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::: 説  教 :::


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Name   T・Y
Subject   10/15 宗教改革(2)キリスト者の自由  ガラテヤ5:1、13〜15
☆聖書箇所    ガラテヤ5:1、13〜15

1キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないように死なさい。

  13兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。
14律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という一語をもって全うされるのです。
15もし互いにかみ合ったり、食い合ったりしているなら、お互いの間で滅ぼされてしまいます。気をつけなさい。

☆説教    宗教改革(2)キリスト者の自由

先週に続きまして、10月ですので宗教改革500年。500年という年は二度と来ません(笑)。550年というのはなくて次はま、600年なんでしょうけれども、私たちはそんなに生きているわけではないです。

先週の礼拝では、ルターという人物が、自分のたましいの苦悩から生み出された悔い改め、そして「ただ信ぜよ」という、この「ただ信ずることによってのみ救われる」という福音の神髄に彼は到達した、という話をしました。

彼のたましいの苦悩がなければ、彼の悔い改めがなければ、この「ただ信ぜよ」という「キリストの十字架のみに信頼する」には至らなかったと思います。
どんなに自分を神の御前に正しくしようとしても、することができない。
精一杯の努力をもってしても、最善の努力をもってしても、自分の罪の最も小さなものでさえ贖うことも償うこともできない。
それほどまでに私たちは愚かで、罪深く、聖なる神からかけ離れていることに、ルターは絶望し、
「人が神の前でよしとされるには、私たちの罪を背負って十字架にかかられたキリストを、私の救い主として信じる信仰以外にない」
という(結論に、ルターがたどり着いた)話をしました。

さて、今日はすぐその次です。
キリストを信じて、義とされた人は、どのような生き方をするのだろうか?
何を目標として、何を基準として――これを私たちは考えざるを得ません。
この質問を少しひねった形に変えてみます。

十字架の恵みによって救われ、神によって義とされた人は、どのように生きるのか?
仮に同じことを、ユダヤ教の人々に尋ねてみたら、彼らは間違いなくこう答えます。
「神に御前に正しく生きるとは、すなわち神の御心の現れである聖書の教えに従って、正しい行いをもって生きる」
では、あなたはクリスチャンとして、どう神の御前に生きるのですか?と問われますと、実は多くのクリスチャンがユダヤ教徒と同じように答えてしまいます。
「聖書の教えに従って生きる。聖書の教えの中に神の御心が現されていて、そして聖書の規範に従って生きる」

ところがパウロは必ずしもそうは答えません。
ちょっとガラテヤ2:20を見ていただきたいと思うのですが、ページを数ページ戻していただいて、2章の20節、ご一緒に読んでいただきたいと思います。

<ガラテヤ2:20>
20私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

いま私が――「肉にあって」というのは「この世にあって」――生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によって生きているのです。
信仰は信仰でも応答的ですね。
私のためにいのちを捨ててくださった神の愛に応えて生きる。
応えて生きる。義務ではない。私は神の愛に応えて生きているんだ。
なにしろ、信仰はキリストを捉えました。
そのキリストは私を愛するがあまりにご自身を十字架でお捨てになった――キリストを私たちは捉えた。
つまり、キリストに現された神の愛を私たちは捉えた。ですからこれから先は、この愛に応えて生きるというのが、パウロの答えです。

簡単に3つに分けて、今の論理をお話ししたいと思いますが、まず第一番目に――

1)十字架の恵みが無駄になる時

このテーマは先週も学びました。先週の考え方では――
キリストは私たちの罪のために十字架にかかられた。その贖いも償いもすべて成し遂げてくださったのに、償いを免れるために贖宥状を金銭で購入し、何とかしてもらおうとする行いは、キリストの十字架を無駄にする行為だ――これが宗教改革だったわけですね。
ルターはこの「贖宥状に抗議する95箇条の提題」をヴィッテンベルグの城教会に張りつけて、そして1517年に宗教改革が始まります。

