☆聖書箇所 エレミヤ31:12〜17
12 彼らは来て、シオンの丘で喜び歌い、 【主】が与える良きものに、 穀物、新しいぶどう酒、オリーブ油、 羊の子、牛の子に喜び輝く。 彼らのたましいは潤った園のようになり、 もう再び、しぼむことはない。 13 そのとき、若い女は踊って楽しみ、 若い男も年寄りも、ともに楽しむ。 「わたしは彼らの悲しみを喜びに変え、 彼らの憂いを慰め、楽しませる。 14 祭司のたましいを髄で潤す。 わたしの民は、わたしの恵みに満ち足りる。 ――【主】のことば。」
15 【主】はこう言われる。 「ラマで声が聞こえる。 嘆きとむせび泣きが。 ラケルが泣いている。その子らのゆえに。 慰めを拒んでいる。その子らのゆえに。 子らがもういないからだ。」 16 【主】はこう言われる。 「あなたの泣く声、 あなたの目の涙を止めよ。 あなたの労苦には報いがあるからだ。 ――【主】のことば―― 彼らは敵の地から帰って来る。 17 あなたの将来には望みがある。 ――【主】のことば―― あなたの子らは自分の土地に帰って来る。
☆説教 戸塚伝道師:あなたの将来には望みがある
今日のみことばは、エレミヤ書31章の12節〜17節、ここから共にみことばを読んでいきたいと思います。
かつて、東海道新幹線が名古屋に停まらない時代があった。ご存じでしょうか? あの新幹線が名古屋に停まらない時代があった。 でも1997年11月29日、東海道新幹線ののぞみのダイヤ改正、その時にやっと名古屋停車が回復しました(笑)。 名古屋の人たちは、ま、ほっとしたというか、やれやれということだったでしょう。 その時のJR東海のダイヤ改正のキャッチフレーズが、「日本にのぞみあり」という言葉です。 CMもそれから駅に掲げられているポスターも、新幹線の写真と共に「日本にのぞみあり」という言葉が大きく掲げられていたことを覚えています。 東京、新横浜、名古屋、京都、新大阪を結ぶその路線、それは「のぞみ大通り」と呼ばれて、そして新横浜の停車回数も増えました。 今は全部新横浜に停まりますけれども、当時新横浜の通過がかなり多かった。
そういう意味で、名古屋にも停まるようになり――(※笑いながら)当たり前なんでしょうけれども――名古屋にも停まるようになり、そして新横浜にも停まる本数が増えた。 そこで「のぞみ号の望みが叶った」――そういう言葉も、そのポスターにも出ていたことを覚えていたことでございます。
「日本にのぞみあり」――今朝、私たちも礼拝のキャッチフレーズは―― このエレミヤ書のみことばから「将来に望みあり」です。 「あなたの将来には望みがある」(エレミヤ31:17)――これは私(戸塚伝道師)の言葉ではありません。 私がどんなに「あなたの将来に望みがある」と言っても何にも役にも立たない、何の効果もありません。 でもこれは、神さまが約束されている宣言です――「あなたの将来には望みがある」。
迎えましたこの年、様々な課題を抱えてスタートいたしましたこの一年間。 私たちは今朝、この神さまのみことば――「あなたの将来には望みがある」――この神さまのみことばをいただいて帰っていただきたい(笑)。 神さまのみことばです。私の言葉ではない。神さまのみことばです。 そしてこのお約束を、いただいたお約束を毎日毎日耳にしながら、この年も歩んでいきたい、と思うんですね。 3つのポイントでお話しいたします。
1)「あなたの将来には望みがある」――このみことばは、直接的には、当時の歴史の中で、神さまが預言者エレミヤに語られたメッセージであります。
先程お読みいたしましたエレミヤ書の31章の15節から見ていきたいと思います。 <エレミヤ31:15> 15 【主】はこう言われる。 「ラマで声が聞こえる。 嘆きとむせび泣きが。 ラケルが泣いている。その子らのゆえに。 慰めを拒んでいる。その子らのゆえに。 子らがもういないからだ。」
ここにラケルという言葉が出て来ていますけれども、これは人の名前、女性の名前です。 創世記に出て来るヤコブのお気に入りの妻の名前でございます。(***創世記35:15〜20)
