☆聖書箇所 マタイ17:24〜27 24彼らがカペナウムに着いたとき、神殿税を集める人たちがペテロのところに近寄って来て言った。「あなたがたの先生は神殿税を納めないのですか。」 25彼は「納めます」と言った。そして家に入ると、イエスのほうから先にこう言われた。「シモン、あなたはどう思いますか。地上の王たちはだれから税や貢ぎ物を取りますか。自分の子たちからですか、それとも、ほかの人たちからですか。」 26ペテロが「ほかの人たちからです」と言うと、イエスは言われた。「ですから、子たちにはその義務がないのです。 27しかし、あの人たちをつまずかせないために、湖に行って釣り糸を垂れ、最初に釣れた魚を取りなさい。その口を開けるとスタテル銀貨一枚が見つかります。それを取って、わたしとあなたの分として納めなさい。」
☆説教 戸塚伝道師:ペテロのいる風景G わたしとあなたの分 (※マスクは外した姿で講壇に立つ戸塚伝道師)
皆さんおはようございます(※お辞儀をしながら、カメラ目線になって)。今日もこうして共に礼拝をささげることができる恵みを感謝したいと思います。 今週、教団の年会ということですけれども、ま、手前事ですけれども、私(戸塚伝道師)が聖宣神学院を卒業いたしましてから、もう6年になります。6年間、定住伝道師として高津教会でご奉仕させていただきました。最初の2年間は静岡教会でした。そしてコロナのない前一年間、そしてコロナの3年間、そういう6年間でした。 この6年間というのは、0歳の子どもが小学校一年生に入学する期間であり、また小学校一年生の子が六年生、中学生になる期間、ものすごい成長の期間なのですが、 私(戸塚伝道師)はなかなか成長なんていうことがない、ほんとに皆さんに支えられて、お祈りいただいて、ここまで育てられて来ることができました。改めましてほんとにありがとうございます。感謝申し上げます。引き続きまたよろしくお願いいたします。
早速聖書のお言葉に心を留めていきたいと思います。 今日はペテロのいる風景の第8回目で、「わたしとあなたの分」と題しまして、マタイの福音書の17章の24節から27節までのみことばから、恵みを共に分かち合いたいと思います。 3つの視点から見ていきたいと思います。
1)税金を納めない先生について
(マタイ)17章の24節、こういうお言葉で始まります。 <マタイ17:24> 24彼らがカペナウムに着いたとき、神殿税を集める人たちがペテロのところに近寄って来て言った。・・・
「神殿税を集める人たちがペテロのところに近寄って来て」とあります。 ここに、「神殿税」という言葉がありますが、この神殿税というのは、エルサレム宮殿に納める税金のことです。 20歳以上のユダヤ人男子全員が、神殿の維持や保存のために毎年納める税金、これが神殿税となっています。 聖書の「神殿税」という所に米印(*)がついていまして、*直訳「二ドラクマ」という貨幣の単位が出ています。 つまり、神殿税は二ドラクマという、そういう税額だったということですね。
このドラクマというのはギリシャ貨幣の単位でして、ギリシャ貨幣で一ドラクマという銀貨がありますが、これがちょうどローマ銀貨の一デナリに当たります。 「ギリシャ銀貨の一ドラクマは、ローマ銀貨の一デナリに相当し、当時の一日分の労賃に当たる」と、その*(米印)の注には書いてありますけれども、 一ドラクマが一デナリ。つまりこの一ドラクマというのは、一日分の労働賃金に当たる、当時の。 そうしますと、今で換算しますと、一ドラクマ、一日の労働賃金といたしますと、ま、一万円位でしょうかね、今の相場は。ま、分かり易く一万円としておきましょう。 そうしますと、神殿税は二ドラクマですので、二万円ということです。 毎年二万円徴収されるのが、神殿税です。
この一人分二ドラクマは、二デナリで二万円だとしますと、二人分は四ドラクマ、四万円となります。 この四ドラクマが、「一スタテル」(27節)という単位に換算することができる。 ちょっとややこしくなりますけれどもね(笑)、四ドラクマが一スタテル。 そうすると、ペテロが釣った魚の口の中にあった銀貨が「スタテル銀貨一枚」(マタイ17:27)とありますが、 スタテル銀貨一枚は四ドラクマ、つまり四万円相当の二人分だということですね。 イエスさまとペテロの二人分、それがスタテル銀貨一枚で支払われるということになったわけですね。 これが神殿税。
この「神殿税を集める人たちがペテロのところに近寄って来て言った」と、17章の24節には書かれています。 そして何て言ったか? 「あなたがたの先生は、神殿税を納めないのですか?」とペテロに言いました。 この「近寄って来て」というこの言葉――この言葉、かなり大事な言葉かなあ? 弟子の一人ペテロをたまたま見かけた、税金を集める人たちが、ペテロを見て、そして「ペテロに近寄って来た」と言うんです。 ここで何とか言わなくちゃいけない、と集める人たちは思ったのかもしれない。 「ちょっと、ちょっと〜。あんたの先生は神殿税をずっと払ってないんだけど」ということです。 これをペテロは聞くわけですね。 「え、先生が神殿税払ってない?」 これを聞いたペテロはどう思ったのでしょうか?
