☆聖書箇所 ガラテヤ3:1〜5
1ああ愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に、あんなにはっきり示されたのに、だれがあなたがたを迷わせたのですか。 2ただこれだけをあなたがたから聞いておきたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。 3あなたがたはどこまで道理がわからないのですか。御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか。 4あなたがたがあれほどのことを経験したのは、むだだったのでしょうか。万が一にもそんなことはないでしょうが。 5とすれば、あなたがたに御霊を与え、あなたがたの間で奇蹟を行われた方は、あなたがたが律法を行ったから、そうなさったのですか。それともあなたがたが信仰をもって聞いたからですか。
☆説教 宗教改革(1)ルターによる福音の再発見
10月31日が宗教改革の記念日でありますので、私(藤本牧師)は10月はあと二回ぐらいしか説教がないんですが、宗教改革について少し考えていただきたいと思い、そしてガラテヤの3章を開いていただきました。 M兄に読んでいただきましたが、1節と3節を一緒に読みたいと思います。1節を私が読みますので、3節を皆さんが読んでみてください。
1ああ愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に、あんなにはっきり示されたのに、だれがあなたがたを迷わせたのですか。 3あなたがたはどこまで道理がわからないのですか。御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか。
マルチン・ルターは宗教改革者として、一番最初の讃美歌を1523年、宗教改革を始めて5年後に作りました。 まだまだ中世の詩がついていますので、ちょっと私たちには歌いにくい。 それが今朝私たちが歌っていただきました、今月の讃美歌の200番です。ちょっと開いていただけませんでしょうか? (※「教会福音讃美歌200番 深き悩みより」を開く)
これは日本キリスト教団の「讃美歌21」でありましたら168番になりますが、1節に願わくば歌詞の方を見ていただきますと、こうなります。 「深き悩みより われはみ名を呼ぶ」 ルターが詩篇130篇から取ったこの歌です。 1 深き悩みより われはみ名を呼ぶ 主よ、この叫びを 聞き取りたまえや。 されど、わが罪は きよきみこころに いかで耐え得べき。
2 世にある人々 力の限りに 主の道を求め いそしみ励めど 神のみ恵みに ふさわしき者は ただ一人もなし。
というのが、宗教改革の原点です。 で、ルターはこの130篇の「深き悩み」というものを、自分自身の修道士としてのたましいの苦悩に重ねてこの讃美歌を作りました。
キリスト教会の教えは、初代の教会が終わるころから、つまり4世紀に入る頃から徐々に、修道院、また修道の道を重んじるようになります。 十字架を信じても、最終的に聖徒にふさわしく生きることによって、私たちは天国に入るんだという考え方が浸透していくようになります。 迫害の時代が過ぎて、キリスト教がローマ帝国の国教になりますと、信仰者が迫害もなく、ま、私たちのようにだらだらと(笑)普通に生きていますことに不安を感じる。 こんなんでいいんだろうか?と。 そこで、修道院での修道が始まります。 この世に紛れて、妥協を繰り返してはいけない。よりきよい生活を追求するために、厳しい苦行を自分に課し、また無理な善行に励むようになります。
その頃、出て来た考え方が「償い」(つぐない)でした。 「償い」ってどういうことでしょうか?罪を犯して良心が痛んだら、教会に行って、司祭に告白します。 司祭はイエス・キリストの十字架のゆえに、私たちを許してくださいます。 「赦免」と言いますが、あなたは罪を告白し、《キリストの十字架のゆえにあなたの罪は許されました》という宣言を私たちは受けます。 でも、許してもらっても、罪を犯した相手に対する「償い」が生じるでしょう。 また、同じ罪を二度犯さないように、心に刻むために、「償い」が求められます。 いや、もちろん、償うことができない罪もあります。
すると、ルターのように良心の感性の鋭い修道士であればあるほど悩みます。 苦行をさらに自分に課すようになります。 自分の罪を意識し、自分は「償い」をしなければいけない。 《許されたんだけれども、その代わりとして「償い」をしなければいけない》という思いに、出れば出る程苦行に走り、 ルターは托鉢(たくはつ)僧でありました。 自分たちで食事は作らない。町に出て行って、そして乞食のように食事をもらうという、その自分の空しさを痛感するために、托鉢をする修道院に彼は入りました。
