☆聖書箇所 マタイ14:22〜34 22それからすぐに、イエスは弟子たちを舟に乗り込ませて、自分より先に向こう岸に向かわせ、その間に群衆を解散させられた。 23群衆を解散させてから、イエスは祈るために一人で山に登られた。夕方になっても一人でそこにおられた。 24舟はすでに陸から何スタディオンも離れていて、向かい風だったので波に悩まされていた。 25夜明けが近づいたころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに来られた。 26イエスが湖の上を歩いておられるのを見た弟子たちは、「あれは幽霊だ」と言っておびえ、恐ろしさのあまり叫んだ。 27イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。 28するとペテロが答えて、「主よ。あなたでしたら、私に命じて、水の上を歩いてあなたのところに行かせてください」と言った。 29イエスは「来なさい」と言われた。そこでペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスの方に行った。 30ところが強風を見て怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。 31イエスはすぐに手を伸ばし、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか。」 32そして二人が舟に乗り込むと、風はやんだ。 33舟の中にいた弟子たちは「まことに、あなたは神の子です」と言って、イエスを礼拝した。 34それから彼らは湖を渡り、ゲネサレの地に着いた。
☆説教 戸塚伝道師:ぺテロのいる風景B湖の上の信仰模様(※マスクなし笑顔で)
皆さん、おはようございます。高津教会の礼拝に良くお出でくださいました。(※身体の向きをカメラに変えて)それからオンラインで共に参加されている方も、恵みにあずかれることを心から感謝をいたします。
早速みことばに心を留めていきたいと思います。 今日はペテロのいる風景の第3回目、「湖の上の信仰模様」と題して、マタイの福音書14章の22節〜34節まで、このお言葉に心を止めていきたいと思います。
この箇所は、今から5年前、2017年の2月5日という記録が残っていますけれども、私が神学生の時に、卒業1か月前の時に、ここでお話しさせていただいた箇所と全く同じ個所だということが分かりました。 「向かい風の中のペテロ」と題して、説教をさせていただきましたけれども、今日は違った視点からこのみことばを見ていきたいと思います。
1)みことばを信じるペテロです。
物語の流れはいま読んでいただきました通りですけれども、舞台は今回もガリラヤ湖です。5000人の給食の後の出来事であることが分かります。 <マタイ14章22節> 22それからすぐに、イエスは弟子たちを舟に乗り込ませて、自分より先に向こう岸に向かわせ、その間に群衆を解散させられた。
弟子たちを無理やり舟に乗り込ませて、「自分よりも先に」ということは、イエスさまも一緒に目的地に行こうとされていることが分かります。 そして5000人の給食で興奮している群衆たちを解散させられた。 でもこの興奮は冷めやらず、イエスさまの追っかけはこの後どんどん増えていくことになるんですけれども、それはこの後の記事にずっと書かれています。
<マタイ14章23節> 23群衆を解散させてから、イエスは祈るために一人で山に登られた。・・・
ほっと一息ついて、イエスさまがされたことはお祈りすることでした。 山に登って一人、天の父なる神さま、天のお父さまにお祈りをする、そういうひと時をイエスさまは持たれました。
23(続き)・・・夕方になっても一人でそこにおられた。
「夕方」って書いてありますけれども、25節には、「夜明けが近づいたころ、イエスは湖の上を歩いて」とありますので、 夕方から夜明けまで10時間から12時間位、イエスさまは山に登られてお祈りをされていたということが想像できます。
<マタイ14章24節> 24舟はすでに陸から何スタディオンも離れていて、向かい風だったので波に悩まされていた。