ルターによれば――
そのようにして自分の罪をお金で償おうとする、あるいは聖像聖画を拝んで、聖徒が積み上げた功績を分けてもらって、何とか自分の功績にしようとするような宗教は、人間の作り事である。
その気持ちは解る。自分で何とかしたい。自分の償いの埋め合わせをしたいという気持ちはよくわかる。でもそれは人間の作り事に過ぎない。
もしそういうことをするなら――(ガラテヤ)2章の21節、先週目を留めましたね、「私は神の恵みを無にしません」というのは――そういう行為は神の恵みを無にすることだと。
イエス・キリストの十字架が無駄になる。

さて、その続きを考えますと、神の恵みが無駄になるあり方がもう一つあります。
あ、こうなると、神の恵みは徹底して無駄になるよねと――それも同じように聖書も、ルターも鋭く指摘しました。
その神の恵みが無駄になるもう一つのあり方というのは、それは信仰が信仰の上にあぐらをかいて、その信仰が働きもしない、神に感謝もしない、次の新しい生き方へと繋がらない場合です。

一言で言いますと、「ただ信ぜよ。信ずる以外に私たちが救われる道はない」「自分自身の義を一切捨てて、キリストを信じます」――それで終わり。それでおしまい。
ああ、救われて良かった、これで良かったんだと思って、もう一度もとの自分に戻って行くことです。

皆さん、あることが原因で病院に入院されますよね?
そして入院している間は、ああ、なるほどこういうことがあるから、自分は病気になったんだ。
お医者さんからも指導を受けて「これからは、食生活、適度な運動、いろんなことに気をつけなさい」
治っちゃいますと、ケロリと忘れて(笑)、そしてもとに戻って行きますよね?
私(藤本牧師)なんか、もうほんとに次の日(笑)、元に戻っているというか、あの医者の教えはいったいどうなったんだろうか?と思う位、もとに戻るんですね。
仮にですよ、私たちが毎日そのお医者さんと面会し、毎週そのお医者さんに会っていたら、徐々に徐々に私たちの内側に新しい習慣がついていきますでしょう?

ですから、教会に来られて罪赦されて救われたと喜ばれて、そして二度と教会に来ない人って言うのは――
そのまま退院しちゃいました。二度と教会に戻って来ませんでした。もともと病院嫌いでみたいな(大笑)。
「もともと私は宗教嫌いだった」と言う――「なんであの時、教会に行ったんだろうか?あ、あれは悩んでいたからだ」と。
悩みが解決したらもう二度と足を踏み入れない――それは神の恵みが無駄になる場合ですよね?

ちょっとここから、ルターに入りますけれども――
宗教改革1517年、そして1520年にルターは「宗教改革に大切な三大文書」というのを記します。
ま、記した文書は五つあるんですけど、そのうちの三つが非常に重要で、その中で最も有名なのがあの岩波文庫で薄っぺらで手に入ります。
「キリスト者の自由」という書物です。
ルターと言えば、教科書でも「キリスト者の自由」(と学んだことです)。
その本の中にものすごく重要なコメントが出て来ますので、これ、読みますが、説教の中で何回か繰り返しますので、頭にちょっと入れておいてほしいんですが――

「キリスト者は、すべての者の上に立つ自由な主人であって、誰にも仕える者ではない。(律法なんかに仕える者ではない、と説明)。私たちは、すべての者の上に立つ自由な主人であって、誰にも仕える者ではない(と二度繰り返す藤本牧師)。
でも同時にキリスト者は、すべての者に仕える僕であって、誰にでも仕える者である。誰にでも自由に仕える。自らの主体性をもって、すべての者に仕えることができるのが、キリスト者だ。」

さて、ルターの言うこの「自由」という考えは、どこから出て来たのか?
ガラテヤ書の5章の1節です。O兄に読んでいただきました。ちょっと読んで行きますね。

1キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。

あなたがたは、「自由を得させるために」(解放された)――律法からの自由、償いからの自由、行いからの自由――しかし、ここにとっても安易な考え方が生まれるわけですね?

