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::: 説  教 :::


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Name   T・Y
Subject   9/24 戸塚伝道師:わたしの着物にさわったあなたへ マルコ5:25〜34 
9/24 戸塚伝道師:わたしの着物にさわったあなたへ マルコ5:25〜34 
  ※藤本牧師は安食教会支援のため不在

☆聖書箇所     マルコ5:25〜34

  25ところで、十二年の間長血をわずらっている女がいた。
26この女は多くの医者からひどいめに会わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまったが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方であった。
27彼女は、イエスのことを耳にして、群衆の中に紛れ込み、うしろから、イエスの着物にさわった。
28「お着物にさわることでもできれば、きっと直る」と考えていたからである。
29すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだに感じた。
30イエスも、すぐに、自分のうちから力が外に出て行ったことに気づいて、群衆の中を振り向いて、「だれがわたしの着物にさわったのですか」と言われた。
31そこで弟子たちはイエスに言った。「群衆があなたに押し迫っているのをご覧になっていて、それでも『だれがわたしにさわったのか』とおっしゃるのですか。」
32イエスは、それをした人を知ろうとして、見回しておられた。
33女は恐れおののき、自分の身に起こった事を知り、イエスの前に出てひれ伏し、イエスに真実を余すところなく打ち明けた。
34そこで、イエスは彼女にこう言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」

☆戸塚伝道師の説教     わたしの着物にさわったあなたへ  

それでは、今日はK・T兄に読んでいただきましたマルコの福音書第5章25節〜34節から、「わたしの着物にさわったあなたへ」と題して、3つの場面に分けて、みことばを分かち合いたいと思います。

先ず一つ目の場面――
1)25節、ここにひとりの女性が紹介されています

25節をご覧ください。

   25ところで、十二年の間長血をわずらっている女がいた。

女性は切実な願いを持ち続けていました。
この一人の女性、長血を患っていたという女性。婦人科の病気を抱えておられた女性でした。
詳しいことは解りません。でも長血というこの言葉からわかるように、長い間出血に悩まされる病気らしい。そういう病気らしいです。
しかも十二年間直らぬままであった――そういう病気です。

26節ご覧ください。

26この女は多くの医者からひどいめに会わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまったが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方であった。

「多くの医者からひどいめに会わされていた」――多くの医者です。この女性がかかった医者はみんな藪医者だったんでしょうか?
それとも、この女性自身の持つ何らかの課題に要因があったんでしょうか?
「多くの医者からひどいめに会わされた」――騙され続けたのでしょうか?
それとも、医者や薬への依存度が高くなって、もうず〜っと直らないのに、そのまんま同じ薬を飲み続け、その医者の言う通りにし続けていたのでしょうか?
解りません。とにかくひどいめに会わされた。

そして、「自分の持ち物をみな使い果たしてしまった」―こういう状況になってしまいました。かなりの医療費がかかってしまったのでしょうね。
「自分の持ち物を全部使い果たしてしまう」ような所まで、追い込まれてしまった訳です。

しかし、「何のかいもなく、かえって悪くなる一方であった」と書いてあります。
悪くなる一方、それと反比例するように、強くなる一方だったのは、直りたい、癒されたいという願いでした。

このような状況の中で、この女性はイエスさまのことを耳にしたんですね。
「イエスさまのこと――それは病気を癒す方だ」という噂です。口コミです。評判です。
しかも、それは一人や二人ではない。大勢の人々によって生まれる。
口コミや噂というのは、大勢の人々によって生まれるわけです。
「大勢の人々」あるいは「群衆」――それがここでは一つのキーワードになるのではないかと思います。

ちょっとこだわってみことばを開いていきたいと思いますけれども――
ちょっと戻りまして、マルコの福音書の1章の27節と28節をご覧ください。お読みいたします。

<マルコ1:27〜28>
27人々はみな驚いて、互いに論じ合って言った。「これはどうだ。権威のある、新しい教えではないか。汚れた霊をさえ戒められる。すると従うのだ。」
28こうして、イエスの評判は、すぐに、ガリラヤ全地の至る所に広まった。