では、修道院に入ることができない普通の私たちは、いったいどうしたんでしょうか? それが、「贖宥状」に飛びつきます。 「贖宥状」、ま、例えば《償うことができない人でも何世代にも亘ってすべての罪を償うことができる》と言ったのは、ローマ教皇の教えで、《それは十字軍に行きなさい。そうしたらすべての罪は償える。》 十字軍に行ったら、帰って来れないかもしれませんよね(笑)。で、例えば貴族であれば、教会にすばらしい像を献品したり――あるいは私たちがヨーロッパに行った時に見ることができるすばらしい絵画、壁画がありますけれども――あれはみんな貴族が自分の罪の償いのために、十字軍に行けない自分のために献品したわけですね。
どんどんどんどん、時代は貨幣文化に変わって行きます。そしてお金がものを言うようになります。 そして、ドイツにグーテンベルグの活版印刷機というものができますと、この「贖宥状」以前は「免罪符」と呼びました。 私(藤本牧師)が高校の教科書では「免罪符」と書いてありましたけれども、今では「贖宥状」と呼びますが、これを大量に印刷してその販売が始まります。 「贖宥」というのは、償いを免れるという意味です。 これを大量に購入すれば、十字軍に行かなくても、また多大な犠牲を払って教会堂の修復に献金しなくても、なんとかなる。
そして時代はペストの大流行で、ヨーロッパの全人口が三分の一に減ってしまったという程、死が身近に感じている中、死の恐怖を覚えて、みんな「贖宥状」に飛びつきます。 償いの行為ができなかった自分の両親のために、幼くして亡くなってしまった自分の子どものために、家族の分も全部含めて、贖宥状を購入いたします。
皆さんが今ローマに行きましたら、必ずその観光コースにバチカンがありますし、 バチカンのミケランジェロ、ラファエロ、ルネッサンス、そしてシスティーナ礼拝堂。 その正面に「最後の審判」の壁画がうわ〜っと広がっていますが、システィーナ礼拝堂は、システィスというローマ法王が建てた礼拝堂です。自分のために。 そういう礼拝堂を次から次に建てて行くために、この贖宥状のお金がものを言いました。
で、ルターはわかっていました。 「よく考えて見なさい。そんな贖宥状を購入して、どうにかなるのがあなたの罪なのか?」 これが先程の「福200 深き悩みより」の1節に――
1 深き悩みより われはみ名を呼ぶ 主よ、この叫びを 聞き取りたまえや。 されど、わが罪は きよきみこころに いかで耐え得べき。
どんなに贖宥状を購入しても、「わが罪は 聖きみこころに いかで耐え得るべき」
2 世にある人々 力の限りに 主の道を求め いそしみ励めど(***十字軍に行ったとしても、と説明) 神のみ恵みに ふさわしき者は ただ一人もなし。
「ただ一人もなし」というこのルターの苦悩。
2)この苦悩をパウロは(ガラテヤ書の)3章の1節で、「愚か」と言いました。
ルターはこれを「たましいの叫び」と呼び、パウロはあっさりと、「人は愚かだ」と言います。 マルチン・ルターは、1517年宗教改革を始める前に、ヴィッテンベルグの大学で、詩篇を講義し、(ロマ書を教え、)ガラテヤ書を講義していました。 そしてだんだん福音というものが解るようになりました。 そして3章の1節の「ああ、愚かなガラテヤの人たち」というのは、自分のことなんだということが解るようになります。
何がそんなに愚かなのか?それは(ガラテヤ3章)3節に出てまいります。 「御霊で始まったのに、今になって肉で仕上げようというのか?」 というのは、イエス・キリストの十字架を信じて救われたのに、今更罪の償いを重ねていく人生というのは、まさに自分の人間的なわざで自分の救いを完成させようとする愚かさだ。 それが愚かであるということがわかったルターは、苦悩するわけです。 福音とはいったい何でしょうか? ちょっと11節を見てください。これはご一緒に読んでみたいと思います。(ガラテヤ)3章の11節です。
<ガラテヤ3:11> 11ところが、律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。「義人は信仰によって生きる」(***ハバクク2:4、ローマ1:17、へブル10:38)のだからです。
「義人は信仰によって生きる」 私たちが義とされるのは、救われるのは、キリストの十字架を信じる信仰によってのみ。 それ以外のいかなる償いの行為、免罪符の購入も意味はないんですね。
パウロが当時戦っていたユダヤ主義者と、ルターが戦っていた中世の神学というのは、非常に似通っています。 十字架によって救われる。 しかし、その人が正式に神の家族に加わるためには、ユダヤ人と同じように割礼を受け、律法を守らなければならない。 つまり十字架の信仰は入口に過ぎない。問題は赦された後に、あなたがどれほど正しい生活をし、できることなら修道院に入り、それができないのであれば全財産を捧げ、教会堂の修復に当て、それもできないのであれば、せめて力の限り贖宥状を購入しなさい。 ――という風に、だんだんだんだん人間側に救いが傾いていきますよね。
