☆聖書箇所 ルカ12:13〜21
13群衆の中のひとりが、「先生。私と遺産を分けるように私の兄弟に話してください」と言った。 14すると彼に言われた。「いったいだれが、わたしをあなたがたの裁判官や調停者に任命したのですか。」 15そして人々に言われた。「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」 16それから人々にたとえを話された。 「ある金持ちの畑が豊作であった。 17そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』 18そして言った。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。 19そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』 20しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』 21自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」
☆説教 「神の前に富む者」の生き方
きょうはH兄が読んでくださいましたルカの福音書12章の13節から21節、ここから「神の前に富む者の生き方」と題して、恵みを分かち合いたいと思います。 今日お読みしたところ、これは「イエスさまの譬え話」なんですけれども、今まで取り上げて来たたとえ話、今まで4つお話しさせていただきました。 1つ目は「よきサマリヤ人のお話」でした。2つ目が「花婿を迎える10人の娘の話」、3つ目は「放蕩息子の譬え話」で、4つ目は「ぶどう園で働く人たちの譬え話」。
今日は私としては5つ目のたとえ話。これを取り上げたのが、今日の箇所です。 教会学校では「愚かな金持ちのたとえ」という題目でお話をする場所なんですけれども、 イエスさまがこのたとえ話をされたきっかけというのが、13節に書かれています。 (ルカ)12章の13節をご覧いただきたいと思います。
13群衆の中のひとりが、「先生。私と遺産を分けるように私の兄弟に話してください」と言った。
こう書いてあります。「先生。私の兄弟に」――この人のお兄さんでしょうね、きっとね。弟は言い易いと思うので、お兄さんに、「私の兄貴に、イエスさま、言ってやってくださいよ」という感じなんでしょうかね、 「親父の財産を独り占めにするなって言ってやってくださいよ」 「弟の俺にも、分け前をやってくれるように、兄貴に話してやってくださいよ」 ま、そんな感じでこの人はイエスさまの所に行ったんでしょうね。 ま、早い話が兄弟同士の遺産相続争いの解決を、この人はイエスさまにお願いした格好になったわけです。
ここでこの群衆の中のひとりが、一番最初に「先生」っていう風に、イエスさまのことを呼んでいますけれども、 「先生」――これはラビという言葉で呼ばれている立場にある人たちなんですけれども、当時のラビと呼ばれる人は、民事の争いの裁判官や調停者でもあったわけです。 ですから14節にイエスさまのお返事の中で、「いったいだれが、わたしをあなたがたの裁判官や調停者に任命したのですか」とあるのは、ラビと呼ばれる人の仕事でもあったということが言えるわけです。
しかしイエスさまはその依頼を、お願いを断りました。 そうした遺産相続争いの大もとである「貪欲という欲望」こそが問題であるという風に指摘したわけです。 15節ご覧ください――「そして人々に言われた。」 14節には、「すると彼に言われた」と書いてあります。この頼みに来た人に言われたんですけれども、 15節には「そして人々に言われた」と、イエスさまは人々に向けてカギカッコの中のような言葉を発しています。
15……「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」
イエスさまの話の対象は相続争いの解決をお願いした彼だけではなくて、弟子たちをも含む人々、群衆、そこに集まっていた群衆へと一般化されていることが解ります。 人々に、「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい」と。
ここに「貪欲」(どんよく)という言葉がありますけれども、ヘブライ語の語源では、「もっと多く持つ」っていう意味だそうです。 「もっと多く持つ」っていうのは――今の持ち物では足りない。もっと、もっと、もっと欲しい。もっと持ちたい――「飽くなき欲望」つまり「むさぼり」のことですね。 これを「貪欲」という風に意味づけることができると思います。
この貪欲に支配された人とは、この譬え話の結論としてイエスさまが示しておられる、21節にありますように――
21自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」
これが「貪欲に支配された人」のイメージではないかと思うんですね。 この「愚かな金持ち」っていうこの譬え話が、この後、イエスさまがお話しされるわけですけれども、16節から、 この「愚かな金持ち」とはまさに「神さまの前に富まない者」だった。 これが「愚かな金持ち」――つまり「どん欲に支配された人」のイメージとして、このたとえ話をイエスさまは語っておられるのではないかと思うんです。