「そうか、行いからも努力からも自由なんだ。
キリストをただ信じるだけで、律法から解放されたならば、行いから解放されたならば、もう何もしなくてもいいではないか。
努力も関係ない。必死で神へと階段を上る必要もない。すべてキリストが成し遂げてくださったならば、キリストを信じて好きに生きたらいいではないか?」
これがパウロもルターもものすごく危険視していた「自由」の誤った使い方です。

ちょっと5章の13節を見ていただきたいと思うんですね。
この13節、先ほどのルターの「キリスト者の自由」そのままですので、一緒に読んでいきたいと思います。

  13兄弟たち、あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。

自由なんです。ただその自由を「肉の働く機会」というのは、「自己中心な目的」に使わないで、愛をもって互いに仕えなさい。
これがルターの言う「キリスト者の自由」です。
つまり「信仰義認」が「信仰義認」で終わってしまって、信仰の上にあぐらをかいて、この正しい自由の使い方へと踏み出して行かないならば、キリスト者はますますもって惨めになるかもしれない。
大いに自由だと錯覚して、ますますもって罪深い道へと踏み進んで行くかもしれない。
15節に出て来ますね――

15もし互いにかみ合ったり、食い合ったりしているなら、お互いの間で滅ぼされてしまいます。気をつけなさい。

「気をつけなさい」――確かに「自由」は、自分を義とするために、神のみ前で必死で努力を積み重ねるという、この「苦行からの解放」でありました。
しかし、そこから解放されたから、何の努力もせずに、何の修練も積まずに、いつの間にか自分の好きなように生きていたら、自分の欲のままに生きていたら、何のための自由なんですか?――ということをパウロもルターも主張しているわけです。

2)では、その自由は何のために用いるのか?

先ほども既に見ました。13節の最後にあります「愛をもって、互いに仕えるために」、自由を用いなさい。(***パウロの言葉・ガラテヤ書5:13)。
ルターの言葉では、
「キリスト者は、すべての者の上に立つ自由な主人であって、誰にも仕える者ではない。キリスト者は、すべての者に仕える僕であって、誰にでも自由に仕える者である。」

さて、ここからちょっと集中して聴いていただきたいと思うんですが――
「キリストを信じる」と私たちは言います。
しかしそのキリストは、私を愛するがあまりに、ご自身を十字架の上でお捨てになったキリストです。
つまり、キリストを信じるというのは、私に対する神の愛を受け取ることです。
そして自分の努力で自分を義とすることから解放され、自由とされる時です。
でもその時、私を愛するがまでに、ご自身をお捨てになったキリストを信じた時に、
今までとは違うエネルギーが私たちの内側に宿ります――それを聖霊と言うのですけれどもね――
もはや、自分の欲を満たし、自分の幸せだけを追求するエネルギーではなく、14節にありますように、「隣人をあなた自身のように愛する」エネルギーが聖霊によって、この内側に与えられるということを、パウロは強調しているんですね。

ですから5章で、ちょっと5章を見ていただきますと、パウロは連続して言いますね。
16節「御霊によって歩みなさい」
18節「しかし、御霊によって導かれるなら」
25節「もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。」

「御霊」は私たちの内側に宿るエネルギーです。
「キリストの霊」というエネルギーで、もはや私たちは自分の欲を追求し、自分の欲を満たすというエネルギーを、十字架につけてしまう。
5章の26節に「互いにいどみ合ったり、そねみ合ったりして、虚栄に走る」というエネルギーは捨てようと。
それを捨てて、隣人のことを思いやる、神の霊のエネルギー、聖霊のエネルギーを、自分の自由として守ることこそ、キリスト者の自由だ。
それは私たち皆に、実は与えられているのだ。

