☆聖書箇所 ヨハネ10:1〜15 1「まことに、まことに、あなたがたに言います。羊たちの囲いに、門から入らず、ほかのところを乗り越えて来る者は、盗人であり強盗です。 2しかし、門から入るのは羊たちの牧者です。 3門番は牧者のために門を開き、羊たちはその声を聞き分けます。牧者は自分の羊たちを、それぞれ名を呼んで連れ出します。 4羊たちをみな外に出すと、牧者はその先頭に立って行き、羊たちはついて行きます。彼の声を知っているからです。 5しかし、ほかの人には決してついて行かず、逃げて行きます。ほかの人たちの声は知らないからです。」 6イエスはこの比喩を彼らに話されたが、彼らは、イエスが話されたことが何のことなのか、分からなかった。 7そこで、再びイエスは言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしは羊たちの門です。 8わたしの前に来た者たちはみな、盗人であり強盗です。羊たちは彼らの言うことを聞きませんでした。 9わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら救われます。また出たり入ったりして、牧草を見つけます。 10盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかなりません。わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです。 11わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。 12牧者でない雇い人は、羊たちが自分のものではないので、狼が来るのを見ると、置き去りにして逃げてしまいます。それで、狼は羊たちを奪ったり散らしたりします。 13彼は雇い人で、羊たちのことを心にかけていないからです。 14わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っており、わたしのものは、わたしを知っています。 15ちょうど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じです。また、わたしは羊たちのために自分のいのちを捨てます。
☆説教 棕櫚の聖日:良き羊飼い
今朝は棕櫚の聖日、パームサンデーと呼ばれています。 イエス・キリストが十字架に架かる週の日曜日に、エルサレムに入られました。 主イエスは、黒光りする馬に乗って凱旋の勝利として入ったのではなく、 ロバの背に乗って、メシアとして貧しい人や病める者、弟子たちと共に都に入ります。 そのように、ゼカリヤ書に預言されているからです(***ゼカリヤ9:9)。
人々は棕櫚の葉っぱを振りながら、「ホサナ(主よ、救ってください)」とメシアを歓迎しますが、 こうして始まった一週間、事態は急変していきます。 イエスは、木曜日に過越の食事を弟子たちと共にし、ユダは裏切り、金曜日に(イエスは)十字架に架かり、 「ホサナ、ホサナ」という人々の声は、「イエスを十字架につけろ」という叫びに変わって行きます。
今日見ていただいた詩篇の118篇は、この過越の祭りの一番最初の日曜日に歌われた詩篇であります。 先程申しましたように、「義の門」とは言うまでもなく、神に近づく門です。 「私のために開け」(詩篇118:19)と詩篇で書いてありますけれども、果たして「義の門」は彼らのために、また私たちのために開くのでしょうか? 「開け」と言っているのですから、門は閉じられているという前提でありましょう。 詩篇118篇の19節には、「私のために開け」と書いてあります。 それは私のために開くのか?というその疑問を、私たちはいつも持っています。
ヨハネの福音書の10章7節で、イエスさまはこう言われました。 7そこで、再びイエスは言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしは羊たちの門です。
10章の9節で―― 9わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら救われます。また出たり入ったりして、牧草を見つけます。
ここから今日は、お話しをしていきたいと思います。
1)いま申し上げましたように、この門こそイエス・キリストの十字架です。
