☆聖書箇所 へブル1:1〜4
1神は昔、預言者たちによって、多くの部分に分け、多くの方法で先祖たちに語られましたが、 2この終わりの時には、御子にあって私たちに語られました。神は御子を万物の相続者と定め、御子によって世界を造られました。 3御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。御子は罪のきよめを成し遂げ、いと高き所で、大いなる方の右の座に着かれました。 4御子が受け継いだ御名は、御使いたちの名よりもすばらしく、それだけ御使いよりもすぐれた方となられました。
☆説教 へブル(2)語りかける神
へブル人への手紙の講解をすると言って、なんと今日が二回目です。ですから元旦礼拝以来、ほとんど何もすることができませんでした。 (※語りながら、タブレットを外して誰かに渡す藤本牧師) 元旦礼拝では今年の聖句として、2章の6節を取り上げました。それは 「人とは何ものなのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。」 (※またタブレットを受け取って、語りながら取り付ける) ちょっと今、Oさんが(タブレットを説教用に?)直してくださいましたので、これを観てくださいます? 【画面:へブル書2章6節「人とは何ものなのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは」にピンクのハイライト。「人とは」「人の子とは」に赤ペンで囲み】
<へブル2:6>――※読みながら説明 6ある個所で、ある人がこう証ししています。 「人とは何ものなのでしょう。 あなたがこれを心に留められるとは。 (***これは詩篇8篇の引用です。そしてここで「人とは」というのは私たち人間で――) 人の子とはいったい何ものなのでしょう。 (***ここに出て来る「人の子」というのも、実は詩篇8篇でも人間なんです。) あなたがこれを顧みてくださるとは。
<詩篇8:4> 4 人とは何ものなのでしょう。 あなたが心に留められるとは。 人の子とはいったい何ものなのでしょう。 あなたが顧みてくださるとは。
でもヘブル人への(手紙)記者は、この「人の子」主イエスが――イエス・キリストがマルコの福音書で頻繁にご自分のことを「人の子」と呼んでいますから――ここから人の子に関して全部イエス・キリストのことなんですね。
そこで私(藤本牧師)はこの書物の講解のテーマを考えました。 @それは、私たち、人はいったい何ものなのだろうか? ということと、それを理解するために、 Aいったいイエス・キリストは何ものなのでしょう? という、この二つに焦点を合わせることによって、多くのことを学んでいきたいと願うようになりました。
そして今日は、(へブル書の)一番最初に戻ります。 簡単に3つのポイントを用意いたしました。 今日見ていただいた箇所は(へブル1:1〜4)、手紙の序文になりますけれども、 ここで強調されていることは、1節を見てください。
<へブル1:1〜2> 1神は昔、預言者たちによって、多くの部分に分け、多くの方法で先祖たちに語られました。 2この終わりの時には、御子にあって私たちに語られました。神は御子を万物の相続者と定め、御子によって世界を造られました。
(※1節を読んだ後、)というように、「語られる神」です。 神は私たちに語られる。 対照されているのは、1節の「昔」とそれから2節の「この終わりの時」です。
1)「この終わりの時には、イエス・キリストを通して語られる」となっています。
「昔」というのは旧約聖書の部分で、「多くの方法」とあるのは、それは旧約聖書にはトーラと呼ばれる五書があり、それから歴史書があり、詩篇や知恵の書があり、また預言者の書があります。 時代的に書かれたのは500年ぐらい。その集大成として旧約聖書が存在しています。 その中を見ますと、神さまは多くの場合、夢によって語られ、エリヤのように突然皆の前に現れ、彼の人物を通して語られた言葉。 ですから1節の最後にあるように、「神は多くの方法で語られた」。