ず〜っと前にこんな話をしました。
バイオリンの歴史を変えたと言われる天才バイオリニスト、ニコロ・パガニーニ。
彼は自分の生涯を閉じるに当たりまして、自分がず〜っと使っていた愛用のバイオリンを故郷のジェノバに寄贈しました。
それはすばらしかったんですが、しかし寄贈したバイオリンには但し書きが付いていて、
「このバイオリンは誰も使ってはいけない」と(笑)。
その但し書きを付けて寄贈したんですね。

ジェノバ市は、ガラスケースを作って、そこにバイオリンを保管しました。
ところが楽器です。楽器というのは、演奏されずに保管されるだけの楽器、そうなりますと色あせて、虫食うようになり
そして彼の遺言は60年間だけ守られて、1908年、ジェノバ市はガラスケースからこのバイオリンを取り出します。
そして演奏家に貸与され、使われるようになります。

今は毎年パガニーニ・コンクールで優勝した人物が、一年間このパガニーニのバイオリンを弾くことが許されているのではないでしょうか?
バイオリンというのは、聖霊と同じですね。
演奏もされずに、私たちの心のガラスケースの中にしまったままにいておいたら、ましてなるべく使わないようにするならば、どんなにすばらしいバイオリンであったとしても、それは虫食い、やがて色あせていきます。

実はパガニーニのバイオリンでさえ、彼は譲り受けたものなのだったんです。
彼が買ったものではない。だったら誰かに譲り渡せよ、と思いますけれども、彼はあまりにも有名になってしまったがために、それを保管する方向に行ってしまうわけですね。

パウロのあるいはルターの考えは、そのパガニーニの遺言の逆です。
私のためにいのちを捨ててくださった神の愛を受けたならば、それを私自身の内側にしまい込まないで、ましてその自由を自分の欲のために使わないで、「隣人を愛する」ということに大胆に使ったらどうだ?
自由を間違った方に使ってはいけない。
あなたが神の御前に義とされたというのは、もはや自分を義としなければいけないという、この何て言うんですかね、苦行から解放されて、
でもその代わり、人を愛する生き方へと大胆に、自由に踏み出すことができるように、神のエネルギーを私たちの内に宿している。聖霊のエネルギーを内に与えられている。
それを使いなさい。肉のエネルギーではなく聖霊のエネルギーに従って歩みなさい。
欲のエネルギーに走らないで、それを処分してしまいなさい。

ルターが「キリスト者の自由」を記した時に、それがテーマなんですね。
「キリスト者はもはや律法に仕えることはない。
すべての者の上に立つ自由な主人であって、神の子どもですから、誰にも仕える者ではない。
でもキリスト者は、すべての者に仕える僕であって、誰にでも仕える者である」

3)この愛に生きるというこの生涯を、私たちは憧れとしたい。

で、少し、しばらく話をいたします。
「人のために仕える」ということを、私たちの憧れにしたいですね。

私たちの教会はよく献金する教会だと、私(藤本牧師)たち牧師は思っています。
ギデオンの聖書のアピールをしますと、ま、私のアピールがしつこいからというのもあるのかもしれませんが(大笑)、沢山皆さん献金してくださいます。
いつでもそうですね。
昔、N.Y君がケニアに行った時に、カンパでいくつかの袋を持って、
「N君がケニアの病院に奉仕に行くから、みんなカンパしよう。このカンパはもう千円カンパにしよう。《千円カンパ》って名前にしよう。硬貨は要りません。でも千円お願いします」(笑)と言う。
様々な被災地のために積極的に捧げますし、人を送りますし、また皆さん喜んで奉仕に行きますし、主の愛を伝えるためであったならば、教会の中でも外でも皆さんは積極的に動きますし、

しかしこの「愛に生きる」という行動は、実は当時のルター派の教会、17世紀のルター派の教会は、上手に実現することができませんでした。
これはなぜか?
非常に単純で、教会の改革、そしてプロテスタントの確立に一生懸命で、「愛に生きる」行動という所まで手が出なかったんですね。そこまで手が出ないです。