「あなたがペテロになったつもりで、想像したことを書きましょう」という国語の授業(笑)がありますけれども、想像したことを書きましょう。ペテロはどう思ったのか? ここで、行間を読む、ということができるんですね。 ペテロの心情を想像する。 ペテロはこう思ったのかもしれない。 「俺もまだ神殿税今年度分払ってないけれども、まさか先生が税金を払わないってことはないと思う。でも支払ってない、って今聞いた。そんなことあるんだろうか?先生でありながら、税金を支払わないってことはないと思う。何かの間違いではないんだろうか?」 ペテロは思い巡らしたと思います。
そこでペテロは思い巡らして、「そんなはずはない」と心に言い聞かせながら、こう答えます。25節―― 25彼は「納めます」と言った。・・・
「あなたがたの先生は神殿税を納めないのですか。」(24) 彼は「納めます」と言った(25)。 ペテロはその後、「そして家に入ると」という言葉に繋がりますけれども、すぐにでも家に帰って、イエスさまにこのことを確かめたかったわけです。 「本当に先生、神殿税を払ってないのか?」そういう風に確かめたかった。 ところが、こう書かれています。 25・・・そして家に入ると、イエスのほうから先にこう言われた。・・・
イエスさまの方から先にこう言われた、と。ということは、なんとペテロが家に帰ったときに、ペテロの家にもうイエスさまがそこにおられたわけですね。 (イエスさまは)ペテロの帰りを待っておられたのでしょう。 そしてペテロと神殿税を集める人たちのやりとりというのを、イエスさまは既にご存じだったということが分かります。 イエスさまの方から、そのやりとりについて、話題にされた言葉をペテロにかけるわけですね。
イエスさまは既にご存じだった。 だ〜れも知らないと思っていたのに、だ〜れも分かってくれないと思っていたのに、イエスさまは既にご存じであった。 なにか、これ大きな励みになりますね。 毎日の生活の中で、様々なことを経験する中で、イエスさまは私たち一人一人の戸惑いや、不安や、怖れや、失敗や、心の中にある様々な思い、罪深さ、そういうもの、 或いは人から言われた心ない言葉だとか、心の傷みたいなもの、そういうようなものを既にご存じであられるお方なんだということですよね。
一日中様々なことがあって、仕事上の色々な問題を抱えて、そして家に入ると、そこにイエスさまがいらっしゃった、っていう感じでしょうね。 「あ、あのことだけどねぇ」ってイエスさまは仰るかもしれません。 「あの事だけどねぇ、大変だったねぇ。でもわたしが何とかしますから、大丈夫です」 イエスさまはそう声をかけてくださるんでしょう。 イエスさまは既にご存じだった。
2)ペテロへの税金問答が続きます。
ペテロと税金を集める人たちとのやり取りを、すべてご存じだったイエスさまの方から、ペテロに質問します。(マタイ17章)25節―― 25・・・そして家に入ると、イエスのほうから先にこう言われた。「シモン、あなたはどう思いますか。地上の王たちはだれから税や貢ぎ物を取りますか。自分の子たちからですか、それとも、ほかの人たちからですか。」 26ペテロが「ほかの人たちからです」と言うと、イエスは言われた。「ですから、子たちにはその義務がないのです。
「子たちにはその義務がない」(26)――イエスさまは何が言いたかったのでしょうか? 地上の王さまは自分の子たちからは、税や貢ぎ物を取らないでしょ?子たちには税金を納める義務はないんですよ。王さまの子たちには。 イエスさまは――エルサレム神殿は、イエスさまにとっては父なる神さまの家ですね。 地上の王さまの子たちが税や貢ぎ物を納めなくてもよいように、イエスさまはエルサレム神殿で礼拝される神さまの子どもですから、イエスさまも神殿税を納めなくていい、父なる神さまの子どもだから――という、理屈から言えば正しい答えをここでイエスさまはペテロに語ります。 イエスさまは支払う必要がない、神殿税を。
しかし、イエスさまは「あの人たちをつまずかせないために」(27)とあります。 「あの人たちをつまずかせないために」神殿税を支払うことにしました。 その「あの人たち」というのは、 イエスさまから神殿税を取り立てようとする人たちであり、 イエスさまが神さまの子だと信じていない人たちであり、 さらには「私たちの先生は税金を納めないのか?」と思っているペテロをも、 つまずかせないために、神殿税を支払うことにするわけですね。 正しい理屈よりも、つまずかせたくなかった、というこの思いを優先したイエスさまでした。
