☆聖書箇所 マタイ16:21〜23 21そのときからイエスは、ご自分がエルサレムに行って、長老たち、祭司長たち、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならないことを、弟子たちに示し始められた。 22すると、ペテロはイエスをわきにお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあなたに起こるはずがありません。」 23しかし、イエスは振り向いてペテロに言われた。「下がれ、サタン。あなたは、わたしをつまずかせるものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」
☆説教 戸塚伝道師:ペテロのいる風景D「下がれ、サタン」
今日も神さまのみことばに心を留めていきたいと思います。 「ペテロのいる風景」と題しまして、シリーズもので共にみことばを読んで来ましたが、今日は第5回目です。 「下がれ、サタン」と題しまして、マタイの福音書16章の21〜23節のみことばに心を留めていきたいと思います。 3つの視点で共に思い巡らしをしていきたいと思います。
1)イエスさまの受難の予告とペテロの反応について
マタイの福音書16章の21節をご覧いただきたいと思います。お読みいたします。
21そのときからイエスは、ご自分がエルサレムに行って、長老たち、祭司長たち、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならないことを、弟子たちに示し始められた。
「そのとき」とは、ペテロがイエスさまに信仰告白をした時ですね。 「あなたは生ける神の子キリストです」(***マタイ16:16)と信仰告白をした時から、 イエスさまはこのような《受難と復活の予告》を弟子たちにしました。 「多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならないことを、弟子たちに示し始められた」とあります。
これを聞いたペテロの反応が、その次に、(マタイ16章)22節に書かれています。
22すると、ペテロはイエスをわきにお連れして、いさめ始めた。・・・・・・
この「いさめる」という言葉はどういうことなのか?新明解国語辞典で調べてみました。こうありました。 「正しい道のあり方を示して、悪い行いを止めさせたり、欠点を改めさせたりすること」――いさめる。 ペテロはイエスさまに対して、悪い行いをやめさせたり(笑)、欠点を改めさせたりするようなことをここで口走ったということでしょうか?
22・・・・・・「主よ、とんでもないことです。・・・・・・」 「苦しみを受け、殺され」、でもペテロには、「三日目によみがえる」という復活の予告は耳に入らなかったのでしょうか? 「主よ、とんでもないことです」――この「とんでもないことです」という言葉に*がついていて、聖書をご覧いただきますと、下の22節(の注に)直訳とありますね。 「主よ、あなたに憐れみがありますように」というのが直訳になっています。 これはどういうことかと言いますと――恐らく「神さまが憐れんで、そんなひどい目には遭わせないようにしてくださいますように」ということでしょうか?
イエスさまに対して、「とんでもないことです」と言って、いさめる。 まるで親しい友人に忠告するような態度で、このように「とんでもないことです、主よ、そんなこと」と。 これがイエスさまの言葉に対する強い否定の響きとなって、そしてその思いを直接的に言い表したのが、その次の言葉ですね。 「そんなことがあなたに起こるはずがありません」(22)とペテロは断言いたします。
ペテロはイエスさまのことを「生ける神の御子キリストである」ことを告白しましたけれども、 「その生ける神さまの御子キリスト」であることと、「苦難を受ける」ということが、どうしても結びつかなかったのでしょう。 ペテロは善意からイエスさまに忠告したんですね。 「そんなことがあなたに起こるはずがありません」――当然、この言葉、ま、上から目線のような言い方だったかもしれませんけれども――イエスさまはこの忠告を、思いを受け止めてくださると、ペテロは思っていました。