そこで、今朝は「神の前に富まない」愚かな金持ちの生き様を通して、逆に「神の前に富む」とはどのような人なのかを、みことばから思い巡らしていきたいと思っております。
先ず「神さまの前に富まない」者である、愚かな金持ちというのは、3つの問題点を抱えていたということが、このたとえ話からわかります。 先ず一つ目の問題点、それは――
1)この愚かな金持ちは、神さまのことを全く考えていなかったということです。
16節ご覧ください。
16それから人々にたとえを話された。 「ある金持ちの畑が豊作であった。
これは金持ちということに加えて、豊作というダブルの祝福が与えられている様子が描かれています。金持ちの畑が豊作だった。 17節――
17そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』
豊作だったから、彼は「どうしよう」と心の中で言いました。たくわえておく場所のことを先ず考えました。 神さまへの感謝は全くない。どうしよう?たくわえておく場所がない。 この金持ちは神さまのことを全く信じていなかったのか?と言いますと、20節に「しかし神は彼に言われた」と、こう書いてありますので、神さまの声を聞くことのできるような関係は持っていたようです。 ですから全く神さまのことを信じていない人物ではなかった。でも豊作を目の前にした時に、神さまへの感謝が全くない状況。 その代わりに自分のたましいへの言葉はしっかりとありました。19節――
19そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物が貯められた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』
自分のたましいへの言葉はある。でも神さまへの感謝は全くない。
この金持ちが持っていると思っている財産、これはすべて神さまから与えられたものであるということが、この金持ちは解っていなかったんです。 さらに言うならば、神の財産は初めから神さまのものである、ということをこの金持ちは理解していなかった。 沢山のお金も畑も、豊作になった作物も、その豊作になるになるために天候にも恵まれたということも、自分の健康も支えられたことも含めて、そしてこの人の人生も、いのちも全部神さまから与えられたものであるということを理解していなかったのが、この金持ちだったわけです。
これらは初めから神さまのものであって、一時的に金持ちに預けられているだけだったわけですね。 このことがわかっていなかった。つまり神の前には富んでいない者でした。 私たちの持っているもの、今持っているもの――それは神さまのもの。
私(戸塚伝道師)は献身に導かれました。 「献身」って漢字で書くと、身を捧げる。神さまに身を捧げる。 もうわかっていないで献身していたような気がします。 私は「自分の残る生涯、神さまにお捧げいたします」――そういうお祈りをしたんですね。「神さまにお捧げいたします」 でも本当は、「残る自分の生涯」は、自分の生涯ではないです。 それは神さまから与えられたいのちで生かされている、その生涯である。 自分の人生というのは、神さまからゆだねられたものであって、もともと神さまの権威のもとにあるものであって、「神さまからの授かりもの」なんですね。 自分のものではない自分の生涯を、自分のものだからと思って、自分で好きにしてよいのだと私は思い違いをしていただけではないのか?と思いました。 だからほんとは、「自分の生涯をこれから捧げます」と言えるものではなくて、初めから神さまのものを「捧げます」と言っているだけに過ぎなかったのではないかということに気づかされました。
よく献金の感謝のお祈りに、「今、お捧げしました」っていう風に仰らないで、「今、お返ししました」っていう風にお祈りされる方がいます。 お返しする――もともと神さまのものだったのに、自分に一時的に預けられたものを神さまに「お返しします」。 お返しする――これはそういうスタンスでものを考えておられる方のお祈りかもしれません。
この金持ちの問題点、第一番目は神さまのことを全く考えていなかった。 神さまに対する感謝の一言もなかった。 裏を返してみると、じゃあ「神さまの前に富む」とはどういう人かが見えてきます。 それは私たちの財産――持ち物も、身体も、心も、人生も含めて――私たちの財産は神さまのものだと解っている人。 そして神さまに100%お世話になりっぱなしだ、と自覚して生きている人。
22節をご覧いただきますと、22節――今日お読みしませんでしたけれども――
<ルカ12:22> 22それから弟子たちに言われた。「だから、わたしはあなたがたに言います。いのちのことで何を食べようかと心配したり、からだのことで何を着ようかと心配したりするのはやめなさい。
神さまに100%お世話になりっぱなしだと、自覚している人になりなさい。
(※一つ目のポイントをまとめて) つまり「神さまの前に富む者」とは、一つ目は――1)神さまによって生かされ、必要なものが与えられているということを感謝している人――これが「神さまの前に富む者」ではないかと思うんですね。
この金持ちの2つ目の問題点、それは何でしょうか?