「イエスの評判」(28節)が、至る所に広まった――「病気を直す方なんだ、イエスさまは」

<同じ1章の32節〜34節>
  32夕方になった。日が沈むと、人々は病人や悪霊につかれた人々をみな、イエスのもとに連れて来た。
33こうして町中の者が戸口に集まって来た。
34イエスは、さまざまの病気にかかっている多くの人をいやし、また多くの悪霊を追い出された。そして悪霊どもがものを言うのをお許しにならなかった。彼らがイエスをよく知っていたからである。

「町中の者」(33節)とこう書いてあります。

<マルコ1:37>
37彼を見つけ、「みんながあなたを捜しております」と言った。

「みんなが」あなたを捜しております――癒されたくて、癒されたくて、イエスさまを捜している群衆の姿がここに書かれています。

<マルコ 1:45>
45ところが、彼は出て行って、この出来事をふれ回り、言い広め始めた。そのためイエスは表立って町の中に入ることができず、町はずれの寂しい所におられた。しかし、人々は、あらゆる所からイエスのもとにやって来た。

「あらゆる所から」(45節)イエスさまの所に来た様子がここに書かれています。

<マルコ2:2>
2それで多くの人が集まったため、戸口のところまですきまもないほどになった。この人たちに、イエスはみことばを話しておられた。

「多くの人が集まった」とこう書いてあります。

<同2:13>
 13イエスはまた湖のほとりに出て行かれた。すると群衆がみな、みもとにやって来たので、彼らに教えられた。

「群衆」という言葉がここに書かれています。

<同3:7〜8>
   7それから、イエスは弟子たちとともに湖のほうに退かれた。すると、ガリラヤから出て来た大ぜいの人々がついて行った。また、ユダヤから、
8エルサレムから、イドマヤから、ヨルダンの川向こうやツロ、シドンあたりから、大ぜいの人々が、イエスの行っておられることを聞いて、みもとにやって来た。

ここにも「大ぜいの人々」「大ぜいの人々」ということが書かれています。

<同3:10>
10それは、多くの人をいやされたので、病気に悩む人たちがみな、イエスにさわろうとして、みもとに押しかけて来たからである。

「病気に悩む人たちが、イエスに触ろうとして、押しかけて来た」――こう書いてあります。

<同3:20>
   20イエスが家に戻られると、また大ぜいの人が集まって来たので、みなは食事する暇もなかった。

ここにも「大ぜいの人」という言葉が書かれています。

<マルコ4:1>
1イエスはまた湖のほとりで教え始められた。おびただしい数の群衆がみもとに集まった。それでイエスは湖の上の船に乗り、そこに腰をおろされ、群衆はみな岸べの陸地にいた。

「おびただしい数の群衆」と書かれています。

そして5章になります。5章の21節。

<マルコ5:21>
   21イエスが舟でまた向こう岸へ渡られると、大ぜいの人の群れがみもとに集まった。イエスは岸べにとどまっておられた。

ここにも「大ぜいの人の群れ」とあります。

<同5:24>
24そこで、イエスは彼といっしょに出かけられたが、多くの群衆がイエスについて来て、イエスに押し迫った。

この状況の中で、今日お読みしました25節が始まるわけです。
この女性はそのような噂、そのような口コミ、評判、それを耳にしたわけです。
「病気をいやす、奇跡を行う人――イエスという方」――多くの人々はそれを求めてついて行ったわけです。
癒されたい、癒されたいという、そういう強い思いでついて行きました。
この女性もその内の一人だったということがわかります。