この「スタディオン」という距離の単位ですけれども、下に小さく*が書いてあって、*直訳「多くのスタディオン」。一スタディオンは約185メートル、と書いてあります。 何スタディオン――10スタディオンだといたしますと、1キロ850メートルですね。 そうすると、どれ位陸から離れていたのか、かなりもう先に進んでいたのではないだろうか? どれ位のスタディオンだか分かりませんけれども、とにかく陸からはだいぶ遠くなっていて、しかも「向かい風だったので、波に悩まされて」いるような状態だった。 弟子たちはもうこの波をどうすることもできない状態でした。
<マタイ14:25〜26> 25夜明けが近づいたころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに来られた。 26イエスが湖の上を歩いておられるのを見た弟子たちは「あれは幽霊だ」と言っておびえ、恐ろしさのあまり叫んだ。
この「恐ろしさ」っていうのは、風と波に対してではなく、幽霊を見たという恐ろしさですね。思わず叫び声を上げてしまう程だったということです。 その叫び声が湖の上にこだまするような状況の中で、イエスさまは弟子たちにみことばを語られるわけです。 恐らく弟子たちは、「イエスさまは恐らく舟で後から来られるのではないだろうか」と思っていた。 「でも目の前にいるこの人はいったい何なんだ?」――湖の上を浮いているような状態だったんでしょう、波の中を。 しかも恐らく波が高くて、足が見えないような状況だったので、余計幽霊のようなそんな感じだったのかも知れません。 「イエスさまのはずはない。じゃ、これはいったい誰だ?」ということで、幽霊だと思って、この弟子たちはおびえていたわけですね。 その叫び声に答えて、イエスさまは27節――
<マタイ14:27> 27イエスはすぐに彼らに話しかけ、(***すぐにです、叫んだ途端、すぐに彼らに話しかけ、と説明)「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。
「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」 この「しっかりしなさい」という訳ですけれども、 新共同訳も聖書協会共同訳も、新しい訳では「安心しなさい」という言葉になっています。 恐らく別訳なんでしょうね。 「安心しなさい」――「しっかりしなさい」 でも「安心しなさい」っていう言葉の方が、なんかイエスさまらしい感じがいたします。
「安心しなさい。わたしだ。」――これは「わたしがいる」という言葉です。 原語では「わたしがいる」 「わたしは『わたしはある』という者である」という言葉が、出エジプト記の3章の14節に書かれていますけれども、その言葉と関連があると思われます。 「わたしがいる。恐れることはない」
「安心しなさい。わたしがいる。恐れることはない」 イエスさまのことが分からなくなってしまうような状態で、 しかもイエスさまのことを幽霊のような恐ろしい存在だと思ってしまう程の 不安な体験をしているただ中で、イエスさまはこのお言葉を語られるわけですね。
ペテロは、イエスさまのこのお言葉を、即信じます。 <マタイ14:28> 28するとペテロが答えて、「主よ。・・・」
「主よ」という言葉ですね。 イエスさまの語られた言葉を、信仰で受け止めている状態が分かります。
今朝は、先ずイエスさまの語られたこのお言葉に心を留め、このお言葉を心に刻みたいと思うんですね。 「安心しなさい。わたしがいる。恐れることはない。」 私(戸塚伝道師)の拙い説教は、何も心に残らないかもしれません。 でもこのみことばが、(※繰り返して)このみことばが、私たち一人一人の心に今朝刻まれるとするならば、どんなにこの一週間、心強く歩んでいくことができることでしょうか! 「安心しなさい。わたしがいる。恐れることはない。」 私たちもペテロと同じように、「主よ」という言葉で、このみことばを受け止めて行きたいと思います。
2)信じて行動するペテロです。
この時ペテロはこのお言葉を信じました。 でもそれだけではありませんでした。 幽霊ではない。イエスさまだということを、どうしても確かめたかったらしい。 イエスさまにわざわざお願いするんですね。28節「主よ」の後――
<マタイ14:28> 28するとペテロが答えて、「主よ。あなたでしたら、私に命じて、水の上を歩いてあなたのところに行かせてください」と言った。
ペテロが答えて、このようにイエスさまにお願いするわけです。 「私に命じて」――不可能です、湖の上を歩くことなんて。でもイエスさま、あなたが私の主ですから、私に命令して、そして不可能に命令して、どうか言うことを聞かせて、私を歩かせてください――そういうイエスさまに対する要求でした。