それと共に、ここではアッシリア帝国によって囚われの身となって連れて行かれた、北王国イスラエル民族の母を象徴する言葉として、ラケルっていう女性の名前が使われている。
イスラエル民族の母、ラケルが泣いている。 北王国イスラエル民族の母は、自分の民族が囚われの身となって、強制的に移住させられているので泣いている。嘆き悲しんでいる――そういう表現がここに書かれています。
「ラマで声が聞こえる」――このラマというのは、強制移住の準備地点となった所だそうです。 ちなみにこの(エレミヤ31章)15節は、マタイの福音書2章の18節に「ベツレヘムで2歳以下の男の子たちが殺された」母親たちの悲しみを表すために引用されているみことばです。
しかしこのような状況の中で(エレミヤ31章)16節を見ていただきますと―― 16 【主】はこう言われる。 「あなたの泣く声、 あなたの目の涙を止めよ。(※さらにお読みいたします、と言って) あなたの労苦には報いがあるからだ。 ――【主】のことば―― 彼らは敵の地から帰って来る。
「敵の地」――アッシリア帝国――から「彼ら」が帰って来る。 「彼ら」というのは、子どもたちのことです。こどもたちが帰って来る。 イスラエル民族の母を象徴する名前がラケルだといたしますと、その民が帰って来る。 その民が帰って来るということですね。
17 あなたの将来には望みがある。・・・
この言葉はイスラエルの民の母ラケルよ、もう泣くことはない。民は帰って来る。あなたの将来には望みがある――こういう文脈で語られているみことばなのです。 将来の望みとは、あなたの子らが自分の国に帰って来るという望み。 民の中には、本当に赤ちゃんもいたし、小さな子どももいたでしょう。 その民が、再び、今まで住んでいた自分の国に帰って来る。そして子孫が続く。 その望みですね。子孫が増えていくという望みです。
以上が神さまがエレミヤに、さらにはイスラエルの民に語られた、希望のメッセージであります。 「あなたの将来には望みがある。」
2)私たちにとって、将来の望みとはいったい何なのでしょうか?
2023年、将来へのスタートをいたしました。一週間経ちました。今日が1月8日です。 「今日という日は、私の人生の中で一番若い日」と言った人がいます。 確かにそうですね(笑)。私の人生の中で一番若い日が今日なんです。若い。
今まで「ベテラン教師」という言葉がありましたが、もうこれは死語になりました。 老練な教師が若い人を指導する時代、しかしいま頭を下げて、パソコンの使い方、SN機器の使い方を若い人から教わる時代になりました。 「ありがとうございます。そうやって使えばいいんですね。あ、電源はそこですか、ありがとうございます。」(※頭を下げる様子の戸塚伝道師) オンラインを一から教わり、でもそんな教師はもう退職ですね。退職して良かったと思っています。
若い世代――高津教会も、私よりもず〜っと若い人たちの活躍によって支えられている部分が大きくなりました。 来週の礼拝説教は、「高津教会の希望の星」と言われている――これは藤本満先生が言っていることですけれども――「高津教会の希望の星」と言われている伊藤大輔さんがこの場に立って、説教してくださる。 楽しみですね。子どもたちも高津教会に沢山います。もう賑やかです。嬉しいですね。 子どもっていうのは――私はこう考えています――「子どもというのは、やがて子どもではなくなる人」。 「あんなに可愛かった子は、どこ行っちゃったのかしら?」って言うお母さんがいました。 「あんなに可愛かった子はどこに行っちゃったのかしら?」――当たり前のことですけれども、でも子どもというのは、やがて子どもではなくなる。
そして子どもとは、次の時代を生きる人のことです。 今は小さい子どもでもSNSを自在に使いますね。 私なんか、説明書見ながらやっとこさっとこですが、もうからだの感覚がSNS対応になっている(笑)、赤ちゃんの時から。 ですから今、一年生の授業を見る機会があるんですけれども、全員ノートパソコンを目の前に置いて、自由に操っていますね。 担任の先生が言います。「はい、自分の作った図工の作品映して〜」 「はい、映したらばね、先生のところに送信して〜」 先生はそれを見ながら、一人一人、「はい、○○ちゃんはね、こういう作品作っています〜」 そんな授業しています。子どもたち、次の時代を生きる人。
