☆聖書箇所 ゼカリヤ3:1〜10
1主は私に、【主】の使いの前に立っている大祭司ヨシュアと、彼を訴えようとしてその右手に立っているサタンとを見せられた。 2【主】はサタンに仰せられた。「サタンよ。【主】がおまえをとがめている。エルサレムを選んだ【主】が、おまえをとがめている。これは、火から取り出した燃えさしではないか。」 3ヨシュアは、よごれた服を着て、御使いの前に立っていた。 4御使いは、自分の前に立っている者たちに答えてこう言った。「彼の汚れた服を脱がせよ。」そして彼はヨシュアに言った。「見よ。わたしは、あなたの不義を除いた。あなたに礼服を着せよう。」 5私は言った。「彼の頭に、きよいターバンをかぶらせなければなりません。」すると、彼らは、彼の頭にきよいターバンをかぶらせ、彼に服を着せた。そのとき、【主】の使いはそばに立っていた。 6【主】の使いはヨシュアをさとして言った。 7「万軍の【主】はこう仰せられる。もし、あなたがわたしの道に歩み、わたしの戒めを守るなら、あなたはまた、わたしの宮を治め、わたしの庭を守るようになる。わたしは、あなたをこれらの立っている者たちの間で、宮に出入りする者とする。 8聞け。大祭司ヨシュアよ。あなたとあなたの前にすわっているあなたの同僚たちは、しるしとなる人々だ。見よ。わたしは、わたしのしもべ、一つの若枝を来させる。 9見よ。わたしがヨシュアの前に置いた石。その一つの石の上に七つの目があり、見よ、わたしはそれに彫り物を刻む。――万軍の【主】の御告げ――わたしはまた、その国の不義を一日のうちに取り除く。 10その日には、――万軍の【主】の御告げ――あなたがたは互いに自分の友を、ぶどうの木の下といちじくの木の下に招き合うであろう。」
☆説教 キリストの義をまとう
旧約聖書のゼカリヤ書を開いていただきました。 ゼカリヤは預言者です。 神さまに逆らった神の民イスラエルが再び神さまの所に戻って来ます。 で、ゼカリヤはそのメッセージを携えていました。 メッセージはとってもストレートで、1章の3節をちょっと見てください。ゼカリヤ書の1章の3節。3節をちょっと一緒に声を合わせて読んでみたいと思います。
<ゼカリヤ1:3> 3あなたは、彼らに言え。万軍の【主】はこう仰せられる。わたしに帰れ。――万軍の【主】の御告げ――そうすれば、わたしもあなたがたに帰る、と万軍の【主】は仰せられる。
これが預言者ゼカリヤに託されたみことばでありました。 神さまのところに帰ろう。そうすれば神さまもあなたがたのところに帰る。 神は荒れ果てて廃墟となっているエルサレムの神殿を再建するということを決意されました。 1章の16節にちょっと目を留めていただきたいと思いますが――
<ゼカリヤ1:16> 16それゆえ、【主】はこう仰せられる。『わたしは、あわれみをもってエルサレムに帰る。そこにわたしの宮が建て直される。――万軍の【主】の御告げ――測りなわはエルサレムの上に張られる。』
この「神殿の再建」「神の栄光が再び戻って来る」というメッセージをゼカリヤは与えられたんですね。 この再建の責任を担う人物というのが3章の1節に出て来ます大祭司ヨシュアです。彼がこの再建の責任を担います。
ある晩ですね、このゼカリヤ書を記した預言者ゼカリヤは幻を見ました。 それは神の宮の再建の責任を担う大祭司ヨシュアが、神さまの前に立たされているという夢なんです。 よく見ますと、なんと大祭司ヨシュアの隣にサタンが立っている。 こういう表現は、聖書の中に何カ所かあります。 これがま、思惟的な、詩的な表現なのか、それともそのままなのかっていうのはちょっとわかりませんが、しかしサタンが神の前に立つという場面がないわけではない。 それは、私たちの人生を見るとよくわかるんですが。
よく見ますと、夢の中で、そのサタンが大祭司ヨシュアの隣に立ち、何のために立っているのか?それは大祭司ヨシュアを訴えるために立っているんですね。 大祭司ヨシュアのことをサタンは告発しています。 2節の一番最後――初めの部分はあとで見ますので――2節の一番最後を見てください。
2……「……これは、火から取り出した燃えさしではないか。」
というのは、サタンが神に向かってこの大祭司ヨシュアについて言っていることです。 「こいつは火から取り出した燃えさしではないか」「燃えさしではありませんか?」 3節に象徴的に表されていますね。
3ヨシュアは、よごれた服を着て、御使いの前に立っていた。
