☆聖書箇所 へブル人への手紙2:5〜9 5 というのも、神は、私たちが語っている来たるべき世を、御使いたちに従わせたのではないからです。 6 ある箇所で、ある人がこう証ししています。 「人とは何ものなのでしょう。 あなたがこれを心に留められるとは。 人の子とはいったい何ものなのでしょう。 あなたがこれを顧みてくださるとは。 7 あなたは、人を御使いより わずかの間低いものとし、 これに栄光と誉れの冠をかぶらせ、 8 万物を彼の足の下に置かれました。」 神は、万物を人の下に置かれたとき、彼に従わないものを何も残されませんでした。それなのに、今なお私たちは、すべてのものが人の下に置かれているのを見てはいません。 9 ただ、御使いよりもわずかの間低くされた方、すなわちイエスのことは見ています。イエスは死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠を受けられました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。 ☆説教 へブル(5)ただ、イエスのことは見ています。
今日はへブル人への手紙の5回目。元旦礼拝を入れて5回目で、「ただイエスのことは見ています」というみことばで、へブル人への手紙の2章の5節〜9節を見ていただきました。 ちょっとだけ、毎回、ちょっとだけずつ、おさらいをいたします。
元旦の今年のみことばは(へブル)2章の6節。 「人とはいったい何ものなのでしょう」、そしてその次の次の行―― 「人の子とはいったい何ものなのでしょう」 これがメインでありました。これは詩篇の8篇からの引用であります。
詩篇の8篇では、「人」という言葉も「人の子」という言葉も私たち人間であります。 しかしへブル人への手紙の記者は、最初の「人」という言葉を私たち、 そして次の「人の子」をイエス・キリストと徐々に言い換えていきます。 「人」っていうのは明らかに人間なのでしょう。 しかし「人の子」というのは、イエス・キリストはマルコの福音書で、ご自身のことをもっぱら「人の子は」という風に呼ばれましたので、救い主イエス・キリストを指しています。
ですから、感慨深い「いったい何ものなのでしょう」というこの問いかけは、人である私たちに問いかけられる言葉であり、特にへブル人への言葉では「イエス・キリストとは何ものなのでしょう」という、そこへ向けられているということを覚えていただきたいと思いました。 【この問いを深めることによって、私たちは自分自身を、そして周囲の人々を大切にします。何しろ神さまが目を留めてくださるのですから】
2回目は1章の1節を見ていただいて、「神は語りかけるという言葉に注目いたしました。 つまり「人とはいったい何ものなのでしょう」「私たちはいったい何ものなのでしょう」という時に、私たちは神によって語りかけられる存在である、ということをお話しいたしました。
3回目は1章の11節〜12節、「変わることのないキリスト」に注目いたしました。 私たちの衣は擦り切れ、取り換えて行きます。 しかしキリストは、昨日も今日もとこしえに変わることがない。 すべてのものが移り行く中で、キリストだけは(変わることがない)、 そしてこの方を信じるということ、この方に繋がるということ――擦り切れていく私たちの人生が、変わることのないお方に繋がっていく、ということが大切なんだと学びました。
4回目は2章の3節〜4節を見ていただきました。前回ですね。 こんなにすばらしい救いをないがしろにした場合に、いったいどうなるんだ?と。 それを特に、私(藤本牧師)のようなクリスチャン二世の世代のお話をいたしました。 かつては教会学校を楽しみ、しかし徐々に教会から遠のいてしまった。 《聞かされていただけの信仰》だった。 でも2章の4節に、「神は、しるしと不思議と様々な力あるわざにより、また、・・・聖霊が分け与えてくださる賜物によって」、救いは証しされていくとあるように、 《聞いているだけの信仰》をやがて、《しるしと不思議と力あるわざによって、私たちは実感していく》ようになる。 その実感していくようになる、ということは、日々の生活の中で、様々に私たちは実感するに違いないです。