かつては、私は子どもは指導の対象だと思っていましたけれども、今は違う。 次の時代を生きるわが望みです。 子どもたちから沢山のエネルギーを貰っています。 子どもたちのいる場所へ行くと、私(戸塚伝道師)は沢山、なんかいのちのエネルギーを溢れるばかりに貰う、そんな感覚、思いがする。 実際そうなんでしょう。子どもといると元気になる。 だからいまだに学校に行っています。週に二回お手伝いに。 辞められませんね(笑)、これは。辞められません。
子どもたちにも、若い人たちにも、リスペクトの気持ち、尊敬の気持ちで一杯です。 これからの時代、(※頭を下げて)どうぞよろしくお願いします。 ああ、私が地上を去った後、高津教会の将来には、希望があるなぁ――こんなことを考える年齢になったんだなぁと思います。
更に「私たちの将来の望み」――それは何でしょうか? 私たちの将来の望み――毎日の様々な忙しい生活の中で、埋もれがちなんですけれども、実はこれが(※特に力を込めて語る戸塚伝道師)一番大事で、一番すばらしい望みです。 私たちが救い主イエスさまと出会わせていただいた、その私たちが神さまを信じて生かされている私たちが、一番すばらしい最大の望み、究極の望みとはいったい何でしょうか? それは、私たちがこの地上を去った後、死んだ後、私たちのたましいが天国に、パラダイスに行くことですね。 これが最大のすばらしい望みである、ということです。
でも、私たちはあんまりありがたみが分かっていないんだなぁと思います。 あまりにも凄いのか、あまりにも現実離れしているような感覚がするのか? 天国に行った後、じゃあ何するのか?ってことも漠然としています。 何するんだろうか?あの人と再び会える、そういう希望はあるでしょう。 でも会って喜んで、「お互い、ああ、良かったね」、きっと後、何するんでしょうか?
そうすると、天国って漠然としている。でも天国は天国で終わらないんですよ。 聖書を読むと、天国の先がある――それは死に打ち勝って、からだが復活することです。 この間も高津教会の墓地に行きました。 (※墓石に刻まれた)「復活」という二文字が、私たちを待っていますね。 復活。すべてが新しくされた神の国で、主のわざに続けて励む、そういう恵みが、天国の後に、或いは天国に続いて与えられる。 私たちの身体が、復活する。障害はないでしょうね。眼鏡も要らないでしょうね。しわもないでしょうね。 どういうからだで復活するか?「栄光のからだ」としか書いてない。死なないからだですよ。 復活する、そして復活のからだをいただいて、神さまの国で与えられた使命に生きるんですよ。
先日礼拝で藤本満先生が、神学者、聖書学者のN・T・ライトさんの神学を紹介されました。 「クリスチャンの多くは自分が天国に行くこと、そのために為すべきことだけを考えているけれども、そんな内向きの信仰者ではなく、十字架・復活の恵みによって既に来たりつつある神の国、私たちが復活したあかつきには、その神の国でやることがいっぱいある。 そしてそれはもう始まっているんだ。もうこの地上の中で始まっている。 私たちが今やっていること、それが天国に行って神の国でも、決して無駄にはならない。」
そのように聖書にも書いてあるんですよね。 復活の章、コリント人への手紙第一の15章の最後にも、 「・・・いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから」(Tコリント15:58)とあります。 私たちが今やっていること、辛い仕事かもしれない、でもそれが神の国で役に立つ、生かされるという、そういう時が来る。 なんという希望でしょうか!そんなすばらしい使命に生きる、そして今既に生きているというような信仰者になりたいなぁと思いました。 その時「あなたの労苦には報いがあるからだ」という、エレミヤ書31章の16節のこのみことばにも繋がるわけですね。 いま様々な労苦の中にある、様々な辛い状況の中にある労苦が報われて、それがすべて生かされて、神の国でも生かされる――なんとすばらしい将来の望みでしょうか?