3)イエスさまの神殿税の支払い方法
これを見ていきたいと思います。27節の途中から読みます。
27・・・湖に行って釣り糸を垂れ、最初に釣れた魚を取りなさい。その口を開けるとスタテル銀貨一枚が見つかります。それを取って、わたしとあなたの分として納めなさい。」
漁師だったペテロに(イエスさまは)粋な計らいをしていますね。 湖――これはガリラヤ湖です。 今、カペナウムに着いたところですので、カペナウムにいたペテロは直ぐ湖まで近くだったわけですよ。すぐ釣りに行くことができたんですね。 「湖に行って釣り糸を垂れ、最初に釣れた魚を取りなさい。その口を開けるとスタテル銀貨一枚が見つかります。それを取って、わたしとあなたの分として納めなさい。」(27)
粋な計らいですね。 魚の口に銀貨。このペテロが釣った魚っていうのは、一体何だったんだろうか? 色々な説があるみたいなんですけれども、今もガリラヤ湖に、もしかしたらペテロが釣った魚はこれじゃないかなぁ?という魚が沢山泳いでいるそうです。 「聖ペテロの魚」と言われている魚、セント・ピーターズ・フィッシュ(St. Peter's fish)と言われている魚。これはガリラヤ湖で釣れる淡水魚ですね。ガリラヤ湖は淡水ですので。 ティラピアという名前がついている、黒スズメ鯛の一種だという、そういう魚。
ティラピア、私(戸塚伝道師)聖地旅行、行ったことないんですけれども、聖地旅行に行くと、その魚が食べられるそうです。 セント・ピーターズ・フィッシュ、「聖ペテロの魚」っていう料理が出て来るそうです。 味は、何かこうあっさりとした白身魚の味で、肉厚で身がふわふわして、食べるとすぐなんか身がとろけるような。 大体現地の人は塩とレモンで味付けるそうですけれども、日本人は醤油が欲しくなるそうです。でも現地に醤油はないみたいで(笑)醤油で食べたい、そういう味がするセント・ピーターズ・フィッシュ、「聖ペテロの魚」。
このセント・ピーターズ・フィッシュ、ティラピアはオスが稚魚を口の中でふ化させるという、そういう習性があるそうです。 稚魚がふ化した後に――もう一回またそこに恋しくなって戻って来るってことがあるんでしょうね――戻って来ないように、親の魚は石をくわえているそうです。 口の中に石をくわえて、そしてその稚魚をもう一回もとに戻さないようにしているって。
この聖書の記事では、石の代わりに銀貨ですよね。 この魚の習性を、イエスさま、よくご存じだったのでしょうか?(笑) そこでこの魚はティラピアではないだろうかと、ガリラヤ湖ではそういう伝説(笑)、伝説というか、聖書の記事に基づいて、そういう魚が食べられているそうです。
スタテル銀貨一枚がその魚の口にあって、そのスタテル銀貨は四ドラクマに当たるので四万円。一人二万円の神殿税の、二人分の神殿税の額がそこにあったわけですね。 それにしてもイエスさま、すごいですね。 湖には沢山のティラピアが泳いでいたに違いない。でも最初に釣れる魚っていうものがあって、それがオスであるということをイエスさまはちゃんと導いて、そしてその口の中に、スタテル銀貨一枚をちゃんとこうくわえさせたという――これは神わざです。 人間のわざではどうすることもできません(笑)。不思議ですよね。 でもそういう風に書いてありますね、聖書に。そういう風にイエスさまがなさったわけですね。
で、「そのスタテル銀貨一枚が見つかりますから、それを取って、わたしとあなたの分として納めなさい」とイエスさまは仰った。 今日の説教題、「わたしとあなたの分」――もうすぐ終わりますけれども、実はここからがメインです。今日のメインはここからです。
「わたしとあなたの分として納めなさい」――私(戸塚伝道師)はここの個所を読む度に、「わたしとあなたの分」という言葉が、すごく気になっているんです。 「わたしとあなたの分として納めなさい」――わたしはイエスさま。あなたはペテロ。 四万円の内、わたし、イエスさまの分が二万円。 でも父なる神さまの子であるイエスさまは、神殿税を納める必要はなかった。 イエスさまはそう仰っている。それなのに、それなのに、イエスさまは神殿税を支払いました。 一方あなたの分、ペテロの分二万円、ペテロは毎年納める必要があった。でも今年度分まだだった。 それなのに、ペテロは支払わずに、イエスさまがペテロの分まで代わりに支払うためにお金を用意されました。 しかも二人で一個の銀貨。イエスさまと一体化しているかのように、「わたしとあなたの分」一枚。 四ドラクマ分は一ドラクマ銀貨四枚でもよかったのに、恐らく口の中に入らなかったのでしょうね、魚の(口に)ね。で、一枚にしたんでしょう。
