☆聖書箇所 へブル2:1〜9 1こういうわけで、私たちは聞いたことを、ますますしっかりと心に留め、押し流されないようにしなければなりません。 2御使いたちを通して語られたみことばに効力があり、すべての違反と不従順が当然の処罰を受けたのなら、 3こんなにすばらしい救いをないがしろにした場合、私たちはどうして処罰を逃れることができるでしょう。この救いは、初めに主によって語られ、それを聞いた人たちが確かなものとして私たちに示したものです。 4そのうえ神も、しるしと不思議と様々な力あるわざにより、また、みこころにしたがって聖霊が分け与えてくださる賜物によって、救いを証ししてくださいました。 5というのも、神は、私たちが語っている来たるべき世を、御使いたちに従わせたのではないからです。 6 ある箇所で、ある人がこう証ししています。 「人とは何ものなのでしょう。 あなたがこれを心に留められるとは。 人の子とはいったい何ものなのでしょう。 あなたがこれを顧みてくださるとは。 7 あなたは、人を御使いより わずかの間低いものとし、 これに栄光と誉れの冠をかぶらせ、 8 万物を彼の足の下に置かれました。」 神は、万物を人の下に置かれたとき、彼に従わないものを何も残されませんでした。それなのに、今なお私たちは、すべてのものが人の下に置かれているのを見てはいません。 9ただ、御使いよりもわずかの間低くされた方、すなわちイエスのことは見ています。イエスは死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠を受けられました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。
☆説教 聖餐式・元旦:へブル(1)すばらしい救い
今朝はへブル人への手紙の2章の1節を見ていただきました。 今年の聖句は――なるべく今年早めにお送りしたいと願っております――2章の6節にあります。 「人とは何ものなのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。」
変わらずにMY子さんが書いてくださいました。 MY子さんは、私たちの教会が誇る日本を代表する書家のお一人でいらっしゃいます。 所謂書道展、書家が応募する書道展の審査をなさるような方でいらっしゃいまして、本当は大きな字で書かれていますけれども、縮小されてWTさんとM子さんがそのサイズのしおりにしていてくださいます。
格別なしおりだと思って、一年間聖書に挟んで大事にしていただきたいと思いますし、このみことばが私たちを生かしている、ということもまた心に留めていただきたいと思います。 これほど立派な書道家に聖書の御言葉を書いていただける教会は他にはありません。2月にMY子さんの証しを「天の窓」に載せていただきたいと願っていますけれども、どうか大切にしていただきたいと思います。
聖餐式がありますので、2章の1節から始まって、割とトントンとンと行きたいと思います。 3つの点でお話をいたします。
<へブル人への手紙2章1節> 1こういうわけで、私たちは聞いたことをますますしっかりと心に留め、押し流されないようにしなければなりません。
1)押し流されないようにしなければなりません。
コロナの最初の年、2020年の元旦礼拝では、ハガイ書の1章の14節「主が民の残りの者すべての霊を奮い立たせた」という御言葉をしおりにしていただきました。
イスラエルの民はバビロンから帰還し、神殿建設に取り掛かり、しかし土台だけで17年間放置いたします。疲れてしまった。皆が自分の家のために走り回っていた(ハガイ1:9)、と聖書に書いてあります。
信仰の再建、神殿の再建が求められた時に、私たちは心を奮い立たせなければいけない。 でも私たちが自分で心を奮い立たすのではない。 主が残りの民すべての霊を奮い立たせてくださる。
《神が私たちの霊を奮い立たせてくださる時に、私たちが放置していた様々な出来事に再び着手することができる》と始まった2020年でありました。 でも、コロナ感染で、2月には皆さんオンラインに移住して行かれました。
ハガイ書の次のゼカリヤ書(2020/1/20〜2020/8/9)を学びながら、思い出していただきたいんですけれども――(学んだことは、信仰のサバイバルです。)
(※ちなみに2020/9/6〜2021/9/12は新約聖書からガラテヤ書を学びました――従って21年元旦はガラテヤ書からの御言葉、つまり高津は旧約・新約と交互に講解してもらっている)
