☆聖書箇所 マルコ9:2〜8
2それから六日目に、イエスはペテロとヤコブとヨハネだけを連れて、高い山に登られた。すると、彼らの目の前でその御姿が変わった。 3その衣は非常に白く輝き、この世の職人には、とてもなし得ないほどの白さであった。 4また、エリヤがモーセと共に彼らの前に現れ、イエスと語り合っていた。 5ペテロがイエスに言った。「先生。私たちがここにいることはすばらしいことです。幕屋を三つ造りましょう。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」 6ペテロは、何を言ったらよいのか分からなかったのである。彼らは恐怖に打たれていた。 7そのとき、雲がわき起こって彼らをおおい、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。彼の言うことを聞け。」 8彼らが急いであたりを見回すと、自分たちと一緒にいるのはイエスだけで、もはやだれも見えなかった。
☆戸塚伝道師の説教 ペテロのいる風景F 一緒にいるのはイエスだけ
皆さんおはようございます。こうして共に礼拝をささげる恵みを心から感謝したいと思います。良くおいでくださいました。今日はいつもより沢山の方々が会堂にいらしていただきまして本当にありがとうございます。またそれをはるかに勝るところの、(※からだの向きを変えてカメラ目線で)いまオンラインで礼拝に参加されている方、良く今日も礼拝に参加できて本当に感謝です。特に今日初めていらっしゃった方、大歓迎です。ぜひ続けて最後までおつき合いいただきたいと思います。よろしくお願いをいたします。
月一回この場に説教をする機会が与えられていますけれども、藤本満先生が後ろにいらっしゃる聖日っていうのは、私にとってこの場に立っていて、大分久しぶりのような気がいたします。いつもお留守ですので、一人ぽっちで心細いんですけれども、今日は後ろにちゃんといてくださるのでなんか心強い感じがいたします。 早速、聖書の御言葉に心を留めていきたいと思います。
『ペテロのいる風景』と題しましてシリーズで聖書を読んで来ておりますけれども、今日はその第7回目です。 第6回目は(2022年)10月にやりました。 第6回目「ゆだねて生きる恵み」――「わたしに従って来たい人は、自分を捨て、自分の十字架を負って、従って来なさい」(***マルコ8:34)のあのみことばから、共に恵みを味わったことでありますけれども、 今日は「一緒にいるのはイエスだけ」と題しまして、マルコ福音書9章の2節〜8節までのみことばから、共に神さまの恵みを味わっていきたいと思います。 3つのポイントで見て行きます。
1)高い山の上での出来事
お読みくださいましたマルコの福音書9章の2節に、「それから六日目に」という言葉で始まっています。 「それから六日目」――この「それから」とはどれからか?って言いますと、「あなたはキリストです」(***マルコ8:29)とペテロがイエスさまに向かって告白をしてから。 その一連の出来事から六日目ということですね。
ペテロの告白を受けたイエスさまは、受難、死、復活と次々と将来を予告いたしました。 最後にはやがて栄光の内に、支配者、さばき主として再臨することも宣言されました。 8章の38節にそのことが書かれています。 イエスさまの受難については、弟子たちには想定外のことでした。 それと共に、イエスさまの栄光の姿についても、何のことか弟子たちには分かりませんでした。 (マルコ8章)38節に、「人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るとき、・・・」とありますけれども、このことが何を意味しているのか、弟子たちには分からなかった。
イエスさまの栄光の姿、これを少しでも垣間見せてあげようと、イエスさまは思っておられたのでしょうか? この三人にそれを見せてあげたいという思いだったからでしょうか? イエスさまはペテロとヤコブとヨハネを連れて、高い山に登られました。(マルコ9:2)
「ペテロとヤコブとヨハネだけ」っていう、この「だけ」っていう言葉に拘りたいと思うんですね。 なぜ十二弟子の内のこの三人を、イエスさまは選ばれたのでしょうか? 様々なことが予想されます。 弟子たち全員を呼べばよかったのに、でもイエスさまはこの三人を特別扱いしておられる、ということが、聖書の他からでも読み取れます。 大事な働きを担ってもらいたい存在だ、特にペテロはご自分の一番弟子だと、そういう思いがイエスさまにはおありだったようですね。