2)それは神さまのことだけではなくて、他の人のことも全く考えていなかったということです。
財産の使い道っていうのが、自分の欲望を満足させることだけ。 他の人のために用いるということを全く考えていなかったのが、この金持ちです。 恐らくこの金持ちのもとで働いていた沢山の人々がいたはずです。 その人たちのことは頭になかったようです。労いの言葉もなかったのでしょうか? 「ああ、豊作になった」「ああ、豊作になった」――それだけです。
この金持ちの2つ目の問題点――それは、他の人のことを全く考えていなかったということから、 「神さまの前に富む」とはどういうことか? それは、簡単な言葉で言えば、財産を独り占めにしない人でありますね。 神さまから与えられたものを自分のためだけではなく、他の人のために生かす道を考える人――これが第2番目の「神さまの前に富む者」であると思います。
私たちに与えられているもの、どれだけ他の人のために用いることができるでしょうか?考えさせられます。 でも、皆さん、この間ザンビアへの衣料とか発送の時に、 「送料が高い。皆さん献金のご協力をお願いします」と言った時に、 多くの方々が財布のひもを緩めてくださいました。 「ギデオン聖書のために、その印刷のためにお願いします」と言った時に、 皆さん協力してくださいました。
ラブローフにしてもそうですし、また様々な義援金にしてもそうです。 与えられたものを何とか他の人のために。 それだけではないと思うんですね。お金だけではないです。 与えられたもの、品物、時間、健康、すべて色々なことの中で、 あの人のために何かしてあげることはできないだろうかと思って、することってあると思うんですね。
(※2番目のポイントをまとめて) 「神さまの前に富む者」の第2番目――2)与えられたものを、自分のためではなく、他の人のために生かす道を考える人。 これからも考えて行きたいと思います。
3) この金持ちの3つ目の問題点、今日は特にここに重点を置いてみたいと思うんです。
自分の畑が大豊作だった金持ちは今後の見通しとプランを立てました。 17節(〜18節)ご覧ください
17そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』 18そして言った。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。
これ、自問自答ですね。「どうしよう?」「こうしよう」 新しい新改訳聖書2017はどういう風に訳されているのか、楽しみなんですけれども(笑)、後で見たいと思いますが。 「どうしよう?」「こうしよう」 17節には、彼は「心の中でこう言いながら考えた」とあります。そして18節には、「言った」とあります。 考えたのは、「どうしよう」です。そして言ったのは「こうしよう」口に出して言った。いったいどんなプランを考えたのか? 18節のカギカッコの中を言ったんでしょうね。「こうしよう」と。 じゃあ、何をどどんなプランを考えたのか、将来のプランは?――小さい倉を取りこわしてもっと大きい倉を建てるというプランでした。 そして、豊作の穀物や財産はみなそこにしまっておく、というそういうプランでした。 これから先、何年分もの安心とぜいたくな暮らしを送ると最後は言っています。 19節ご覧ください。
19そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』
この金持ちの3つ目の問題点は――自分のことを全く考えていませんでした。 (※今までの話をまとめて) 1)神さまのことを全く考えず、2)そして他の人のことを全く考えず、 そして3番目に、自分のことを全く考えていなかった。
えっ?自分のことを全く考えていない? この金持ち、自分のことばっかりしか考えていないじゃないか? 自分のことだけをこんなにも考えているのに――でも実は本当の意味で、自分のことを、しかも一番重大なことを考えていませんでした。 そこを神さまがストレートに指摘されました。 その神さまの第一声が20節です――
