☆聖書箇所 ローマ8:33〜35
33だれが、神に選ばれた者たちを訴えるのですか。神が義と認めてくださるのです。 34だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。 35だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか。苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。
☆説教 キリストの愛から引き離すものなし
長尾宜紹(のぶつぐ)君は長尾家の4番目として生まれました。 一番上のSさんは6カ月で肺炎のために召されました。そこからE君、Yさん、宜紹(のぶつぐ)君が一番下です。 小さい頃は甘えん坊のわんぱくで、圭子(夫人)が当時幼稚科の先生をしていましたけれども、毎回疲れ切って圭子(夫人)が帰って来るんですよね(笑)。 宜ちゃんが机の下に入り込んで、「そんなのつまんな〜い。何度聞いたか」みたいな話を(笑)叫び声を上げながら駄々をこねる宜ちゃんというのを相手にして、ほんとに疲れ切った、という風にいつも言っていましたけれども。 でもほんとにかわいい優しい子でありました。 長尾家は肝っ玉母さんで、すべてが回っていました。 教会でも、長尾姉、長尾Y子さんは母子室で子どもたちの面倒を看て、そしてよその子どもたちの面倒も看てお母さんたちを励ましていました。 難しい赤ちゃんが来ますと、長尾さんに上に上がっていただいて、そして赤ちゃんの面倒を看て、お母さんの心の平安にも色々目を配っていたようであります。
振り返ってみますと、長尾さんと私(藤本牧師)は兄と弟の関係でありました。 長尾さんは集団就職で青森から東京に出て来られて、そして近辺のアパートに住んでおられたところ、特別伝道集会で高津教会に来られるようになって、 Wさんが同じようにして伝道会で導かれた、その少し後だろうと思います。 救われて以来、長尾さんは忠実な奉仕の人でした。 教会の集会は当時、礼拝、祈祷会、夜の伝道会とありましたけれども、ずべて出席。 のみならず、教団の聖会が、新年聖会、或いは開拓伝道会、林間聖会、ありとあらゆる聖会に全部出席しておられました。
私(藤本牧師)は今でもよく思い出します。 当時年末の大掃除がありまして、この教会堂の前でしたので、畳敷き。 会堂部分が畳70畳か80畳ぐらい。その他板の間があるわけなんですけれども、長尾さんと二人で全部雑巾がけをしました。 畳、年に一回の雑巾がけ、というのは、ただ摩ればいいというものではない。 ごしごしごしごし、80の雑巾がけを4〜5時間かけてやった覚えがあります。 (※藤本牧師は高校生でした)。 長尾さんは当時ジープに乗っていまして、私はいつも長尾さんの車に乗せていただいて、色んな集会に行きました。
皆さん、お一人お一人にもそれぞれ人生があります、ということは、様々な出来事があります。 その出来事が教会にかぶりますと、ほぼ信仰年限を共に歩んで来た、子どもの代まで共に歩んで来た、というそういう状況になります。 宜ちゃんの少し上に、私の息子のNがいました。その下に私の娘のAがいました。その辺りはみんな、当時高校一年生位だった山本建君を慕って遊んでもらいました。
建君は、教会学校の先生でよく面倒を看てくれました。 建君はもうすぐフィリピンから帰って来ます。フィリピンで500人位治療して癒して、神さまが与えてくださった賜物を、ほんとに磨きに磨きをかけて、十年間歩けなかった人が歩けるようになり、という大変特殊な神さまの癒しの賜物を貰って帰って来ます。二年ぶりに帰って来ます。ぜひ高津教会にもお迎えしたいなぁという風に思っています。
(1月)21日の土曜日のお昼に電話をいただきまして、長尾さんから 「宜が職場で召された」という、ま、言葉もないお電話でありました。 原因はまだ分からない。 夕方になって分かりました。大動脈瘤破裂と。 それまでは、事件性も疑うということで、警察も突然のことでありましたので、検死に回されました。 そのような病気でありますと、全く予測も尽きませんし、また救急車も来ない内に天に召されたことは事実だろうと思います。
驚いたことは、今日、そこからお話ししますけれども、長尾さんが次の日の礼拝にいらっしゃったということです。 これが長尾さんの信仰だなぁ、と思いました。 それが、私たちがおおよそ見倣うことができないような信仰であることは事実であります。 ただそうであったとしても、そのような方が高津教会にいるということは、私たちの誇りであります。
先週、教団の条例審議委員会を開きました。 式文の改定を若干したんですね。 火葬する前の式文のお祈りから-――(※テキストを牧師席に取りに行って、そのページを捜して開けながら)――私も古い人間でありますので、火葬する前の式文のお祈りから――(※読み上げる) 「天地の創造主、全能の父なる神さま、あなたの深い御旨と憐れみによって、みもとに召された長尾宜紹君の亡骸を、私たちは今あなたの御手に委ね、土は土に、灰は灰に、塵は塵に返そうとしています。」 というこの文言が、遺族にとっては酷ではないかと言う。 で私は、「英語でもドイツ語でも、この文言は太古の昔から入っています」と。 ですから、これを取るというのはどうなのかなぁ?と。