「あなたの将来には望みがある」――それは私たちが死んでからのこと? 望みがあるのは将来のこと? 今は望みなし? そうではありません。将来の望みは、今の望みでもあるのです。 イエスさまは仰いました――「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです」(***ヨハネ11:25)と。 でも、その後、イエスさまはこう仰いました。 「生きていて、わたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません」(***同26)と仰いました。 私たちは今生きていて、そしてイエスさまを信じている私たちは、永遠に死ぬことがない。 これは復活のからだをいただいて、神の国で、今の様々な労苦が報われるような使命に生きることができる、というそういう希望が与えられているという約束です。
《将来私たちが復活する、という視点で今を生きる》とすると、今の生き方も、今の現実も全く違ったように見えて来るのかもしれない。 神の国は時間にも空間にも支配されない場所ですから、時間を越えてやって来るものですから、 将来から、希望ある将来から今へ、そして今年へ、 (※向こうの方に右手を伸ばして、それを顔の方に近づけてのけぞって「逆流」を強調して見せて) 神さまの希望が逆流して、私たちに与えられる、復活の希望。 ああ、私たちはそんな希望が待っている所に、これから行くんじゃなくて、 《もうその希望が今ここにあって、この希望に今生かされて、》 様々な戦いの中で、その希望を握りしめながら歩んでいるんだということです。
3)2023年の恵み、これを思い巡らして終わりたいと思います。
今朝、お読みしたエレミヤ書31章の12節〜17節の中に、「【主】のことば」として語られた言葉が3つありますね。 「【主】のことば」「【主】のことば」「【主】のことば」と付く、三つのことば。 1つ目が17節「あなたの将来には望みがある」という【主】のことば。 2つ目が16節「あなたの労苦には報いがあるからだ」という【主】のことば。 もう一つ、14節にこの言葉があります。 「わたしの民は、わたしの恵みに満ち足りる」【主】のことば。
恵みに満ち足らせてくださる方は神さまです。 2023年の恵み――恵みに満ち足らせてくださる。 だれが恵みに満ち足りるか?――「わたしの民」とあります。 イエスさまに出会わせていただいて、神さまを信じて生かされている私たちのことです。 「わたしの民」――民っていう言葉は複数ですね。複数ってことは、私だけではありません。私たちに対するおことばです。 「私たちは、神さまの恵みに満ち足りる」というお約束のことばです。 でも私たち一人一人に与えられた恵みをそのままにしておかないで、私たちが与えられている様々な恵みや喜びや感謝を共に分け合う、っていうことはどんなにすばらしいことでしょうか! 今日の午後の「おあそびひろば」もそうですけれども、礼拝後、こうして対面で皆さんいらしていただいて――この礼拝の時もすばらしいんですけれども――でももっと盛り上がるのは、もっと顔が輝くのは、この礼拝の後のお互いの雑談の時間じゃないでしょうか?(笑)
共にご挨拶をしながら色々なお話をして、私たちはお喋りがしたいんです。 お喋りがしたい――あんまり喋っちゃうと叱られそうですけれども、「ロビーのところではお喋りしないでください」(笑)と。 でも、お喋りがしたいんですよ。私たちは。 日頃の様々な思い、日頃の様々な恵み、日頃抱えている色々な悩みや色々なこと、情報、それをシェアしたいんです。 恵みっていうのは、勿論悩みもそうです。シェアすることによって変わっていくんですね。
「わたしの民はわたしの恵みに満ちたりる。」(エレミヤ31:14) 「人とは何ものなのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。」(へブル2:6、詩篇8:4) 心に留めてくださっている神さまの様々な恵み、それは悩みをも、病をも、試練をもすべて心に留めてくださっているものすべて、それらを差しさわりの無い中でシェアしていく。 それが祈り合いになり、励まし合いになり、助け合いになる。 それが私たちに与えられた2023年の恵みでもあります。 (※カメラ目線に向きを変えて改めて語りかける戸塚伝道師)どうぞオンラインの方、教会にいらしてください(笑)。 教会に来る。そこで礼拝するのも幸いですけれども、教会に来て顔を見て、「あ、お久しぶりですねぇ〜」――ぜひ、そういう時間が欲しいです。 ぜひ差し障りがなければ、来週いらしてください(笑)。お待ちしています。
お話を締めくくります。新しい一年がスタートして1週間、まだ始まったばかりです。 私たちの前に、一週間経ちましたけれども、まだ歩いたことのない道がず〜っと続いています。 明日のことは分かりません。コロナ禍も世界情勢も、自然災害もどうなるんだろうか?大地震はいつ来るんだろうか? 政治や経済の動向も、そして私たちの日々の生活、仕事、人間関係、家族のこと、体調のこと、さらには自分のいのちのこと。この先一体どうなるんだろうか? 何とも言えない漠然とした不安感や不透明感。いや今その試練の真っ只中に、この朝あるっていう方もおられるかもしれません。