この時イエスさまは2つ目のみことばをペテロに言われます。それが29節。 <マタイ14:29> 29イエスは「来なさい」と言われた。・・・
「来なさい」――あなたがそこまで言うなら、そこまで求めているなら、そこまで拘っているなら―― 「来なさい」――招きの言葉ですね。不可能への招きの言葉です。
ペテロはさらにこの「来なさい」というイエスさまのみことばを信じて、舟から出ます。 波はものすごい高い状態。恐らくもう服も濡れるような状態だったかも知れない。 でも舟から出たペテロは、湖の上を歩くことができた。 目の前には「来なさい」と言われたイエスさまが立っておられる、湖の上を。 ペテロはそのイエスさまに向かって、そろりそろりと歩いて行くわけですね。 恐らく自分でもびっくりしたと思うんです、ペテロは。 でも湖の上を歩くことができた。
この体験は、ペテロだけしかできなかった体験。 舟の中にいた他の弟子たちはどうだったかと言うと、まだ怖がっていた。まだ幽霊だと思っていた。 その証拠に、やっと礼拝したのが、33節―― <マタイ14:33> 33船の中にいた弟子たちは、「まことに、あなたは神の子です」と言って、イエスを礼拝した。
というのは、イエスさまとペテロが舟に乗り込んで、風が止んだ後です。 風が止んで初めて、そしてイエスさまとペテロが舟に乗り込んで初めて、舟の中にいた弟子たちは、「ああ、あなたはイエスさまだったんですね」と気づくわけです。 でもペテロは違っていた。ペテロはもうイエスさまだという、そのみことばを信じて、一歩踏み出して、不可能を可能な状態として、湖の上を歩く体験をさせていただいた。
ペテロの信仰に立った行動力――これはペテロの性格に由来するものではなかったのではないかと、私(戸塚伝道師)は思うんですね。 ペテロの性格、ペテロのキャラというのは、先ず得な性格ですね。すごく得な性格です。 聖書を読んでも何となく憎めない、可愛げのある、分かりやすい単純な所があります。 この性格が、そして持ち前の好奇心の旺盛さが、その場の思い付きで、怖がりなのにも関わらず、怖いもの知らずになってしまって、ペテロはイエスさまにお願いした。 すごく興味津々で、「ああ、俺もイエスさまのように歩きたい!」と思ったんでしょうね。
どうしたらできるかを考える人と、なぜできないかを考える人の二種類がいると言われています。 どうしたらできるかを考える人はペテロ。 なぜできないかを考える人は私(戸塚伝道師)です。臆病ですね。はっきり言って。 慎重だって言えば、それは聞こえはいいですけれども、私は臆病です。
でもペテロは違っていた。 どうしたらできるかをいつも考えようとした人でした。 私はこのような前向きな性格に憧れています。 ああ、そんな人になりたいなぁと思います。 ペテロっていいなぁと思います。 ペテロのような単純さが欲しいなぁと思います。
ペテロは湖の上を歩くことができた。 私たちもイエスさまに、湖の上を歩くことができるような、そんな体験を時々させていただくことがある。 自分でもびっくりするようなことができちゃったとか、 信じられないような人と出会い、信じられないような展開になったとか、 イエスさまって、そんなすばらしい恵みを時々用意されているお方なのだ。 それは臆病な私でも体験させていただきました。
3)疑うペテロです。
(マタイ14章)30節、ところが――この「ところが」という接続詞から急転しますね、この物語の流れが。
<マタイ14:30〜31> 30ところが強風を見て怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。
「強風を見て怖くなり」――私たちもそうですね。 信仰をもって踏み出したはいいけれど、現実を見て怖くなる。
そして怖いと思った瞬間、湖の上を歩くことができなくなってしまいました。 そして沈みかけてしまったのです。 恐らくこの体験というのは、不思議にも湖の上を歩くことができたという有り得ない体験から、現実に急に戻されて沈みかけてしまったという、 この落差というものはものすごく大きかったのではないかと思います。 とっさにペテロは叫びました。「主よ、助けてください!」 もう溺れかけてしまうのかもしれません。元漁師なのに(笑)。 「自分はもうこのまま沈んで、この大波の中、もう死んでしまうのではないだろうか」という恐ろしさ。 しかし31節――