イエスさまのことを耳にしたとき、女性はこう思ったでしょうね。
イエスというお方ならば、私をひどい目には会わせない。私のこの病気もきっと癒してくださる癒し主に違いない――そう期待したと思うんですね。
この女性の願いは半端なものではありませんでした。切実なものでした。
十二年間も苦しみ続け、騙され続け、ひどい目に遭って、そして最後の拠り所としてイエスというお方の所へ行く。
わらをもつかむような思いで、イエスさまを捜して、そしてやっとイエスがこちらにやって来るという、そういう状況に遭遇したんだと思うんですね。
まさにこの女性にとって、苦しい時の神頼みでした。苦しい時の神頼み。

この苦しい時の神頼み――この女性にとって、二つの要素が入っていたと思います。
一つは完璧なご利益信仰――病気の癒し――このピンポイントのお願いです。
「病気を治してほしい。十二年間直らなかったこの病気を直してほしい」
ご利益信仰には、ピンポイントのお願いが付きものですね。
なぜならご利益そのものがピンポイントだからです。
学業成就というご利益は湯島天神。安産祈願と言ったらば水天宮。交通安全と言ったらば成田山。家内安全、商売繁盛、無病息災、とげが刺さったら巣鴨のとげぬき地蔵(大笑)。
ピンポイントのご利益。

苦しい時の神頼み――この女性、もう一つの特徴は、何の根拠もない思い込みの信仰でした。
(マルコ5章)28節をご覧ください。

28「お着物にさわることでもできれば、きっと直る」と考えていたからである。

「お着物にさわることでもできれば、きっと直る」と考えていた。
イメージ・トレーニングをしていたのでしょうか?
自分がイエスという方の着物にでもさわるだけでも直るという、そういうイメージ・トレーニング。
この「考えていた」という所に欄外注がありまして、きっと直ると「言っていた」と書いてあります。言っていた。
ということは、「お着物にさわることでもできれば、きっと直る」と、ず〜っと言い続けていた。
「お着物にさわることでもできればきっと直る、お着物にさわることでもできればきっと直る、お着物にさわることでもできればきっと直る……」呪文のように言い続けていた。そういうような何の根拠もない、思い込みの信仰だったわけです。

ところで、女性はなぜ「触ることでも……」と考えていたのか、想像してみました。
私は男性ですから想像だけなんですけれども、きっと婦人科の病気を抱えていらっしゃるこの女性にとって、男性のイエスという方にはお話ししたくない。
「イエスという方に直接関わりたくはない。この病気が癒されればそれでいいんだ」と思って、「触るだけにしておこう」と思っていたのかもしれない――そう想像するんですね。

2つ目の場面です――
2)この女性はついに行動に移しました

(マルコ)5章の27節をご覧ください。

27彼女は、イエスのことを耳にして、群衆の中に紛れ込み、うしろから、イエスの着物にさわった。

群衆の中に、大ぜいの人々の群衆の中に紛れ込んだ――沢山いたんでしょうね――紛れ込んだというのは。
そしてイエスさまに気づかれないように、イエスさまの歩いて行かれる後ろから、イエスさまの着物に触った。
いよいよこの日が来た。掴んだのかもしれない。触った。
「お着物にでも触わることでもできれば、きっと直る」、触った、そしたらば、29節――

29すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだに感じた。

触った瞬間、即効で出血が止まりました。ひどい痛みが直りました。それをからだに感じました。
この女性は十二年間もの間悩まされ続けていた持病の長血が、一瞬にして癒されたことを体験したわけです。
「わあぁ、直った!私の病気が直った!十二年間悩んでいた病気が、この瞬間イエスさまの着物にさわったら、直った!病気が癒された!」

イエスさまによる瞬間的な癒しというのは、今でも起こります。
って、私(戸塚伝道師)が断言していいのかどうかわかりませんが、私見たからです。

(戸塚伝道師)、若い頃、信仰にものすごく燃えていました。今は燃えていないかも知れないが(大笑)、ま、燃えていました。過激な位に燃えていました。
もう、日本のリバイバルだとか言って、教会学校のリバイバルだとか言って、徹夜でお祈りしたり、断食したりして燃えていました、青年たちと一緒に、多摩川の河原に行って、徹夜でお祈りしたり。