しかし、それと対照して2節に「この終わりの時には」と。 「終わりの時」というのは、へブル人への手紙が届けられている読者、そして現代の私たちも同じ意味で「終わりの時」を生きています。 「終わりの時」というのは既に始まっています。まだ完結していません。 キリストの再臨によって完結されることを、私たちは待ち望んでいますけれども、 「終わりの時」というのは、へブル人への手紙の読者にとっても、私たちにとっても既に始まっています。
で聖書をちょっと見ていただきたいと思いますが、映しますね。 この「終わりの時」って、いったいどういう時なの?って、代表しますとこの言葉が出て来ます。いいですか?ちょっと(へブル1章)3節の頭から読んでいきますね。
【画面:へブル1章3節「神の本質の完全な現れ」「御子は罪のきよめを成し遂げ〜右の座に着かれました」にオレンジの傍線。 「その力あるみことばによって万物を保っておられ」にピンクのハイライト傍線。「大いなる方の右の座に着かれました」にピンクのハイライトの囲み】
<へブル人への手紙1:3>――※読みながら説明 3御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。(***その次ですね、その前も大切なんですけれど、と説明) 御子は罪のきよめを成し遂げ (***というのは十字架です、十字架によって私たちの罪を許され、私たちを神の子どもとし、と説明) いと高き所で、大いなる方の右の座に着かれました。 (***というのは、復活です。いや、復活の後、キリストは天に昇り、神の右に着座され、そしてキリストの支配はその時点から今に至るまで、私たちの人生を、この世界を見そなわしておられる、と説明)
ですから私たちは、この(2節の)最初にあります「終わりの時」を生きている者たちになるわけですね。
私たちは勿論、旧約聖書も新約聖書も同じように尊い神の言葉として読んでいます。 しかし「終わりの時」に生きる私たちは、圧倒的に「終わりの時は御子によって語られる」と書いてあるんですから、 御子イエス・キリストの視点で旧約聖書を読まなければ、私たちは単なるユダヤ人になってしまいます。
神は「語りかける神」。 人間は、「神の語りかけに応答する力」を与えられた、という点で私たち人間は特殊なんですね。 被造物という点では、他の動物たちと似た部分も沢山あるに違いありません。 呼吸をし、何かを食べ、そしてそれを排泄し、様々に生物学的に言えば、私たちは他の生物と似た部分を持っています。 何が一番違うかというと、私たち人間だけが、神の語りかけを聞くことができ、それに応答することができる。 つまり神と人格と人格の交わりの中に入れられている、ということですね。
私たちに人格が与えられている以上、私たちは「神の語りかけに背を向ける自由」も持っています――そういう「自由」も持っています。 しかし神さまが私たちを創造された時、私たちには神の語りかけに耳を傾け、それに応答する力が備えられている、 これが人間に与えられた、もっとも特殊な、人間固有の能力だ。
そう考えると、罪というものがよく分かります。 罪とはもちろん神さまの戒めに背いた行動であったり、神さまの規範を破った行動であると考えがちですけれども、根本的に言いますと、そういうことではないです。 語りかけて来る神に耳を塞ぐというのが、罪のあり方です。 自分の思いが先立つからか、或いはあまりにも忙しいからか、神さまの語りかけに従順に耳を傾けようとしない、ということですね。
先週の日曜日にKさんのお母さんが天に召され、今日の午後家族だけでの葬儀です。 最初私(藤本牧師)と圭子(夫人)が行くかなぁと思ったんですけれども、 これはもう家族だけの方がいいということで、私たちは行きません。 高津教会の墓地に納骨される時に、一緒に納骨式をいたします。
昨日は、体調を著しく崩されたT武さんのお宅にお祈りに行きました。 一緒に「いつくしみ深き」を歌って、そして思いのほか声を出して、T武さんは賛美を歌っておられました。 信仰を持たれたのはホーリネス教団の教会です。 奥さまもそうです。そして結婚して中原に住まわれるようになりました。溝口を通ります。 30年前、まだ私(藤本牧師)も戸塚先生も、駅前で、Nさんも、Wさんも、路傍伝道をしていました。 30年前に溝口の駅前の路傍伝道で、声をかけてくださったのがTさんです。 「久しぶりに珍しいものを見ました」という(笑)。 教会が路傍伝道をするというのは、最近ない。 「久しぶりに見た。どこの教会ですか?」から始まって、私たちの教会に来るようになって、30年間共に歩んで来ました。