やがて、17世紀(終わりに)、ドイツ敬虔主義という運動が、ドイツで始まります。
詳しくは今日は学びませんが、このドイツ敬虔主義の殿堂と言われたのが、ハレ大学ですね。
このハレ大学が、今ヴィッテンベルグ大学と一緒になって一つの大学になっていますけれども、このドイツ敬虔主義が強調したのが、家庭集会です。
家庭集会――ドイツ国教会の礼拝とは別に、本当に祈りたい仲間、本当に聖書を学びたい仲間が、小さな小さな集会、家庭に集まり、聖書を学び、分かち合いということが始まって行きます。
そしてハレの町に、いくつかの孤児院ができて行きます。病院も。薬局も。貧しい方々を泊める場所も。

当時、ギリシャ語(聖書)を新しく校訂本を作った(***1734)ヨハン・ベンゲル(***ドイツ敬虔主義1687〜1752)という新約聖書の学者がいます。
彼はページの一番上に自分が訳したドイツ語、ギリシャ語から訳したドイツ語、そして下に注解書を書きました。
ベンゲルが『グノーモン』(***1742)という注解書を作って10年後ぐらいですね、
イギリスでウェスレーが同じようにベンゲルのまねをして、自分もまた同じタイプの注解書(***1755新約聖書注解)を作ります。
全然厚さは薄いですけれども、作りました。

このヨハン・ベンゲル、ハレ大学の新約学の教授で新約聖書の研究者です。
でも同時にルター派の教会の監督です。監督というのは、ビショップですね。
それでいて、ハレの町の孤児院の院長ですよ。
一人の人物の中に、聖書を学ぶという学者と、教会全体を牧会するというその行政職と、それでいながら、ハレの中心人物はいつも孤児院の院長を務める。

ベンゲルから100年後、ロンドンで大きな大きな孤児院を始めようとしていたジョージ・ミュラー(***1805〜1898ドイツ生まれ、イギリスで活躍、孤児院経営を祈りによって)は、ハレ大学に留学します。
そして孤児院の経営というものを、ハレ大学で信仰と共に学ぶようになります。

私たちはこういう信仰者の「愛の行動」に憧れます。
憧れを忘れてはいけないというのが、今日の話です。
隣人愛に憧れないクリスチャンはいない、と言わなければいけないです。
どうしたら聖霊に導かれて、少しでも自分の欲を満たすエネルギーから解放されて、隣人を愛するエネルギーに押し出されて生きて行けるか?
これは隣人愛への憧れをいつも心に秘めておかなければいけないんですね。

そして私たちはこの憧れを義務とは絶対に呼びません。
隣人愛はクリスチャンの義務ではない。私たちは自由です。
でも自由に私たちは自分を明け渡して、神に明け渡して、「少しでも隣人に仕えたい」というこの憧れを、私たちは忘れてはいけないですね。

第二次世界大戦、ユダヤ人虐殺の中で、二冊有名な本が生まれました。
一冊はユダヤ人で、当時ウィーン大学で心理学を学んでいたヴィクトル・フランクル(***1905〜1997 オーストリアの精神科医、心理学者)の「夜と霧」という本(1946出版・日本では1956)ですね。
日本人の中でも多くの人がこの本を愛読しますが、心理学者のヴィクトル・フランクルがアウシュビッツを生き延びて(1942〜1945)、アウシュビッツの経験の中から人間の心髄たる心理というものを読み取るこの本は、非常に私たちに勇気を与えます。

でもヴィクトル・フランクルの「夜と霧」よりも、クリスチャンにとってはテン・ブームの「隠れ家」という本の方が有名です。
残念ながらいま昔の訳で、もしかしたら古本屋で手に入るかもしれませんけれども、最近訳されていないですね。