ゼカリヤの10章の9節をその年(※2020年)の御言葉にしたと私(藤本牧師)は記憶しています。 「わたしは彼らを諸国の民の間にまき散らすが、彼らは遠く離れてわたしを思い出し、その子らとともに生き延びて帰って来る。」 一旦はコロナによって散らされますけれども――「遠く離れてわたしを思い出し、その子らとともに生き延びて帰って来る」というのが、結局は2020年のメッセージであったと思います――「生き延びろ」です。 どんなに苦労して、どんなに遠くにいたとしても、生き延びて帰って来いと。
ゼカリヤの10章の9節の次の11節には、「彼らは苦難の海を渡る・・・」 当時まだワクチン接種もない、マスクも手に入らない。 世界各地のロックダウンの中で、散らされた教会の皆さんは、苦難の海を渡ってやがて帰って来る。 遠くにいても同じ礼拝をささげ、神を思い出す。そして生き延びて帰って来ていただきたい、という話をしました。
昨年(2022年)一年間は(創世記)ヨセフの生涯から学び、そして元旦では、ヨセフの生涯の最後の方に出て来る聖書を取り上げました。 飢饉を逃れて、一族の存亡をかけて、老齢のヤゴブがエジプトに渡って行きます。 旅の途中、ベエル・シェバで夜、神さまがヤコブに現れて語ってくださいました。 創世記46章の(3節〜)4節に、「エジプトに下ることを恐れるな。・・・このわたしが、あなたとともにエジプトに下り、また、このわたしが必ずあなたを再び連れ上る。」
「このわたしが」という言葉が二回ありますね。 「どこに行っても、あなたの年齢に関わらず、あなたと共に下り、必ずあなたと共に連れ上る」ですね。 ウクライナ戦争が始まっていきました。(※2022/2/24) 世界の混乱期であり、「神は私たちと共に下り、また私たちと共に連れ上る」です。
で、今年(2023年)はへブル人への手紙の2章の6節―― 「人とは何ものなのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。」
さて、さ〜っと行きますので、良く聖書を見ながら、或いは画面を見ながらついて来ていただきたいと思います。 聖書を沢山画面で映します。 「人とはいったい何ものなのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは」――この「人」というのは、詩篇8篇からのずっと引用なのですね。 それは私たち人間で、神さまは私たち人間を顧みてくださる。いったい私たちとは何ものなのだろうか?ということなのですが、次の行に実は、 「人の子とは何ものなのでしょう。あなたがこれを顧みてくださるとは」とあります。 「人の子とは」――そう来た時に、実はへブル人の記者は、人間である「人」から「人の子」であるキリストに話を変えてしまいます。 割と自由に文脈をずらして、一番最初に出て来る「人」というのは、私たち・人です。 しかし次に出て来る「人の子」というのは、イエス・キリストを指しています。 そして最終的に、イエス・キリストの内にある、イエス・キリストを信じている私たちに話を戻して来る、というへブル書独特の構造があるということを、これから先ず〜っと学んでいきますので、心に留めていただきたいと思うんですが。 2章の1節に、もう一回戻りますと、「押し流されないように気をつけなさい」です。
1)へブル2:1 押し流されないようにしなければなりません。
私たちは一年間、何に押し流されて来たのか? それぞれに反省はあると思います。忙しさに押し流される。病気に押し流される。(人生の)矛盾に押し流される。延々と押し流されて、今日の日、迎えることができました。
世の中や自分の周辺に押し流されていると、時として信仰も押し流されてしまいます。 ですから2章の1節に「聞いたことを、ますますしっかりと心に留めて」いなさいというのは、《日曜日、私たちが聞く所の聖書の言葉は、私たちの日常のためにある》ということをぜひ覚えておいてください。
皆さん、お好きな讃美歌色々ございますでしょう? 世界中で最も有名な讃美歌は「アメージング・グレイス」だと言われています。 作者は18世紀のイギリスのジョン・ニュートンでありました。
彼は、敬虔なクリスチャンのお母さんのもとに育ちます。お父さんは船乗りでありました。 お母さんは非常に病弱で、もしかしたら自分は早く死んでしまうかもしれないということで、自分が元気なうちに小さなジョンに様々教えます。 彼は3歳で英語の読み書きができるようになります。それからというもの、聖書の言葉を引いてお祈りをして、彼に語り続けていくんですよね。 で、彼が7歳の時に、肺炎でお母さんは他界してしまいます。 翌年、お父さんは再婚します。
