☆聖書箇所 創世記43:1〜10 1さて、その地の飢饉は激しかった。 2彼らがエジプトから持って来た穀物を食べ尽くしたとき、父は彼らに言った。「また行って、われわれのために食糧を少し買って来てくれ。」 3すると、ユダが父に言った。「あの方は私たちを厳しく戒めて、『おまえたちの弟と一緒でなければ、私の顔を見てはならない』と言いました。 4もし弟を私たちと一緒に行かせてくださるなら、私たちは下って行って、お父さんのために食糧を買って来ましょう。 5しかし、もし彼を行かせてくださらないなら、私たちは下って行きません。あの方は私たちに、『おまえたちの弟と一緒でなければ、私の顔を見てはならない』と言ったのですから。」 6イスラエルは言った。「なぜ、おまえたちは、自分たちにもう一人の弟がいるとその方に言って、私を苦しめるようなことをしたのか。」 7彼らは言った。「あの方が私たちや家族のことについて、『おまえたちの父はまだ生きているのか。おまえたちには弟がいるのか』としきりに尋ねるので、問われるままに言ってしまったのです。『おまえたちの弟を連れて来い』と言われるとは、どうして私たちに分かったでしょうか。」 8ユダは父イスラエルに言った。「あの子を私と一緒に行かせてください。私たちは行きます。そうすれば私たちは、お父さんも私たちの子どもたちも、生き延びて、死なずにすむでしょう。 9私自身があの子の保証人となります。私が責任を負います。もしも、お父さんのもとに連れ帰らず、あなたに前にあの子を立たせなかったら、私は一生あなたの前に罪ある者となります。 10もし私たちがためらっていなかったなら、今までに二度は、行って帰れたはずです。」
☆説教 ヨセフ(12)ユダが保証人となって
今日は、ヨセフの物語からずっと学んでまいりましたけれども、その12回目でございます。(創世記)43章からご一緒に見ていただきたいと思います。
私たちはよく分からずにイスラエルの十二部族という表現を使います。 イスラエルというのは、神さまがヤコブに与えた新しい名前です。 不安の夜、夜を徹して神と格闘するかのように祈り、最後に去って行こうとする神に向かって言いました。 「私はあなたを去らせません。あなたが私を祝福してくださるまでは」と。 その時、神が仰いました。 「あなたの名はもはやヤコブではない。これからはイスラエルとする。神と人とに格闘して勝ったからだ。」(***創世記32:28)
ヤコブというのは、兄さんの踵(かかと)を掴んで生まれて来たヤコブにつけられた名前で、掴むという意味です。(***創世記25:26) イスラエルというのは、格闘して乗り越えていく、そういう意味を持っています。
ヤコブには12人の息子がいました。 非常に複雑で、おじさんのラバンの所に行った時に、妻がなんと二人にさせられてしまいます。 この二人の争いに、それぞれの二人の女奴隷も加えられて、どちらの側がより沢山の子どもを儲けることができるか、という争いにヤコブは巻き込まれてしまいます。
ヤコブが最も愛したのはラケルという女性でした。(***創世記29:18) しかしそのラケルとの間には、なかなか子どもは与えられず、とうとう子どもができたのが今回のシリーズで共に学んでいますヨセフです。 ですから一番愛する妻――本来妻にしたかった――本来妻はラケルだけでよかった。 その間にできたヨセフをどれだけ愛したことかと思います。
実はヨセフは11番目でありまして、その下にもう一人ベニヤミンがいました。 ヨセフは英語ではJoseph 、ベニヤミンはBenjaminですから、どれほどこれらの名前が英語圏で用いられるかということが分かると思います。
十二部族の中で、どの部族が一番のリーダー格になるのか? それは当然ヨセフの部族だろうと思いますけれども、そうではありませんでした。 ヨセフの家庭にはマナセとエフライムがいますが、マナセの方が十二部族の内の一人マナセ族、つまりヨセフ族はマナセ族となって、イスラエルの十二部族に加わって行きます。
十二部族の中で、どれが一番力を持つのか? それのカギになるのが、今日ご覧になる創世記43章です。 ユダに始まるユダ族が中心的な部族になって行きます。 ユダというのは、神に感謝するという意味ですけれども、このユダ族から、何しろダビデが出ます。 ダビデが死んだ後、イスラエルは北のイスラエル王国と南のユダの王国に分かれます。 南のユダの王国というは、わずかユダ族とベニヤミン族の二部族でありました。 しかしその南のユダにエルサレムがあるわけです。 ですから圧倒的に宗教的な中心は、南のユダにありました。
やがて北の十部族、北のイスラエル王国という国は、アッシリア帝国によって滅ぼされ、サマリア人になっていきます。 さて、歴史的な背景はそこまでとして、3つのポイントでお話ししていきます。
1)何をきっかけに、ユダが十二人の兄弟の中で、一番前に出て来たのか?