それはオランダに住んでいました時計屋の主人、テン・ブーム(***オランダ人)なんです。
敬虔なクリスチャンで、この時計屋の主人はオランダにナチス・ドイツが入って来た時に、ユダヤ人を自分の家に匿います。
「アンネの日記」ではありませんけれども、秘密の部屋を奥の奥に作りまして、そこにユダヤ人を住まわせます。
ところが、この時計屋の主人テン・ブームは政治犯として捕まってしまいます。そして亡くなります。

娘が二人いまして、コーリー・テン・ブームとべッツイ・テン・ブームですが、この娘の方は1939年にレーベンスブルックの強制収容所に入れられてしまいます。
その後、コーリーとベッツィは強制労働させられ、家畜同様の扱いを受け、持ち物はすべて奪われ、蚤だらけの不衛生な小屋で寝かせられ、食事も家畜の餌のようなものを食べさせられ、過酷な労働を強いられるんですね。
その中で、テン・ブーム姉妹は信仰を失わずに、彼らの希望は「どこにいても主イエスが共にいてくださる」という、それだけです。
残念なことに、ベッツィ・テン・ブームは収容所で亡くなっていきます。

ユダヤ人に自分の家を「隠れ家」として貸してあげたがゆえに、お父さんは捕まって、お父さんは政治犯として死に、
自分たちも強制収容所に入り、妹はやがて栄養不足で死んでしまう。
ところが生き残ったコーリー・テン・ブ−ム(Corrie Ten Boom1892~1983・自伝「私の隠れ場」)お姉さんの方は、戦後「隠れ家」という本を書きます。
それは単純な本で、一言で言ってしまえば、「イエス・キリストこそ、わが隠れ家」。
「神こそ、わが隠れ家」ですね。

つまりこの本には、実に皮肉なタイトルがつけられていまして、それは自分の家を人に貸し、「隠れ家」として自分の家を人に提供し、自分の家を失う。自分の家族のいのちも失う。
しかし、自分の家という「隠れ家」に住んでいたユダヤ人はなんと戦争を生き延びるんですよ。
そのまんま、隠れたまんま、戦争を生き延びて行くんだけれども、自分は父親もまた妹も亡くなってしまう。

でも彼女はそれで良しとします。
英語では“ The Hiding Place”と言いますが――英語の方はもう新しい訳や新版が次から次に出て来ますが――Hiding Place、隠れる場所、「隠れ家」、コーリー・テン・ブームは実感していました。
イエスさまという「隠れ家」を持っているなら、私は地上の家はいくらでも他の人の隠れ家になっても良し――主こそわが「隠れ家」。わが贖い主。主こそわが砦。

私たちは、テン・ブームに憧れるんですよ。
全く憧れないんだったら、クリスチャンを止めた方がいいですね。
憧れるんです。なぜならこのコーリー・テン・ブームのような生き方こそ、イエス・キリストの姿で、イエス・キリストはその愛をもって私たちに「隠れ家」をくださった。
私たちはキリストの「隠れ家」に住むようになった。
ああ、隠れ家が与えられてこれでよかった、ではない。
私たちは、今度はこの世に生きている限り、自分の賜物、自分の時間、自分の労力、自分の持てる物を他の人の隠れ家のために提供することに憧れる。
そしてイエスさまにお祈りするんですね。
「ほんの少しの間でもいいんです。どうか私の持てる物が、周囲の人々に使っていただけるように。
そんな愛のある、愛の憧れのあるクリスチャンにしてください」

☆お祈り――藤本牧師

恵み深い天の父なる神さま、キリスト教の歴史を振り返りますと、まさに自由に、自分の義を打ち立てるエネルギーから解放され、あなたの愛に生きるエネルギーに生かされていった人々を私たちは見出します。彼らの生き様を読み、それに触れる度に、私たちの心の内にも愛に対する憧れが生まれます。

この憧れを大切にすることができますように。なぜならそこに聖霊の働きかけがあり、私たちが信じられない所で、私たちもまた大胆な行動に出ることができるはずであります。心から感謝いたします。私たちを愛に生きる自由な者としてくださったことを心から感謝いたします。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。


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