それをルターは(福音ではなくて)「人間の作り事」だと言いました。 私たちは気を付けませんと、人間の作り事的な宗教的な感覚に、はまってしまいます。 福音ではなく、人間の作り事、悪意はないんですけれども、人間は自然にそのようにそういう宗教を作り上げていく。 《もしかしたら、信じるだけでは不十分かもしれない。十字架を信じるだけでは神の子どもになれていないんじゃないだろうか?》――それがいつの間にか、 《神の子どもらしく生きることがあなたを救う》と論理がどんどんどんどんすり替わって行くんですね。
《せめて、同じように罪を犯さないように、あなたは償いをしなさい》が始めだったんです。 《あるいは償うことができない者もあるでしょうから、その時には本当に自分の人生の犠牲を払うために何か特別なことをしなさい》。 特別なことをした人を聖徒と言います。 《その聖徒を礼拝しなさい。そしてその聖徒が積み上げたその償いの行為を、少し自分のものとしてもらうようにしなさい》。 やがて、《贖宥状を購入することが救いで、そのようにして償うことが自分のたましいを救うんだ》という人間の作り事に、どんどんどんどんはまって行ってしまいます。 パウロの言葉で言うなら、「それがせっかく(御霊によって)あなたの救いが始まったのに、いつの間にか、人間の作り事にすり替わっているんだ」(***ガラテヤ3:3)
ルターはもちろんのことながら――次回話したいと思いますけれども―― 「信じるだけでキリスト者の生涯は終わりだ」と言ったことはないです。 信じるまでは、十字架の恵みを信じるまでは、一生懸命自分のたましいの救いのことを考えていた。 しかし救いの恵みをいただいたなら、もはやその自分のたましいの救いというこの執着から解放されて、他の人に仕える者になることができる。 自分のたましいが心配な人は、自分のためにしかキリスト者の信仰生涯を使わない。 でももし自分の救いが確かなものであるならば、今度はそこから隣人のために、自分の人生を用いることができるという、その独特な論理がありますので、それはまた来週話したいと思います。
神の憐れみにすがる信仰者でありながら、逆に、足りない自分を見つめて自分を責めるようになります。 そして自分は十分に償えないという「自責の念」という十字架を背負いながら、神の御前を歩いて行くというのは、ルターにとっては「苦悩」。パウロの言葉では「愚か」。 そしてパウロが言うには、(ガラテヤ)2章の21節を見ていただけません?
<ガラテヤ2:21> 21私は神の恵みを無にはしません。……
というのは、霊で始まった十字架の恵みを信じることによって、救われたにもかかわらず、《どこかで一生懸命自分の罪の償いをしなければいけない》と、そう生きているとしたならば、それはキリストの十字架を無駄にすることだ。 イエス・キリストはせっかく私たちのためにいのちを捨てて、私たちの罪の代価を払ってくださったのに、その十字架そのものを無駄にすることだ。
ルターは先ほど申し上げましたヴィッテンベルグ大学で詩篇を教え、その時に先程の詩篇130篇に自分を重ねたと思いますね。 そしてガラテヤの講義をする中、この「ああ、愚かなガラテヤ人」という――ああ、愚かなヴィッテンベルグの人々、贖宥状を購入して、それでたましいの救いが成り立っていると信じている人々――という風に考えたのでありましょう。
で、ルターが福音の神髄に到達したのは、1517年をさかのぼること3年位前だったと言われています。 神の御前に、決して「よし、これであなたも聖徒の仲間入りだ」と言われるレベルに到底達しない自分。 どんなに罪を告白しても、告白し切れない自分。 どんなに罪を償おうとしても、償い切れない自分。
一生懸命に救いの階段を上りながら、仲間の修道士と比べて、時には優越感に浸り、時には劣等感に浸る。 それ位しか、救いの拠り所がない自分。 どんなに償っても償い切れない、いや自分の信仰者の人生は、ただ償うだけの人生かも知れないと思っていたルターが、先ほどの11節にありますように、福音の神髄に到達します。
<ガラテヤ3:11> 11ところが、律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。「義人は信仰によって生きる」のだからです。
神のみ前に義とされている者は、イエス・キリストの十字架を信じる信仰によって生きる。「十字架を信じる」というのは、キリストの犠牲、いのちを注ぎ出してのキリストの犠牲が、私のためであったということを信じて生きるんだと。 13節を見ていただきますと――
