☆聖書箇所 ルカ1:26〜38 26さて、その六か月目に、御使いガブリエルが神から遣わされて、ガリラヤのナザレという町の一人の処女のところに来た。 27この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリアといった。 28御使いは入って来ると、マリアに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」 29しかし、マリアはこのことばにひどく戸惑って、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。 30すると、御使いは彼女に行った。「恐れることはありません、マリア。あなたは神から恵みを受けたのです。 31見なさい。あなたは身ごもって、男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。 32その子は大いなる者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また神である主は、彼にその父ダビデの王位をお与えになります。 33彼はとこしえにヤコブの家を治め、その支配に終わりはありません。」 34マリアは御使いに言った。「どうしてそのようなことが起こるのでしょう。私は男の人を知りませんのに。」 35御使いは彼女に答えた。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれます。 36見なさい。あなたの親類のエリサベツ、あの人もあの年になって男の子を宿しています。不妊と言われていた人なのに、今はもう六か月です。 37神にとって不可能なことは何もありません。」 38マリアは言った。「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」すると、御使いは彼女から去って行った。
☆説教 洗礼式・2022クリスマス:神のいのちを育む ルカ1:26〜38
・・・・・・皆さんのご協力を心から感謝いたします。 教会では、教会の暦から言いますと、「ペンテコステに洗礼を受ける」というのが教会の長い間の習慣でありました。 それは2000年前のペンテコステの日に、ペテロの説教を聞いて、悔い改めて洗礼を受けたという人が3000人いたからであります。
でも私(藤本牧師)はクリスマスにも洗礼はとてもふさわしい、と思っています。 クリスマスは、イエスさまがこの世にお生まれになった(のを祝う)日であります。 洗礼は「神のいのちが私たちのうちに宿る」儀式です。 洗礼によって罪洗われ、神のいのちが私たちのうちに宿るようになります。 今日はマリアの出来事から、いのちを授かる、そして戸惑う、最後にいのちを育む、と題して、短くお話をいたします。
1)いのちを授かる
(ルカ)1章の30節をご覧いただきますと、御使いの挨拶がマリアのところにやって来ます。
30すると、御使いは彼女に言った。「恐れることはありません、マリア。あなたは神から恵みを受けたのです。 31見なさい。あなたは身ごもって、男の子を産みます。・・・
ということは、マリアは神のいのちを宿したということです。 自分の内側に神のいのちを宿すことになりました。
洗礼においては、表現は逆になるかも知れません。 ヨハネの福音書の3章にニコデモという人物(の記事)があります。 ニコデモは、イエスさまに尋ねます。「どのようにしたら、神の国に入ることができるのか」と言った時に、イエスさまは――
<ヨハネ3:4〜5> 4ニコデモはイエスに言った。「人は、老いていながら、どうやって生まれることができますか。もう一度、母の胎に入って生まれることなどできるでしょうか。」 5イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。
先程洗礼式の式文の中に、「水と御霊によって生まれる」とありましたのは、まさにそのことです。 神にあって生まれる。すなわち神の子どもとなる。 神のいのちを宿す。キリストの霊を宿す。 キリストの愛を宿す。キリストの平安を内にいただく。
その時、ニコデモには分かりませんでした。 (ヨハネ3章)4節に―― 4ニコデモはイエスに言った。「人は、老いていながら、どうやって生まれることができますか。もう一度、母の胎に入って生まれることなどできるでしょうか。」
これはイエスさまの仰った言葉の意味が理解できなかった、というだけでなく、 真理はもっと深いところにあります。 それはヨハネの福音書の3章の9節に、「どうしてそんなことがあり得ましょう」とニコデモはイエスさまに聞いています。