ヨセフを殺そうと兄弟たちが殺気立った時、ずっと以前ですね、長男のルベンが思いとどまらせます。 ちょっと37章の22節を見ていただきたいと思います。映しますね。 【画面:創世記37章21節「ルベン」26節「ユダ」に水色のハイライト。22節「これは、ヨセフを〜帰すためであった」24節「穴の中に投げ込んだ」25節「イシュマエル人の隊商が」「エジプトへ下って行くところであった」に同色の傍線】
<創世記37:22> 22また、ルベンは言った。「弟の血を流してはいけない。弟を荒野の、この穴に投げ込みなさい。手を下してはいけない。」これは、ヨセフを彼らの手から救い出し(***後にね、と説明)、父のもとに帰すためであった。
というこのルベンは長男です。しばらくこの場所を映しておいていただきたいと思います。 このルベンはやがて穴の中から、ヨセフを救い出して父のもとに帰すはずであったんですが、彼らは座って食事をしていたんですね。25節――
25・・・・・・そこにイシュマエル人の隊商がギルアデからやって来ていた。彼らは、ラクダに樹膠と乳香と没薬を背負わせて、エジプトへ下って行くところであった。
それを見たユダは――長男ではなく、四男です――言った。
26すると、ユダが兄弟たちに言った。「弟を殺し、その血を隠しても、何の得になるだろう。 27さあ、ヨセフをイシュマエル人に売ろう。・・・・・・
という提案を出したのが、このユダです。 で、今日の主人公は、長男のルベンと、そして最終的に奴隷に売り飛ばす提案をした四男のユダでございます。
長男のルベンは、後でこっそりヨセフを穴から救い出そうと考えていましたけれども、 食事の席を外している間に、ヨセフが売り飛ばされたということを後で知らされて、嘆くわけです。 何とかヨセフを守ろうとした長男のルベン。 そしてヨセフを売り飛ばした四男のユダ。 そういう立ち位置にいた二人が、この43章で立場が逆転していきますね。
2)ルベンを先に見てみましょう。
ルベンは初めてエジプトに行って食糧を手にして帰って来た、その時点で、もう一度エジプトに行くことを提案します。 なぜなら初めて行った時に、ヨセフに目を付けられて、 「あなたがたに食糧を渡す、帰ってよい。しかし人質としてシメオンを捕る」 と言われたわけです。――(創世記)42章の24節に書いてあります。 兄弟の一人がエジプトに捕られているために、どうしても行かなければならない。
そこで42章の37節に、こんなことをルベンは父親に提案いたします。 ちょっとご覧ください。 【画面:創世記42章37節「ルベンは」「二人の子を〜任せてください」に黄色のハイライト。「ルベン」に矢印で余白に「長男」と赤のペンで手書き。38節「この子の兄は〜降りかかれば」に水色の傍線】
<創世記42:37〜38> 37ルベンは父に言った。「もし私がこの弟をあなたのもとに連れ帰らなかったら、私の二人の子を殺してもかまいません。彼(***というのは一番下のベニヤミンです、と説明)を私に任せてください。この私が彼をあなたのもとに連れ戻します。」
ヨセフは弟に会いたい。だから「あなたの家族にもう一人一番下の弟がいる、と言うなら、どうしてもそのベニヤミンという、その人物を連れて来い」と(言いつける)。 ルベンにしてみれば、シメオンを助け出すためにも、どうしてもこのベニヤミンをエジプトに連れて行かなければいけない。 ところが、父親はそれを断るわけですよね。38節――
38するとヤコブは言った。「この子は、おまえたちと一緒には行かせない。この子の兄は死んで(***ヨセフのことです、と説明)、この子だけが残っているのだから。道中で、もし彼にわざわいが降りかかれば、おまえたちは、この白髪頭の私を、悲しみながらよみに下らせることになるのだ。」