ですからそういう意味で、神さまがなさってくださる不思議を、「ああ、運が良かった」と思わずに、「まさに神さまがご自身の力を証ししてくださったんだなぁ」と、 《聞いていた信仰が、自分の体験に変わって行く》ことができるように、私たちは注意しなければいけないと思います。
今日は5回目。元旦を入れると5回目。 1)2)3)とお話しをいたしますけれども、メインは2)3)ですが、
1)とりあえず、この(へブル2章)7節から見ていただきたいと思います。
ちょっと映しますね。7節にこうありますね。 【画面:へブル2章7節「わずかの間低いものとし」にピンクのハイライト。】8節「万物を彼の足の下に置かれました」に赤ペンの傍線】
7 あなたは、人を御使いより(***というこの人はイエス・キリストです) わずかの間(***というのは、キリストが地上にお生まれになり、天に昇られるまで、最後は十字架に架かり、と説明)低いものとし、 これに栄光と誉れの冠をかぶらせ、
これが復活、召天、そして栄光の座に着座されるキリストを描いているわけですよね。
(7節の)最初の行に、「あなたは、人を御使いより低いものとし」という所に注目をしていただきたいと思います。
へブル人への手紙は、ユダヤ人キリスト者に書かれました。 ユダヤ人キリスト者に宛てて書かれたので、へブルというのはヒブル、ユダヤ人のことを指します。 ユダヤ教からキリスト教に回心しながら、迫害の勢いは衰えることなく、疲れ果て、もう一度ユダヤ教に戻ろうか、と考えている人々に対して記されたのが、へブル人への手紙だということを申しました。 そして当時のユダヤ教には、天使を崇拝する信仰がありました。
ちょっと皆さんね、「旧約聖書外典(がいてん)」という言葉を聞いたことないですか? 本屋さんで単行本で、聖書の他に「旧約聖書外典」という単行本が短い文庫本で売っています。 外典というものの言い方は、プロテスタントで旧約聖書正典39巻に入らなかった、正典の外にある書物です。 もっともユダヤ教でもカトリックでも、ハリストス正教会でも正典であります。 例えばトビト書、マカバイ書の第一第二、シラ書、バルク書、知恵の書、エレミヤの手紙、もう様々にあります。 その外典という書物は、紀元前2世紀頃にエジプトのアレクサンドリアで、旧約聖書がヘブル語からギリシャ語に訳されます。 翻訳者が70人いました。ですから、「70人訳聖書」と呼ばれています。 その70人訳聖書には、旧約聖書として入っているんですよ、外典は。 だけどプロテスタントは、その中から正典を選んだ時に、39巻抜き出し、残りは外典といたしました。 新共同訳聖書では、或いは聖書協会共同訳では、旧約聖書続編という名前になっていますね。
外典というものがあり、次に偽典(ぎてん)というものがあります。 偽典の偽は、「偽り」という字を書いています。 つまり外典の外にある書物――29冊書物があるんですけれども――それは偽典で、 偽典という意味は正典からすると偽り、つまり異端的な書物という意味ですけれども、 しかし当時のユダヤ教の人々は、偽典の文書もよく読んでいました。 偽典の一つにエノク書があります。 エノク書は新約聖書のユダ書を書いた記者がよく読んでいた人物で、ユダ書の中には、エノク書とダブる部分が沢山あります。 このエノク書に七大天使が出て来ます。 ミカエル、ガブリエル、ラファエル、ウリエル、ラグエル、ゼラキエル、レミエル