しかし今式文を作っているリーダーの方が女性ですので、女性の視点から考えると、この文言はあまりにもしんどいと言う。 仮にもしそれが自分の子どもだったとしたならば、このように祈られるということは、親としては耐え難い、と言っていました。 「終わりの日には、神の大能の力によって、栄光のからだに変えられることを信じます。」 そして、この聖書の言葉が入るんですね。 「【主】は与え、【主】は取られる。【主】の御名はほむべきかな。」(***ヨブ記1:21) これはヨブ記の有名な言葉で、葬儀の式文には必ず入って来る。 「【主】は与え、【主】は取られる。【主】の御名はほむべきかな」ですね。
70以上の方が召されたら、まさに「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」と心を合わせて祈るべきだと私は思っています。 でも考えてみると、ヨブがそのように言ったのは、自分の死、或いは自分のお父さんの死に際してではなく、自分の子どもの死に際して、ヨブはそのように言っているんですね。
ヨブが60歳だとしたならば、7人の子どもたち全員失うわけですけれども、みんな20代30代ですね。 ヨブがその年齢でその若さの子どもたちを失いながらも、「【主】は与え、【主】は取られる。【主】の御名はほむべきかな」と(※潔いんですけれども)。 これは親が子どものために、子どもと別れを告げるために祈る祈りとしては、大変残酷であります。 で、私もこういう文言は取った方がいいと賛成して、違う聖書の言葉を考えようという提案をいたしました。
でもまさにこの文言は長尾さんにふさわしいです。 自分の息子が天に召された次の日に、神を礼拝しにやって来るというのは、何とか息子をよみがえらせてください、という祈りではないですね。 息子が何とか天国に入ることができますように、という祈りでもないですね。
それはいのちと死の両方を握っておられる神を、どんな時であっても礼拝する。頭(こうべ)を垂れにやって来る。 宜君を神の御手に委ね、家族全員への力づけを祈るために、家族を代表してやって来る。 年末、奥さまは膝の手術をなさいましたので、まだ十分に動くことができません。
私(藤本牧師)には、長尾さんのような信仰はないと思います。 最初から宣言しておきますけれども、そこまでできないと思います、私(藤本牧師)は。 でも、長尾さんは私の兄さんです。皆さんにとっても兄さんです。 その兄さんの信仰を見て、やっぱり感動するのが家族ですね。 教会にお一人でもこのような信仰を持っている人を、神さまが備えていてくださっているということを私たちは力にしたいと思います。
私たちの教会では、『教会家族』という表現をいたします。 それで今日の詩篇は詩篇84篇になっています。 教会総会の聖日に必ず読まれる詩篇84篇で、 「雀さえも、燕さえも、その巣をあなたの神殿に設けました」と。 つまりどのような人でも、雀でも、燕でも、その巣を神殿に設けることができる程、神殿は私たちを招いている、という。 それを称して、私たちは『教会家族』と言います。 でも私たちの教会のモットーは、教会員の家族もまた『教会家族』です。
これが一番明白に出ているのは、墓地の規定です。 私たちの教会には墓地があり、永代使用料というのはとてつもなく安いです。 それは骨壺を納める時に支払う9万円のみです。あとは、永代でそれ以上の金額はかかりません。 この規定は、なんと教会員だけでなく教会員の家族、そのまた家族にも適用することができるんですね。 ですから、私たちの教会には洗礼は受けてない、信仰のことはよく分からなかった、でも教会員の家族であるから入っている。 そして、そういう方のお名前も、ご本人が石屋さんに4万4千円払えば、ちゃんと教会墓誌に刻印されているという――これが私たちの『教会家族』という概念で、 ここにいる方とオンラインにいる方と、のみならずその方々の家族まで、神さまは徹底的に祝福を述べてくださる。あなたの信仰のゆえに。
あなたの信仰のゆえに。 あなたが信仰を持っている、でも家族は信仰は怪しい。だったら家族は天国に行けないのか?――私たちはそう考えないです。 あなたの信仰のゆえに、神さまはあなたの祈りを覚えて、あなたの家族を天国に迎えてくださる。
宜君はしばらく教会に来ていませんでしたけれども、しかし小学校1年生で洗礼を受け、高校を卒業するまでずっと教会学校でありました。 お父さん、お母さんが宜君のために祈れば、それは私たちも一緒に祈ります。 その祈りの聖書の個所を、今日ロマ書から見ていただきました。
1)救いに向けての強い神さまの方向付けというのがあります。
ちょっとロマ書を見ていただきますね。 読むことは避けましたが、ここにこういう言葉が出て来ますね。