それと共に、この三人は十二弟子の中で、特に配慮が必要な三人だったのではないだろうか? イエスさまがそのように思っておられた、ということも想像できます。 何しろペテロは、性格的に癖のあるペテロでした。 一途で、熱し易く冷め易く、喜怒哀楽の激しいペテロでした。 好奇心旺盛で、すぐ感情に振り回されながら行動するようなタイプだったのかもしれない。 さらにヤコブとヨハネはとても切れやすい性格で、イエスさまが「雷の子」というあだ名を付けた位、切れたら何をするか分からないような、そういう性格だったようであります。 このヤコブとヨハネはゼベダイの息子たちで、兄弟だった。 この三人を連れて、高い山に登ったわけですね。
(マルコ9章)2節続けて読みますと――(※2〜3節を続けて) 2・・・すると、彼らの目の前でその御姿が変わった。 3その衣は非常に白く輝き、この世の職人には、とてもなし得ないほどの白さであった。
この「高い山」というのは、恐らくヘルモン山ではないだろうか、地理的に。 海抜2800メートルのヘルモン山、かなり高い山ですね。 彼らの目の前でイエスさまの姿が変わり、「その衣は非常に白く輝いた」――これは神さまの臨在を象徴している表現かも知れません。
マタイの福音書の17章の2節に同じようなことが書いてあります。 <マタイ17:2> 2すると、弟子たちの目の前でその御姿が変わった。顔は太陽のように輝き、衣は光のように白くなった。
イエスさまのお顔が太陽のように輝いた。衣は光のように白くなった。 なんか想像することもできないし、想像するとなんかすごく奇妙な、目の前に太陽の光が眩しく輝いている状況、ちょっと想像もできないような感じがいたします。 でもそのような神さまの臨在の光が、そこに現れたということでしょう。
そしてマルコの福音書の9章の4節を見ますと―― 4また、エリヤがモーセとともに彼らの前に現れ、イエスと語り合っていた。
エリヤがモーセと共に彼らの前に現れた。 恐らくこれ、初めの内はペテロたち三人には何が起こっているのか、分からなかったのではないだろうか?と思います。
ルカの福音書の9章の32節には、同じことが書いてあるんですけれども、このようなことが読み取れます。 <ルカ9:32> 32ペテロと仲間たちは眠くてたまらなかったが、はっきり目が覚めると、イエスの栄光と、イエスと一緒に立っている二人の人が見えた。
なにかその光でものすごく眠気を催したようなことが書いてあって、そして目が覚めたらば、イエスさまの栄光と、イエスさまと一緒にいたモーセとエリヤが見えた。 というのが、ルカの福音書の9章の32節に書かれていることですね。 いずれにしても、ここにモーセとエリヤという二人の人物が、イエスさまと語り合っている姿をこの三人の弟子は見たわけであります。
なぜ、モーセとエリヤなのでしょうか? これは《エリヤもモーセも、かつてシナイ山で神さまが現れた場面に出会う》体験をしている二人だった――それが共通しているこの二人だったと思います。 また《エリヤもモーセも「死なずに天に上った」と、ユダヤ人の間で信じられるようになった存在だった》ということもあるでしょう。 「エリヤは竜巻に乗せられて天へ行った」と、列王記第二の2章の1節に書かれていますし、 モーセは「その墓を知る者はいない」(***申命記34:6)と。 モーセは確かに死んで葬儀まで出されたシーンが聖書に書かれているんですけれども、申命記の34章の6節を見ますと、「その墓を知る者はいない」。 この聖書の記事から、モーセもエリヤも死なずに天に上った、とユダヤ人の間で信じられるような存在になったのであります。
《モーセは律法を代表し、エリヤは預言者を代表する》。 そう考えますと――《二人合わせると旧約聖書を代表する存在である》――そういう象徴的な二人だったと読み取れます。 この二人がイエスさまと語り合っている。しかもイエスさまを中心に語り合っている姿は、《イエスさまと旧約聖書との関係を明らかにするような意図》も、この聖書の記事から読み取れるのではないだろうか?と思うんですね。 旧約は成就した。律法も預言者も、預言の書もやがて成就する、イエスさまによって。 そのことを象徴するようなシーンではないだろうか?