<ガラテヤ3:13> 13キリストは私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである」と(***旧約聖書に、と説明)書いてあるからです。
ここにしか救いの根拠はない。十字架にしか、救いの根拠はない。 罪の赦しも、その償いも、すべてキリストが背負ってくださった。 (ガラテヤ)3章の1節に「あなたがたの目の前に、あんなにはっきり示された、十字架のキリスト」 十字架のキリストから、私たちは目を離してはいけないんです。
これこそが「キリストが十字架において、ご自身のいのちを投げ出して、罪の代価を支払い、キリストが十字架において、私たちの償えない償いを成し遂げてくださったんだ」という所に、宗教改革者は行きます。
神のことばが、ルターのたましいに響いた。 「子よ。安心しなさい。あなたの罪は赦されました。」(***マタイ9:2、マルコ2:5) 「娘よ。あなたの信仰があなたを救ったのです。」(***マタイ9:22、マルコ5:34、10:52、ルカ7:50、8:48、17:19、18:42) イエス・キリストの恵みの言葉が、次から次にルターの心に飛び込んで来るんですね。 その瞬間、聖書全体が全く違う顔つきで自分の前に立ち現れた。
以前、キリストの言葉はみな、自分の救いにとって厳しい厳しいハードルにしか見えなかった。 しかし、いま聖書を開く度に、イエス・キリストの十字架があらゆる角度から私の心に、 「あなたは赦された。あなたの信仰があなたを救ったのです」というその声となって、私に響いて来る。
で、ルターは、聖餐式でなく、説教を礼拝の中心に据えました。これがプロテスタント教会です。 そして、ドイツの人々が読めるようにドイツ語にギリシャ語聖書を翻訳し、そして活版印刷で大量に配り――もちろん字を読めない人もいました。でも説教を聞くことはできる――当時ドイツには礼拝堂の他に、教会堂の他に、説教場というのが町の至る所にありました。 そして重荷を持っている人が説教者を雇って、そして日常的に説教を聞くことができる。 ルターの修道仲間たちが、いっぱいいました。 説教場に立って、そしてこの福音を語るようになります。
さて最後に、私たちがよく知っている「ただ信ぜよ」というのを心に留めて、終わりにしたいと思います。
3)ただ信ぜよ
これはもちろん、宗教改革の4大原則――ただ聖書のみ、ただキリストのみ、それから、ただ信仰によってのみ、そして、ただ福音によって。 ま、5つ目加えますと、バッハが楽譜に書きました「ただキリストの栄光のために」というのが加わる訳ですけれども、 「ただ信ぜよ」というのは、私(藤本牧師)のようなクリスチャンにとっては独特でございます。
昔の讃美歌に「ただ信ぜよ」というのがありました。 今の教会福音讃美歌にないんですよね。(「新聖歌」182番) ”♪十字架にかかりたる 救い主を見よや こは汝が犯したる 罪のため ただ信ぜよ ただ信ぜよ 信ずる者はたれも 皆救われん“ですよね? みな覚えていますよね。私が子どもの頃、この讃美歌がものすごく嫌いでした。なぜなら、これは路傍伝道の時歌う讃美歌だからです。
特伝の日になりますと、確かN兄が大太鼓ですよ。そしてT兄がトロンボーン、Y兄がトランペットですかねぇ。そして神学生の応援を得ながら、ここから始まるんです。 路傍行軍というんですけれども、隊列を組んで、そして神学生か牧師が「リバイバル聖歌〜番」とか言いますと、N兄がド〜ンド〜ンドンで始まるわけです(大笑)。 そして“♪パ〜パカ パ〜パカ パパパ―”で、ず〜っと溝口の駅まで行進するんですよ(笑)。 そして私は牧師の息子ですから、それについて行くわけですよ(大笑)。 チンドン屋でもあんなことやってないですよ(大笑)。チンドン屋だってあんなことやってない。 教会員がなんか二十人ぐらいで、そして溝口のCってパン屋さんの隣で、バスのロータリーですよね、あそこで短い説教をし、私たちはチラシを配る。 しかし、まず最初にやらなきゃいけないのは、人々の目を引くために、そこで10人、15人が讃美歌を歌うんです。 なんとこれを15年前までやっていたんですけれど、止めてよかったと私は思うんですが(大笑)。
あの讃美歌というのは、日本初めての讃美歌作者・三谷種吉(***1868〜1945みたに・たねきち、讃美歌詩人、音楽伝道者)という(日本のキリスト者が作った、宗教改革の神髄)です。 この方は沢山の讃美歌を作っていますけれども、同志社英学校で救いの恵みにあずかり、それからB.F.バックストン(***1860~1946 英国教会宣教師・1890来日)のもとで(霊的)訓練を受けて、彼はアコーディオン一つで日本全国を回って伝道するんです。 偉大な人物です。今でも三谷種吉先生の讃美歌は幾つか残っているはずです。 日本人で讃美歌も曲も残していったというのは、実は三谷先生位しかいらっしゃらないんじゃないですかね?