一度ね、インターネットで、「天使の一覧」でググってみてください。いいですか(笑) 何人いるんだろうという位いますよ。 つまり旧約聖書で天使と言いますと、ミカエルとガブリエルがメインですよね。 でもそこから何年も経ったユダヤ教の文書の中から、新約聖書が生まれて来るわけですけれども、この世界には、当時のユダヤ教の人々は天使崇拝ということを盛んになさっておられました。 キリスト教会は中世以来、その伝統が続いていて、天使のみ守りを覚えて、教会に天使の名前がついている教会というのがあるじゃないですか、ミカエル教会とか、ね。
初期キリスト教は、ユダヤ教から出てきた群れですから、いまだにそのように天使に惹かれる人々が沢山いたはずです。 自分たちはキリスト教に回心したと。しかし迫害の中にあって、辛いことが多い。 だったらいっそユダヤ教に戻って、天使を崇拝した方がいいのではないかと。 へブル人への手紙の記者は、そういう人々に向かって、 「あなたがたは天使に戻ってはいけない。キリストは天使よりわずかの期間だけ低くされ、地上に生まれ、しかし万物をその足の下に置かれる程のお方になった。」
ちょっと1章の6節を皆さんに映しますね。 【画面:へブル1章6節「神のすべての御使いよ、彼にひれ伏せ」に、黄色のハイライトとピンクの傍線。7節「仕える者たち」に黄色のハイライト】
6 そのうえ、この長子をこの世界に送られたとき、神はこう言われました。 「神のすべての御使いよ。彼にひれ伏せ。」 7 また、御使いについては、 「神は御使いたちを風とし、 仕える者たちを燃える炎とされる」 と言われましたが、
御使いは、神に仕える者に過ぎないと。 「御使い」という言葉が実は何度も出て来ます、1章には。 でも徹底してそれは、キリストに仕える、神に仕える対象であって、絶対に崇拝の対象になる者ではない。 キリストこそが絶対的な権威を持っているわけですね。
2)(へブル2章)8節を見ていただきます。
ちょっとこれ映しますね。これね、今日は鍵ですので見ていただきたい。 【画面:ヘブル2章8節「万物を彼の足の下に置かれました」「すべてのものが人の下に置かれているのを見てはいません」に赤ペンの傍線。「それなのに」「いません」に赤ペンで囲み】 8 万物を彼(***キリストと言い換えて)の足の下に置かれました。」 神は、万物を人の下に置かれたとき、彼(***キリスト)に従わないものを何も残されませんでした(***というのが現状なのですよ、と説明)。それなのに、今なお私たちは、すべてのものが人の下に置かれているのを見てはいません。
鍵となるのは、「それなのに、今なお私たちは」という言葉に注目していただきたいんですね。 「それなのに、今なお私たちは」って一体どういうことなのか? へブル人への手紙の記者は、明確にキリストこそが絶対的な権威を持っておられる。 この方は既に天に上り、栄光と誉れの冠をかぶり、万物を足の下に置いておられる。 彼に従わないものは何も残されていない。
それなのに、ローマ帝国はキリスト教を徹底的に迫害しますよね。 それなのに、キリスト者は、競技場に放り込まれ、腹を空かしたライオンの餌食になりますよね。 万物はキリストの足もとに置かれているのに、キリスト者は十字架につけられ、パウロは牢獄に入れられ、裁判にかけられ、当時の教会指導者たちも同じようにつるし上げられますよね。
すると、この8節の「それなのに、今なお私たちは」という言葉は、私たちが置かれているこの世界そのものなんですね。 御使いさえも、キリストの御前にひれ伏しているにもかかわらず、 それなのに、ロシアのプーチンは横暴ですよね。 それなのに、中国の指導者も分かりませんよね。 それなのに、アメリカは武器を日本に売り付けますよね。 今年最大の問題は、皆さん口にしませんけど、やっぱり心の中にありますよね。 果たして日本はいったいどうなるのだろうか?と。 あのプーチンと中国の指導者の会見を見た時に、やっぱり心に過るのは、台湾を侵攻するのかなあ?じゃないですか?