20しかし神は彼に言われた。『愚か者。……
「愚か者」――早い話が、「馬鹿」ですよね。神さまが馬鹿!って。阿呆の方が柔らかいかもしれません、関西では。馬鹿。 でもイエスさまは仰いました。マタイの5:22「兄弟に向かって『ばか者』と言うような者は地獄行きだ」って(笑)。 私たちが「ばか者」と言ったら地獄行きなのかもしれませんが、(***力を込める戸塚伝道師)神さまが仰ったんですからね、これは、ね。 神さまが金持ちに対して、「愚か者。馬鹿だなぁ、おまえは。愚か者」
で、神さまのとどめの一言。「愚か者」の次に書いてあります。
20……おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか」
「おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる」――肉体からたましいが取り去られる状態が「死」という状態。 ですから神さまの仰ったことをもっと解り易く言うと――「今夜おまえは死ぬんだよ。今夜、おまえは死ぬ」――そういうとどめの一言だったんです。
「これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ」(19節)と言った金持ちに対して、「今夜、おまえは死ぬ」(20節)。 金持ちの貯えようとしていた穀物や財産は、彼の将来を保証するものでは全くありませんでした。 だからイエスさまは15節で仰った――「いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからだ」 「今夜死ぬ」――神さま、今夜死ぬ?2017年10月22日、日曜日。いま私たちは生きています、地上に。 しかし私たちは今夜、夜眠るまでの間に、絶対死なないという保証はないんですよね。考えてみればないんですよ。 それでも、まさか今夜死ぬとは思っていないで、私(戸塚伝道師)は今ここに立っている。今ここにいる。 恐らくそういう方々が、もしかしたらほとんどではないでしょうか? 私(戸塚伝道師)はそうですよ。まさか、今夜。まさか今夜。
イエスさまはこう仰いました。「神さまのお許しなくして、雀は地に落ちない」(***マタイ10:29) じゃお許しがあるのか、今夜? 5分後に首都直下型巨大地震が起こって、耐震化されていないこの会堂が倒壊した。屋根が落ちて、その下敷きになって死ぬ――なんて、これっぽっちも皆さん考えてないでしょう?(笑) 今までの日曜日の経験から、私たちは、「ああ、戸塚の説教は長いから(大笑)終わるのは12時過ぎだろうなぁ。終わるのはその頃だろうなぁ。」 「今日は雨かぁ。また傘差してあの道を帰らなければならないなぁ」 「いつもの昼食は、あそこで食べようかな、今日は。それともコンビニかな。そして会堂でゆっくり食べようかな」 「明日は、ああ、あの仕事が待っている。あれをやらなければならない」 「今週は、あ、あそこに行かなくちゃいけないし、ああ、あのことも片づけなくちゃいけないし。これとこれとこれがある」 「来月11月は、この日はここに出かけて、この日はこうして、今年度までにはぜひともこれを果たさなければならない。やり終えなければならない」 「1年後の今ごろは、きっとあそこで生活しているはずだ。あの学校に行っているはずだ」 「東京2020の時には、う〜ん、もしかしたらあれが実現しているかもしれないなぁ」 若い方々はもう将来はるか先のことを考えていらっしゃるかもしれない。 様々なビジョンをもって。色んなプラン、 「貯金はいくらあって、これだけ貯えておけば老後は安心かなぁ」 今夜死ぬなんて思ってないんですよ(笑)。思ってないんです。