その過激だった時に、かつてある集会に行ったんですね。
集会に行って――超教派の癒しの集会に行ったことがあるんです――講師は癒しの賜物を持っている人。
壇上に、「癒されたい人、前に出て来てくださ〜い」と言われて前に出て来て、沢山の人が壇上に、車いすの人だとか、色々な病気を抱えている人だとかが壇上に出て来て、そしてその講師の先生がお祈りしました。
「イエス・キリストの御名によって、(声を大きくして)病の霊よ、出ていけ!二度とこの兄弟姉妹に触れるな。立ち去れ!イエス・キリストの打たれし傷のゆえに、あなたたちは癒された〜」という風に宣言したら、
そこにいた壇上の人の中のある一人が「あ〜ああ〜」って、声を上げたんですね。
目が見えなかった方が目が見えた。耳が聞こえなかった方が聞こえるようになった。
そうしたらば、車いすに座っていらした方が立ち上がった、そして歩き回ったっていう、それを私見たんですよ。
サクラだったんでしょうか?(大笑)解りません、それは。でも見たんです。見たんです。
へぇ〜すごい。そして、(両手を挙げて)「癒されました〜ハレルヤ〜!」って言って、こう(両手を合わせ叩きながら)拍手が起こる。
「すばらしい。癒しは今でも起こるんだ」って、過激だった私(戸塚伝道師)はもっと過激になって(笑)、「病は癒される、病は癒される」
現に私の父の癌も癒され、私の母の癌も癒され、実際に私の過激な信仰がうそじゃないことがわかって、「あぁ癒されたんだ。癒されたんだ」

実は癒しは今でも起こるんですよね。起こるんです。
だから高津教会でもお祈りしているわけですよ。
高津教会でもお祈りしています。本気になってお祈りしています。癒しを。
瞬間的に癒されるかどうかは、それはわからないけれど、本気で信じているから祈るわけです。
H姉の癌のステージ4でも、「癒される確率が1%であっても、神さまの力と高津教会のファミリーのおかげで、必ず癒される。1%に自分は入れる自信がついた」と言って、この間(先週9/17)も証しされたそうですけれども、
ひたすら癒されることを私たちは信じて、H姉の癌が奇跡的に癒されることを、私たちは祈りたいと思います。
H姉は「2018年を迎えたい」と言っています。「息子さんの結婚式に出たい」とも言っています
その願いを叶えてあげようではありませんか!(大笑)私たちは本気で祈ります。癒しを信じて。

この聖書に出て来たこの長血を患っていた女性にとって、
「イエスさまの着物による病気の癒し」というご利益は100%あったわけです。
癒されたわけです。確かに癒された。
「私は癒された」――で、ここで一件落着。長い闘病生活とはおさらば。
この女性としては、これですぐ家に帰るはずだった。
「あ、よかった。癒されて」帰るはずだった。

ところが、(マルコ5章)30節ですよ。

30イエスも、すぐに、自分のうちから力が外に出て行ったことに気づいて、群衆の中を振り向いて、「だれがわたしの着物にさわったのですか」と言われた。

イエスさまはあることを感じたんです。すぐに――自分の中から力が出て行ったことを感じた。

考えて見れば、この女性の癒され方って異例ですよ。
福音書にある多くの癒しの物語は、イエスさまが病める者を見て、その訴えを聞いて、憐れまれ、そして癒しのわざをなされるわけです。
そして癒された人はそれに感謝した。群衆はそれを見て感動した。
そこに何らかの交流があるわけです。イエスさまと、癒された人と、群衆と。