「火」というのは火事だと思ってくださっても結構です。 イスラエルは神さまのみこころに逆らうこと長く歴史を積み重ねて来ました。 そして最後にとうとうバビロンによって滅ぼされ、バビロンに連れて行かれるということは神のさばきがイスラエルに下った。 都は滅び、神殿は火を放たれ崩され、城壁も壊され、そして町全体に火が放たれます。 火というのはエルサレムにも放たれ、また火のような試練を捕囚の地バビロンで彼らは経験いたしました。 「火」っていったい何なのか?それは民の罪の歴史と神のさばきでありました。
そこから、生き残りであるかのように出て来た大祭司ヨシュア。 「火から取り出された燃えさしに過ぎない」 「火事現場から拾って来た、もうすすだらけの木片に過ぎないではありませんか」と、サタンは神の前でヨシュアを非難しています。
で、この場面から3つ、三点(あの、三つと三点は同じですね、に大笑)三つご一緒に勉強したいと思います。 先ず第一番目に――
1)サタンは告発者です
サタンというのは責めます。 黙示録の12章10節を、ちょっと余裕があったら、ゼカリヤ書を手で挟んでおいていただいて――黙示録というのは聖書の一番最後の書物ですので開きやすいです――12章の10節、ちょっとご一緒に読んでみたいと思います。
<黙示録12:10> 10そのとき私は、天で大きな声が、こう言うのを聞いた。 「今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現れた。私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。
というのは、終わりのときに、サタンが投げ落とされた(***9節)のです。 で、このサタンはどのような存在なのか?それは「告発者。日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者」という風に表現されています。
サタンはまず私たちを誘惑します。罪の道へと引き込んでいきます。 罪の道へと引き込むことが、サタンの目的である。 でもその目的はそれでは終わりません。 罪の道へと引き込んでおいて、今度はその罪を感じた私たちを責め立てて非難する、というのがサタンです。 自分で引きずり込んでおいて、最後の瞬間に私たちが主の御前に立つ時に、サタンは現れて、私たちを非難します。 「神さま、こいつは汚れた奴です。こんな奴はクリスチャンとは呼べません。こんな奴は赦しや恵みを受ける価値がありません」 欲、憤り、嫉妬、権力、プライドに誘い込んでおいて、いざ私たちがそれにはまりますと、最後にそれを責め立てて行くのが、告発者サタンです。
告発というのは、聖書の中で何回か、こう場面として出て来ます。 ▽例えば創世記で、ノアが一日の労働を終えて、そして酒に酔って自分の天幕で裸で寝ていたという場面があります。 ハムという息子がそれを見て、笑いものにしました(***創世記9:21〜23) 普段は威厳をもって振る舞っている父親ですが、普段は正しい者として生きている父親ですけれども、しかし裸で酔っぱらって寝ている。 彼は兄弟たちを呼んで来て、そして笑いものにしようとしました。 「いいざまだ」と。――そのように暴き立てるというのは、サタン的です。
▽イエスさまが広場で教えていた時に、パリサイ人が姦淫の女を引きずり出して来て、ま、 「こいつを現行犯で捕まえました。旧約聖書の教え通りに、石打ちでこの女を殺してしまいましょうか?」と。(***ヨハネ8:1〜11) これも同じように、暴いて責め立てて行く、サタン的な姿勢です。
▽イエス・キリストの使徒ユダがイエスさまを売り渡します。銀貨30枚で売り渡します。 彼はそれを後悔しました。そして神殿に戻って行って、祭司長、長老たちに言います。 「私は罪を犯した。罪のない人を売り飛ばしてしまった」 その時、彼らは逆にユダを責めます。 「私たちには関係ない。それはおまえがしたことだ。おまえが自分で、自分のしたことは責任を取って始末しろ」 そしてユダは自殺をします。(***マタイ27:3〜5) ユダを利用するだけ利用しておいて、最後はユダを責める、これも同じようにサタン的です。
私たちは皆、「火から取り出した燃えさし」です。 これはキリスト教の歴史の中で、この言葉を一番頻繁に使ったのは、ジョン・ウェスレーという人物(***英・1703〜1791メソジストの父)ですが、 彼はあまりにもこの言葉が気に入り「自分の墓にこの言葉を刻んでほしい」と言います。 彼はどうしてそんなにこの言葉を気に入っていたのか?