この質問は、今日読んでいただきましたルカの福音書で、受胎告知を告げられた時に、マリアが御使いにした質問と同じです。 「どうしてそのようなことがあり得るのでしょうか」と。 <ルカ1:34> 34マリアは御使いに言った。「どうしてそのようなことが起こるのでしょう。私は男の人を知りませんのに。」
つまりニコデモがどんな努力を積んだとしても、神にあって生まれることはできません。 私たちがどれほどの回数、聖書を読みまた祈ったとしても、神のいのちを授かるということはできません。 一生の努力を注ぎ込みながら、神の戒めを忠実に生き、教えて来たニコデモは不安になり、イエスさまのところにやって来ました。 イエスさまは「あなたは水と霊によって新たに生まれよ」(***ヨハネ3:3、5)と言われた時に、 「あ、どのようにしてそのようなことがあり得るでしょうか?」ということは、「不可能です」と。「もう一度母の胎に入ることはできない」(※と思ったのでした)。
同じように、私は神より生まれる、神のいのちを受ける、マリアのように神のいのちを授かる、なんてできないことです。
その時、マリアに対して御使いは言いました。 「それは人にはできないことだけれども、神にはできる」(***ルカ1:37)と。 それは神があなたに与えてくださる、授けてくださるいのちであって、あなたが自分の力で産み出すいのちではない。
アドベントの第二週からザカリヤの出来事を見ていただきました。 《圧倒的な神の介入によって》と、ザカリヤは何の意識も何の計画もなく、突然神のご計画の中に引き込まれて行きます。圧倒的な神の介入によって。
この場合も同じで、《圧倒的な神の介入によって、マリアはキリストのいのちを授かります。》
2)戸惑う
マリアを最初に包んだのは、29節にありますように、戸惑いでした。
<ルカ1:29〜> 29しかし、マリアはこのことばにひどく戸惑って、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。
戸惑って考え込んでしまう――それはマリアにとっては、特別な事情がありました。 戸惑って当然です。34節に――
34 マリアは御使いに言った。「どうしてそのようなことが起こるのでしょう。私は男の人を知りませんのに。」
そして事態は大変なことになって行きます。 自分には婚約者がいる。婚約者は自分のことをどう思うんだろう? 周囲の人は一体どう思うんだろう? とりあえずマリアは、親戚のザカリヤの妻エリサベツのもとに隠れに行きます。 戸惑いはマリアの一生涯続いていきます。 まさか自分が産む子が十字架に架かり、三日目に復活し、天に昇り、まことの王、神の子として人々に拝まれるようになるとは。 そして自分自身が「神の母」と呼ばれるようになるとは、大よそ想像も見当もできないことでありました。
この時マリアが意識したことは、かろうじて自分が男の子を産むことになるんだろうな、ということを、子どもが(お腹で)成長するにつれ、自覚していったに違いありません。 32節から33節に、御使いはマリアに、その子がどういう存在になるかということを、話をします。
31・・・その子をイエスとつけなさい。 32その子は大いなる者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また神である主は、彼にその父ダビデの王位をお与えになります。 33彼はとこしえにヤコブの家を治め、その支配に終わりはありません。」
と言われても、それは戸惑うばかりでありました。 男の人を知らない自分が、どうして妊娠するのか? その生まれた子どもの性別は教えてもらえました。 その名はイエスと呼ばれると。 でもそのイエスと呼ばれる人物が、どういう成長を遂げ、いったい何を成すことになるのか?と言われても、それはマリアにしてみれば、戸惑いと、そして考え込むほどの出来事であったに違いありません。
私たちの中でクリスマスに洗礼を受けた、という方は多いと思います。 それから何十年もして、或いは何年もして、今の自分を考えますと、あの日あの時神のいのちを授かり、育んでいく私たちは同じような戸惑いを幾度も経験した、ということが思い出されることでありましょう。
イエスさまの弟子の筆頭であったペテロは、ある時「四つ足の動物を食べなさい」と神の声を聞きます。(***使徒の働き10:9〜16) ユダヤ人であったペテロは、四つ足の動物を食べたことなど一度もない。 神の声に思わず反応しました。 「主よ、それはできません」と。 そういうことが、これからの私たちの人生にも、またこれまでにも何度もあったと思います。 「主よ、それは、私にはできません」 でもイエスさまはペテロに仰いました。 「わたしがきよめた物を、きよくないと言ってはいけない。あなたには食べることができる」と。