そう考えますとね――何だか、私はこの金持ちと本質的にはそんなに変わってないんじゃないだろうか?――そういう感じに襲われる時があります。 神さまは金持ちに向かって、「愚か者」と仰いました。 私(戸塚伝道師)は聖書を読む時に、初めは他人事でした。 「愚かだなぁ、この金持ちは。でも私はそうじゃない。私はそうじゃないんだ。教会学校でも教師面して(大笑)、この話を「ねぇ、みんな〜、愚かな金持ちになっちゃだめよ〜、ねぇ〜みんな、天国に行く心の準備をして」なんてこの話をしたんです。 でも自分だって「愚か者」かもしれない。 神さまから「愚か者」って言われているのかもしれない。
私たちは当然、地上生涯が終わったら天国に行く、ということは信じています。本気で信じています。 その本気度がどれぐらいかわからない。でも本気で信じています。 でも、まさか今晩だとは思っていない。 しかし、本当にもし今晩召されたら、明日から天国での生活が始まるんですよ。 あまりにも現実離れしたお話でしょうか?そうかもしれない。 でも地上生涯が終わったら天国に行く、ということを信じている私たちは、今晩召されたら、明日から天国での生活が始まるっていうことは事実なんです。 でももしそうだとしたら―― 「ああ、ちょっと神さま、待ってください。待ってください。まだ私にはやることがあるんですよ。やることがあるんで」 「身辺整理ができてないんです」 「あの机の上の本の山、あれは何とかしなくちゃいけない。あの荷物、要らなくなったあれをなんとか処理してからでいいでしょうか?」 「心の準備がまだ全然できていないんです。もうちょっとお祈りしてから。もうちょっと集会に出て心を整えてから。もうちょっと聖書を読む時間を与えてください」 「今、そんなこと考えたくないんです。神さま、明日も予定があるし、今そんなこと言わないでください、神さま」
私たちは、この金持ちのことを「愚か者」だと言って、上から目線で裁くことはできない。 私たちもいつ死ぬかわからないことや、天国に行くことを日頃はそれほど意識しなくなってしまう程、地上のことにあまりにも縛られている状態なんです。 もちろん将来の計画や、考えや、また備えや、貯えはもちろん当然大事なことです。 それはこれから先何年分も必要かもしれません。現実的な問題として。
以前、100歳の双子の姉妹、金さん・銀さんがいました。若い方は知らない方もいらっしゃるかもしれません(大笑)。 100歳の双子のおばあちゃん、金さん・銀さん。金さん・銀さんは、大分昔から存在していた、100年前から存在していたんですけれども、その当時(笑)。 有名になったのは、99歳ぐらいから急に有名になって(大笑)、100歳になったら全国的に有名になって、しょっちゅうテレビにでも出演するようになりました。 コマーシャルにも出演するようになりました。金さん・銀さん、沢山のギャラというんでしょうかねぇ、報酬がもらえた。あっという間に金持ちになった。
ある時、金さん・銀さんにある方がインタビューしたそうです。 「金さん・銀さん。こんなに沢山のお金、何に使いますか?」 そしたらば、金さんが言いました。(***口調をまねをして、一語一語区切って、はっきりと大声で・大笑) 「老後のために、使います」(大笑)。 金さんの老後(大笑)、金さんの老後って何なんでしょうね? でもあくまでも前向きですよね。 100歳の老後、何歳まで生きるつもりだったんでしょうか。(大笑)。 将来のことを考えているんですよ、100歳のおばあちゃんが。 老後のためにこのお金を使うと言う。
で、私たちも当然、将来のことを考える必要があるでしょう。 でも、地上での生活っていうのは、永遠から比べるとほんの一時なんです。ほんの一時。 若くして召されようが、100歳で大往生しようが、永遠という長さから比べると関係ないくらい、地上での生活はほんのひと時なんですよ。 後は永遠に天国でイエスさまと一緒の生活が待っている。 捉え方によっては、地上が一瞬で、天国が永遠だとすると、向こうが本番なんです。向こうが本番。 こちらはそこに行くための、ま、予備校みたいな感じで(笑)、向こうが本番。