少年ジョンは、そこから先ぐ〜っと、押し流されて行きます。 再婚した父を恨み、神を呪うようになります。 彼は青年の時、思っていました。神さまって一体どんな方か? 「神さまとは、人間を気まぐれに苦しめたり、迷わせた挙句に、地獄に放り込んで面白がっているようなペテン師の神」と。
時々、私(藤本牧師)もそう思いますよね。 別に「ペテン師の神」と言ってお祈りはしませんよ。だけど聖書の中に「わたしはいつもあなたと共にいる、死の陰の谷を行く時も」(詩篇23:4)と書いてあるのに、あなたはいったいどこにいるのですか?って、こう思うじゃないですか。
神に裏切られたかのような人生の出来事というのは、実は私たちの日常に散らばっているんですよね。 あれほど神さまの愛を教えてもらい、その知恵を聖書から学んだにも関わらず、 キリストの十字架と復活を信じていたあの純粋な信仰なんていうのは、日常生活で木っ端みじんに砕かれるということはしばしばあるわけですよね。
ジョン・ニュートンは度重なる不幸が、彼の信仰を押し流していきました。 そして自堕落な生活にはまり、お父さんの紹介で彼は船乗りになります。 私たちを押し流すものは沢山ある。つまり、押し流されて行く人生だということは、やっぱり覚えていくことは必要ですよね。
コロナに閉じこもっていて、身を守っている私たちはいつの間にか、無気力というものに押し流されて行きますよね。 感染の苦しみに疲れ果てて、疲労感に押し流されることもありますよね。 経済的な困難が大波のようにやって来る場合もありますよね。 コロナ禍で家族を失われた方もいらっしゃいます。 そして戦争の影響が、戦争の噂が、私たちを押し流して行きます。
敬虔なお母さんから信仰を教わり、そのお母さんは肺炎で亡くなり、自暴自棄になって、そして何をしてもうまくいかない。 そんな人生を下って行き、ジョン・ニュートンは「自分の信じている神はペテン師のような神だ。良いことを聖書で沢山教えてくださる、でも現実は一向に助けはやって来ない」(と考えるようになったと言うのです)。 それは本当の意味で、《押し流されたたましい》でありました。
2)へブル2:3「こんなにすばらしい救いをないがしろにした場合」
この言葉に目を留めたいと思います。ちょっと聖書を映しますね。 こんなにすばらしい救いって、こういう風に出て来るんですよ。
【画面:へブル2章1節全文にオレンジ色のハイライト。 2節「すべての違反と不従順が当然の処罰を受けた」に赤ペンで囲み。 3節「すばらしい救いをないがしろにした場合」に同色のハイライト。3行目「この救いは」と「語られ」を赤ペンで囲んで@とする。「それを聞いた人たちが確かなものとして私たちに示した」に赤ペンの傍線、Aと記す。 4節「そのうえ神も」に赤ペンの囲みでBと記す。「聖霊が分け与えて〜証ししてくださいました」にオレンジ色のハイライト。「救いを証ししてくださいました」に赤ペンの傍線】
<へブル人への手紙2:1〜4> 1こういうわけで、私たちは聞いたことを、ますますしっかりと心に留め、押し流されないようにしなければなりません。 2御使いたちを通して語られたみことばに効力があり、すべての違反と不従順が当然の処罰を受けたのなら、 3こんなにすばらしい救いをないがしろにした場合、私たちはどうして処罰を逃れることができるでしょう。この救いは、初めに主によって語られ、それを聞いた人たちが確かなものとして私たちに示したものです。 4そのうえ神も、しるしと不思議と様々な力あるわざにより、また、みこころにしたがって聖霊が分け与えてくださる賜物によって、救いを証ししてくださいました。
3節――この「すばらしい救い」というのは、@初めイエスさまによって語られ、 A「それを聞いた人たちが」――使徒であったり、初期のキリスト教会の人々ですよね――「確かなものとして私たちに」伝道し「示して」くださり、 B「そのうえ、神も」「聖霊が分け与えてくださる賜物によって、救いを証ししてくださいました」というのは、自分も救われていたんですよ。
主イエスが語り、それを聞いた者たちが証しし、そして神の聖霊によって、私たちも納得していた救いを、3節の頭、この「すばらしい救いを」ないがしろにしていく、ということは私たちにとって十分あり得るんですね。