ところが、そんなペテロに対して、一見驚くべき反応をされました。
2)イエスさまの反応を見ていきたいと思います。
23しかし、イエスは振り向いてペテロに言われた。・・・
同じ記事がマルコの福音書の8章の33節に書かれていますけれども、このマタイの福音書にはない言葉が二つあります。 「イエスは振り向いて」という言葉の後に、「弟子たちを見ながら」という言葉がマルコの福音書の方には書かれています。 もう一つマルコの福音書に書かれていて、マタイにはない言葉は――「叱って」という言葉ですね。 弟子たちを見ながら、つまり弟子たちに「これからいう言葉、これを良〜く聞いておけよ」――そういう気持ちなんでしょうか? そして「叱って」次の言葉を言ったんですね。その次の言葉が―― 「下がれ、サタン」という言葉です。「下がれ、サタン」
「サタン」というのは悪魔のことです。 教会で、特にこの礼拝の講壇で、サタンだとか悪魔だとかいう言葉をしょっちゅう語られることはありません。 でも悪魔っていう存在というのは、これは実在する霊的な存在です。 私たちの神さまに対する信仰を無きものにしようと働いている力を持つ、そういう霊的な存在。 神さまから私たちを引き離そうとして、欲望のとりこにさせようとするような、そういう働きをもって今も働いている、目に見えない存在――それがサタン、悪魔ですね。
「下がれ、サタン」――イエスさまは、ペテロのことをサタンだと思ったのではないと思います。ペテロはペテロです。 でもペテロに向かって「サタン」という言葉を使った。 「主よ、とんでもないことです。そんなことがあなたに起こるはずがありません」という、 (ペテロの)言葉の裏に潜む、サタンの誘惑を、イエスさまは感じ取られたんだと思いますね。 そしてこの時、イエスさまの心に思い浮かんだのは、イエスさまが荒野で経験された《3つの悪魔の試み》だったと思います。
その3つの悪魔の試みが、マタイの福音書の4章の1節から11節に書かれています。 この3つの誘惑は、人となられたイエスさまにとっては手強いものでした。 勿論イエスさまはサタンよりも強いお方ですし、あっという間にサタンを滅ぼす力を持つことができるようなお方です。 だけれども、この誘惑というのは、もし負けたらイエスさまにとって致命的な誘惑であった。
イエスさまが神さまであられるお方なのに、人となってこの世に下ってくださった。 人間となってくださった。弱さを経験される、そういう存在となった。 人間として生きようとするときに、恐らくサタンの力というのは、ものすごい力だったに違いない。 だから常に聖霊の助けを仰いでいる、イエスさまの姿を所々に聖書に見ることです。
カトリックの司祭でヘンリー・ナウエン(1932〜1996)とう人がいますけれども、ヘンリー・ナウエンの書かれた本の中に、「イエスの御名で」という本があります。 かつてカレブ会で読書会をしましたね。30年近く前でしょうかね。 この本の中に、イエスさまが経験された3つの誘惑について、分かりやすく、ヘンリー・ナウエンはこのように表現してまとめています。
イエスさまが経験された3つの誘惑 1.自分の能力を示そうとする誘惑 「あなたが神の子なら、これらの石がパンになるように命じなさい」(マタイ4:3) 2.人の関心を買う誘惑 「あなたが神の子なら、神殿の屋根から下に身を投げなさい。きっと神さまが守って下さってイエスさまなら無傷でしょう。 『おお、すごい、すばらしい』と言ってみんな拍手喝采。」(マタイ4:6) 3.権力を求める誘惑 「もしひれ伏して、私(サタン)を拝むなら、これ(***この世のすべての王国とその栄華、と説明)をすべてあなたに上げよう。だから私のことを拝め。礼拝せよ」(マタイ4:9)
とイエスさまに持ちかけるわけです。 権力を持つ誘惑、そして思いのままに世界を支配する。そして欲望の赴くままに、イエスさまが私たちの前に現れて、自由に君臨される。権力を使おうとする、そういう誘惑。 イエスさまは自分の能力を示す誘惑、人の関心を買う誘惑。権力を示す誘惑—―この三つの誘惑をこの荒野で体験されるわけです。
人となられ、人の中で救い主として歩まれたイエスさまを、サタンは放っておくはずがありませんでした。 で、この時、しつこいこの悪魔の誘惑に、3つ目の誘惑が終わった後、語られた言葉が同じ言葉――「下がれ、サタン」(マタイ4:10)という言葉ですね。
