☆聖書箇所 ルカ22:7〜20 7過越の子羊が屠られる、種なしパンの祭りの日が来た。 8イエスは、「過越の食事ができるように、行って用意をしなさい」と言って、ペテロとヨハネを遣わされた。 9彼らがイエスに、「どこに用意しましょうか」と言うと、 10イエスは言われた。「いいですか。都に入ると、水がめを運んでいる人に会います。その人が入る家までついて行きなさい。 11そして、その家の主人に、『弟子たちと一緒に過越の食事をする客間はどこか、と先生があなたに言っております』と言いなさい。 12すると主人は、席が整っている二階の大広間を見せてくれます。そこに用意をしなさい。」 13彼らが行ってみると、イエスが言われたとおりであった。それで、彼らは過越の用意をした。 14その時刻が来て、イエスは席に着かれ、使徒たちも一緒に座った。 15イエスは彼らに言われた。「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたと一緒にこの過越の食事をすることを、切に願っていました。 16あなたがたに言います。過越が神の国において成就するまで、わたしが過越の食事をすることは、決してありません。」 17そしてイエスは杯を取り、感謝の祈りをささげてから言われた。「これを取り、互いの間で分けて飲みなさい。 18あなたがたに言います。今から神の国が来る時まで、わたしがぶどうの実からできた物を飲むことは、決してありません。」 19それからパンを取り、感謝の祈りをささげた後これを裂き、弟子たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられる、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」 20食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約です。
☆説教 聖餐式:新しい出エジプト
今朝の聖書の個所は、イエスさまが十字架にかかる前に、最後の晩餐をとられたところです。 ちなみに今日は、昨日、T・Y姉妹、兄弟が全部花を整えてくださいました。このように特別な聖日の度に、教会をお花全部で飾ってくださることを心から感謝いたします。 寂しいなぁと思いますけれども、やっぱり特別な聖日は特別な聖日として、私たち晴々と主を礼拝したいと思っています。
今日の聖書の個所は、過越の食事、つまりイエス・キリストと弟子たちの最後の晩餐、そのものの箇所をお開きいたしました。 ルカの福音書の22章です。 ちょっと途中からでありますけれども、15節に―― 【画面:ルカ22章15節「わたしは〜願っていました。」に青ペンで傍線。「一緒に」に囲み】
15イエスは彼らに言われた。「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたと一緒にこの過越の食事をすることを、切に願っていました。
という、この言葉の背景にあることを、少し長々ご説明いたします。説明的なので、少し聞いていていただきたいと思います。 私はコロナの今の時期であるからこそ、この聖書の箇所をと思って、ず〜っと心に留めてまいりました。3つポイントがあります。
1)ユダヤ教が期待していたメシアと神の国
私たちは「ユダヤ教」という言葉を普通に使いますけれども、勿論それは今のイスラエルの人々の宗教という意味でユダヤ教ですが、 聖書の中に、実は「ユダヤ教」という言葉は二か所しか出て来ません。 しかもそれはガラテヤの1章の13節と14節ですから、ものすごく限られた言葉であります。 ユダヤ教とは現代ユダヤ人の宗教という意味でもなく、あるいは旧約聖書の民と同じ意味でもありません。 初期ユダヤ教というのは、2000年(?)共に学びましたゼカリヤ書が終わる頃から、イエスさまパウロの時代を超えて紀元200年ぐらいまで、400年間沢山のユダヤ教の文書が残されるようになります。 それをもとに、ユダヤ教というものが出来上がっていきます。もちろん旧約聖書に起源があるわけですけれども。 そのユダヤ教400年の真っただ中に、イエス(すなわちメシア)が現れたと思ってください。
バビロンの捕囚が終わりました。捕囚に捕られていたユダヤ人たちは捕囚から帰って来て、神殿を再び再建します。 しかしその神殿の土台を造っただけで、財力も気力も尽き果ててしまいまして、土台だけで放置されてしまいました。
ハガイ書やゼカリヤ書を2020年に学びました時に、神さまは大祭司ヨシュアと行政の長ゼルバベルを立てられて、そして破壊されたソロモンの神殿の跡地に、新しい第二の神殿を建設されます。 それ以来ず〜っと第二神殿と呼ばれて来ました。 神殿は完成しますけれども、しかしイスラエルの栄光はもとに戻ることはありませんでした。 中東一帯はいつも、その後ギリシャ、ローマ帝国の支配下にあり、パレスチナはその属国、植民地でありました。