ジョン・ニュートンがそうでありました。 ジョン・ニュートンに「すばらしい救い」のすばらしさは、いったいどこにあるのか?と聞いたら、 彼に「アメージング・グレイスの」アメージングな所はいったいどこにあるのか?と聞いた時に、 彼は「アメージング・グレースには、実はアメージングな奥がある」という答えをするだろうと思うんですよね(笑)。
それはどういうことか?と言いますと、「こんなにすばらしい救いをないがしろにした場合、」 当然のことが――ちょっと聖書を見てください――これが来るんですよ(※聖句を指で示していきながら説明)
【画面:へブル2章2節「すべての違反と不従順が当然の処罰を受けた」に赤ペンで囲み。 3節「すばらしい救いをないがしろにした場合」にオレンジ色のハイライト】
「すべての違反と不従順が当然の罰」としてやって来る。2節の最後ですね。 これがやって来るんですよ。これを覚悟しなきゃならない。 これは申命記28章の15節ですけれども、
<申命記28:15> 15しかし、もしあなたの神、【主】の御声に聞き従わず、私が今日あなたに命じる、主のすべての命令と掟を守り行わないなら(***ないがしろにするなら、と説明)、次のすべてののろいがあなたに臨み、あなたをとらえる。
申命記では「次のすべてののろいがあなたに臨み、あなたをとらえる」と書いてあるんです。
ジョン・ニュートンは乗っていた船がものすごい嵐に遭います。 その時彼は思ったはずですね。 「自分のこの自堕落な人生、あの少年の頃の純粋な信仰と比べるとここまで落ちてしまった自分の上に、当然の処罰が下ったんだ」と、そう思うじゃないですか。 彼は「もう終わりだ」と思った瞬間に、幼い頃にお母さんが教えてくれた祈りを唱えます。 それが「主よ、あわれんでください。」 「キリエ(主よ)・エレイソン(あわれんでください)。」
彼は主を仰ぎ見たんですね。荒れ狂う嵐のその沈んでしまう船の中から、彼は主に叫んだ。 詩篇の91篇もそうでした。 すると主は答えてくださり、船底に空いていた穴から海水が噴出していたところ、そこに周囲の荷物が集まってポコッとはまったんですよ。それで船の難船は止められた。 水は止まったんです。彼自身もロープに繋がれながら、一生懸命排水しました。
「すばらしい救い」の何がいったいすばらしいのか? アメージング・グレースの何がそんなにアメージングなのか?と言われれば、 それは@イエス・キリストが語り、Aその弟子たちが教え、B聖霊の賜物によって、私の心がそれを納得していたにも関わらず、 私たちはそれを放置していた、「ないがしろにしていた」私たちに対して、 イエス・キリストは再び「私たちを憐れんでください」と叫んだ時に、私に答えてくださったということがすばらしいと。それがすばらしいと。 (※当然の処罰にニュートンは行き着きませんでした。すばらしい救いをないがしろにしたような彼を、神は見捨てず)、 彼が主を仰ぎ見た時に、主は救いの手を差し伸ばしてくださった、それがすばらしいのですね。
今日はMYさんとご一家の皆さんが来ておられるので、顔を見た途端、「讃美歌をお願いしようかな」と思ったんですけれども、「断られるだろうな」と思って遠慮はさせていただきました(笑)。 こういう昔の讃美歌があるんですね。私は好きなんですけれども、あまりにも古くて、皆さんなかなか、ちょっと歌ってくださらないんですよね。
(1節) 罪の深みに 溺(おぼ)るるわれ 尊き御名を 呼びたりしに 救いの君は 御手を伸べて 引き上げませり 愛もて 愛なり愛なり 救いうるは愛なり
(※「つみのふかみに」I was Sinking Deep in Sin(詩篇40:2) インマヌエル讃美歌260 に載っていました)
戸塚先生、初めて教会にいらっしゃって、教会の教えを論駁してやろうと思って、』高校生の時に初めて教会に行ったんですよ。 そしてこの讃美歌を聞いたら、「あ〜いなり。あ、間違ったところに来た。お稲荷さん信仰かと思った」(大笑)高校生の彼はですね(※思い出して笑いが止まらない藤本牧師)。 私は(藤本牧師)はこの讃美歌を歌うたびに思い出すんですよ、戸塚先生のことを。
2節こうですね。 引き上げませる 君の御手は われを離さず 導き給う 逆巻(さかま)き寄(よ)する 波の中も 恐れはあらじ 主ませば 愛なり愛なり 救いうるは愛なり
これは湖の上を歩いてイエスのもとに行こうとするペテロ、 疑いと共に溺れそうになったペテロに、イエスさまは手を差し伸べて、彼を舟の上に引き上げてくださった。 ジョン・ニュートンは同じ経験をいたします。 試練の中で、疑う私に手を差し伸べてて引き上げてくださるイエスさまの愛というものを味わう。 こんなにすばらしい救いをないがしろにしたんなら、舟と共に溺れてしまえ、じゃないのです。 「主よ、私を助けてください」というその声に、主は答えてくださる。 これがアメージング・グレースのアメイジングな所だよ、とジョン・ニュートンは教えてくださるでしょう。