31イエスはすぐに手を伸ばし、(***ここにも「すぐに」という言葉が出て来ます、と説明)彼をつかんで言われた。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか。」
イエスさまのこの言葉は、ペテロを叱ったりするような感じではなくて、なんかこう「あ、やっぱりペテロだなぁ」(笑)という思いで言ったんでしょうね。 「信仰の薄い者よ。なぜ疑うのか。」――信仰の薄い者、疑うペテロ。 何を疑ったのか?――イエスさまのみことばを疑いました。 「安心しなさい。わたしがいる。恐れることはない。」(マタイ14:27) このお言葉を信じていたのに、信じて行動したのに、現実を見て恐ろしくなり、そして疑ってしまった。 「ああ、安心なんかできない。目の前にいるお方はイエスさまじゃないのかもしれない。 恐れることはないなんて言っても、もうこの状態はもう沈むほかない。この状態は。 ああ、やっぱり駄目だったのか」 沈みかけたペテロは、イエスさまに腕をつかまれたまま、引きずられるようにして、 一緒に舟の上に行くわけですね。
これまでのこの物語の流れを振り返ってみますと、ガリラヤ湖という湖の上でペテロがあるがままの様々な信仰模様を、私たちに見せてくれていることが分かります。 それを思い巡らして、今日のお話を終わりたいと思います。
第一の信仰模様――信仰の出発点、それはイエスさまのみことばを信じることでした。 「安心しなさい。わたしがいる。恐れることはない」というみことばを信じること。 でも信じるだけではありません。 そのみことばを信じたらば、腹をくくって――先週も語られていました、「腹をくくって」という言葉が――腹をくくって行動をしてみる。現実を受け止めてみる。 様々な大きな進路にぶち当たった、試練の中にあって、或いは大きな仕事を目の前にして、人生の節目に当たって―― 私たちはイエスさまのお言葉を信じたらば――そのみことばに立って行動してみる。現実を受け止めて行動してみる。 そういう信仰の側面ってありますね。
でも第二の信仰模様があります。 信じても、現実の厳しさでどうにもならなくなって、怖くなってしまったら、どうすればいいのか? それはイエスさまに叫ぶことです。 他には沈んでいくほかない私たちは、目の前のイエスさまに叫ぶほかないんです。 「主よ、助けてください」って(笑)、叫ぶほかないんです。 もう叫び声を上げる以外に何ものでもない――でもこれも一つの信仰。 「イエスさま、助けてください」 だから私たちは祈ります。私たちの無力さを十分分かっているから、私たちは祈ります。 そしてお互いのために祈り合います。 そんな立派な祈りなんかできない。それこそ「主よ、助けてください」っていう、2秒の祈りしかできないかも知れないです。 でもそんな切実な、そんな心から振り絞るような、裏表のない祈りに、イエスさまはちゃ〜んと耳を傾けてくださる――そういうお方です。
三つ目の信仰模様。 それでも沈みそう。叫んでも沈みそう。信仰が薄くて疑ってどうにもならない。 「目の前のお方はもうイエスさまじゃない。やっぱり幽霊だ」と思ってるようなペテロに対して、イエスさまは手を差し伸べてくださるわけです。 その差し伸ばされたイエスさまの腕にしがみつく、(※両手をご自分の前に出して見せてしがみつく様子をやって見せる戸塚伝道師)ひたすらしがみつく――これが三つ目の信仰模様。 イエスさまの腕って、太かったでしょうね、きっとね。 ペテロの腕も太かったと思います。網を引き上げることを何回もやっていて、漁師の腕って筋骨隆々な腕だったと思います。 でもイエスさまの腕も太かったと思います。大工さんをなさっておられたし、色々な物を担いでおられたから。
でもペテロはしっかりとイエスさまの腕にしがみついていたわけです。 何にもできない。叫ぶこともできない。ただ目の前に差し出された腕にしがみつくだけ。 でも、それも立派な信仰ですよ。なぜ?その腕は、イエスさまの腕だったからです。 イエスさまの腕にしがみついていれば大丈夫。舟まで行けるんですよ(笑)。