「これ以上の悲しみはもう十分だ」という風に、父ヤコブは言うわけですね。 ルベンも必死でした。いま読んでいただいたところに(37節)、 「この作戦が失敗したら、私の二人の息子を殺してもかまいません。どうかベニヤミンを私に任せて、シメオンを取り返すために私を行かせてください」 と、それ程必死でありながら、父ヤコブは行かせてくれませんでした。
ま、理由は色々あるんだろうと思います。 食糧はいま取って来たばかりだと。 人質のシメオンを取り返すこと以上に、ベニヤミンをも犠牲にするということは、ヤコブには耐えられなかったと思います。
でも段々食糧は尽きて行きます。 その時、改めて父親の方から話が出ます。(創世記)43章の2節ですね。 【画面:創世記43章2節〜3節「ユダが」に赤ペンで囲み。6節「なぜ、おまえたちは」7節「しきりと尋ねるので」に黄色のハイライト】
<創世記43:2~4> 2彼らがエジプトから持って来た穀物を食べ尽くしたとき、父は彼らに言った。「また行って、われわれのために食料を少し買って来てくれ。」 3すると、(※今日の主人公の一人、四男の、と説明して)ユダが父に言った。「あの方は私たちを厳しく戒めて、『おまえたちの弟と一緒でなければ、私の顔を見てはならない』と言いました。 4もし弟を私たちと一緒に行かせてくださるなら、私たちは下って行って、お父さんのために食糧を買って来ましょう。
こう言うわけですね。 少し省略するために、会話を要約します。
ユダが言ったことは―― 「お父さん、それは無理だよ。もし行くんだったら、一番下のベニヤミンを一緒に連れて行かない限り、エジプトの宰相は、われわれに会ってもくれないし、食糧を売ってもくれないし、ましてやシメオンを取り返すなんて無理だから。」
すると、父親は言うんですよね―― 「大体、それが問題なんだぞ。なぜ、おまえたちはもう一人弟がいるんだということを、エジプトの宰相に言ってしまったんだ。」 ユダは言います――「父さん、仕方なかったんだよ。」 7節に「しきりに尋ねるので」(彼らは「問われるままに言ってしまった」)とありますけれども 「しつこく弟がいるんじゃないか、元気にしているのか、みたいなことを言われてしまった。だからどうしても、ベニヤミンを連れて行かないと、行ったところで穀物は手に入らないどころか、皆殺しにされる可能性がある。」
8節にユダがとうとう、こういう提案をします。 これを今日は見ていただきたいのです。 【画面:創世記43章8節「お父さんも私たちのこどもたちも〜死なずにすむでしょう」9節「私自身が〜責任を負います」に黄色のハイライト。「私自身」に黒ペンの囲み「保証人」「責任」に赤ペンの囲み】
<創世記43:8〜9> 8ユダは父イスラエルに言った。「あの子を私と一緒に行かせてください。私たちは行きます。そうすれば私たちは、お父さんも私たちの子どもたちも、生き延びて、死なずにすむでしょう。 9私自身があの子の保証人となります。私が責任を負います(***直訳では私の手からお求めください、と説明)。もしも、お父さんのもとに連れ帰らず、あなたの前にあの子を立たせなかったら、私は一生あなたの前に罪ある者となります。
「私自身があの子の保証人となります。私が責任を負います。私の手からお求めください」というのは、 「すべて私の責任で、私自身が行動しますので、どうか行かせてください。ベニヤミンの保証人に私自身がなります」 と言った時に、お父さんは、腹を括るんですね。腹を括る。
そして、腹を括って言った言葉が、ここに出て来ます。(創世記43章)14節―― 【画面:創世記43章14節全文に黄色のハイライト。「私も、息子を失うときには失うのだ」に黒ペンで傍線】 <創世記43:14> 14全能の神が、その方の前でおまえたちをあわれんでくださるように。そして、もう一人の兄弟とベニヤミンをおまえたちに渡してくださるように。私も、息子を失うときには失うのだ。」
と言う所で、腹を括るわけです。
3)どのようにして、父ヤコブが腹を括るに至ったのか?