3)さて、そのような救いと、救いの恵みにあずかる私たちが、今朝、聖餐の恵みにあずかります。
その意義を詳しく説明はいたしませんけれども、私(藤本牧師)は単純に聖餐の恵みにあずかる前に、今の聖書の個所を一緒に見ていただきたいと思うんです。 いいですか。6節から見ていきます。
【画面:へブル2章6節「人とは何ものなのでしょう〜留められるとは」にピンクのハイライト。「人とは」「人の子とは」に赤ペンで囲み。 7節「わずかの間低いものとし」に同色ハイライト。 8節「万物を彼の足の下に置かれました」「すべてのものが人の下に置かれているのを見てはいません」に赤ペンの傍線。「それなのに」「いません」に赤ペンで囲み。 9節ただ、御使いよりもわずかの間〜見ています。」にピンクのハイライト「イエスは死の苦しみのゆえに」「その死は〜味わわれたものです」にオレンジのハイライト】
<へブル2:6〜9> 6・・「人とは何ものなのでしょう。 あなたがこれを心に留められるとは。 (***これは「私たち」だと思ってください、と説明) 人の子とはいったい何ものなのでしょう。・・・ (***これはイエス・キリストです。) 7 あなたは、人を御使いより (***この「人」は彼ですから、「人の子」のことですね、と説明) わずかの間低いものとし、 (***というのは、イエス・キリストはマリアより生まれ、この世界を生き、十字架におかかりになった。そして復活して、と説明) これに栄光と誉れの冠をかぶらせ、 万物を彼の足の下に置かれました。」
ところが8節の3行目、 8・・・・・・それなのに、今なお私たちは、すべてのものが人(***人の子、彼)の下に置かれているのを見てはいません。(***ということは、キリストは裁きの座から降りたわけではない。にもかかわらず、キリストの王国は完成していないので、いまだに混沌とした世界は広がっている。) 9ただ、御使いよりもわずかの間低くされた方(***イエス・キリストのことですよね、と説明)、すなわちイエスのことは見ています。 (***で、今日私たちは、イエスのことを見ているのです。混沌とした世界の中からイエスのことを見る、と説明) イエスは死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠を受けられました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために(***あなたのために、と説明)味わわれたものです。
人の子はイエス・キリスト。人とはいったい何ものなのでしょう。 私たちは主が私たちを愛するがあまりに、「御使いよりも少し低いものとなり」(7)というのは、栄光の座を捨て、私たちと同じように苦しみを味わい、私たちのために十字架に架かってくださった恵みのイエス・キリストを、私たちはいま試練の内に見ています。
この世の中の支配の座から、キリストは降りたわけではない。 でもキリストの支配は完成しておらず、私たちは様々な意味で、この試練の中にある。 ただし、どんなに試練に揉まれていても、すばらしい救いをないがしろにせずに、イエス・キリストを見る。押し流されずに、イエス・キリストを見る。それが聖餐式であります。
☆お祈りをいたします――藤本牧師
恵み深い天の父なる神さま、久しぶりの方も含めて、元旦礼拝共に聖餐にあずかる恵みを心から感謝いたします。この一年を祝福してください。何回か破船に遭うこともありますでしょう。いや、日頃から私たちは押し流されて生きています。 でも呼べば答えてくださるあなたがおられる時に、イエス・キリストを見る。「信仰の創始者であり完成者であるイエスを仰ぎ見るべし」とはへブル人への手紙の12章(2)に出て来るみことばでありますけれども、イエス・キリストを見る。そのイエス・キリストは私のために、私に心を留め、私のためにいのちを投げ打ってくださった方、この恵みにあずかることを覚えていることができるようにお助けください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
☆聖餐式
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