キリストは万物を足もとに置かれたにも関わらず、神の子どもとされた私たちも、ある意味でこの世で息苦しさを感じ、幸せを奪われ、病むこともしばしばですよね。
私は金曜日に、(帰国した)YT君に会って来ました。 当然のことながら、コロナ禍三年で彼ほど世界を巡った人は、私(藤本牧師)は他にいないと思います。ジャーナリストでもいないと思います。 あまりにも多くの方々を癒しますので、ネパールでは副大統領に招かれ、ドバイではオイルの富豪が彼に癒してもらい、タイでは軍隊で彼の指導がなされ、そんな彼が食事をしながら私に聞きます。 「先生、本当に日本は大丈夫なんでしょうか?」
世界から見ると、そういう風に見えるでしょうね。 そうすると、私は言いますよね。 「それよりも、君の人生は大丈夫なの?」(笑)って言うじゃないですか。 「私の人生は大丈夫じゃないよ。」
T君のもとには、かつて日本の教会を率いて来たような偉大な牧師が、末期がんからの痛みを癒してもらおうと思ってやって来ます。 将来を期待された若い牧師が、脳梗塞で不随になって、そういう方もT君のもとにやって来ます。 有名な神学者で、でも腰が痛くて座れない。書斎のデスクはスタンディングデスクにして、大学も神学校も授業は立ったまま。それが神学会議に出るために、ドバイに行って飛行機に8時間乗ってしまった。 あちらから私(藤本牧師)のもとにメールが来ました。 「何とかY先生を紹介してください。」 「いや、先生。彼はいま日本にいます。」 「日本に今週帰りますので、何とかお取次ぎをよろしくお願いいたします。」
私たちのこの身体の苦しみというのは、私たちの人生の置かれる状況というのは、 「それなのに――キリストは万物を足もとに置かれたのに――今なお私たちは」です。 ですから私はこの言葉というのは、「それなのに、今なお私たちは」というこの言葉は、私たちの今ここに生きているキリスト者の象徴であろうと思います。
すると私たちもまた、当時のユダヤ人クリスチャンではありませんけど、だったら取り敢えず天使に行ってみるかな、という気持ちになるわけですよね。
実際神さまは御使いを送ってくださると聖書に書いてあります。 アブラハムがひとり子イサクに手を掛けよう(屠ろう)とした瞬間、神は御使いを送り、と書いてある(***創世記22章)。 御使いは言いました。「その子に手を出してはいけない。何もしてはいけない。」
ダニエルが獅子の穴に放り込まれた時に、神は御使いを送って獅子の口を塞がれたと書いてあります。(***ダニエル書6:22) 御使いを礼拝する必要はありません。 私たちは御使いを送ってくださるキリストを礼拝します。
しかし、「それなのに、今なお私たちは」という現実に直面しますと、当時のユダヤ人クリスチャンが他のものに逃げていくように、私たちも他のものに逃げていきます。 キリストではなく、現実的に私たちを支えてくれるものに逃げていきます。それは普通だろうと思いますね。 すなわちキリストから逃げていく。 キリストへの関心を期待せずに、もうだめだなと思いながら、他の助けを求めていくわけです。
3)そういう中で、(へブル2章)9節のみことばを見ていただきたいんですね。
ちょっと開きますね。 【画面:へブル2章9節「ただ、御使いよりもわずかの間低くされた方、すなわちイエスのことは見ています」にピンクのハイライト。「イエスは死の苦しみのゆえに」にオレンジのハイライト。「その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです」にオレンジの傍線】
9ただ、御使いよりもわずかの間低くされた方、すなわちイエスのことは見ています。 (***イエスのことは見ていましょう、です。イエスから目を離さないでいましょう、と。) イエスは死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠を受けられました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。
もうすぐ私たちは受難週に入ります。ですから、ここにあります「それなのに、今なお私たちは」(8)こんな苦しみの中にいる。(※8節を指差して) でも私たちはただ、イエスのことは見ている。(※9節を指差して) 十字架のイエスのことは、その十字架からすべての癒しが、すべての祝福が、すべての恵みが、私たちのところに届く。 「ただイエスだけは見ています」というキリスト者になりたいですね。