しかし、今回のこの物語には、それが全くないということがわかります。
イエスさまは誰を癒したのか、全くご存じなかった。
イエスさまはこの女性を癒してあげよう、という意志さえもなかった。
だってわからないわけですから。
それであるのに、癒しの力だけが勝手にイエスさまの中から出て行って、この女性を癒したわけです。
その力はイエスさまから出て行きました。それをイエスさまは感じられました。
だから、誰かが癒されたということだけが気づかれた。

ここから3番目の場面に移ります。
30節後半に――
3)群衆の中を振り向いて、「だれがわたしの着物にさわったのですか」と言われた。(マルコ5:30後半)

と書いてあります。
「だれがわたしの着物にさわったのですか?」――たまたまわたしの着物に触れた人は、あるいは着物に当たった人は、群衆の中に沢山いる訳です。
イエスさまは歩いて行かれるわけですから、群衆の中を。
もしかしたら興味本位で触った人がいるかもしれない。小さい子どもなんかは、なんかこうやって(笑)触ったかもしれないし、イエスさまのファン、追っかけみたいな人は、ず〜っと触りっぱなしで(笑)ついて行ったかもしれない。
だから弟子たちは言いました。31節――

31そこで弟子たちはイエスに言った。「群衆があなたに押し迫っているのをご覧になっていて、それでも『だれがわたしにさわったのか』とおっしゃるのですか。」

なんでイエスさまはそんなことを聞かれるんだろう――弟子たちはそう思ってこういう風に言ったんでしょうね。
でもイエスさまは、弟子たちに「だれがわたしにさわったのですか」と聞かれた。
このイエスさまの質問は、もしかしたら、本当は弟子たちに投げかけたものじゃなかった。
「だれがわたしの着物にさわったのですか?」
「着物にさわることでもできれば、きっと直る」と考えている「誰が」、わたしの着物にさわったのですか?
切実な思いで残された1%の可能性に期待して、わらをもつかむような思いをしている「誰が」、わたしに触ったのですか?
女性は、その「誰が?」という言葉の中にイエスさまから自分に問いかけられているのではないかという響きを感じたのかもしれません。

そして、その時イエスさまの次の仕草を見ていたのかもしれません。
32節――

32イエスは、それをした人を知ろうとして、見回しておられた。

だれが私の着物に触ったのですか?だれですか?だれですか?だれですか?あなたですよねぇ?あなたですよね?
女性はすぐ、その場を立ち去ることができなくなりました。33節――

33女は恐れおののき、自分の身に起こった事を知り、イエスの前に出てひれ伏し、イエスに真実を余すところなく打ち明けた。

これは33節に、女性を主語とする4つのことが起きています。
@女は恐れおののき
――恐ろしくなり、震えながら。ほかの聖書の訳では「驚き、恐れおののいて」と訳されています。癒された喜びが、自分は癒されたという喜びが、恐れに変わってしまったのです。
どんな恐れでしょうねぇ。は〜ぁ、見つかっちゃった〜という恐れかもしれない。あ〜ぁ、見つかっちゃった〜、この群衆のど真ん中で、見つかっちゃった。
A女性は自分の身に起こったことを知った。
――癒された体験は、否定できない事実でした。
B女性はイエスの前にひれ伏した。
――恐る恐る、震えながら、群衆の視線を浴びるただ中で、ひれ伏した。
「あなたは癒し主です。噂通りの方です。まことに医者です」
Cこの女性は、イエスに真実を余すところなく打ち明けた。
――真実、ほかの訳を見ますと、「すべてありのままを」と書いてありました。
すべてありのままを――「私は十二年間長血の生活をず〜っと続けていました。多くの医者にひどい目に遭わされました。多くのお金もみな使い果たしてしました。悪くなる一方でした。でもあなたの噂を聞きました。病気を直してくださるお方です。私は着物にさわることでもできるならと考え、きっと直ると信じて触ったんです」――真実を、ありのままを、この女性はすべてイエスさまに打ち明けました。