イエスさまはペテロのこの言葉の裏に、サタンからかつて受けたこの3つの誘惑の臭いを感じられたのですね。 「主よ、とんでもないことです。そんなことがあなたに起こるはずがありません」という、ペテロの忠告の言葉。 「あなたは苦しむはずがありません。死ぬはずがありません。」 「あなたは生ける神の子キリストではありませんか」とペテロは告白していたわけですよね――「生ける神の子キリストが、そんな殺されるなんて、そんなはずがない」
サタンの荒野での3つの誘惑の枕詞は、イエスさまに対して、「あなたが神の子なら」という言葉でした。 「あなたが神の子なら、神の子ならば、こうできるでしょう。こうすることも可能でしょう?」っていうサタンの誘惑でした。 「栄光のキリストが苦難に遭うはずがない」と考えたペテロは――苦難を避けて、そして《自分の能力を示し、人の関心を買い、権力を求める》―——この道にイエスさまを、結果的にペテロは誘惑した格好になってしまったわけですね。 「あなたにそんなはずがない。神の子ですから。あなたは神の子ですから」――そういう思いでイエスさまに接して、この言葉をペテロはイエスさまに申し上げた。 ペテロはサタンと同じような立場に無意識的に立たされていたのかもしれない。 イエスさまはすぐ反応されて、「下がれ、サタン」――そのように口走りました。
「下がれ、サタン」――これが今日の説教題なんですね。 教会によっては、説教題を玄関の所に掲げている教会があります(笑)。 道を歩く人がそれを見て、「下がれ、サタン」(笑)――「なんだ!この教会は。」 なんか誤解を受けそうな、そういうイメージを与えるかもしれない。 でもこの「下がれ、サタン」という言葉は、イエスさまの言葉です。イエスさまの口から出た言葉、みことばです。
以前教会学校で聖句暗唱をしていました。 聖句暗唱、もしそういう聖句暗唱があったら、子どもたちは大喜びです。短いから。 「はい、皆で言ってみましょう。はい、下がれ、サタン」(※と両手を広げて、子どもたちを誘うしぐさで)。 「下がれ、サタン。マタイの福音書16の23」
イエスさまの言葉――どんな思いで、この「下がれ、サタン」をペテロに対して言ったんでしょうか? ペテロをサタン呼ばわりされたイエスさまの言葉に、《すべての人を救うというご自分の使命に対する本気度》が伺えます。 《わたしは十字架にかかって、すべての人の罪を贖い、サタンの頭を砕き、死の力を滅ぼして三日目に復活し、救いのわざを完成するためにこの世に来た。》 その本気度が、この「下がれ、サタン」というペテロに対するイエスさまの言葉の中にビンビン響いている。
だから、イエスさまのペテロに対する思いは、「ペテロよ、お願いだから邪魔しないでほしい」っていうそういう思いなんでしょうね。 「邪魔しないでくれ、ペテロ」――だから16章23節に「あなたは、わたしをつまずかせるものだ」ってペテロに仰っています。 「下がれ、サタン」の後に、「あなたは、わたしをつまずかせるものだ。」 「邪魔しないでくれ。ペテロ。 《わたしはすべての人を救うためにこのいのちを捨て、すべての人を死から解き放つために復活するという、天の父から与えられた使命がある》というのに、 ペテロよ、邪魔しないでくれ。 おまえはわたしをつまずかせるものだ。 ペテロ、おまえは十字架の道を辿ろうとするわたしを、引き止めるのか? すべての人のための救いを完成させるわたしを引き止めるのか?」 イエスさまはそんな思いをペテロにぶっつけたんでしょうね。
ペテロは父なる神さまによって、イエスがキリストであることを知らされました。 でも残念なことに、本当に残念なことに、キリストであることが何を意味することかは、この時のペテロには全然分かっていなかった。 《キリストであるからこそ、苦難に遭わなければならない》ことを、理解していなかった。 ペテロはイザヤ書53章を読んでいたと思うんですね。 一生懸命、ユダヤ人ですから、旧約聖書なんかもう全部暗記していた位、もう読んでいたと思うんです。 53:3「彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。 53:7「彼は痛めつけられ、苦しんだ。だが、口を開かない。屠り場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。」 53:8「虐げとさばきによって、彼は取り去られた。」 と言うこのイザヤ53章の言葉を、ペテロは読んでいたと思います。 でもそれと、目の前の先生とが結びつかなかった。