それは幼い頃、あのエプワースという(町で)――彼のお父さんが牧師(英・国教会の司祭)でありましたから――牧師館が火事になりました。 彼はまだ幼稚園生ぐらいの時に、村の人々に助け出されて、その燃える火事の中からようやく何とか生きたまま救い出された人物で、彼はそのように 「あなたは火から取り出された、ぎりぎり助かった燃えさしなんだよ」という風に教えられて来たんでしょう。
でも神さまという方は、その燃えさしを使うんですよ。 燃えさしを用いるんですよね。
最近火事現場っていうのはあんまりないんですが、高津のすぐ裏に材木屋がありまして、以前その一部が燃えたという出来事がありました。 その燃えた臭いというのは、200〜300メートルぐらい離れているんですけれども、もうす〜ごく、しますよね。 そして一週間、二週間先に現場を見に行って、ああ、なるほどここが燃えたんだという、その臭いというものは、そのすすの黒さというのはものすごいじゃないですか。
「臭う。汚れている。真っ黒だ。何の使い道もない」――主の御前で、私たちはそのような者にしか過ぎない者です。 「自分は主の働きにふさわしくない」――サタンが大祭司ヨシュアを責めている時も、ウェスレーが自分自身を自覚している時も、私たちがこのみことばを自分に当てはめる時も同じく、自分は主の働きにふさわしくない。 乏しく、貧しく、罪深い。自分は火から取り出された燃えさしに過ぎない。
パウロも何度も同じように繰り返していますね。 「私は罪人のかしらです」(***Tテモテ1:12〜15) 「私は月足らずで生まれた者に過ぎません。使徒の中で、使徒と呼ばれる資格もなく、かつて教会を迫害していました」(***Tコリント15:8〜9) でも、それをパウロが語る時、それを私たちが語る時に、「こんな罪人のかしらに過ぎない、火から取り出した燃えさしに過ぎない私を、神は選び、用いてくださる」という所に力点が行くんです。
私たちは罪の中から救い出されました。誰一人として、神の前に立てるような恰好ではありません。未だに匂いもすすも染みついています。 それをサタンは、今更のように責める。 しかし、サタンがそれを非難した時に、神は、逆にサタンを責めています。 (ゼカリヤ書の)3章の2節ですね。
2【主】はサタンに仰せられた。「サタンよ。【主】がおまえをとがめている。エルサレムを選んだ【主】が、おまえをとがめている。……」
「そのように大祭司ヨシュアを責めるおまえ、そのように私たちのことを責める告発者であるサタンよ。わたしはあなたをとがめる。わたしが責めるのは、あなたの方だ。なぜなら、わたしはこの火から取り出した燃えさしを、選んで、救い出して、用いようとしているからだ」
2)そばに立っていた御使いが言います。
4節をご一緒に読んでみたいと思います。ゼカリヤ書、3章4節です。
4御使いは、自分の前に立っている者たちに答えてこう言った。「彼のよごれた服を脱がせよ。」そして彼はヨシュアに言った。「見よ。わたしは、あなたの不義を除いた。あなたに礼服を着せよう。」
そして頭には、5節、「彼の頭に、きよいターバンをかぶらせなければなりません。」
キリストはこのようにして、私たちが神の前に立つのにふさわしい礼服を着せてくださる。 きょう私たちは聖餐にあずかるときに、よごれた服を脱がせる。汚れた服は脱がないといけない。 汚れた服の上に礼服は着れない。汚れた服を主の前に脱ぐ。 すると、主はご自身の義である、キリストの十字架の恵みそのものである、真っ白な礼服を私たちに着せてくださるんですね。
この「礼服」というイメージも、聖書の中に何度も出て来ます。 神さまというお方は、私たちの洋服を作ってくださるお方です。 聖書の中で、神が一番最初に憐れみを示されたのは、何だったでしょうか? 一番最初に憐れみを示されたのは、それはエデンの園で――罪犯して自分たちの姿に恥じているアダムとエバ――この二人にその裸を覆う着物を用意してくださったのは神さまです。(***創世記3:21)
