☆聖書箇所 マタイ16:21〜26 21そのときからイエスは、ご自分がエルサレムに行って、長老たち、祭司長たち、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならないことを、弟子たちに示し始められた。 22すると、ペテロはイエスをわきにお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあなたに起こるはずがありません。」 23しかし、イエスは振り向いてペテロに言われた。「下がれ、サタン。あなたは、わたしをつまずかせるものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」 24それからイエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。 25自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者はそれを見出すのです。 26人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら何の益があるでしょうか。そのいのちを買い戻すのに、人は何を差し出せばよいのでしょうか。
☆説教 戸塚伝道師:ペテロのいる風景E ゆだねて生きる恵み
藤本満先生のいない礼拝、だいぶ慣れましたけれども、なんか心細いです(笑)。こんな大きな教会の説教を私一人でやっていいんだろうかという、なんかプレッシャーみたいなのをいつも感じ、いつもここに(※右手を牧師席に向けて差し出して)藤本満先生が座っててくださるので(笑)、なんか安心してお話しできるんですけれども、なんかこう一人で、たった一人でここに立っているという心細さを感じることですけれども、神さまの助けを仰ぎながら今日も語らせていただきます。皆さんもどうぞ(笑)よろしくお願いいたします。
今日は「ゆだねて生きる恵み」と題しまして、マタイの福音書の16章の23節〜26節まで、このお言葉から恵みを分かち合いたいと思います。 3つのポイントでお話をしていきたいと思います。
1)イエスさまについていきたいと思う人の覚悟
この箇所は、一連のストーリーになっていますね。 今まで「ペテロのいる風景」と題しまして、ずっと続けてここからお話しして来ました。
ペテロの「あなたはキリストです」と言う信仰告白、それなりに真実なものであったことは確かです。イエスさまもそれを受け止められました。 でもペテロも他の弟子たちも――「イエスさまについて行けばなんかいいことありそうだ」――ま、そういう程度のことだったんでしょう。
だからイエスさまからの受難の予告――「わたしは殺される。わたしは長老たち、祭司長たち、律法学者たちから多くの苦しみを受けなければならない」(マタイ16:21)――そういうイエスさまからの受難の予告を聞いて、それを受け止めることができませんでした。
ペテロは余計なことをイエスさまに忠告しました。そしてイエスさまに叱られました。 それでもう全然ペテロは納得しなかったのでしょう。 納得できないままのペテロや弟子たちに、イエスさまの言われたのが、今日のこのお言葉――(マタイ)16章の24節の「それから」で始まっているこの言葉ですね。お読みいたします。
24それからイエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。
「わたしについて来たいと思うなら、わたしに従って来なさいね。ただし自分を捨て、自分の十字架を負ってくださいね」とイエスさまは仰った。
「自分を捨て、自分の十字架を負う」って一体どういうことなのでしょうか? この聖書の文脈ではどのように読んだらいいのでしょうか? それは、ペテロが叱られたイエスさまからの言葉――「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」(23)――こういう生き方と正反対の生き方――「人のことを思わないで、神のことを思う」――そういう生き方を含んでいることだと思います。
「自分を捨てる」って一体どういうことか?自分とは何か? それは「そんなことがあなたに起こるはずがありません」(22)という自分の思い込み、自分の願望――「なんかいいことありそうだ。イエスさまについて行くと、いいことがありそうだ」――そういうようなものが自分ですね。自分。 ということは、「あなたは生ける神の子キリストです」って言って告白するそのキリストってどういうような捉え方をしているか?っていう、その信仰告白の中身が問われてくるのではないだろうかと思うんです。