【画面:ロマ書8章29節「あらかじめ知っている」「同じ姿にあらかじめ定め」に黒ペンで囲み「同じ姿にあらかじめ定められたのです」にオレンジのハイライト。30節「あらかじめ」以降全文にオレンジのハイライト】
<ロマ書8:29〜30> 29神は、あらかじめ知っている人たちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたのです。それは、多くの兄弟たちの中で御子が長子となるためです。 30神は、あらかじめ定めた人たちをさらに召し、召した人たちをさらに義と認め、義と認めた人たちにはさらに栄光をお与えになりました。
「あらかじめ定められた」というこの言葉。 (※30節を読んだ後、)死んで後でしょうね。 「定めた」という言葉が2回出て参ります。 ここには「召す」という言葉も出て参ります。
私たちは一体何者なのだろうか?と考えた時に、《私たち教会家族は、ある方向に定められた者たち》です。 それは神さまの祝福を受け、神さまの救いを受け、天の御国の相続者となるという方向に私たちは定められている。 その定められた方向へと神はあなたを召し、召したあなたは義と認められ――正式に神の民となり、という意味ですね。 そして、最後この地上を去る時には、栄光の世界に迎えられるように、その方向性へと私たちは定められているのです。
2)定められている、と言いますけれども、この世界では困難が沢山あります。また、私たちの信仰の弱さときたら、とんでもない位弱い時がありますね。
自分で自分の信仰をきちんと生きなさいという聖書の御言葉に、なかなか添うことができずに、生きることができない者たちもいるでしょう。 ところがパウロの言葉はここへ続きますね。31節、ちょっとまた映していただきますが―― 【画面:ロマ書8章31節「神が私たちの味方」に緑のハイライト。「だれが私たちに敵対できるでしょう」にオレンジのハイライト】
<ロマ書8:31> 31では、これらのことについて、どのように言えるでしょうか。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。
ここにありますように、《神が私たちの味方である》と。 この世界は困難に満ちている。私たちの信仰は極めて弱い。でも神さまは私たちを救いの方向性へと定めておられる。 その時に、31節にありましたように、神さまが私たちの味方だ。 この世界は困難に溢れている。私たちは弱い。しかし神さまが、あなたの味方です。
皆さんね、自分の家族を例えていうならば、手術室に送り出す時に、転勤先に送り出す時に、世界の果てに、難しい課題と知っていながら、職場に送り出す時に、皆さん何て言います? 何て言おうが、大体同じ主旨のことを仰いますでしょう? 「大丈夫。大丈夫。色々あると思うけれども――色々ないわけないんです――神さまがあなたの味方だから。だから大丈夫だから。お母さん祈っているから。お父さん祈っているから」 と言って、送り出すではありませんか? それって、私たちにとっては、祈りのような、祈るような思いで「神があなたの味方だから」って言うんですね。 でもパウロは、それは祈りではない。パウロにとっては強い確信です。
敵対する者はわんさかいるでしょう。しかし本当の意味で敵対することはできない。 なぜなら、神があなたの味方だから――これは祈りではない――神はあなたの味方なんです。
3)どうしてそこまで、「神が味方である」とパウロは言い切ることができるのか? (⇒それはとりなしてくださるキリストの存在です)
これが今日、実は目を留めていただきたいみことばなんです。 33節からちょっと読んでいきますね。 【画面:ロマ書8章33節「だれが」34節「だれが」「罪ありとするのですか」「とりなしていて」にオレンジのハイライト。34節「死んで〜とりなしていてくださるのです」に緑のハイライト。「とりなしていて」に黒ペンで囲み】
<ロマ書8:33〜34> 33だれが、神に選ばれた者たちを訴えるのですか。神が義と認めてくださるのです。 34だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。
《キリストのとりなしがあるから、神は私たちの味方をどんな時にもしてくださる》というパウロの確信なんですね。 ここでキリストの存在というものは二重に描かれています。 「死んでくださった方、そしてよみがえられた方」 @《私たちの罪のために、死んでくださった方が、あなたのとりなし手です。》 でもそれだけではありません。パウロは「いや」という言葉で言い直していますよね。 その方は、私たちの敵である死を打ち破り、よみがえり、 特別にパウロが強調しているのは、 「いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、」(34)と書いてありますよね。 「神の右の座」というのは「権威の座」ですから、 A《すべての権威を握っておられるキリストが、あなたのためにとりなしをしていてくださる。》