神さまがその毛衣を用意してくださる前に、アダムとエバは自分たちで用意したのは、せいぜいいちじくの葉をつづり合わせて、恥ずかしいと思った部分を覆うに過ぎませんでした。 そして木の間に、彼らは身を隠しておりました。 アダムとエバも解っていました。自分たちはふさわしくない姿で、神の前に立つことはできない。 だからいちじくの葉で何かつづり合せて、そして木の間に身を隠しているんです。 神さまは彼らを呼び出しました。そして彼らの罪を指摘されました。 でも最後に、神さまは彼らのために毛衣を作って――これが一番最初の憐れみの行為です――そして彼らの裸を覆っておられます。
ここ(ゼカリヤ3章)で「御使い」とありますが、3節に――
3ヨシュアは、よごれた服を着て、御使いの前に立っていた。
「御使いは言った」というのは、私たちは旧約聖書を新約聖書の視点から読みますので、これはキリストだなぁとわかります。 キリストは私たちを弁護してくださるお方であります。イエスは仰いました。 「あなたの汚れた服を脱ぎなさい。わたしはあなたに、『わたしの十字架の義』という真っ白な礼服を着せよう。 見よ。わたしはあなたの不義を除いた。あなたに礼服を着せよう」と、4節の最後に出てまいります。
今朝私たちは、聖餐の恵みにあずかり、神の御前に立とうとしています。 私たちが神の御前に立つ時にそれは厳粛な瞬間で、以前の式文にありましたね。 「ふさわしくないまま聖餐にあずかる者は、自らに裁きを招く」という、コリントの手紙(Tコリント11:27〜29)ですけれども、しかし、私たちは躊躇することはないです。 聖餐は恵みの機会です。 私たちの不義を除いてもらって、神の前に立つのにふさわしい恵みを受ける機会です。 イエスさまは仰いました。 「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます」(***ヨハネ6:54)。
サタンは罪を非難します。 でも聖書によると、聖霊は私たちに罪を確信させる(***ヨハネ16:8)。 非難するのと確信させるというのは違います。 サタンが罪を責める時に、その目的は、私たちを傷つけ、私たちが神の恵みから遠ざかるように仕向けることです。 聖霊が私たちに罪を確信させる時、その目的は、私たちが神の恵みにあずかるように、キリストのもとに来るようにと、聖霊は私たちの罪を確信させます。 サタンは罪の責めの中で私たちを滅ぼそうとさせ、聖霊は私を罪の責めから救い出そうとして、罪を確信させ、イエス・キリストのもとに導き出して行かれます。
「私はふさわしくない」――そう考える人に、ウェスレーはこういう風に記しています。 ふさわしくない――ふさわしくなるのを待っていたら、あなたは一生聖餐にあずかることはできません。 聖霊は汚れた着物を示して、私たちを責め立てていることを止めさせる。 聖霊は汚れた着物を示して、 「だからこそ、キリストの礼服を着なさい」とそう仰るのが聖霊だと。
3)それから主は、大祭司ヨシュアを励まされました。
(ゼカリヤ3章)6節、7節、一緒に読んでみたいと思います。
6【主】の使いはヨシュアをさとして言った。 7「万軍の【主】はこう仰せられる。もし、あなたがわたしの道に歩み、わたしの戒めを守るなら、あなたはまた、わたしの宮を治め、わたしの庭を守るようになる。わたしは、あなたのをこれらの立っている者たちの間で、宮に出入りする者とする。
いいですか。よ〜く、よ〜くこのことばを見てくださいね。 「主の使いは」というのは、イエス・キリストだって申し上げましたね。 イエス・キリストは私たちをさとして仰る。 「万軍の【主】はこう仰せられる。もし、あなたがわたしの道に歩み、わたしの戒めを守るなら、あなたはまた、わたしの宮を治め、わたしの庭を守り、わたしの宮に自由に出入りするようになる」