バビロン捕囚から戻ってきた人々はわずかに過ぎませんでした。 北のイスラエル王国はアッシリアに攻められて、世界各地に散らされてしまいました。 南のユダの王国は、バビロンに攻められて捕囚に捕られ、そして捕囚から戻って来たのはは一握りの人々でありました。
この時期、イスラエル全体を民族的に包んでいた重た〜い思いがあります。 それは神がかつて出エジプトのように、選びの民をバビロンから解放し、神殿を建てたのに、その神の栄光が神殿に満ちていない――何とも言えない弱体化してしまった自らの姿ですね。 エゼキエルの預言の最後の方にこんなことが記されています。
<エゼキエル43:5> 5霊が私を引き上げ、私を(※神殿の)内庭に連れて行った。なんと、【主】の栄光が神殿に満ちていた。
という、エゼキエルの長〜い預言の最後の方でその言葉が出て来ます。 その時初めて神殿に栄光が満ちる、ということは、通常の時には神殿に栄光を感じることはなかった、ということですね。
ネヘミヤの9章の36〜37節に「ご覧ください。私たちは今、奴隷です。・・・・・・私たちは大きな苦しみの中にいます」と書いてあります。 奴隷の時期は終わったにもかかわらず、「ご覧ください。私たちは今、奴隷です。私たちは大きな苦しみの中にいます。」というのは、 他国の圧政の中にもがくイスラエルは、依然として捕囚の状態の中にいた、ということです。 依然として民は散らされたままです。
しかし、希望がゼカリヤ書に語られていました。 それは《やがて神さまは、散らされた民を集めてくださる。》 これは開いていただきます。ゼカリヤ書の8章の7節ですね。ここです。
【画面:ゼカリヤ書8章4節「再び」に青いペンで囲み。5節「都の広場は〜広場で遊ぶ」に同ペンの傍線。6節「不思議に見えても」に同ペンの囲み。節数字の上の余白に同ペン、横書きで「わたしの目には不思議ではない。<現状に勝つ>」という手書き文章。7節「日の出る地と日の沈む地から」に( )で括り、すぐ上の余白に「全世界」と同ペンの手書きの文字。「救い」に同ペンの囲み。8節「連れ帰り」「住まわせる」「このとき、〜神となる」に同ペンの囲み」】
「神さまが私たちを集めてくださる」というこのみことばは、コロナの最初の年、2020年にあって大変意味がありました。 (ゼカリヤ8章)4節から読んで行きます。
<ゼカリヤ8:4〜8> 4 ――万軍の【主】はこう言われる―― 再び、エルサレムの広場に、 老いた男、老いた女が座り、 みな長寿で手に杖を持つ。 (***そればかりではないです、と続けて読む) 5 都の広場は、 男の子と女の子でいっぱいになる。 子どもたちはその広場で遊ぶ。(***7節に飛びますね、と7節に続く) 6 ――万軍の【主】はこう言われる―― もし、これがその日に、 この民の残りの者の目には不思議に見えても、 わたしの目には,不思議に見えるだろうか。 ――万軍の【主】のことば。」
7 万軍の【主】はこう言われる。 「見よ。わたしは、わたしの民を 日の出る地と日の沈む地から救い、 8 彼らを連れ帰り、 エルサレムのただ中に住まわせる。 このとき、彼らはわたしの民となり、 わたしは真実と義をもって彼らの神となる。」
この(8節)「連れ帰る」という言葉――散って行った者を、神さまは再び集めてくださる。
で、「エルサレムの広場」(4節)と言うならば、私たちはコロナ以前、ここ(※高津教会)は人でもう一杯でありました。息苦しい位一杯でありました。 しかし、再び老いた者たちも、また小さな子どもたちもこの場に集まることができる。 そして、この場に集まることができなければ、インターネットで共にいつも集まることができる。
そういう気持ちをもって、イスラエルの人々は、この第二神殿期の間過ごしてまいりました。 やがて、「その日」「その日」という風にゼカリヤは預言していますけれども、イスラエルの人々は、こういう風に考えたわけです。 「その日を私たちは待ち望もう」と。 「その日」というのは、国が復興するという期待感に溢れて、その日に向かっていくわけです。 《神さまが集めてくださる。散らされた民を再び集めてくださる》。
そして「その日」にメシアが現れる。メシアというのは「油注がれた者」です。 《民の罪を贖い、囚われから解放し、再び民を神のもとへと立たせてくださるメシアが現れる。》
イエスさまが公の生涯に立たれる最初の場面を、ルカの福音書はこのように記しています。 ルカの福音書の4章の16節から、ちょっと聖書を見てくださいね。