私たちはそのことに、日頃はあまりにも無頓着なんです。 だから来週、年に一度の召天者記念礼拝と、墓前の記念会があるのかもしれない。 日頃あまりにも無頓着。「でも天国のことを考える日を1日でも作ってくださいよ」と神さまが仰っているのかもしれない。来週、そんな礼拝ですよ。 召天者記念礼拝というのは、召天者のためじゃないんです、実は。 地上で残されている、これから本番を迎えようとしている私たちのためなんです。
どうしても、私たちは地上での別れの悲しみが記憶に、心に深く刻まれて、召天者のために冥福を祈るっていう、そういう発想をしてしまうんですよね。 「ああ、かわいそうに。今頃天国でどうしてるだろうか?」(表情たっぷりに大笑)。 「ああ、かわいそうに。もっと長く生きたかっただろうに。ああ」――日本人的感情でしょうね。 ま、仏教のように、慰霊するとか、供養するとか、成仏しますようになんてことは、そういうのは考えないと思うんですけれども、 なんか天国に先に行った方が、こっちから言うと特別扱いで、「ああ、どうしてるだろうか、どうしてるだろうか?」(って心配しがちな私たち?)。 でも召天者は、今は大喜びと平安の日々の中にあるんです。 むしろ哀れな私たちのために、地上に残された私たちのために、召天者が神さまの前に祈っているかもしれないです。 向こうが本番。
私(戸塚伝道師)、最近説教のヒントをH姉から与えられているんです。H姉から。 私ね、H姉がすごくうらやましい。 羨ましいって言葉は不適切かもしれないけど、うらやましい。H姉。 毎日天国での生活をリアルに思い描いていらっしゃる。 私(戸塚伝道師)、10月8日の礼拝で、初めてH姉の肉声の生の証しを伺いました。 今までは全部T姉が(HPに)アップしてくださった文章で読むだけだったんですけれども、初めて10月8日、生で(聞きました)。 私はす〜ごく感動しましたし、ものすごく励まされました。 で、その時に、今日のこの説教のテーマが閃きました。
そして礼拝後、「H姉、ありがとうございます。ありがとうございます。もう2週間後の説教の内容が決まったんですよ。ぜひ来てくださいねぇ」 「あ、楽しみにしています。ぜひ伺わせていただきます」って仰ったのに、今日はいらっしゃらないのが残念なのですけれども。 (***と、普段の席を見ながら語る戸塚伝道師に、隣席のT・Y より) 【あの、今日は病気なんですよ(ああそうなんですか)。腸閉塞になっちゃって(ああ、そうですかぁ〜、腸閉塞)、近所の少し小さな病院にですけどね。皆さんにほんとは中国に行く前に一度お話したかったけれども残念だと(ああ、そうだったんですかぁ〜)。でもDVDを見ていますと(あ、そうですか)。この前の先生が仰った10月8日のも、もう朝のも午後のも観ましたということです。】 ああ、そうですか。H姉、DVD観てますね?(とカメラ目線になる戸塚伝道師に笑)。 お祈りしています。皆さんもお祈りしましょう。本当にお祈りしましょう。
でも今日は与えられたんですよ。この説教の内容が。 H姉のご挨拶、こんなご挨拶でした。お証しでした。 マイクをしっかり握りしめて、満面の笑みをたたえて、力強い声で―― 「やっぱり高津教会は、愛のあふれる教会なんです。もしかして私は、いつか天国に、お歳よりも早く行くかもしれないんですが(大笑)、 あそこに行っても、(***なんか、あそこですよ、天国のことを、大笑。なんか溝の口の丸井に行くような感じで、と説明) あそこに行っても、ハッピーなとっても幸せな気持ちは変わりません。(***ということは、今はもう天国の気持ちと同じということです)。 ハッピーなとっても幸せな気持ちは、あそこに行っても変わりません(***天国に行ってからハッピーな気持ちになるんじゃなくて、もうすでにハッピーなんです、と説明)。 一番天国の先輩としても(***私たちの先輩になっています、もう天国で、と説明)、この高津教会のすごく沢山の楽しい話を、イエスさま、天のお父さまに細かく報告します。行列ができても、一番先頭に立って沢山報告したいんです。 (***こう仰ったんですよ。で、極めつけはこの一言、締めくくりのこの一言でした、と加えて)、本当に病気になっても、今、幸せの最中だと思います」