すると、34節――

34そこで、イエスは彼女にこう言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」

イエスさまは「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです」と仰った。
「あなたの信仰があなたを直した」――「病気を直したのは、わたしじゃないよ」とイエスさまは仰った。
「わたしではないよ。わたしの愛でもないよ。わたしの力でもないよ。
あなたの信仰。あなたを癒したのは、あなたの信仰なんだよ」
イエスさまはこの女性にそう仰ったんです。

ではこの女性の信仰とは、いったいどういう信仰だったのでしょうか?
それは病気の癒し、ご利益を求める信仰でした。
おまじない的な思い込みの信仰でした。
直す相手は誰だかわからない信仰でした。
ただ病気を癒すという噂だけを聞いているだけで、行動した信仰でした。
着物でも触れば、きっと何とかなると思っていた信仰でした。
そして病気さえ直ればそれでいいと思っていた、そういう信仰でした。
これがこの女性の信仰でした。

何か信仰について正しい教理を求め、それに従うのが信仰だと考える立場から言えば、
とても立派な信仰だとは言えない、そういう代物です。
彼女にあるのは、「病気を癒してください」というこの願いあるのみだったんですよ。
「それがあなたの信仰、そんなあなたの信仰であっても、それがあなたを直したのですよ」とイエスさまは仰った。
「安心して帰りなさい。病気にかからず、健やかでいなさい」――これはもう大丈夫だよ、元気でね、というような意味だったかと思うんですね。もう大丈夫だよ。元気でね。

この時、この女性とイエスさまの間に人格的な関わりが生まれました。
本当の意味で、この女性がイエスさまと出会った瞬間でした。
「安心して帰りなさい。病気にかからず、健やかでいなさい」というこの一言、
「あなたの信仰があなたを直したんですよ」というこの一言、
この女性には、病気が直ったのとは違う喜び、ご利益があった時だけの一時的なものではないそういう喜び、イエスさまと出会い、関わり、交流が深まる喜びがあることを知ったんですね。

9月10日のオリーブのコンサート、私(戸塚伝道師)は出たかった〜(悔しそうに)。
もう後ろ髪を引かれるような思いで新幹線に乗った。
静岡に近づけば近づくほど、後ろ髪が引かれる(ご自分の左手で後ろ髪を引っ張る顔に大笑)。
なんでこんな日に静岡に行かなくてはいけないんだろうか?って。

このCD買いました?私(戸塚伝道師)は四六時中聴いています。
四六時中聴いている。もうこの曲が頭の中で鳴り響いている位。
私、オリーブの曲で支えられました、家内が怪我をして入院していた一か月間。
オリーブの「マナ」というアルバム、あれを聴きっ放しでした。
オリーブのCDで支えられていた。

そして今回、これは星野富弘さんの詩とコラボレーション。
最初は「ちょっと物足りないんじゃないの?いつものオリーブにしては」失礼なことを申しますけれど。
でも聴けば聴くほど、じわ〜っと味わい深いんですよ。なぜか?星野富弘さんが作詞者だからですよ。
まるでオリーブって、星野富弘さんの詩に曲をつけるために神さまから召されたんじゃないか(笑)と思われるくらいに、ぴったりとしたすごいコラボレーションなのですよ。

そして最後、一番最後に「花は静かに咲く」という、そういう歌があるんですね。
小柳姉がトリを務めている(笑)、小柳姉作曲のそういう曲なんです。
星野さんの詩はこうあります。

            花は静かに咲く

                 悲しくて花を見れば 花はともに悲しみ
                 うれしくて花を見れば 花はともによろこび
                 こころ荒れた日花を見れば 花は静かに咲く

悲しくて花を見れば 花はともに悲しみ
悲しくて花を見れば――「私が慰められる」じゃないんですよ――花はともに悲しみ
嬉しくて花を見れば 花はともに喜び
嬉しくて花を見れば――「感謝の気持ちが湧いて来る」じゃないんですよ――花は共に喜び
こころ荒れた日花を見れば 花は静かに咲く
こころ荒れた日花を見れば――「心に平安が与えられる」じゃなくて――花は静かに咲く