T武さんは、コロナがあろうがなかろうが、この3年間、オンラインの礼拝が彼を支えて来ました。 もう自転車に乗って、中原の奥から高津教会にいらっしゃる体力はないんですよね。 でも毎週オンラインの礼拝を観て、Tさんは私たちに繋がり、 そして昨年の秋までは毎週Zoom の祈祷会に出て、時にお祈りしてくださり、時にお祈りの課題を出してくださり、 つまり最後の最後まで教会とのコミュニケーションを切らなかった方です。
で、私(藤本牧師)は、教会の住所は皆さん知っておられますので、初めての方も何かついでの方も、ぜひ献金してくださる方々のお名前が通帳リストに入るんですけれども、どなたなのか分からないというケースがままあるんですね。 で、その方のためにお祈りしますけれども、もし葉書の一本でも送ってくださったら、どんなにかありがたく、これから先もお祈りできるかなという風に思います。
Tさんは、最後まで短いメールを週に一本はくださいました。 必ず一本はくださいました。手短にご自分の健康のこと、それから家族のことを話してくださる方でありました。 教会の中で牧師と個人的に話をするために、一番教会にいらっしゃった方というのはT武さんです。
で、武さんの切り出し方はいつも同じで、「先生、話す時間を作ってください」なんです。 「またか〜」(笑)とは思いませんけれども、思わず「またか〜」と言うぐらい、いつも同じフレーズで「先生、話す時間を作ってください」と切り出して来るのです。 いま武さんの顔を昨日拝見して、思い出した言葉がこの「先生、話す時間を作ってください」でありました。
話は長くないんです。「時間を作ってください」という割に、5分位で帰っていく場合もあるんですよね(笑)。 30分かけて来て、5分話して、30分かけて帰るという場合もあるわけですよね。 でも話したい。自分が今どんな苦悩を通っているのか、どんな迷いがあるのか、どういうお祈りの課題があるのか。 私(藤本牧師)が別に相談相手になっているわけではないです。 私に話しながら、何か色んなことを整理している。或いは自分のストレスを吐き出しているという場合もありますよね。
神さまは、私たちに向かって、「時間を作ってください」と仰っているのではないかと思うんですよね。 「わたしはあなたに話したい」或いは「わたしはあなたと一緒に時を過ごしたい」。 「話す時間を作ってほしい」というのは、神の私たちに対するいつもの問いかけで、 ですから礼拝の時間を聖別して、オンラインでもここでも、礼拝を守ってください。 「人とはいったい何ものなのでしょう?人とは? あなたがこれに語りかけられるとは、人とはいったい何ものなのでしょう」と。 神さまは私に語りかけてくださる。私とはいったい何ものなのでしょうか? (※と感動する私たち)
2)人は、神の語りかけを聞くことができる。また、それをある日突然「聞くことになる」。
旧約聖書に少年サムエルという人物が神殿に仕えていました。 神殿の灯火がまだ消える前、年を重ねた祭司のエリはもうすでに床に休んでいました。 少し暗がりの中で、サムエルはある日、自分の名前を呼ぶ声を聞きます。 お祖父ちゃんのような祭司エリが読んでいると思い、急いで祭司のもとに行きますと、「いや呼んでない」と。 同じことが三回続いた後、祭司エリは気がつきました。 「あ、この少年に語りかけているのは神なんだ」と。
そこで言います。「次にあなたの名前が呼ばれたら、こう答えなさい。 『お話しください。しもべは聞いています』と」 ちょっとその聖書の個所を映しますね。 神さまが現れる時に、非常に象徴的に書かれています。(※読み上げる) 【第一サムエル3章10節全文にオレンジの傍線】
<Tサムエル3:10> 10【主】が来て、そばに立ち、これまでと同じように、「サムエル、サムエル」と呼ばれた。サムエルは「お話しください。しもべは聞いております」と言った。