でもここでもう一つ考えたいことがあります。 第一の信仰、みことばを信じて行動する信仰でもない。 第二の信仰、「主よ、助けてください」という叫び声を上げて祈る信仰でもない。 第三の信仰、差し出された腕にしがみつく、そういう信仰でもない。 第四の信仰があります。 それはこのみことばをよく読むと分かるんですけれども―― (※この辺りから段々声に力が入る) 「イエスはすぐに手を伸ばし、彼をつかんで言われた」とあります(マタイ14:31)。 つかんだのは、ペテロじゃなかったんです。つかんだのはイエスさまだった。 ペテロは何にもできず、もう沈むだけ。 その沈もうとしているペテロの手をつかんだのは、イエスさまだったの。 イエスさまがペテロの手をつかんだ。 そうすると、第四の信仰って何でしょうか?――イエスさまにつかまれたままでいることです。
何にもできない。何にも分からない。つかまれているという自覚さえないかも知れない。でもこれも信仰。いや、これこそ信仰の本質なのかも知れません。 私たちは信仰をしっかりと持ちたいと思いますし、薄い信仰よりも強い信仰・濃い信仰が欲しいと思いますし、しっかりと信仰をもってイエスさまと共に歩んでいきたいと思います。 信仰をしっかり持たなくちゃだめだ〜、と思う時もあります。 でも怖いものは怖いんです(笑)。ダメなものはダメだし、無理なものは無理なんです。
そうすると信じるって一体何でしょうか? 信じるっていうのは、私たちの頑張りから出て来るものじゃないんですよ。 私たちの側に信仰って本当はない。 「いや、信じているじゃないですか?」――でも、自分で信じたんじゃない。 自分の努力で信じたんじゃない。神さまの側にある恵みなんです。
人間がどうあるべきか、ということよりも、クリスチャンがどうあるべきか、ということよりも、そのあるべきこともままならない自分の情けなさ。 それを嫌という程知らされて、もうイエスさまにしていただく以外にはない。 手も差し伸べることもできない(笑)。もうイエスさまにつかまれたままでいる。 これぞまさに恵みだと思います。これぞまさに信仰だと思う。
で、私もいつか、様々な老化現象の中で、そんな日々を迎えることがあるかも知れない。 何にも分からなくなってしまって、何にもできない。でも存在しています、この世に。 イエスさまに価値ある者として、人間の尊厳が与えられて生かされていることは事実です。 でも何にもできない、何にも分からなくなった時、唯一の希望は何でしょうか? イエスさまに手をつかまれている、ということです。
第四の信仰――イエスさまにつかまれたまま、引きずられるように、やっとのことで舟にたどり着いたペテロ、この時風が止みました。 舟の中にいた人たちは礼拝しました。 「ああ、あなたこそ神の子です。こんな激しい波が一瞬に収まりました。ああ、やっぱりあなたは幽霊じゃなくて、イエスさまだったんですね。感謝します」って、舟の中にいた弟子たちは礼拝しました。
でもペテロだけは礼拝できない心の状態でした。 怖くて、びっくりして、ショックで、もうイエスさまの前に、もしかしたら舟の上でもう横になっていたかもしれない。 イエスさまが「ああ、よしよし」ってペテロをあやしている感じ。 「ああ、怖かったね、ペテロ。無理させちゃって悪かったね」なんて、イエスさま仰っていたかもしれない。 何と情けない、薄い信仰でしょうか! でも極めて現実的な信仰の姿なのかもしれません。 しかしこのような者に与えられるのが神さまの恵みです。 これがイエスさまに愛されたペテロの姿であり、 そしてペテロを捕らえてくださったイエスさまは、私たち一人ひとりにも同じようにその手を捕らえてくださって、 情けない信仰のまま、私たちはイエスさまに愛されています。
☆お祈りいたします――戸塚伝道師
ガリラヤ湖の上を歩かれた、愛するイエスさま、二千年の時空を超えて、この朝も言い知れぬ不安を抱えている私たちに、あなたは「安心しなさい。わたしがいる。恐れることはない」と声をかけ続けていてくださっていることを感謝いたします。このお言葉を心に刻み、「来なさい」と言われるあなたを見つめながら、また色々なことが待っているこの一週間を歩み出したいと思います。
それでもペテロのように情けない信仰のゆえに、すぐにあなたよりも他のことに気を取られて、沈みそうになることがあるかも知れません。どうぞいつでもあなたが御手を伸ばして引き上げてください。たとえ、あなたの御手にしがみつくことさえできないとしても、あなたが私の腕をつかみ続けてください。そしてあなたの手に引かれながら、逆風の湖の上のような現実のただ中を、共に歩ませてくださいますように。イエスさま、どうぞよろしくお願いいたします、あなたの御名で父なる神さまにお祈りいたします。アーメン。
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