3)ペテロへの止めの一言をイエスさまは言われます。
それは、(マタイ16章)23節の最後の部分ですね。 23・・・あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」
「あなたは、(***これはサタンに対してではなくて、ペテロに対してですね、と説明)神のことを思わないで、人のことを思っている。」 ペテロの心の奥底をイエスさまはお見通しでした。 神のこと――神のみこころ――ではなく、人のこと――人間的な名誉や評価――を気にしている。 そんなペテロの心の奥底を、イエスさまはよ〜くご存じだった。
ペテロにはそのような自覚はあったのでしょうか? 分かりません。あったのかもしれないし、この時気づかされたのかも知れないし、全然気づいていなかったのかもしれない。 でも少なくとも、人間的な同情に従って動いてしまったことは確かなようですね。 「あなたが苦難に遭うはずがないでしょう。」
でも、「あなたが苦難に遭うはずがない」というその言葉の裏に、自分もそれにあやかれると思っていたのかもしれない。 私のキリストです。だから私だって、平安の内に、勝利の内に、キリストと共にローマ帝国の力から勝利して、 そして、私もこのキリストと共に、力をもって治めることができるような、そういう立場に自分も置かれるのではないか――そういう期待を薄々持っていたのかもしれない。
更には、ペテロにもサタンの誘惑、イエスさまが味わわれた誘惑と同じようなこと、心の中にもしかしたらあったのかもしれない。 イエスさまから、このすぐ前に言われたばかりですね。 「あなたはペテロですよ。あなたはその信仰告白の上に、わたしの教会を建てますよ。わたしは天の御国の鍵をあなたに与えますよ。」(***マタイ16:18〜19) ペテロはその言葉を聞いて、中身はよく分からないのに、「自分はイエスさまから特別扱いされた」と思ってしまったのかもしれない。
「下がれ、サタン」(マタイ16:23)とイエスさまが言われたのは、本当はペテロが神のことを思わないで、人のことを思うように仕向けようとする、サタンに対して言われたんでしょう。 ペテロを守るためだったのだと思う。 でもこの時ペテロはイエスさまの言葉がどれ位分かったのでしょうか? 「下がれ、サタン」っていきなり言われた。 でも申し訳ないですけれど(笑)ここを読むと、本当は深刻な場面なのに、「あ、やっぱりペテロだな」と、『下がれ、サタン』と言われちゃってるペテロなんだな」と思わず読んでいて、にやけてしまう気がします。 「あ、やっぱりペテロか。『下がれ、サタン』と言われちゃったのか」と。
ここまでのお話だけですと、聖書の学びだけで終わってしまいますけれども、 今朝私たちは、最後にわが身を振り返ってみたいと。 「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」という言葉を、ペテロに向けられた言葉ではなくて、自分に向けられた言葉だとしたらどうなんだろうか? 「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」 「そんなことはありません」――私は胸を張って堂々と言えない。
私は人のことを思わないで、神のことを本当に思っているんだろうか? あ、もしかしたらペテロと同じかもしれないなぁ。 人様のお役に立ちたいと思って様々なことをしてきた。 でもそういう思いの中に潜んでいる、知らず知らずの内に、自分では気がつかないものがあるのかもしれない。 この「自分では気がつかない」っていうのが一番怖いですね。
もっと滑稽なのは、他の人は分かっているのに、自分では分からない、というのはもっと怖いですね。 自分は牧師としてどうなんだろうか? 自分の能力を示そうとすること?――それは全然思ってない。 人の関心を買う?――そんなこともない。権力?――そんなの持ってない。 自分の足りなさというのは十分わかっているからです。