なぜなのか?それは次の行にあります。 (ロマ書8章)35節に「だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか」とあるように、キリストはあなたを愛しているからです。 キリストの愛ということに、どれ位私たちが自分自身の身を投じることができるのか? なかなかできないですよね。 キリストの愛というのは良く言われ、知っていますけれども、いざ自分が困難な状況に入ると、 100%キリストが愛しておられるからという確信に至って、そこを耐え忍ぶことはなかなかできないですよ。
でもきっとヨブはできたんでしょうね。 ですから、「【主】は与え、【主】は取られる。【主】の御名はほむべきかな」と、そこまで言えるわけです。 私たちはなかなかそこまでは言えない。 だからこそパウロは、これはもう、祈りではないんです。 あなたの問題ではないんです。イエス・キリストなんです。 キリストがあなたのために十字架に架かられた、ということは事実です。 この方がよみがえられた、ということも事実です。 この方が天に昇り、神の右に座した。いま権威を握っておられる、ということは、 この世界に様々な支配者がいて、帝国は打ち破られ、新しい国が興り、そういう中にあっても、神さまの主権というのは全く変わらないのと同じように、 《私たちのいのちも私たちの死も、この方がすべて握っておられる。》 《その方が、あなたのためにとりなしをしてくださる。》 私の個人的な問題のためにとりなしをしてくださる。 だとするならば、たとえ私たちが不慮の事故に遭ったとしても、たとえ私たちが病や困難の中にあったとしても、《神さまはあなたの味方です。》
その強い確信が、火葬の前のお祈りの中に入っているんですよ。 ですから、「土は土に、塵は塵に」というのは、火葬というよりは本来土葬なんですね。 ですから昔ながらの土葬のやり方でなされるキリスト教葬儀の前には、必ずその言葉が入ったんですね。
神さまというお方に対する絶対的な信頼は、私たちの信仰の強さでもないし、 たとえそれが不慮の事故であり、たとえそれが厳しい病であり、たとえそれが戦争であったとしても、 そして私たちはその現実に泣き崩れなければいけない状況で、 自分の人生これから全く見えなかったとしても、 神はいのちと死に対する絶対的な権威を握っておられ、 そしてこの方が天に召されたというならば、だれが罪に定めるのでしょうか?と書いてあるんですね。 だれも罪に定める者はいない。なぜなら、十字架のイエス・キリストがあなたの愛する者のとしなしをしてくださる。 キリストを信じている限り、キリストにすがる限り、洗礼を受けた限り、あなたの家族であれば、あなたが真実に祈って来た家族であるならば、 キリストの愛はぴったりと寄り添って、苦難の中でも試練の中でも、迫害の中でも死の中でも、その人物を守り、味方してくださり、 すべてを治めている神はキリストのとりなしのゆえに、あなたを義とし、あなたを栄光の内に迎え入れる。
そういう意味で、宜君は自分があずかった救いのすばらしさを、天国で初めて感激し、感動し、感謝しているのが今日の聖日だろうと思います。 そして地上に残して来た遺体はダビにふされるというこの現実は、変わらない。 しかし目に見えない世界の中で、罪に定められることなく、義と認められ、そして栄光の内に迎えられ、キリストと共に統べ治め、 今頃吉田さんと再会を果たし、吉田さんから怒られて(笑)、 「ちょっといくら何でも早く来過ぎだろう」ということは、言われていると思います。 私たちはご家族の慰めのためにお祈りをいたしましょう。
☆お祈りをいたします――藤本牧師
恵み深い天の父なる神さま、祈るべきことは私たちの心の中に沢山あります。でも宜君のような家庭、長尾卓美さんような信仰者を、Y子さんのような信仰者をこの教会に与えてくださいましたことを心から感謝いたします。長尾家の恵みは、私たちの恵みであり、だれ一人として同じ人生を歩んでいるわけではありません。でも私たちも経験します。あなたが与えてくださったものを、あなたが取られることがあることを。 しかし、同時に私たちは経験します。取られたあなたはまた私たちに与えてくださることを。私たちが死の中であっても、苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか、どんなものであったとしても、キリストの愛から私たちを引き離すものはない。どうか、この信仰を確かに持つことができるように、私たちを憐れんでください。
もう既に恐らくKTさんはエジプトの地に入っていらっしゃいます。Tさんのご家族、Kさんのご家族、お仕事全体を守ってくださり、やがて家族皆がエジプトで合流することができる日まで、色々寂しい苦労する思いがあると思いますけれども、あなたが守ってくださいますようによろしくお願いいたします。愛する主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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