エリヤとモーセがイエスさまと語り合っていたことは、その内容は一体何だったのか? <ルカの福音書9章31節>を見ますと―― 「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について、話していた」と書いてあります。 《イエスさまはご自分が十字架に架かって、すべての人の贖いのためにいのちを捨てる》ということを、モーセとエリヤに話しておられた、とルカの福音書には述べられています。
しかしペテロもヤコブもヨハネも、このことについて、恐らくこの時点では何のことか、その話を聞いても分からなかったのではないだろうか? 六日前にイエスさまは、「人の子は多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた」と、マルコの福音書の8章の31節には書かれているんですけれども、 しかし、弟子たちには理解できなかったと思われます。
2)この時、ペテロたちの反応はどうだったのか?
ペテロには、イエスさまが語り合っておられる相手が、モーセとエリヤだということが分かったらしいですね。 一度も会ったことはないはずです。 恐らくイエスさまは、目の前の二人に、「モーセよ」「エリヤよ」って名前をお呼びになっていたのではないだろうか? それで弟子たちには「あ、あの人がモーセだ」「あの人がエリヤだ」ということが分かったのではないかと思うんです。
ペテロは驚くべき光景を見せられて感激したのでしょう。 <マルコの福音書9章5節> 5ペテロがイエスに言った。「先生。私たちがここにいることはすばらしいことです。幕屋を三つ造りましょう。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」
もう驚くべき光景を前に、ペテロは思わず口走った言葉が、この言葉でした。 「ペテロは何を言ったらよいのか分からなかった」と6節に書かれています。 確かに、ペテロには分かっていなかった。 ペテロは、この思わず口走ったこの言葉を、自分でも分からないで語ってしまったようであります。 「先生、ここにいるのはすばらしい。幕屋を三つ造る。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」
ペテロはここで最大の勘違いをいたしました。 イエスさまを、エリヤとモーセと同列に置いてしまったのです。 この同列の意味というのは、二つありまして―― @《モーセやエリヤを神格化してしまった》という同列。 幕屋というのは、旧約聖書では礼拝する場所でした。 あなたのために一つ――《イエスさまのために礼拝する場所を一つ》――これはいいと思うんですね。 でも、「モーセのために一つ、エリヤのために一つ」っていうのは違うのではないだろうか? モーセもエリヤも人間です。 Aもう一つの勘違いは、《イエスさまを人間化してしまった》。 もう一人の先生に過ぎない。 モーセはすばらしい人。エリヤもすばらしい人。そして先生もすばらしい人。 ペテロは「生ける神の子キリストです」と8章で告白しながらも、本当にその意味を分かっていない状態だったということが、ここで判明するわけですね。
ペテロは、何を言ったらよいのか分かりませんでした。(※彼らは恐怖に打たれていた)(マルコ9:6)。 <マルコ9章の7節>を見ますと―― 7そのとき、雲がわき起こって彼らをおおい、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。彼の言うことを聞け。」
これは、雲の中から神さまの声がした。天の父なる神さまの臨在の雲でした。 「これはわたしの愛する子。彼の言うことを聞け。」 「モーセの言うことを聞くのではない。エリヤの言うことを聞くのではない。彼の言うことを聞きなさい」と、 天の父なる神さまは三人に語ったわけです――「イエスさまのことばを聞きなさい」。 やがてイエスさまが十字架に架かり、三日目に復活し、救いのわざが成就して、まさにイエスさまのみことばを聞く時代がやって来るわけです。 「彼のことばを聞け」。
<マタイの福音書17章5節>から、同じようなことがこう書かれていますね。 5彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲が彼らをおおった。すると見よ、雲の中から「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞け」という声がした。
マタイの福音書の中には「わたしはこれを喜ぶ」という、天の父なる神さまの一言が添えられています。 この後、(※マルコ9章の)8節を見ますと―― <マルコ9:8> 8彼らが急いであたりを見回すと、自分たちと一緒にいるのはイエスだけで、もはやだれも見えなかった。