ペテロや弟子たち、当時のユダヤ人たち――「イエスさまについていくといいことがありそうだ」――薄々感じている人たちが多くいたのでしょう。 キリストのイメージ、メシアのイメージ。 「あなたは神の子キリストです」と告白したペテロは、受難の予告の前のイエスさましか見ていなかった。 そのイメージで、「あなたは神の子キリストです」と告白した。
どのようなイメージで、どのような状況を見ていたのか?ペテロたちは。 病気が癒されました。悪霊が追い出されました。死んだ人を生き返らす――そういうこともイエスさまはなさいました。 湖の上を歩きました。そして5000人の給食を行いました。 「イエスさまってすごいお方だ。そんなお方の後をついて行くと、何かいいことありそうだ」――これが自分の思い込みの中核にあったのかもしれない。
やがてはこの方について行くと――「(この方は)ローマ帝国を滅ぼし、圧政からイスラエルを解放し、王国を建て、私たちを統治される王、メシア、そういう方になるかもしれない」。 当時のユダヤ人たちは、そういう人を待ち望んでいました。メシアが現れるのを待ち望んでいました。 もしかしたらこの方がそうなのかもしれない。 特に弟子たちは、「自分たちもその王、キリストのおそばで仕える12人になるかも知れない」と期待していたのかも知れない。
『鎌倉殿の13人』という大河ドラマをやっていますけれども、『鎌倉殿の13人』じゃなくて『キリストさまの12人』(笑)イエスさまにお仕えする12人。 「イエスさまのそばで特別に選ばれて、特別に可愛がられて、特別にひいきされて、特別な優遇を受ける、そういう12人に私たちはなれるかも知れない」と弟子たちは思っていたかも知れない。 特にペテロはそう思っていたのでしょう。 能力を示し、人の関心を買い、権力を手に入れられる――こういうような思い、これが自分ですね。自分。自分の思い込み。自分の願望。 イエスさまは、そういう思いを持っている弟子たちの心をちゃ〜んと見据えて「これを捨てるように」って仰った。 「自分を捨てて来なさい」――弟子たちに、特にペテロに向かって言ったのかも知れないですね。
「自分の十字架を負う」ってどういうことでしょうか? イエスさまはこれから多くの苦しみを受け、十字架につけられ、殺されることになります。 十字架を背負うわけですね。 それと同じように、イエスさまについて来たいと思っているあなたがたも、自分の十字架を負うように。 その十字架とは何か?――迫害です。迫害が待っている。 「わたしについて来たいと思う者は、迫害が待っているよ、これから。その現実を受け止めるように。」 イエスさまの十字架、「それはわたしだけが背負うんじゃなくて、あなたたちも同じように背負うことになるからね。わたしに従っていくということはそういうことなんだ。」
この当時のこの場面で、信仰告白した弟子たちに明確に語られたイエスさまのお言葉。 「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。」(マタイ16:24)というお言葉でした。 「わたしは十字架にかかり、そして復活し、あなたがたがわたしを証しするために聖霊を受け、遣わされて、教会が誕生しそこで奉仕をし、その中で激しい迫害が待っている。」 そのことを見越して、イエスさまはこの言葉を語られました。
叱られたペテロも、聞いていた弟子たちも、恐らく何のことか分からなかったでしょう。 「自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」って一体どういうことなのだろうか? 分かるには時間がかかりました。 ペテロはだいぶ経ってから、だいぶ経ってから(笑)、ペテロの手紙第一の4章12〜14節でペテロはこのように綴っています。 お開きいたしませんけれども、お読みします。ペテロはこう書いています。 <Tペテロ4:12〜14> 12愛する者たち、あなたがたを試みるためにあなたがたの間で燃えさかる試練を、何か思いがけないことが起こったかのように、不審に思ってはいけません。 13むしろ、キリストの苦難にあずかればあずかるほど、いっそう喜びなさい。・・・ 14もしキリストの名のためにののしられるなら、あなたがたは幸いです。・・・
と。こういう境地にまでペテロは行くんですよ、やがて。 から元気ではなく、イメージでもなく、「自分を捨て、自分の十字架を負う」って一体どういうことなのか? イエスさまにお従いする信仰のメッセージってものを、このペテロの手紙第一の4章12節から綴っているんですよね。 でもここまで行くには時間がかかったでしょう。 激しい迫害の中で、殉教覚悟の腹をくくった生き方ができるようになるまで、ペテロは色々な所を通されたに違いない。 でもこの時はペテロたちは全然分かっていなかった。 でもイエスさまはちゃんとそれを見越して、この言葉をこの弟子たちに語られたわけですね。