「ただ信ぜよ ただ信ぜよ 信ずる者はたれも皆救われん」と言いますと、なんかすごく安っぽく感じちゃうんですよね。 安っぽく感じる必要はない。 つまり、神さまはあなたの救いのためにすべてを用意されました。 救いに必要なものはイエス・キリストの十字架で全部完成されています。 ですから、あなたはただ信ずるだけでいいんです。 ただ信ぜよ。ただ信ぜよ。信ずる者は誰も皆救われん。
でも、もうちょっと違う意味合いもあるんです。 ルター的な視点から言えば、「全部神さまが用意してくださった。あなたはただ信ずるだけでいい」という意味ではない。 今日学びましたルター的な視点で言うならば、「ただ信ずる」というのは、ルターのたましいの苦悩の叫びからの結末です。 つまりどんなに頑張っても、どんなに償っても、償い切れない自分がいる。 自分の最大の善行をもってしても、自分の最小の罪でさえ贖うことも償うこともできない。 「ただ信ぜよ」というのは、信ずる以外にあなたが救われる道はない。 だからonly by faith、ソラ・フィーデ(***ラテン語で)、信仰しかない。 「神さまは沢山の恵みを用意しています。だから、せめてそれに応ずる形で信仰、それを信じたらどうですか」じゃないです。 自分は全部のことをやって来た。そして全部のことをやっても、救いの平安は一向に得られることはなかった。 自分が救われるとしたら、ただこの神が定めた、この方法以外にないんだ、ということをルターは解り、三谷先生の讃美歌はそれを表していると言うことができると思います。
☆お祈り――藤本牧師
恵み深い天の父なる神さま、信仰、信仰と安っぽく言う前に、ルターのようなたましいの苦悩を持ちたいと思います。それは私の罪深さ、私の弱さ、平気で人を傷つけてしまう私の愚かさ、覚えていたはずのことをころっと忘れてしまう自分の弱さ、人に迷惑をかける自分の情けなさ、何をとっても私たちで贖うことも償うこともできないのを、どれほどよく知っているのかと、あなた自身が私たちに悔い改めることを求められます。
あなたは本当に私の前で私に向き合ったことがあるのか? その聖なるみこころに答えようとしたことがあるのか? 一度でもいいから徹底的に非力で、徹底的に弱い自分自身を感じてみなさい。病の中で、失敗の中で、どうしようもない自分を感じてみなさい。そうしたら解る。
自分のたましいの救いはただ十字架にかかるのみ。そしてそれ以外の方法で、何らかの埋め合わせをしようとすることは、償いをしようとすることは、到底かなわぬ償いの人生を、一生かかって成し遂げようとする、なんとも惨めで愚かな信仰者生涯になるぞと、パウロが「ああ、愚かなガラテヤ人」と嘆いたように、その愚かしさを私たちは今一度汲み取り、あなたの十字架に対する信頼を全きものとして、完全に信じることができますように。
「イエス・キリストは私の罪のために、その贖い、その償いのために、すべてを背負って、十字架でいのちを投げ出してくださった。それは紛れもなく、キリストが私たちを愛しておられるからです」と。感謝いたします。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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