3)自分たちと一緒にいるのはイエスさまだけだった
ペテロは、イエスさまだけではありませんでした。 「イエスさまのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ」――イエスさまだけではなかった。
私たちもペテロのように、イエスさまだけではない、勘違いをよくしてしまいがちなんではないだろうか? そのようなことを、なんか気づかされたような気がいたしました。 イエスさまのために一つ、何とかのために、何とかのために、を同列に置いてしまう錯覚、勘違い。 「イエスさまのために、モーセのために、エリヤのために」と同じように、 「イエスさま、仕事、勉強」――イエスさまも大事、仕事も大事、勉強も大事。 どこが間違っているのでしょうか? 「イエスさま、家族、健康状態」――イエスさまも大事、家族も大事、健康状態も大事。 どこが間違っているのでしょうか? 「イエスさま、人間関係、人からの評価」――イエスさまも大事、人間関係も大事、人からの評価も大事。 確かにどこも間違っていないような気がいたします。 でも神さまは仰いました――「彼の言うことを聞け」(9:7)。 そして「彼らが急いであたりを見回すと、自分たちと一緒にいるのはイエスだけだった」(マルコ9:8)。
ともすると、私たちは「仕事が大事だ、勉強が大事だ、家族が大事だ、健康が大事だ、人間関係が大事だ、人からの評価が大事だ」――その大事なものをイエスさまと同列に置きながら、お祈りしたり、礼拝したりしている内に、 いつの間にか、イエスさまよりも、そちらの方が大事になってしまうような、勘違い・錯覚に陥り易い、弱い私であります。 そしていつの間にか、イエスさまが霞んで見えてしまう。 ああ大変だ。ああ忙しい、ああどうしたらいいか分からない。
でも《自分たちと一緒にいるのはイエスさまだけ》の生き方――それを天の父なる神さまは願っておられるのではないでしょうか? 「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞け。」 この「彼」というのはイエスさま。 私たちのために十字架で死なれ、復活されたキリストです。 聖霊を通して今も共におられ、わが内に生きておられるお方です。 このお方、このお方の言うことを聞く。このお方を主とあがめる。 イエスさまだけが、どんな状況の中にあっても、いつも一緒にいてくださるお方。 ある意味ではイエスさまだけで充分。 イエスさまは私たちのためにすべてを備えておられるお方。 《イエスさまの十字架と復活さえあれば、もう「鬼に金棒」》なんです(笑)。
私たちはあまりにも毎日の生活が忙しくて大変で、不安で、苦しくて、辛くて、 いつの間にかイエスさまを、霞んで見えてしまうような ――別に信仰を失ったわけでもないし、お祈りすることを忘れていないかもしれない―― ある場合には聖書も読んでいる。 でもいつの間にか、イエスさまが霞んで見えてしまう。
私たちはそのような中で、イエスさまはいつも私たちと一緒にいてくださるのだ、私たちと一緒におられるのはイエスさまだけなんだ、ということを確認するために、 この時間礼拝しているのではないかと思うんです。 毎日の生活、そんな余裕がない中で、この礼拝の時間がどんなに大事か! ただ座って讃美歌を歌って、聖書を読んでお祈りをして、そして聖書のお話を聞いて、頌栄をささげて、祝祷を受けて終わる礼拝ですけれども、 自分と一緒にいるのはただイエスさまだけなんだ、ということを確認する時間が、一週間でこの時間。 「本当にそうですね、イエスさま、感謝します」と言う時間がこの時間。
礼拝が終わって「あたりを見回すと、自分たちと一緒にいるのはイエスだけで、もはやだれも見えなかった」(マルコ9:8)。 会堂にいる以上、そんなことはできません。沢山の人が見えます。 でも礼拝前と礼拝後では違うんですよ。 私たちはイエスさまを礼拝して、イエスさまから新しい恵みをいただいて、 「ああ、今週もイエスさま、よろしくお願いします」 「今週も一緒にいてくださるんですね?」 私たちと一緒にいてくださるのはイエスさまだけなんだ。ありがとうございます」 ということを確認して、また一週間、踏み出すわけです。