それは、ユダの決意ですね。 「私自身がベニヤミンの保証人になり、私はベニヤミンのためにいのちをかけます。失敗したら一生私の責任として、この問題を受け止めます。誰の責任でもない。私がすべてを負います。」
先の長男のルベンの場合は、こういう風に父を説得しました。 「私に任せてください。もし失敗したら、私の二人の息子を殺してもかまいません。」 そんなことをお祖父さんが喜ぶわけがないんですけれども、そういうものの言い方をして、自分の息子二人のいのちを差し出すことによって、自分の真剣さを現わしたんです。
でもユダは自分のいのちを前に出すことによって、事の真剣さ、自分が深刻に自分のこの手でベニヤミンを守ります、と言った時に、父親はこの四男ユダの声には心を動かされ、そして行動を起こすことになるわけです。
エジプトの宰相と交渉に行くわけですが、 何が待ち受けているか分かりません。兄弟全員が怖れと不安に包まれています。 この(創世記43章)9節の、「私が保証人になる」「私の手からお求めください」「私自身が動きます」――この姿勢に、父ヤコブは心動かされました。 そして、最後父親ヤコブは腹を括ります。「行って来い」と。 「もしダメであっても、息子を失うときには失うのだ、という覚悟も私はできた」と。 「ユダよ。そこまで責任を負うと言うのなら、あなたに任せる。 あなたが自分自身で保証人となって、ベニヤミンだけではない、シメオンも、その他全員もおまえに委ねる」 という所で、ユダは父親の信頼を買い、残りの兄弟の信頼も彼は買うようになるんですね。 つまりこの時点から、十二部族の中で、ユダ族――やがてダビデが出て来る、そしてイエス・キリストが出て来る――ユダ族というものが、十二部族の中で先頭に立っていきます。
今日は選挙ですね。私たちは期日前の投票で、済ませてまいりました。 一票の大切さはよく分かるんですけれども、「たかが一票されど一票」で、どっちの心に行くのかなぁ、自分自身の中で分からないんですね。 ま、色んな方法があるんですけれども、私(藤本牧師)はともかく投票所を増やしてほしい。 全部のコンビニ、全部の駅に投票所を作って、そしてスマホアプリで、デジタル庁ができたんだから、何とか投票できるようにやっぱり考えてほしいというのが、なんていうか怠慢っていうんですかね、 高津ですと、小学校の体育館に行って、投票させられるわけですけれども、 投票所へ行きますと、びっしり細かい字で候補者の名前が並んでるんですよね。 なんであんな小さな字で、なんであんなに分かりにくく、誰が誰だかも分からない。 もう少し候補者の展示の仕方はないのか?工夫はないのか? 人の流れだけ工夫していて、それ以外何の工夫もないじゃないかという風に、私の方はいつも頭が疑問で一杯になってしまうわけですよね。
名前がずらりと並びながら、全然知らないなぁと。 勉強しない私が悪いんでしょうけれども、でもトップの方々でも、まず責任は取らないというのが人間ですから、そうすると「私自身が保証人となってこの国を任せてくれ」というような人は一人もいないだろうなぁということはもう明らかです。 いや、そもそも人間にそんなことを求める方がおかしいです。 それだけの責任を誰か一人に託すことを、私たちは絶対しません。 ですからある意味、取れない責任もあっていいんでしょう。 だけどこれに関してはあなたの責任だよ、ということが政治の世界でも、日常の世界でも、家庭の世界でも、いくらでもある。職場でも。 でもそういう責任を上司が取らない時に、代わりに他の者に責任を取らせる時に、 ルベンが言ったように、「私ではなく、失敗したならば、私の二人の息子を差し出します」みたいなものの言い方をしている限り、父親の心は動かないですよね。
ユダのような人物は私(藤本牧師)はこの国にも現れると思います。 そして必ず皆の心を動かすように、そんな責任の取り方をする人物が現れて来る。 そういう人物が現れて来ますと、ほんとに潔いなぁという風に考えさせられます。
さて、礼拝のみことばはそこにあるわけではないです。 やがて黙示録(***5:5)で、ま、へブル人への手紙(7:14)にも出て来ますけれども、イエス・キリストはユダ族から出て来る者と言われています。 キリストの別称が、「ユダ族から出て来る者」です。 すると、このみことばに、創世記のこの言葉に重なるんですよね。 キリストこそが「わたし自身があなたの保証人となります」と言って、私たちを引き受けてくださったわけです。 イエスご自身が私たちの罪を担い、私たち自身が神の国の民となる保証人となるように、イエスが私を引き受けてくださった。十字架の上で、いのちを投げ出してくださった。
その時に私たちは何を悟るのか? それは《イエスの愛を悟る》んですよね。それ程までに、私のために、ご自身のいのちをかけて、ご自身の手を動かして、私の罪を贖い、私の人生を引き受けてくださる、というイエスの愛に感動するんですよね。