「病気になっても今、幸せの最中だと思います」 癌との闘いという現実の厳しさは変わっていない。しかも腸閉塞という病にかかられている。 でも現実の厳しさにしっかりと立ち向かっていらっしゃる。 その力の源は何でしょうか? それは天国での希望。そして、天国でやりたいことがあるという計画です。 H姉は既に地上の生活に縛られてないんですよ。 既に「神さまと共に永遠に生きる天国の市民の一員である」ということを意識して、毎日を生かされていらっしゃる方です。 「死の恐れはなくなりました」と堂々と言える方です。
そこで「神さまの前に富む人」っていうのがどのような人か――この第3番目はこのH姉のお証しを通して、いや、存在そのものがもう雄弁に語っていると思うんですね(アーメン)。 「神さまの前に富む人」――それは天国の市民の一員であることを意識して、神さまに自分の人生を委ね切っている人のことです。 私たちは金持ちではないかもしれない。財産なんて、この金持ちの足もとに及ばないかもしれない。 でも「神さまの前に富む者」になりたいと思います。そう憧れます。 神さまに与えられたものを感謝し、それを他の人々のために用いることを考え、天国へ行く自分の人生を委ねる者とさせていただきたい。 これが金持ちの様子から逆に気づかされる「神の前に富む者」の姿です。
で、こんなお話をしますとね――【***後方の子どもの声に優しく対応、あ、もうすぐ終わるからね、待っててね(大笑)】、何か「神さまの前に富む人」ってこういう人なんだと、それが基準になってしまって、日頃から意識していない自分を見て、却って不安になってしまうという方がいらっしゃるかもしれない。 あ、自分はそこまで行っていない、自分はほんとに愚かな金持ちと一緒なんだ。自分は神さまの前に富む人になんかなれない。
だけど、このたとえ話には続きがあって、22節以下をず〜っと読みますと――実は22節以下、もう読む時間ないですけれども――「自分で頑張ってもこんな生き方は生み出せないよ」とイエスさまは仰るんですね。 「自分で頑張ってもこんな生き方は生みだすことはできない。 『神さまの前に富む者』の生き方っていうのは、神さまが備えてくださるんですよ。 神さまが備えてくださる。だから心配するのは止めなさい。 神さまが備えてくださるから、だから皆さん、安心して与えられたものを用いて、朽ちることのない宝を天に積み上げなさい」 そういうことがず〜っと書かれているのが、22節以下なんです。
H姉を通して、神さまの前に富む者の生き方が見えて来るように思います。 私たちもそのような生き方にあやかりたいと思います。
☆お祈り――戸塚伝道師
イエスさま、感謝いたします。2千年前に語られたあなたの譬え話を読みました。日々の生活に追われながら、預りものの人生や持ち物が、まるで自分のものであるかのように、思い違いをしやすい者です。あなたの語られたこの金持ちの人と同じく、「今夜死ぬ」ということが判った時、私たちもうろたえ、パニック状態に陥るような愚か者かもしれません。
私たちの人生は何から何まで、あなたにお世話になりっぱなしであることに気づかせてください。また、与えられている恵みを独り占めすることからお守りください。さらには、天国で生きる希望を、日常生活の中で実感させてくださいますようにお願いします。そしてまさに神さま、あなたの前に富む者の生き方に目覚めさせてください。
今もう一度これからの人生をあなたにお委ねいたします(アーメン)。そしてこの1週間もどうぞよろしくお願いいたします。格別にH姉の上に、どうぞ癒しの御手を差し伸べてくださり、どうぞ奇跡的なみわざをもってあなたの栄光を拝させてください(アーメン)。イエスさまのお名前と一つになって、天の父なる神さまにお祈りいたします。アーメン。
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