でも、その一週間の中で、礼拝することは無理にしても、私たちは「あ、今もイエスさまは自分と一緒にいてくださる」ということを認識する瞬間を持ちたいと思いますね。 イスラムの人は、どんなに忙しくても、週に何回も跪いて礼拝をする。 私たちはそこまでできません。私たちは忙しさにかまけて、何もしないで一日が終わってしまうような状況かもしれない。 でもほんのわずかでも、五秒の礼拝でいい(笑)。「ああ、神さま」。五秒です。 一秒の念仏でもいい。念仏ったらあれですね、念イエス(笑)「イエスさま」。一秒です。 これだけでイエスさまが共におられる。
迫害下のキリシタンは、十字架をこっそり持っていたそうです。 それを奪われたらば、藁ででも造ったそうです、十字架を。しっかり握りしめて。 それも奪われたらば、しっかり十字を切って、祈ったそうです。 (※右手で胸を叩いて)ここにイエスさまがおられる。
私たちはイエスさまだけの生き方をしていきたいと思う。 イエスさまだけの生き方をする時に、仕事も、勉強も、家族も、健康状態も、人間関係も、人からの評価も、全部イエスさまの御手の中にある、ということが分かるんじゃないでしょうか? イエスさまは一緒にいてくださるお方です。
恐らくこのことを腹の底から分かるのは、仕事や勉強や家族や健康状態が自分の思いのままにならないような時の方が、よりイエスさまが一緒にいてくださるということが分かるのかも知れない。 自分の弱さや情けなさや、醜さや罪、それを実感する時に、ほんとにイエスさま、一緒にいてくださいね、という思いが強くなるのではないでしょうか? さらには召される瞬間かもしれません。 「自分と一緒にいるのは、イエスさま、あなただけですね?あなただけですね?」
殉教する直前のステパノは、「イエスさまが、神の右に立っておられるのが見えます」と告白いたしました。 イエスさまをもう見ちゃったんです。見えたんです、イエスさまのお姿を。 イエスさまが一緒なら何も怖くない。
ペテロは殉教を覚悟した時、晩年にこのようなことを書いています。 開きませんけれども、第二ペテロの1章の16節〜18節。 この高い山の体験を、後でペテロは書いているんですね。 <Uペテロ1:16〜18> 16私たちはあなたがたに、私たちのイエス・キリストの力と来臨を知らせましたが、それは、巧みな作り話によったのではありません。私たちは、キリストの威光の目撃者として伝えたのです。 17この方が父なる神から誉れと栄光を受けられたとき、厳かな栄光の中から、このような御声がありました。「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」 18私たちは聖なる山で主とともにいたので、天からかかったこの御声を自分で聞きました。
はっきりとペテロは証言しています。
最後に、今回も礼拝の最後に歌う讃美歌について思い巡らして終わりたいと思います。 教会福音讃美歌の359番「私の望みは主だけにイェスだけにある」という讃美歌です。 2月5日の中村佐知先生をお迎えした礼拝で、オリーブが特別賛美として捧げてくださった讃美歌。教会福音讃美歌359。 それを聴いた中村佐知先生は感極まって、もう涙を流しながら、最後まで説教をされていた姿が印象的でした。 英語圏で最も愛され賛美されている讃美歌の一つだそうです。 英語ではIn Christ Alone My Hope Is Foundキリストにおいて、私の望みは見つけられた。
1節に、「私の望みは 主イェスだけにある。」 今日は歌いませんけれども、4節に-―― 「恐れは消え去り 罪は赦された。 私の歩みは 御手の中にある。 この身をイェスより はなすものはない。 終わりのときまで イェスにより頼む。」
今週もこのイエスさまと共に歩んでいきたいと思います。 一緒にいるのは、イエスだけです。
☆お祈りをいたします――戸塚伝道師
愛するイエスさま、こうして今ただあなただけを見上げて、救い主であられるあなたを礼拝する恵みを心から感謝いたします。忙しい日々の中で、多くの問題課題を前にして、ペテロのようにイエスさま以外のものに振り回され、あなたの存在が霞んで見えてしまいがちな者たちです。
どうかどのような状況の中にあっても、《一緒にいてくださるお方はあなただけである》ことに、改めて気づかせてください。「もう大丈夫」というイエスさまの語りかけに心の耳を澄まし、あなたの御名をいつでもどこでも口にしながら、今週も生活の様々な場面で、神さまの恵み深さを味わい知る(***詩篇34:8、Tペテロ2:3)ことができますようによろしくお願いいたします。イエスさまのお名前でお祈りいたします。アーメン。
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LAST UPDATE: 2023.02.20 - 00:47 |
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