【画面:ルカ4章18節「主の霊がわたしの上にある」「主はわたしに油を注ぎ」19節「主の恵みの年をつげるために」にオレンジ色のハイライト】 <ルカ4:16〜19> 16 それからイエスはご自分が育ったナザレに行き、いつもしているとおり安息日に会堂に入り、朗読しようとして立たれた。 17すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その巻物を開いて、こう書いてある箇所に目を留められた。 18 「主の霊がわたしの上にある。 貧しい貧しい人に良い知らせを伝えるため、 主はわたしに油を注ぎ(***この言葉がメシアです。この言葉がキリストです。メシアはヘブル語、キリストはギリシャ語、と説明) わたしを遣わされた。 捕らわれ人には解放を、 目の見えない人には目の開かれることを告げ、 虐げられている人を自由の身とし、 19 主の恵みの年を告げるために。」
イエスさまはそのようなメシアとしての自覚を持って、公の生涯に立たれました。 これを聞いた人々は、これから到来するのはイスラエルの回復だと。 ローマ帝国から解放されて、神殿は再建されて、そして諸国民に対する勝利、彼ら自身の土地を取り戻す時がやって来るという、その新しいイスラエルの世界秩序というものを、彼らは思い描きました。
2)イエスさまはメシアはメシアでも、ユダヤ人が作り上げた期待とは次元の違うことをなさいました。
イエスさまはユダヤ教の中でも敬虔を生きている、パリサイ人を批判されます。 イエスさまは自分の弟子として漁師や取税人を従えます。病を癒やし、悪霊を追い出し、貧しいやもめを大切にし、奇跡を行い、神の国を教えます。 反ローマ帝国の立場はとらず、税金闘争にあっては、「カエサルのものはカエサルに」(***マタイ22:21)と当時の反ローマ感情を、イエスさまは共有しませんでした。 民全体の運命よりも、小さな一人の人に目を留めます。 ザアカイに声を掛け(***ルカ19:1〜10)、ザアカイは取税人ですから、ローマ帝国の側に立ってしまった、いつの間にか立ってしまったイスラエルの人です。 しかし「あなたもアブラハムの子なのだから」とザアカイをお迎えになりました。 そういうことはすべて、「当時の権力を持ち、ローマ帝国を打倒する」というメシア感とは全く違うものでありました。
そもそも天の軍勢を従えて来るはずの「人の子」は雲に乗っていない。 その方はベツレヘムで生まれ、ナザレの郷里には兄弟姉妹がいる。 イエスは自分が神の権威を持っていることを、臆することなく主張されました。 宗教家を批判し反感を買い、人の罪を赦されます。 しかし、主イエスはその働きの間、既存の神殿とユダヤ教の信仰を、むしろ批判されました。 そして、最後は全議会で断罪され、異邦人支配の中で最も屈辱的なピラトに引き渡され、そして十字架にかかって、極刑に処せられてしまいます。
イエスさまがなさったことは、ローマ帝国への抵抗でもイスラエルの復興でもありませんでした。 イエスさまがなさったことは、アダム以来神に背いて来た人類が、神の御前に立たされるために、人類の、私たちの罪を背負い、十字架にかかられたということ。 ヨハネの福音書(***1:29)にありますように、バプテスマのヨハネはイエスさまを指して、「見よ、世の罪を取り去る(神の)子羊」と仰いました。 そのようにして、自分自身を犠牲として捧げられました。 そして、背負われたのはユダヤ人の罪だけではない。 私の罪、私の死、私の悲しみ、私の病、私の愚かさでありました。いいですか。
3)イエスさまは、ルカの福音書の22章の15節で仰います。 ――先程お読みしましたね―― 「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたと一緒にこの過越の食事をするということを、切に願っていました。」
「過越の食事」って何でしょう? 古代のエジプトに奴隷として捕らわれていたヨセフの子孫たち――今ず〜っとヨセフを学んでいますけれども――ヨセフの子孫たち、ま、ヤコブの子孫でもありますけれども、イスラエルの民ですね。 それらがやがて、エジプトの宰相であったヨセフが亡くなってしまい、時が経ち、そしてふたを開けてみたら、そこで生まれた多くのイスラエルの民は、単純にエジプトの奴隷となっていました。 エジプトに奴隷となってしまった民は、神に助けを叫び求め、そして神さまはモーセを筆頭にエジプトを脱出させます。 それを出エジプト、エクソダスと呼びます。
彼らを去らせることになかなか同意しないエジプトに、神はある夜、死の裁きを下されます。 しかしその日の夕方、子羊の血を鴨居に塗った家の上を、神の死の裁きは過越して行くという、彼らは死の裁きから守られる。 そして出エジプト、エジプトを脱出し、約束の地に連れて行かれるというのが、出エジプトの前になされた「過越の食事」でありました。 それをず〜っと彼らは守って来たわけです。神の恵みの記念として。