2)聖書の読み方を振り返ってみたいと思うんですけれども、当時の弟子たちにこの言葉を語られた。
では、私たち一人一人に向けて、今朝イエスさまが「自分を捨て、自分の十字架を負うように」と語られているとしたらどうでしょうか? 「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。」 このお言葉を聞くと、私(戸塚伝道師)は何か気が重くなるんですよ。 なぜ気が重くなるのか?それは恐らく読み方が間違っているのかも知れない。 イエスさまが願っておられるような読み方をしてないんじゃないかと。
聖書を読む時に、私(戸塚伝道師)気をつけなきゃいけないと思うことは、(※かつてご自身が毎日一句教会員に配信して味わったことがある)「聖句百選」もありましたけれども、 聖句を一つずつ、「あ、この聖句いいな、」「この聖句いいな」って、 私たちはその聖句を大切にしながら、神さまの恵みを味わうんですけれども、 聖句だけが一人歩きして、前後の文脈を考えないで理解してしまいがちな自分をちょっと反省することがあります。 教会学校の金言、暗唱聖句、一生懸命覚えたりなんかしますけれども、でも前後の文脈を考えると全然違う意味っていう場合もあるわけです。 勿論聖霊が働いて、「このみことばを通して、私は語られた」ってことはあると思いますね。 それはあると思います。 ですけれども、その前後の文脈を無視して、 ――ましてやこの時のペテロさえ分からなかったイエスさまのこのみことばは―― 時代背景やまたその時の状況を考えずに、このみことばだけを読んでも、 イエスさまが言おうとしておられることを掴み損ねることがあるんじゃないかと思います。
また、「自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」というこのあり方が、一つの基準になってしまう危険性がある。 所謂律法になってしまう危険性がある。 聖書を読む時に、それが律法になってしまうと、ちょっと違ってくることがあります。 「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて感謝しなさい。」(Tテサロニケ5:16〜18)――無理です。 でもそれが律法になって、それが一つの基準になって、「ああ、私はいつも喜んでいない。絶えず祈っていない。すべてのことに感謝なんかできない。」 でも、そんな聖書の読み方って、結局自分を責める道具になってしまいます。
「自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」というお言葉は、イエスさまに従うための条件なのでしょうか? この基準に達している人は信仰的なキリスト者で、この基準に達していない人はいい加減なキリスト者なのでしょうか? そうすると、私はイエスさまに従うことのできない失格者になってしまう。 「自分を捨て、自分の十字架を負う」って一体どういうことなんだろう? クリスチャン人生とは歯を食いしばって、試練の道を突き進んでいくようなものなんでしょうか?
もっと厄介なのは、自分はこの基準に達していると思い込んでいる方々が、 或いはこの基準に達するために努力をしている方々が、 そうでない人たちを見下げるようになってしまう。――これが怖いですね。 ペテロではなく、弟子たちではなく、このお言葉による今のこの国の、私たちへの語りかけって一体何なんだろうか? かつてのような迫害はありません。少なくとも日本の国、厳しい初代教会に於けるような迫害はない。 でも悩みは尽きない日常生活はあるわけですけれども、そのような中で、「自分を捨て、自分の十字架を負う」というのは一体何を意味しているのだろうか?
問われているのは、「だれでもわたしについて来たいと思うなら」というイエスさまのお言葉です。 私たちは、イエスさまについて行きたいと思っているんだろうか、どうか? 今朝イエスさまから、私たち一人ひとりに問われているのではないか? 「わたしについて来たいと思いますか、あなたは?」 日頃はこんなことあまり考えたことないかも知れないですね。 ただ洗礼を受けた者に過ぎない位の意識かも知れない。それでも―― 「ああ自分はイエスさまについて行きたい。イエスさまと一緒に歩みたい。イエスさまが共におられることを、いつも日常生活の中で感じていたい」――そういうような思いが少しでもあるならば、 私たちはイエスさまと共に歩むことができる恵みを味わうことができるのではないかと思うんです。 3)イエスさまと共に生きるとは一体何なんだろうか?
