹の羊、失われた1枚の銀貨を捜すイエスさまの姿には、まさにそういう集中、情熱、根気、決意があるではないですか。それが不思議なのです。それが独特なのです。なぜそこまでして、と問わなければならないのです。
●神の愛:なぜそこまでして
迷い出た羊のたとえをマタイによる福音書でみてみますと、迷い出たのは、小さいものの一つであったとあります。元々、動物の世界、迷い出るものは、弱々しい、病をもったものです。猛獣の餌食になるのは、そうした弱いものです。いつも群れに迷惑をかける程度で、マイナス面しか持ち合わせていないのです。この弱肉強食の社会で、迷いでた弱い1匹の羊の価値なんて、いくらにもならない。 ここに私たちは引っかかるのです。それは、パリサイ人や律法学者が引っかかった現実です。1節、「なぜ、彼は取税人や罪人などと食事を共にするのか」――どうして、そういう人たちを相手にするのか? いや、もっと不思議なのは、それが見つかったときに、これほど大喜びするか?ということです。近所の人を集めて、いっしょに祝ってくれと、宴会を開くほどの喜びは尋常ではありません。そんなこと私たちはふつうしませんから。天使もいっしょに喜ぶなんて、聖書の中でここだけです。尋常ではありません。 なぜこれほど根気よく、捜すのか。なぜこれほど大喜びをするのか?答えは実に単純ですが、実に不思議です。それは、一匹の羊を、かけがえもなく貴く大切に思っているからです。がパスポートを捜したように、これがなくてはどうしようもない、どうしても見つけたいと思うくらい、大切に思っていなければ、このようには捜さないでしょう。 不思議なのは、それがイエスさまの目に映っているこの私だ、ということです。私なんか、社会の一つの兵隊です。いても、いなくても、どうでもいいかもしれません。小さな家族をもって、小さな人間関係の中で、せめて小さい幸せを保つ。それ以上のことは、分かりません。後は、会社の兵隊となり、社会の歯車の一つの歯となり、いなくなれば、他の人がその変わりに入り。誰も、私に構うものはいない。顧みる者はいない。 どう見てもそれほどの価値なく、どう見てもそれほどの会いに値しない私に対して、神はおっしゃいます。イザヤ43:3「わたしの目には、あなたは高価で貴い」。イザヤ45:4「あなたはわたしを知らないが、わたしはあなたに肩書きを与える」。「えっ、どんな肩書きですか?」「神の子ども、神の家族、神の国の相続人」という肩書きです。取税人にも、罪人にも、私にも、主はおっしゃいます。主よ、どれくらい高価なのですか、どれくらい貴いのですか。「わたしが十字架の上で、いのちを投げ出すぐらい、わたしにとってあなたは大切だ」 「だから、わたしはあなたを捜す、あなたを見つけ出す」。このたとえには、イエスさまの愛が込められています。
この失われた1匹の羊を考えると、私の心に通っている一つの話があります。大きな、有名なベルビュー病院の救急看護室に、一人の男が運ばれてきました。ボウリィーと呼ばれる大都市の貧民街から、喉を切られ、血を流した男が捨てられたように運ばれてきました。ボウリィー区域といえば、麻薬と、孤独と、貧困に付け込まれた都会の片隅です。冬の夜明け前に、この男に何があったのか分かりません。この男の名前さえ、どうでもいいことです。 彼の今の生活は、昔の彼の生活とは、似てもにつかぬものでした。ボウリィー区域は、彼にとっては、行き止まりの道、人生の落し穴でした。一泊500円の宿。ねずみとゴキブリの住処です。一滴の酒を目当てに、這うような生活をしていた彼、しかし、その人生も終ろうとしている。 医者が来て、黒い糸を取ると傷口を縫い始めました。3日たちました。食べ物が喉を通らず、彼はそこで死にます。名前も、分からないまま。やがて、彼の友だち、彼を捜して死体安置所を尋ね歩きます。色のない足の指に番号札をつけられた遺体を友だちは見つけます。持ち物がロッカーの中から引き出されます。汚いコートが一つ。ポケットの中には、800円ぐらいの小銭と紙切れ一つ。「親愛なる友よ、心やさしき友よ」と詩のような言葉書いてありました。 遡ること38年前、この男が、世界の名曲と呼ばれる、詩を書いたのは。私達、日本の子供の唇にものぼります。「オー・スザンナ」・「my old kentucky home」「夢見る人」彼の名は、ステファン・フォースター。誰からも愛されずに、自分の人生を貫き通すことも出来ず、誰にも知られず、死んで行きました。ポケットの中には、未だ自分の可能性を忘れていないかのように、言葉を残して。 「親愛なる友よ、心やさしき友よ」彼の心の叫びです。誰にも聞こえない、誰からも忘れられてしまった心の叫びを、友人は聞いていたのでしょうか。フォスターの羊飼いは、聞いています。羊飼いは、捜しにきます。羊飼いは、抱きかかえて、傷つき、弱り、力尽きた羊を連れて帰ります。羊飼いの、顔は喜びで満たされています。失われていた、愛する羊が、とうとう見つかったからです。
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