パウロの世界を見ていてもよく分かります。 パウロはこの世界を眺める度に、この世界は呻いていると。自然界も、社会も。 そして神の子どもたち(とされた私たち)さえも呻いている。 しかし、聖霊は私たちと共に呻いてくださり、 さらに、神を愛する者たちのために、神はすべてのことを働かせて益としてくださると(***ローマ8:28で私たちに教えているのです)。
パウロは長い間病気でありました。 「どうかこの病を私から取り除いてください」と真剣に三度祈ったと記しています。(***Uコリント12:8) しかし、その時最後に聞こえて来た(主の)言葉は、 「いや、わたしはあなたを癒さない。あなたは今のままだ。 しかし、わたしの恵みはあなたのうちに十分ある。 わたしの力はあなたの弱さのうちに完全に現れる」という風に、パウロは聞くんですね。
マリアの戸惑いはこの時だけの事ではないです。 これから先、マリアは様々な場面で戸惑い、考え込み、祈る局面を迎えます。 ペテロも「そんなことは私にはできません」ということを、神さまからするように言われ、 パウロは「どうかこの病を私から取り除いてください」って言った時に、「いや、わたしの恵みはあなたに十分である」という声を聞きます。
戸惑いの中で、私たちは神さまを信じているのに上手くいかない。 「それは人にはできないことですが、神にはそうではありません。神はどんなこともできるのです」と言う。 イエスさまもそう仰り、マリアもその言葉を聞き、ペテロもパウロも聖霊の自由な力を教えていただいたんですけれども、上手くいかない。 願い通りに事は運ばない。 「主よ、これでいいのでしょうか?この道で、私は正しく歩んでいるのでしょうか?神さま、あなたは私を愛しておられるのに、どうしてこのような試練が重なっていくのでしょう?」
でも、戸惑いの中でもマリアは、立派に神さまから授かったいのちを育んでいくんですね。 しばらくしますと、臨月が近い時、ベツレヘムの家畜小屋でイエスを出産するんですよね。 きっかけはこうでした。 ベツレヘムで人口登録をするため、婚約者のヨセフに連れられてベツレヘムに行くんですけれども、そこで陣痛が起こる。 それは明らかに、臨月になってそんなに無理するなよ(笑)、と周りの者は止めたところを、頑張って旅行して、結果的に早産であっただろうなぁと、私(藤本牧師)は想像します。 後に、マリアとヨセフは噂を聞きます。 「あの出産したベツレヘム一帯で、ヘロデ王は新しき王の誕生を恐れて、二歳以下の子どもを全員殺した」と。 「え、それって自分が産んだこのイエスのために、周辺一帯の二歳以下の子どもが殺されたのか?!」 と、マリアはものすごく戸惑ったと思いますね。 しばらくしますと、あの時身を寄せたザカリヤ・エリサベツの間にできたヨハネがヘロデ王によって、首をはねられ殉教いたします。 さらに戸惑います――「自分の息子も同じ道を行くんだろうか?」 同じ道を行くんです。イエスは十字架の道を行くその姿を、マリアはその目で確認するんですね。
勿論すばらしいこと、楽しいこと、善きことも沢山ありました。 でもこの時「戸惑う」という出来事は、後のマリアの人生でも、何度も積み重なるように、戸惑い、考え込み、再び祈り、そして天使の声を聴くんですね。
洗礼を受けた、神のいのちを授かり、それを育んでいる私たちも同じで、 「神によって不可能なことは何一つない」と、こう聞きましたけれども、 しかし戸惑うことは連続してあると思います。
3)それでも、私たちは神のいのちを育んでいきます。
それでも育んでいきます。 (ルカ)1章の37節にマリアは、「神にできないことは何一つない」という天使の言葉を聞きます。 それは不可能を可能にする《圧倒的な神の介入》の約束でありました。 その言葉に、その約束に、マリアが自分の心を寄せた言葉が、今日の洗礼式の言葉です。 (ルカ1章)38節「どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように」。
今置かれている状況が、次の瞬間にどういう風に展開していくのか分からない。 でももしあなたが、すべてのことを働かせて益としてくださる(***ローマ8:28)と約束してくださるなら、 「どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように」(ルカ1:38)。 なぜなら、あなたは私を愛してくださり(***イザヤ43:4)、 私を決して捨てないと約束してくださり(***申命記31:6)、 死の陰の谷を行く時も、私と共にいてくださる(***詩篇23:4)と、 約束してくださいました。 ですから、「あなたのおことばどおり、この身になりますように」。
この信仰をもって、マリアは戸惑いの中にあっても、自分の内側に与えられた神のいのちを大切に育んでいくことを決心するんです。 ヨセフが疑っても、周囲の目が気になったとしても、遠いベツレヘムに旅をする不安の中にあったとしても、大切にいのちを育んでいく。 「みことばどおり、この身になりますように」と。 そして内側に与えられた神のいのちが成長していくことを、マリアは確認していくわけですね。