こんな思いの私たちに、イエスさまは、このお言葉から何を言おうとしているのか? 別の視点で捉え直してみたいと思います。 「自分を捨て、自分の十字架を負う」とは律法ではありません。 《イエスさまと共にある者の生きざま》です。 改めて、もう一度み言葉を思い巡らしながら、今の私たちに与えられている恵みについて考えてみたいと思います。
「自分を捨てる」とイエスさまは仰いました。 これは誤解を招く恐れがある表現ですね。自分を捨てる。 カルト宗教の特徴点の一つは、自分の考えを持たせないことです。 少しでも自分の考えを持ってはいけないということで、徹底的に組織の教義を注入する。洗脳ですね。マインドコントロール。 「自分を捨てなさい」「自分を捨てなさい」 「自分を捨てる」って、自分の考えを持っちゃいけないことではない。
「自分を捨てる」ってことは一体何か? 今の私たちにイエスさまが語っておられることは、こういうことではないかと思います。 「自分ではどうすることもできませんので、神さま、どうぞよろしくお願いします」っていうことではないかと思います。 神さま、自分ではどうすることもできません。確かにそうですよね。明日どうなるか分かりませんよね。 自分ではどうすることもできないことって、考えればいっぱいありますよ。 「どうすることもできませんので、神さま、どうぞよろしくお願いします。」 神さまの恵みの流れに身を任せて、もう流されるまま、(※両手を横に広げて、天を見つめて、まるで流れる水に浮いているように見える戸塚伝道師)もう流されるまま。 そこでじたばた泳いだりすると、なんか沈んじゃうことがあったり、流れに逆らおうと思うと、もう溺れちゃったりなんかすることがある。やるだけ無駄。 むしろ力を抜いて、(※両手を広げてゆったり目を細めて)「神さま、よろしくお願いします〜。自分ではもうどうすることもできませんから。」
ですから、イエスさまはその後仰っていますよね。(マタイ16:25)
25自分のいのちを救おうと思うものはそれを失い、わたしのためにいのちを失う者はそれを見出すのです。
「自力で頑張ろうとする者は無理ですよ。でもわたしのために、すべてをゆだねる者は大丈夫ですよ」ということなんでしょう。 《ゆだねる》《自分をゆだねる》ということは――《神さまに自分の人生の主導権を明け渡す》ことです。 「神さま、お任せします」と。
星野富弘さんがこういう詩を書いています。 「いのちが一番大切だと思っていたころ 生きるのが苦しかった。 いのちより大切なものがあると知った日 生きているのが嬉しかった。」 いのちが一番大切だということで一生懸命、命を守るために頑張ろう、頑張ろう――苦しかった。 いのちより大切なもの――イエスさまの恵み、イエスさまが共にあるという幸い――それを知った日、生きるのが嬉しかった。
《自分の十字架を負う》ということはどういうことでしょうか? 《神さまにすべてをお任せするということは、結局、自分の十字架を負うっていうことも含まれる》ことですね。 よく「自分の十字架を負う」ということの中に――自分の抱えている様々な試練だとか、病気だとか、不安だとか、悩みだとか、境遇だとか、様々なもの――それを自分の十字架だと感じておられる方がもしかしたらいるかもしれません――それを背負うんだ。 「自分の十字架を負って、わたしに従う」ってことは、そういうことなんだ。 でも聖書はそう言っていない。 勿論そのように信仰的に納得されている方は、それはそうなんでしょう。 でも聖書はそうは一言っていない場合がある。
イエスさまから無理やり、「この十字架を背負いなさい」なんてイエスさまは仰らない。 「わたしについて来たいと思うなら、」イエスさまは仰る。 イエスさまについていきたい私たちが、自分の十字架を負う。 じゃ、《自分の十字架を負う》って一体どういうことなのか? それは、「イエスさまと一緒に同じ道を行かせてください」と言うことなんです。 でも「あなたのためには命も捨てます」なんて言えない(笑)。十字架になんか、かかりたくない(笑)。 でも、そういうことをイエスさま、仰っているんじゃない。