過越の祭りの最後、エジプトに捕らわれていたイスラエルの人々がエジプトを脱出する前に、死の裁きがエジプトの市内を襲います。 その裁きを過越すために、子羊が屠られ、(その血が)エジプトに奴隷とされていたイスラエルの人々の家の鴨居に塗られます。 その血を見た時に、神の裁きがその家を過越して行きました。 そのようにして、罪に対する神の裁きが過越していく、というのが羊のいけにえの血であり、イエス・キリストの十字架の血であったということで、
過越しの祭りでは、神殿で羊たちが屠られていきます。 神殿の祭司は人々が携えて来た羊の上に手を置いて、人々の罪をその羊に負わせるという儀式をいたしました。 いけにえが人々の罪を背負うわけです。
ところがイエスさまが仰ったこの言葉、もう一度見ていただきたいと思います。 ちょっと聖書をご覧いただきますので――11節でイエスさまはこう仰います。
【画面:ヨハネ10章11節全文に赤ペンの傍線。「良い牧者」に赤ペンで囲み。「いのちを捨てます」に黄色のハイライト】 <ヨハネ10:11> 11わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。
つまり羊飼いであるわたしが、(羊である)あなたがたの罪を担って、自分のいのちを捨てると。 「十字架」という言葉はまだこの段階では出て来ていません。ですから、 「あなたがたはわたしを通して、わたしの十字架を通して、神の御前に来る。そして罪の赦しを得る。『義の門』とはわたしのことである」 そういう風にイエスさまは仰いました。
ちょっとヨハネの福音書14章の6節を見ていただきます?イエスさまは違う形でこういう風に仰ってますね。 【画面:ヨハネ14章6節、特に印なし】 <ヨハネ14:6> 6・・・「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。
「十字架という門」を通してでなければ、だれも父のもとに行くことはできないという風に書いてあります。
もう一回10章の11節に戻っていただきますけれども、 <ヨハネ10:11> 11わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。
2)ところが、この中に――今度は10節を見ていただきます――盗人が来る。
【画面:ヨハネ10章10節、「いのちを得るため、それも豊かに得るためです。」に黒ペンの傍線】 <ヨハネ:10:10> 10盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかなりません。わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため。それも豊かに得るためです。
羊の囲いの中に、その門を通して盗人がやって来る。 そこで、「盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかなりません」と。 盗人がやって来るというのは、「羊の門」ではなく、羊の垣根を越えてやって来るんでしょう。 12節では、「狼が来る」という風に書いてあります。羊を奪いに来るんですね。 この現実を、イエスさまは指摘しておられる、というのは二番目のポイントとして見ていただきたいと思います。
羊の囲いの中に、羊を奪いに狼がやってくる。 仮にこの牧草地が教会であるとしたならば、或いは私たちの信仰の生活であるとしたならば、狼であるサタンは何を奪いにやって来るのか?
旧約聖書でヨブという人が大変な試練に遭いました。 サタンはヨブを狙います。ヨブから多くのものを奪います。 それがヨブの子どもたちであり、ヨブの財産でありました。 最後はヨブの健康を狙い、ヨブは病気になります。 しかしサタンが狙っていたのは、実はヨブの財産でも、子どもたちでも、また健康でもなかった。 サタンが狙っていたのは、ヨブの信仰ですよね。
サタンは神さまに言います。 「ヨブがあなたを礼拝し、あなたを信じているのは、あなたがあれ程までの祝福をヨブに与えるからだ」と。 少しサタンには猶予を与えられ、ヨブに試練を掛けることによって、サタンが本当に狙っていたのは、財産でも子どもでも健康でもなく、ヨブの信仰であったと。
サタンは、今度は私たちを見てこう思うでしょう。 人間っておかしなものだなぁ、と。 試練を与え、試練によって襲うと、信仰者は耐え忍んで信仰を守る。 人間って不思議なもんだなぁ。信仰を奪うには、試練で襲う必要はない。 むしろのんびりさせておいた方がいい(笑)と。