しかし、私たちがどう感じようと、聖書を通してはっきり分かっていることがあります。 これだけははっきり分かっている――それは《神さまがどんな状況の中にあっても、私たちと共におられる》ということです。 (***イザヤ41:10、創世記28:15、エレミヤ23:24など) これははっきり分かっている。私たちが信じられなくてもですよ、神さまは私たちと共にある。 ある場合には、手を握って一緒に泣いてくださる。ある場合にはみことばを通して語ってくださる――これだけははっきりしています。
もう一つあります――《神さまがすべてのことを働かせて益と変えてくださる》ということです。(ローマ8:28) 私たちが気付かないこともあります。いつの間にか、益と変えてくださるの「益」が、私たちの願っている益とは違う益かもしれない。 でも後から振り返ると、「あ、なるほど、神さま、そうだったのですね」(※頭を何度も頷かせながら)「ああ、そうだったんですか、分かりました。やっと分かりました」って時が来るかもしれない。
《どんな状況の中にあっても共にいてくださり、すべてのことを働かせて益と変えてくださる私たちの救い主、イエスさま。》 なぜ、そういうことをしてくださるのか? 《その救い主が、復活して今も生きておられるから》ですね。 聖霊を通して、私たちの日常生活の真っただ中に、さらにはこの心の内に、こんな汚れた心の内にも、イエスさまは復活して生きておられるからですよ。
今日の讃美歌で最後に歌う讃美歌ですけれども、《教会福音讃美歌の314番 私をゆるすために》という讃美歌があります。 (※Because He Livesというタイトルでも有名 Gloria Gaither&William J. Gaither) 2節を見ますと、「幼子抱くことは 恵みと喜び この子もまた生きる 主のあわれみに支えられ」という、2節の歌詞が証しのような信仰宣言のような、そんな歌詞になっていますが、 この讃美歌の作詞作曲者は、これはアメリカのゲイザー夫妻が作詞作曲されました。
1960年代、アメリカは泥沼化したベトナム戦争のために、国の力は衰え、人々は心身共に疲れ果てていたような状態でありました。 若者たちはあらゆるものに対する価値観を失って、空しさのあまり麻薬の常習者となる人も少なくなかったそうです。 新しい讃美歌を世に出し続けて来たこのゲイザー夫妻ですけれども、当時曲を作る情熱も失ってしまった。 長い間ペンを執らずにいました。
夫のウィリアム・ゲイザーが、妻の胎内に新しいいのちが宿っていると知ったのは、まさにそのような時でした。 ウィリアム・ゲイザーはこう述べています。 「その頃私たちは、今は子どもを世に送り出すのに、本当に可哀想な時だと考えました。 何を見ても本当に失望することばかりでした。 そんな時に息子のベンジーが生まれたのです。 私たちには、夫婦で心から愛している二人の幼い娘が既にいました。 しかし、今度は初めての息子です。
その時、このような思いが湧いて来ました。 生まれたばかりの赤ん坊を抱いていると、この子からプライドと喜びを感じることができ、 なんとすばらしいことか!――しかしそれと共に、《キリストが生きておられるので、この子が不安な日々の中にあっても、大丈夫だという確信が持てる――このことの方がもっとすばらしいことではないか!》 こうして「キリストが生きておられるので、私たちは明日に立ち向かうことができる」と言える勇気が与えられたのです。」
という証しですね。 この歌は1974年度のアメリカのゴスペルソングに選ばれ、この讃美歌は多くの人々を励ます讃美歌となりました。 この歌の繰り返し部分、「♪明日は怖くはない 主イエスがおられる 未来もまた御手にある 明日を生きる意味がある」 このように訳されていますけれども、英語の歌詞を直訳するとこうなります。 「♪主が生きておられるので、私は明日に立ち向かうことができる。 主が生きておられるので、すべての恐れは消え去る。 主が将来を握り、主が生きておられるので、人生は生きる価値がある。」
2023年、元旦礼拝では、私たち一人一人を心に留めてくださる神さまについて語られました。 そしてこの朝、私たち一人一人の将来をすべてご存じの神さまが、私たちに向かって言われます――「あなたの将来には望みがある」。 この神さまから来る大きな希望に励まされて、今を、明日を、そしてこれからの一日一日を神さまと共に歩んでいきましょう。
☆お祈りをいたします――戸塚伝道師
17 あなたの将来には望みがある。(エレミヤ31:17)
神さま、あなたがこの朝、私たち一人一人に語りかけてくださったことをありがとうございます。現実の厳しさに圧倒されて、あなたを見失ってしまうこともあるかも知れません。それでももうだめかと思う時であっても、将来に約束されている確かな希望が、今を生きる私たちの大きな支えとなりますように。
この新しい年も変わらずに、あなたがいつも共にいてくださることに気づかせてください。そして、日々経験する様々な出来事すべてを益に変え、あなたの恵みに満ち足らせてくださいますように、よろしくお願いいたします。すべてを委ね、あなたのお約束に期待して、愛するイエスさまのお名前によってお祈りいたします。アーメン。
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