一言で簡単に申し上げますと、どういうことだと思います?それは―― 「礼服を着せていただいたのなら、それにふさわしく歩みなさい」 『キリストの義』という礼服を着せていただいたなら、わたしの道を歩みなさい。 わたしのみこころに心を留め、その中を歩みなさい。 そうすればあなたは、わたしの宮を納めるようになる。わたしの庭を守るようになる。わたしの宮に自由に出入りするようになる。 「礼服を着させられている者にふさわしく、歩んだらどうか?」 とキリストは私たちに優しくさとしておられる、ということを忘れてはいけないですね。
数年前、戸塚先生の神学校の入学式でありました。 で、私は祝辞を頼まれ、院長と一緒に壇に上がり、祝辞を述べ、入学式を終え、壇を下がった時に、大先輩である東京フリーメソジスト教会の野田秀(のだ・しげる)先生(1932〜)が一番前に座っておられましたので、野田先生に挨拶に行きました。 そしたら、野田先生がほめてくださったんです。 「先生、その歩く姿勢がよかった!」って(大笑)。私は(藤本牧師)は、「えっ、歩く姿勢ですか?」(大笑) 野田先生は私の祝辞が良かったとは、一言も仰らなかった(大笑)。 「先生の歩く姿勢に私は感動した」と言うくらい、えっ、こんなおじいさんの先生が私を捕まえて、どうしてそんなことを言うんだろう?と。 実は行進して壇上に上がる者は上がりますが、私(藤本牧師)が一番先頭で上がって行くわけですよね。そして、一番最後に私が降りていくわけですけれども、 「先生の歩いている良い姿勢、それに私は感動しました」と言われて、複雑でございましたけれども(大笑)、でも悪い気持ちはしませんでした。
それは私は喘息でありますから、小さい頃からもう猫背なんですよ。猫背だけは直らない。 それがどうしてそんなにほめられたんだろうと、私なりにその時考えてしまったんですね。 どうしてそんなに人から歩き方がいいという風にほめられたんだろうか? 私(藤本牧師)はその時自分のベストスーツを着ていたんです(大笑)。ベストスーツを。 これはある方に買っていただいたんですが、ベストスーツというのは、教団の年会とクリスマス礼拝と元旦礼拝にしか、そして結婚式にしか私は着ないんです。 でも最近だんだんお腹が出て来たんで、もうこのままだと着れなくなってしまうかもしれない(大笑)。 だから普段のいい時には、できるだけ積極的に着ようと思って、私はその入学式の時に着たんですよね。
皆さんね、皆さんもそうだと思う。このスカーフをしている時に、このセーターを着る時に、いやこのジーンズを履く時に、ちょっと自分は背伸びをするという一品を皆さん持っておられると思う。 あるいはこの傘を持っておられる時、このカバンを手にしたとき、この車に乗った時、皆さんはその時、少しだけladies & gentlemen になるんですよ。 言葉使いも違う。そして恐らく、その姿勢も違うんですよね。 聖書は、「キリストの恵みにあずかる」ということ、その事実を、「キリストの礼服を着る」という風に表している。
で、私たちはほとんど自覚がなければ、自分の好き放題。 でももしキリストの礼服を着ているなら、私たちはもう少し主のみこころに適ったladies & gentlemen になるんです。 で、その主の道を歩み、そしてそういう人は「わたしの宮を治め、わたしの庭を守り、私の宮に自由に出入りする」というこの約束を覚えて、今日の聖餐にあずかりたいと思います。
☆お祈り――藤本牧師
恵み深い天の父なる神さま、私たちは「火から取り出された燃えさし」に過ぎません。サタンに告発される前に、自分ですでにその自覚があります。しかし、尊いのはあなたは敢えてその燃えさしを選んで、その燃えさしを用いることを決めてくださいました。私たちが自分が取り出された穴を見る時に、それがいかにも無残であるということがわかります。
しかしあなたはアブラハム一人を召し、一人を祝福し、用いられたように、私たちを同じように用いてくださることを心から信じています。どうか主よ、私たちを憐れんで、今日も聖餐の恵みにあずかることを許してください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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