神さまはサムエルに向かって、「時間を作りなさい。わたしがあなたに語りかけるから」。 サムエルはじっと待っていたんですね。 すると「【主】はやって来られて、そばに立ち」ということは遠くから叫ぶようではなく、 サムエルの耳元で語りかけた、ということでしょう? しかも名前が「サムエル、サムエル」と二回、温かく呼ばれていますよね。 彼は「お話しください。しもべは聞いています」というように、素直にエリ先生から言われた言葉を言っていますよね。
私、昔この箇所で説教した時に、こんな話をしたと思います。 私(藤本牧師)は、娘が可愛くて、よく娘の名前を呼びました。 娘が普通にテレビを観ているんですけれども、「A〜」(※優しい口調で)って呼ぶんですよね。 名前が温かな響きで、呼んでいるだけで私は落ち着くんです。 用もないのにAの名前を呼ぶんですね。 するとテレビを観ながら「ん?」って返事するんですよ。 こっち向いて聞こうと思っていない。どうせ何も話さないから。ね、でも「ん?」って返事するんですよね。
で、同じことを一度自分の妻にしたんですよ(笑)。 すると妻はですね、「何か用?」って。私が「何もない」と言ったら、「用がないんなら呼ばないで」(笑)って言われてしまったんですよね。 これねぇ、「え、そう来るか」って思う位、「名前位呼ばせろよ」という、そういう思いになりましたね。
神さまが、あなたに目を注いであなたの名前を優しく呼ぶような瞬間であったら、自分の仕事をしててもいいから、「ん?」という風に答える位でいいんですよ。 例えば自分の机にみことばがポッと置いてあったとしますよね。 そしたら、そのみことばを一瞬見ながら、コーヒー飲みながら、「あ、神さまは私に語りかけておられるんじゃないだろうかな?」って(※強い口調で)思っていいんです。 なぜなら、神さまって方は《語りかける神》なんですよ。 で、人間っていうのは、どういう存在かと言えば、《神の語りかけを聞いて従うのが人間》なんですね。 不思議だと思いますよ。
神さまは別に聖書だけから語られるとは、私は思っていません。 エッセーからでも、小説からでも、映画からでも、音楽や美術からでも、大自然からでも、小さな子どもからでも、お年寄りからでも、神さまは語ってくださいます。 でも不思議に神さまは、聖書を用いられます。或いは聖書、祈り、そして証しを用いられます。 「天の窓」(※高津教会の教会報)もその一つですね。
《聖書》というものは、神学的に言って、《書かれた神の言葉》と言います。 では《語られる神の言葉》は何か? それは――マルチン・ルターが言いました――《説教》だと。 書かれた神の言葉は聖書で、語られる神の言葉は説教である。 ですから、プロテスタント教会では、説教が礼拝の中心になっているんです。 そして説教の後に、説教に応答するようなお祈りが求められるんです。 あ、なるほどそういうことか、と思ってくださるとありがたいですね。
説教者は、自覚として、 「果たして自分は本当に神の言葉を語っているのか?自分の思いをつらつら話しているだけなのか?」 という、その危うさというのをいつも抱えています。 でもそれ程までに《聖書に触れるということは、神の心に触れること》なんだ、ということを覚えておいてください。
3)語りかけには、必ず「通奏低音」があります。
この通奏低音というのは、良く知ってる方は知っておられるんですけれども、 私(藤本牧師)は昨年のヨセフの物語の時にお話をしました。 バロック音楽の言葉で譜面には、低音部の旋律と数字が書いてあって、 そして数字に合わせて演奏者は、和音を即興でつけていく――そういう演奏の仕方ですね。 通奏低音、低音部分の旋律は譜面に既に記してあって、そこをオルガンやチェンバロやチェロ、それらの楽器がず〜っとそのメロディーを弾いているんですよね。 その低音部分のメロディーとぶつかり合うように、時に寄り添うように、連動して他の楽器の演奏が入って来るというのがバロック音楽です。
それと同じように、ヨセフの人生の中には、ず〜っと「神さま」という「神の語りかけ」という通奏低音が鳴っているんですよ。 で、上の部分のヨセフの生涯というのは、右に左に揺らされるんですね。 でも揺らされていながら、振り返ってみると、いつもそれは「神の語りかけ」という通奏低音とマッチしていた、という見事な信仰生涯をヨセフは送っていくわけですね。