花を見れば、私に何かが起こるんじゃないんですよ。
花が共に、花の方から私に近づき、私に出会い、私に関わり、交流してくれる――それが星野さんの実感ではなかったかと思うんです。

                  悲しくて花を見れば 花はともに悲しみ
                  うれしくて花を見れば 花はともによろこび
                  こころ荒れた日花を見れば 花は静かに咲く

この女性は病気の癒しを求めていました。
それは決して悪いことではありません。
12年間にわたる切実な願いでした。
イエスさまの着物にどうしても触るんだ、という強い願望がありました。
しかし、イエスさまはこの花のように、女性との出会い、人格的な関わりを求めておられました。
32節には――

32イエスは、それをした人を知ろうとして、見回しておられた。

「イエスはそれをした人を知ろうとした」と書いてあります。
私のことを知ろうとされるイエスさまです。
そして、私に近づき、出会い、関わり、交流されることを求めるお方です。
イエスさまは今も、私たち一人ひとりに問いかけておられる。
「わたしの力を求めるだけではなく、わたしと一緒に人生やりませんか?」
「わたしと話し合いませんか?」「わたしと一緒に食事しませんか?」
「その問題、わたしに任せてくれませんか?」
「わたしはあなたのためにこの世に人となって来たのです。わたしの十字架ですべてが完了しましたよ。もうわたしはあなたと一緒ですから、大丈夫ですよ」

私とともに悲しみ、私とともに喜び、私の心が荒れた日、静かに花のように私の心に咲いてくださる、そういうイエスさまがすぐそこにいらっしゃる。
このようなイエスさまと一緒の人生の喜びを、心の底から本当に体験する時、
イエスさまが一緒にいる人生の喜びを、心の底から本当に体験するならば、
病気が直るかどうかというのは、ある意味では、どうでもよくなるのかもしれません。
イエスさまとともに毎日そこはパラダイス。パラダイス。

H姉の癌の癒しのためには、本気で祈っていますし、これからも祈ります。信じて祈ります。
でもHさんの腹の据わった喜びに輝く信仰は、イエスさまと一緒にパラダイスを物語っています。
福音の力は妹さんをも変えました。
妹さんは(※カナダ在住・最近中国で再会した時の話)以前こう仰っていたそうですねぇ?
「お姉さん、お姉さんがもし直ったら、私はもうすぐ教会に行く」
でもこう変えられたそうですね。
「もうお姉さんがどうなっても、私は神さまを信じたい」
「死の恐れはなくなりました。高津教会の皆さんの祈りの声がいつでも聞こえます」と仰るH姉です。
すばらしいと思います。
このような生き方に変えられることこそ、イエスさまからの本当のご利益、最高の喜びです。
イエスさまは言われます。
「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。安心して帰りなさい」

☆お祈り――戸塚伝道師

イエスさま、感謝いたします。十二年間も苦しみ続けたこの女性のように、私たちもわらをもつかむような切実な思いで、あなたにひたすらお願いすることがあります。
それは時には、自分の強引な身勝手な信仰の表れかもしれません。それでも憐れみのゆえに、あなたはそのような信仰にもかかわらず、祈りに答えてくださるお方です。ありがとうございます。

しかしイエスさま、あなたは「願いが叶った」「叶わない」という現象だけで、一喜一憂するような関係を望んではおられないことに気づかされました。あなたは何よりも私のことを大切に思ってくださり、私たち一人ひとりに関わりたい、もっと深く交流したいと招いておられることを感謝いたします。

あなたと共に歩むことこそ最高の喜びとするような人生を、私たちも味わう者としてください。今週もどうぞよろしくお願いいたします。イエスさまのお名前でお祈りいたします。アーメン。

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