でもこの一枚っていうところに何か意味がある。 イエスさまとペテロ、一つの銀貨。 思い巡らしている内に――イエスさまがペテロの分まで払ってくれた――じゃ今の私たちにとって、いったい何なのか? イエスさまが支払ってくださった「あなたの分」って、何なのか、いったい? 思い巡らしている内に、ああそれはイエスさまのいのちではないか?と思いました。
イエスさまはいのちを捨てる必要がないのに、いのちを捨てられた。 私は当然神さまから罪の責任を問われ、何とかしてそのいのちを取り戻すために、イエスさまはその分を支払ってくださった。 私の罪の代価として、十字架の上で支払われたイエスさまのいのち。 私の罪の、負い目の、借金の代価を――それを十字架の上で支払ってくださった。 イエスさまは言われるでしょうね。 「わたしは納めなくてはならないあなたの分を一緒に支払いましたよ。 いや、代わりにもう支払っておきました。」 代価ですね。代価。代わりに支払う金額。代価。 この代価は、支払われている代価は、十字架は、信じる者だけに支払われるのではなくて、(※段々大きな声で)信じる・信じない・信じられないに関係なく、どんな宗教の人も、どんな立場の人も、世界中すべての人のために、イエスさまが既に支払ってくださった代価なんです。
「大丈夫。あなたの分も支払ってありますよ」――すべての人にその代価は支払われている。 なぜすべての人なのでしょうか?それはすべての人は、神さまに望まれて、この世に生まれたからです。 神さまは何としてでも、あなたを取り戻したい。代価を支払って、あなたを取り戻したいと願って止まないお方です。 神殿税位だったら支払えるでしょう。年に二万円支払えるでしょう。 神殿税を肩代わりされるイエスさまに対して、ペテロはそんな有難味を感じなかったでしょう。 でも私たちが償うことができない、罪の代価、それは私たちにはどうにもならないその代価を、イエスさまは代わりにあなたの分として支払ってくださった、十字架の上で。 そして、「あなたを取り戻したいんだ。あなたにどうしてもいてほしいんだ」とイエスさまは命がけで、私たちを招いておられるわけですね。
手前事ですけれども、今から8年前、妻が生死の境に置かれるようなことがありました。 私(戸塚伝道師)の心の支えとなったのは、オリーブの一枚のアルバムでした。 「マナ」というCDです。 だ〜れもいない部屋の中で、このCDを何度聞いたでしょうか。 もう100回超える、200回超える、もう擦り切れる程聴いた、あ、擦り切れないですね、カセットじゃないから。 でも何度も何度も聴きました。それが心の支えになりました。
その中に、小柳永子さん作曲の「私の救い主」という歌があります。 またここで歌うのか?という(笑)(※歌い出す) 「♪あの人は十字架を負って 歩いてくよ」―― 聞いたことありますか? 作詞は多胡 浩(たご ゆたか)さんという牧師をされている方のようでありますけれども、歌詞にこんな一節があります。
1 あの人は十字架を負って 歩いてくよ。 私の笑顔を思い 小高い丘へ。 愛を知らぬ私 取戻すために 何もかも捨てた 十字架を負って。 2 流れる血潮の滴 一つ一つは 私を買い取る代価 一つ一つよ。 人に捨てられても 天が見捨てても 私を欲しいと言った 十字架の上で。 イエスさまは、人に捨てられても、天が見捨てても、私を欲しいと言った、十字架の上で。
4/2から今年の受難週が始まり、4/9がイースターです。 すべての人のためのイエスさまの十字架、そして復活。 格別に思い巡らしたい季節がやってまいりました。 恵みの春の到来です。
☆お祈りいたします――戸塚伝道師 イエスさま、ペテロをもつまずかせないために、あなたは払わなくてよいご自分の神殿税を払い、払わなくてはならないペテロの分まで払ってくださいました。同じように、イエスさまは十字架の上で、捨てなくてもよいご自分のいのちを私の分として、私の代わりに捨てられました。そして私の罪の代価を払い、私を買い戻してくださいました。心から感謝いたします。 私たち一人一人がこれ程までに、あなたにとって価値ある存在であることに、どうか気づかせてくださいますように、今週も日常生活のふとした場面で、あなたの命がけの愛を実感させてくださいますようによろしくお願いいたします。愛する救い主、あなたのお名前でお祈りいたします。アーメン。
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