私たちの人生にとって、神の通奏低音って何か? それは単なる「神の語りかけ」ではないです。 それが先程見ていただきましたように、へブル人への手紙の、もう一回映しますよ。 これが私たちが聞く神の声の通奏低音ですね。ここの部分。
【画面:へブル1章3節「御子は罪のきよめを成し遂げ〜右の座に着かれました」にオレンジの傍線。「大いなる方の右の座に着かれました」にピンクの囲み】
<へブル1:3> 3・・・御子は罪のきよめを成し遂げ、(***十字架のことです、と説明) いと高き所で、大いなる方の右の座に着かれました。(***復活の部分です、と説明)
この十字架の部分、「御子は罪のきよめを成し遂げ」というのは、私たちを愛し、愛するがあまりにご自身のいのちを捨て、私たちを神の子どもとしてくださった。 そしてもう一つは、権威の座に着いたイエスは、いつもこの世界を見そなわし、私たちの祈りに答え、私たちを助けてくださる。私たちに力を与えてくださる。 ですから私たちは失望の中で沈みこまない。いつも私たちは希望に生かされて行く、というのが大いなる方の右に着かれているイエスです。 この《十字架と復活が、神の通奏低音》ですね。
それを正しく聞かないと、聖書を読んでいても聖書が分からなくなります。 聖書の中には戦いも記されています。 聖書の中には厳しいさばきも記されています。 聖書の中には当然自分とはかけ離れた出来事も記されています。 でも通奏低音は、いつも同じで、それはキリストの福音。
すなわち、キリストが私を愛するがあまりに、ご自身のいのちを投げ打ち、私たちの罪を赦し、私たちは神の子どもとされたということ《※キリストの十字架の部分》 そして、私たちには死もあれば、不安もあれば、痛みも病もある。 でも《キリストの復活は、私たちの初穂》として為された復活であって、 私たちはいつでもキリストと共に、それらの出来事をひっくり返すように希望に変えていくことができる。 というその(通奏低音の)音に合わせて、 私たちの人生は、イエス・キリストによる神の語りかけと、自分自身の問題というのが、混じり合って生きていくわけですよね。
今週一週間、《人とはいったい何ものなのでしょう。人とは、神の語りかけを聞くように造られている》――そのことを覚えて、 お茶する時、机で聖書を読む時、ふとみことばに目を留めた時、愛する家族のことを考えた時、 祈ることによって、私たちの思いを神に届けると共に、 ――T武さんではありませんけれども、「先生、時間を作ってください」―― 神さまはいつも「わたしのために時間を作れ」と仰るお方である、ということを覚えていただきたいと思います。
☆お祈りをいたします――藤本牧師
恵み深い天の父なる神さま、「終わりの時には、御子にあって私たちに語られました」(へブル1:2)、今も語り続けておられることを感謝いたします。「私とはいったい何ものなのでしょうか?」――単純にあなたに問いかけたら、「あなたは、わたしの声を聞いてわたしに答えることができる者だ。それがあなたという存在の定義づけの先ず第一番目に来る」。
にも関わらず、私たちは往々にしてそれを一番最後に持ってきて、日常のアジェンダを自分の人生の上へ上へと上げて行ってしまいます。どうか、私たちがあなたの声に耳を傾けることができるように、「人とはいったい何ものなのでしょう――あなたの声に耳を傾ける者です」という自覚を私たちに与えてください。
最後の一走りを行こうとしているT武さん、そしてご家族の上に、あなたが力を与えて、慰めの語りかけ、励ましの語りかけ、それを直接天の御国から響かせてくださいますように、そして地上の最期の走りを勇気と力をもって走り抜けることができますように、よろしくお願いいたします。
Kさんのお母さま、教会は違いますけれども、善い家族葬でありますようによろしくお願いいたします。愛するイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
|
|
113.150.176.120 - Mozilla/5.0 (Windows NT 10.0; Win64; x64) AppleWebKit/537.36 (KHTML, like Gecko) Chrome/109.0.0.0 Safari/537.36 Edg/109.0.1518.78
|