先週に続いてもう一通、この時期いただいたメールを紹介して終わりにいたします。 この方は介護施設で働いている女性です。 コロナに罹って倦怠感が一か月抜けなかった。引きずった、と仰っておられました。 でも仕事に出なければいけない。メールにはこうあるんですね。
――メール読み始め―― 80代の女性で寝たきりの方のお世話をしていました。 褥瘡の痛みのためにトイレに行きたいと、頻繁に仰います。 トイレに行き戻って来ると、また二分もしない内にトイレに行きたいと。 繰り返し、繰り返し、トイレにお連れしなければいけない。
コロナに罹る前の私なら、何度も対応できたのですが、 後遺症の倦怠感が残り、限界を感じて、「え〜い、祈っちゃえ」と思って、 手を握って「痛みが早く治りますように」と祈りました。
その方は静かに聞いていて、 「イエスさまの御名によって祈ります」と私が言いますと、 「私は違います」と仰いました(笑)。そこで、私は 「そうですよね。仏様、ご先祖様にお願してお祈りします」と、言い直しました。
すると、その女性は仰います。 「そんな色々なことじゃないの」「本当に治るの?」と聞いて来られました。 その方は、祈るのではなくて、トイレに連れて行け、ということを仰りたかったのでしょうね(※その方の気持ちを代弁するかのように笑って語る藤本牧師)。
別の日に、二回目です。声に出して祈らない方が良いんだなと彼女は考えました。 そこで、手を握って少し声かけをして、今度は心の中で静かに祈りました。 そうしたら、80代の女性は静かになって、スースーと寝てしまったのです。 その時、思いました。 ああ、自分じゃないんだな、と。 私の体調が万全でなくても、内におられるイエスさまが働いてくださり、 この方に平安を与えてくださったのだなぁ、と分かりました。
それから徐々に衰弱してその方は亡くなりました。 手を握って御名によって祈ったので、もしかしたらイエスさまが天国に迎えてくださったかもしれない。 とても貴重な経験でした。」 ――ここまでメールの引用は終わり――
というメールなんです。 ああ、自分じゃないんだなと。手を握って静かに心の中に祈るだけで、自分の内側に大切に生きている神の力がその方に流れていく。 うちに授けられたイエスのいのちを、この方は介護の現場で使ってみた。 それが「祈っちゃおうかな」という一言です(笑)よね。使ってみた。 皆さんもっと使わなければだめですよ。 声を出して祈るのにはばかるならば、その方にそっと触れて、いや触れなくても、目をつぶって祈ることが大切。 それが私たちが、自分の内側にある神のいのちを育む、ということになる。 すると、私たちの内側にある神のいのちは、さらに大きくなり、自分だけではなく、周囲の人々を生かすことになる。 授かったイエスのいのちと平安を、自分だけのために使うというのはもってのほかです。 私たちはこの世界の様々な事柄を、戸惑いと熟慮の内に心にしまい込み、 しかし同時に、うちに与えられた神のいのちを、ありとあらゆる方面に用いる。 その典型的な方法が祈りですね。
私(藤本牧師)は洗礼の準備会の時に、今日洗礼を受けられた田中さんに申し上げました。 祈ることから始めてください、と。 神さまがすぐ傍にいると言っても、その神さまに語りかけ、そしてきっとその神さまは私に語りかけてくださる、という信仰がなければ、いのちの繋がりは生まれて来ません。 イエスさまが私たちの内に住んでおられ、この方の権威を用いてこの方の働きをして行く時に、この世界における神の働きの一旦を担ったんだなぁという満足感。 そして触れて祈ったがゆえに、きっとこのご婦人を天の御国にイエスさまは迎えてくださっている、という確信(※とてもにこやかな顔で)――それ位堂々と生きていこうではありませんか!
☆お祈りをして終わりにいたします――藤本牧師
恵み深い天の父なる神さま、「私は主のはしためです。みことばどおり、この身になりますように」(ルカ1:38)――どうかみことばどおり、私を祝福してください。みことばどおり、私の罪を許し、私に復活の力を与えてください。でもそれだけでなく、みことばどおりに私を癒し、私を輝かせ、或いはみことばどおり、この世にあって生きる時も、この世のいのちを閉じる時も、等しく神の栄光を現すと約束してくださったその約束が、私の内に実現することができるように、生涯私たちを捨てず、離れず、共にいてください。愛するイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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