で、私はこの言葉は、そういう意味ですごく象徴的だろうと思うんです。これを見ていただきます。 【画面:創世記43章14節全文に黄色のハイライト。「私も、失うときには失うのだ」に黒ペンで傍線】 <創世記43:14> 14全能の神が、その方の前でおまえたちをあわれんでくださるように。そして、もう一人の兄弟とベニヤミンをおまえたちに渡してくださるように。私も、息子を失うときには失うのだ。」
これはヤコブが腹を括った言葉です。 「私も、息子を失うときには失うのだ。」 でも、最後ヤコブはこれで腹を括るんですよ。 何が起こるか分からない。でもおまえがそこまで言うならば、所詮人間息子を失うときには失う。だからそれも良しとする。 つまり、たとえおまえが失敗したとしても、それはそれで良しとする。 私はおまえが「あの一番下のベニヤミンの保証人となる。自身の手で戦って来る。自身のいのちをかけて頑張る」と言ったその言葉に信頼して、 「私にこれから起ころうとする様々なことは、これで良しとしよう」という腹の括り方を私たちはすべきなんだなということを学びました。
つまりですね、私たちがイエスに信頼し、イエスが私たちの保証人になったということで、すべてのことが保証されているわけではないんです。 父ヤコブが言うように、「息子を失う時には失うんだ」と、様々な問題課題が、やっぱり私たちの上に降りかかって来る。 だけど一人、ユダは、「いや、どんなことが降りかかっても、私は自分の責任として全うします」という、そこまで言えた一人の人間。
イエス・キリストは、その全能の力をもってそう仰るんですけれども、私たちはイエスさまが仰ったその言葉の中にイエスの愛を感じる。 イエスの責任感を感じているわけじゃない。 ご自身の手を動かし、ご自身のいのちを与えてまでも、私たちの保証人となってくださると約束してくださった十字架に、神の愛、イエスの愛を感じるがゆえに、 「ああ、人は病気になる時は病気になるよね」「ああ、人は失う時には失うよね」と。 「でも保証人となってくださる方は、私のもとを離れず、私の人生に起こるすべてのことの保証人になり続けてくださるよね」と、 私たちも腹を括って、エジプトに送り出す――自分たちの課題に目を向けて行くのではないでしょうか?
人生って色んな事があると思います。 いつも礼拝の時に、聖書の個所を映し出してくださるのはOさんですけれども、あの文章を打ってくださるのはIYさんです。 昨日、緊急速報のテロップが出て、10秒後に自分の顔が大写しに映ったと。 そこから昼のニュースですから、全部で4時間。 昨日じゃないですね。二日前ですかね。 「ず〜っと報道してた」と。「よく耐えたね」と。 天性のものもあるんだろうと思います。また経験値もあるんだろうと思います。 でも彼の言葉はそうではなかった。 「神さまが私を支えてくださったと思います」というのが、彼のメールでした。 私(藤本牧師)はそれに加えて、「天性の賜物と経験値があるから、できたんだよね」という風にフォローします。
緊急速報が画面に出て10秒後に自分の顔が大写しになる、というのは「これから先全部あなたがやれ」っていうことですよね。 そういう瞬間に私たちは、ま、滅多なことでは立たないのかもしれませんけれども、そういう苦悩をいっぱい味わうわけでしょう。
でもイエスさまは十字架の上で、《わたし自身があなたの保証人となり、わたしの手があなたの人生を動かし、それはわたしがほかでもないあなたを愛しているからだ》と。 そして《たとえあなたが何を失おうが、どんな局面に立たされようが、わたしの愛はあなたから離れることはない》と言われたならば、 私たちも腹を括って、主に信頼をして、自分の課題に取り組んでいく以外にない、ということを示したユダとヤコブ。
そのヤコブの勇気に、「ユダは、あ、この人物が十二部族の中で、自分の息子たちの中で、一番先頭に立っていくんだなぁ」と、 そして周囲の兄弟たちも、彼に全責任を委ねていく姿勢を取ったんですね。 どうか、私たちの周りにそのような人物が現れることができますように。 どうか、私たち自身がそういう人物になることができますように。 どうか主イエス・キリストが保証人となっていてくださるのですから、私たちも少々のことは腹を括って、そして神に信頼し、全能の神が私たちを憐れんでくださるようにと、 自分に与えられた挑戦に向かっていくことができますように。
☆お祈りいたします――藤本牧師 恵み深い天の父なる神さま、かつてヨセフをイシュマエル人の隊商に売り渡したところのユダが、ここに来て、自分のいのちを張ってベニヤミンを守ると、その責任を全うするために全力を尽くす約束をした時に、父親はきっとユダの愛、ユダの勇気、ユダの責任感、ユダの行動力、ユダの決意、それらすべてを読み取ったに違いありません。
私たちが十字架のイエスを見上げる時に、一体そこから何を読み取るでしょうか?《あなたの救いのために、わたしは自分のいのちを捨てて、そして生涯あなたの行く道を守り切る》と仰ったあなたの愛を、あなたの決意を、あなたの責任感を私たちも読み取ることができるようにお助けください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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