自分の十字架って何だろうか? イエスさまが十字架を背負う前の日、イエスさまはお祈りをしました。 「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください」 とマタイの福音書26章の39節で、イエスさまはお祈りされています。 「わたしの望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください」 イエスさまはそういう思いで十字架を背負われたんですけれども、イエスさまの十字架はそれです。
私たちの十字架も、イエスさまと同じ道を行くならば、そういう思いではないかと思います。 「私が望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください」 《神さまに全部をおゆだねすることは、自分の十字架を負うことを含んでいる》。 「神さま、あなたが望むままに、なさってください」――これは具体的にどういうことかと言いますと、 嫌だなぁと思うこと、思い通りにならないこと、こんなはずではなかったことすべてを、そのまま、そのまま受け止めることです。 自分の十字架を負う――私が望むようにではなく、あなたが望まれるままに、それを受け止める。 イエスさまはそれを受け止められました。 私たちはそれを受け止める。 「あなたが私の手を握りしめ、そしてしっかりと導いてくださるなら、あなたと共に歩むことは何とかなりそうです」という思いで、それを受け止める。
でももし受け止められなかったら、どうでしょうか? 受け止められなくても、受け止められないままの私を、イエスさまはそのまま受け入れてくださる。 歩けないままの私を、おんぶしてくださる。 「イエスさまと同じ道を行けません」と言っている私を、背負ってくださる。
厳しい迫害のない時代、日本に生きる私たちが、「自分を捨て、自分の十字架を負う」ということは、「自分を捨てる」ということと、「自分の十字架を負う」というこの言葉に共通することの中に見られるのではないかと思うのですね。 それは、《どんなことがあっても、ゆだねて生きる》ことです――これがイエスさまについていく、お従いする恵みなんですね。 「お従いする」という表現よりも、「イエスさまに手を引かれて共に歩む」と言う方がしっくり来るかも知れません。
ゆだねて生きる、イエスさまと共に生きる――現実は厳しいかも知れない。 受け止め切れないようなことが沢山あるかも知れない。 自分の十字架を負うっていうことなんかできないかも知れない。 イエスさまが十字架を負われたような歩みを、自分はすることができないかも知れない。 でも「ゆだねて生きる」。 ゆだねて生きる時、それは全部イエスさまが、私たちのため必要なものを備えられ、無理な時おんぶまでしてくれて、私たちを共に歩む者とさせてくださるということですね。 考えれば、なんと安心な生き方ではないでしょうか? イエスさまと共に歩む恵み、ゆだねて生きる恵み。
今日最後に、教会福音讃美歌395番の「たとえば私が」という讃美歌を歌います。 この讃美歌は、イエスさまと共に歩み、ゆだねて生きる喜びを歌った讃美歌です。 歌詞をじっくり味わいながら、共に賛美したいと思うんですけれども、こんな生き方を私たちもしたいと思います。 イエスさまについて行きたい私たち一人一人に、イエスさまは語られます。 「自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」とイエスさまは語られています。
☆お祈りします――戸塚伝道師 愛するイエスさま、あなたの後について行きたいものです。そんな私たちの思いを大切にしてくださって、あなたのお姿を見失わないように、いつも私のそばにいてくださって、共に歩んでくださっていますから感謝いたします。 イエスさま、自分を捨ててあなたにゆだね、たとえどんな所であったとしても、あなたの行かれる道を共に歩ませてください。 今週も日々の生活の中で、あなたにゆだねて生きることが、どんなに楽でほっとできるかを、ことある度に実感させてくださいますようによろしくお願いいたします。あなたのお名前でお祈りいたします。アーメン。
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