イエスさまはここで、弟子たちに向かって、「わたしは、あなたがたと共にこの過越の食事をすることを、楽しみにして来た」というのは、一体どういう意味なのか? それは、メシア=イエス・キリストにとって、弟子たちと共にする食事の過越の食事は、――主イエス・キリストが私たちと共に今日、食してくださる聖餐は――新しい出エジプトのための食事である、ということが分かります。
今度塗られているのは、子羊の血ではありません。過越のパンとぶどう酒は、イエス・キリストの十字架で裂かれた肉と血に変わります。 しかし紛れもなく、ご自身を信じる者たちの出エジプトがここから始まっていく、というイエスさまの宣言でありました。 弟子たちはまだ気がついていません。 しかし、やがて気がつきます。
ルカの福音書の先程の22章の、この言葉をご覧ください。後でもう一度見ますが、19節―― 【画面:19節「あなたがたのために」20節「あなたがたのために」に青ペンで囲み。19節「覚えて」に赤ペンで囲み】
19それからパンを取り、感謝の祈りをささげた後これを裂き、弟子たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられる、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」 20食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による、新しい契約です。
ということは、《新しい出エジプト》がここから始まっていくということです。
イエスの血潮のゆえに、死の裁きが私たちの上を過越していく。 これから彼らも、私たちも、イエスを先頭にして荒野の旅に出て、やがて約束の地、天の御国へ辿り着くまで、私たちは共にイエスの後に従っていく。
そうして教会は二千年の間、イエス・キリストの十字架を記念して、イエス・キリストに率いられた約束の地へと辿り着くことを信じて、聖餐式を守ってまいりました。
で、今年2022年の7月、少し緩むかなと、コロナの恐怖から解放されるかなという今、散らされた民はこうして再び集められ、神の国へと出発していきます。 私たちはつくづく良く分かっています。 2020年の3月、新型コロナウィルスが世界を襲いました。 これまで感染者の総計は、世界で5.5億人、世界で死者は634万人です。 そして教会、世界中で、高津も散らされました。
しかし今朝、共に聖餐にあずかる時、《私たちはイエスのもとに集められている》ということを忘れてはいけません。 私たちは一つとなって、この方に率いられ、そしてこの方が過越の食事を開いてくださいます。 ご自身の十字架の犠牲によって、死の裁きが私たちの上を過越し、 私たちはイエスと共に一つとなって、出エジプトを果たします。 そしてまだ途上を行きます。荒野という途上の人生に様々なことがあります。 でも幾度となく、イエスさまは私たちの前を立ちはだかる紅海を二つに分け、私たちを乾いた道の真中を渡らせてくださいます。 荒野においては、マナという日々の糧を私たちのために用意してくださいます。 水のない状況においては、岩から水を噴き出させて、私たちの渇きを潤してくださいます。
一言で、私たちは散らされていない。 この信仰を、この聖餐式をもってしっかりと心に留めようではありませんか! 私たちは一つです。《今も新しい出エジプトの旅路にあり、今も私たちは一つの群れとなって主イエスに従って、約束の地を目指しているんだ》ということを、心に留めたいと思います。
☆お祈りをいたします――藤本牧師
恵み深い天の父なる神さま、この夏の厳しい暑さや、激しい雨や台風や様々なことがありますでしょう。小さな日本という国をお守りください。またウクライナのことも覚えました。世界に様々な戦争の実態があり、あれほど美しい国がズタズタにされているという現状を、あなたご自身が目を留め、世界が目を留め、あなたに祈り、あなたが解決してくださいますようによろしくお願いいたします。
私たち世界中のキリスト者が、同じ聖餐にあずかります。その時に牧者であるあなたはお一人であり、私たちはどこにあっても一つの民として、あなたに繋がる者として、日々の糧をいただき、海を二つに分けていただき、岩から水がほとばしり出て、私たちは生かされていくんだ、というこの信仰を大切にすることができますように助けてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
☆聖餐式 これ以降は「聖日説教」でご覧になれます。
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