ともすると、「今なお私たちは」というその現状にがんじがらめに縛られて、イエス・キリストがすべてのものを足の下に置いているということを忘れ、キリストを見ることさえもしない私たちがキリストを見る。 イエス・キリストというお方は、十字架という試練に耐え、栄光の冠を授けられました。 これがへブル人への手紙のテーマにもなります。 パウロもこのテーマを持っています。
このテーマを、以前にも紹介しました。英語でNo Cross, No Crownと言います。 十字架なくして、試練なくして、栄光なし。十字架なくして、王冠なし。十字架なくして栄光なし。 私たちがイエス・キリストを見る時に、救い主となられた栄光のキリストがそうであったということを覚えておきなさい、とへブル人への手紙の記者は言っているわけですよね。 最初から万物をその足元に従えるお方が、この地上で十字架にお架かりになった、あなたのために。 そしてイエス・キリストは復活され、天に昇り、権威の座に着座されたように、あなたがたもやがて、このキリストを見ているなら、栄光の座に着くことができる。
ちょっと、へブル人への手紙の12章を見ていただきます? 私(藤本牧師)はこの言葉も鍵だと思うのです。対になって。 12章の11節。ちょっと(ページを)またぎますけれども、見ていただきますね。 【画面:へブル12章11節「訓練」にオレンジのハイライト「後になると」に黄色のハイライト、「鍛えられた人々」にオレンジの傍線】
<へブル12:11> 11すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものですが、 (***今の試練というものは、喜ばしいものであるはずがない。却って苦しいものだ、でも「後になると」という言葉があるんですよ。) 後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます。
というのは、今の試練が全部ではない。 「後になると」――ところが新約聖書のメッセージは一貫してNo Cross, No Crownです。 十字架なくして冠なしと言う。 私たちはいきなり冠を求めますし、いや、逆にいつまでこの十字架を強いられるのか、とも思います。 でも「後になると」という、「後」がやって来るということですね。 それを確認するために、私たちは十字架を見ています。
昔、高津教会のTさんが東京から九州に、あちらで債権を抱えている会社を助けるために、何度も出張いたしました。 難しい案件で、よく耐えたなぁ、と思いますが。 ある朝、Tさんは仕事に出かけて行く前に、いつも泊まるホテルなんですけれども、ホテルから首を出したら、横の建物に十字架が見えた。 今まで気づいたことがなかった。下を歩いていると、上の十字架は気づかないものなんでしょうね。 その十字架を見て、その日新たに交渉に臨んだ、というお話をしておられました。
多くの礼拝堂に十字架はついています。高い所についています。それは見上げるためにですね。 5年10年先にこの教会堂が建て替わる時に、私はKTさんにお願いしました。 「十字架を上につけないでください」と。 つまりこんな短い幅の狭い通りで、十字架を見ようと思ったら、もう首がそっくり返る程(笑)上を見ないと、十字架は見えない(笑)。 だから建物のどこかに十字架をつけないと、人はここが十字架のある教会だということが分からない。」 Kさんは「ああ、そうですね」と。 以前は駅から見えましたけれども、今は建物が色々建って駅から見ることもできない。 十字架は若干高い所にあってほしい。若干でいいです。それは見上げるためにです。 なぜなら、私たちがいつも見ているのは、「それなのに、今なお私たちは」という現実を見ている。 でも十字架を見上げる時に、すべての希望はそこから来る、ということを私たちは知らなければいけないし、 今ある試練に耐えた時に、やがて私たちもまたキリストと同じように、すべてのものを足の下に置く程の、神の国の嗣業を引き継ぐ者になる。 いやそこまで行かなくても、神さまは新しい展開を用意してくださる、ということを信じることができるように、私たちは十字架を見る。
☆お祈りをして終わりにいたします――藤本牧師
恵み深い天の父なる神さま、「今なお私たちは」という現実に捕らわれています。であるがゆえに、キリストから離れ、天使であれ何であれ、少しでも自分の助けになるものに目を行かせがちな私たちでありますが、十字架から目を離すことがありませんように。なぜなら、私たちの救いも、祝福も、希望も、すべて十字架から来るということを忘れることがありませんようにお助けください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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