でも教師だった時の自分っていうのは、そうじゃなかったな。 教師だった時は、自分の能力を示そうと思ったし、人の関心を買おうと思ったし、権力を使って、思いのままに指導して来たのは、これは世の中が当然求める価値基準ですよ。 世の中はそれを要求して来ます。 でもその中に潜む、サタンの誘惑の目というのがある。
教師で一番嬉しい言葉っていうのは何か? 「ああ、戸塚先生のクラスでよかったなぁ」っていう子どもの言葉です。 麻薬です、この言葉は。もっと言って〜(笑)。 保護者からも「先生でよかったわ〜」もっと言って〜(笑)。 自分の能力を示し、人の関心を買い、権力を振りかざす。 人から認めてもらいたい、高く評価してもらいたい、何か誉め言葉の一つでも言ってもらいたい。 でもその根底にあるのは承認欲求で、いつの間にか傲慢になり、謙虚さが失われていく。サタンの思うつぼなんです。
で、そういう時、気がつかされた時に、「あ、神さま、そうでした。分かりました」。 で、悔い改めて、決心して、だけどまた同じことを繰り返して、なんかそんな信仰生活を自分は送って来たなと思う。 でも、「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」っていう風にイエスさまに言われた時に、「あ、そうです」って、自分に正直になりたいなと思いました。 「そうです」――自分のありのままを見据えて――「私はこのような者なのです」。 その時に、私には何もできませんから、イエスさまがその時してくださる。 イエスさまが必要なわざを、私たち一人一人に為してくださる。
イエスさまは神のことを思わないで、人のことを思うこの私のために、先ずはイエスさまがサタンの誘惑を経験されました。 サタンの誘惑に立ち向かいながら、すべての人の救いのために、十字架・復活への道を行かれました。 ペテロのためにも、そして私たち一人一人のためにも。私のためにも。
今も、2000年の時空を超えて、この私のために、「下がれ、サタン」と言って、イエスさまが私を守ってくださる。 イエスさまが叫ばれるから、効果があるんですね。 私たちが、「イエス・キリストの御名によっておまえに命じる。サタンよ、退け」と言っても、――勿論言わないよりはいいんでしょうけれども―でも自分の決心と言うのはたかが知れている。 サタンの力を見くびってはいけない。ほんとにサタンの力の前で。 でも、イエスさまがその前に立ちはだかって、「下がれ、サタン」と言ってくださる。
お話を締めくくります。 ペテロを叱った後、ペテロに対するイエスさまの思いは恐らくこうでしょう。 「ペテロ、びっくりさせてすまなかったねぇ。ペテロよ、わたしはあなたのためにも、天の父のみこころの通りに、間もなく救いの道を完成させるよ。」 イエスさまがこのような思いで、この後、ペテロに接しなさったのではないかと思うんですね。 ペテロとイエスさまとのこのやり取りから一年も経たずに、この時ご自分が弟子たちに予告された通りに、イエスさまは受難の道を進んで行かれました。 そして今、十字架・復活の救いの恵みは、すべての人に用意されています。
☆お祈りいたします――戸塚伝道師
愛するイエスさま、ほんとに弱いものです。気づかぬ内に悪魔に誘惑され、そしていつの間にか、ペテロのように人間的な価値観に縛られて、あなたのみこころから外れてしまったことが何度あったことでしょう。もしかしたらこれからもあるかも知れません。自分の頑張りではどうすることもできません。お許しください。憐れんでください。
でもそんな情けない信仰にもかかわらず、手強い悪魔の誘惑に対して、先ずはあなたが「下がれ、サタン」と宣言され、打ち勝ってくださいました。またあなたの十字架・復活のゆえに、あなたをキリストと告白した私たちのことを、命がけで守ってくださいますから感謝いたします。
今週も私たちの弱さに寄り添いながら、必要に応えてくださり、サタンのわなから守ってくださり、共に戦ってくださいますように。救い主であられるあなたのお名前でお祈りいたします。アーメン。
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