有名なイギリスのキリスト教護教家、CSルイスの「悪魔の手紙」という書物があります。 とっても読み易く有名ですので、皆さんも一度買って読まれるといいと思いますが、 悪魔の親分・サタンが、子分・悪霊に色々教えるという書物ですね。 その本の中にこうあります。
ある男が、ロンドンの図書館で、色々勉強していました。 その時、ふと神さまのことについて考え始めるんですよね。
自然界の秩序、人間社会の道徳、自分の心の中にある永遠へのあこがれ。 こうしたものを総合的に考えてみると、この世界に神がおられるに違いない。 この世界は聖書が教えるように、神が創造されたに違いない。
というその瞬間に、悪魔の子分は、困ったんですね。 明らかに、状況が不利です。 ここで彼の心の中に、無神論の議論を吹きかけても無駄です。 却って「神はおられる」という結論に彼は行ってしまう。
そこで悪魔の子分は、彼の肩にそっと手を置き、ささやくんですね。 「なぁ、そろそろランチタイムだろう?お腹空いたんじゃない?」(笑)という声をかけるんです。 男がふと時計を見ました。するともうすぐ12時ですよね。 「ほら、今だ。ランチで混雑しない内に、今レストランに行った方がいいぞ」と。
そして男が図書館から出る頃に、ボーっとして、彼は車と接触しそうになるんです。 「ほら、ほら危ない。考えごとをして歩いていたらだめだよ」と悪魔はささやき、 もうその時点で、無神論の議論を仕掛けるまでもない。 だんだん男の心はこの現実の世界に戻って行くんですね。
現実の世界というのは、まさに私たちが住んでいる日常的な忙しさ、日常的な疲れ、日常的な痛みの世界で、サタンはじっと待って、私たちの信仰を奪いに来ます。 イエスさまは今日私たちを招いて仰います。 「わたしが羊の門です。わたしのところに来て休みなさい」。
パレスチナの牧草地というのは、実は囲いはあまりないんですよね。 石を積み上げて、石垣を造ることもあります。ほとんどが放牧で。 でも何か囲える場所を見つけたならば、入り口を設けて、その入り口のところに羊飼いが横になって夜寝ます。 そこまでして、羊飼いは羊を守るというのが、昔の遊牧民の世界でありました。 羊飼いは文字通り、牧場の門となります。夜は入り口に座り、夜通し守り、いのちを張って、羊を敵から守ります。
三番目、これが今日の説教のポイントです。 3)となると、いのちをかけて守ってくださる良き羊飼いに守っていただくためには、羊の側でしなければいけないことがあります。
それを聖書を見ていただきますので、先ずは3節を見てください。ここにこうありますでしょう。 【画面:ヨハネ10章3節全文に赤ペンで傍線。「それぞれ名を呼んで連れ出します」に青ペンで囲み】 <ヨハネ10:3> 3門番は牧者のために門を開き、羊たちはその声を聞き分けます。牧者は自分の羊たちを、それぞれ名を呼んで連れ出します。
羊飼いは羊の名を呼んで連れ出す。 そして連れ出された時に、羊たちはその声を聞いて、聞き分けて、 牧者は自分の羊たちを、それぞれの名を呼んで連れ出す。 つまり、【羊は羊飼いの声を聞いている。】
それから14節、飛びますけれども、ここですね。 【画面:ヨハネ10章14節全文に赤ペンで傍線と黄色のハイライト。「知っています」に青ペンで囲み】 <ヨハネ10:14> 14わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っており、わたしのものは、わたしを知っています。
【羊は、羊飼いであるイエスさまを知っている】ということがとっても大切です。 どんな場面でも、どんなに緊張し、疲れ、痛みの中にあったとしても、羊はどこまでも羊飼いを知っている。
そして、ちょっと飛ばしますが、16節。 【画面:ヨハネ10章16節「わたしの声に聞き従います」に黄色のハイライト】 <ヨハネ10:16> 16・・・その羊たちはわたしの声に聞き従います。・・・
すると、「羊飼いは、自分のいのちを捨ててまでも、羊を守る」という言葉があると同時に、3節【羊は、羊飼いの声を聞き分ける】 14節【羊は、羊飼いを知っている】 そして16節【羊は、羊飼いの声に聞き従う】
10章を見ますと、圧倒的に羊飼いであるイエスさまの真実を語っています。 「あなたのためにいのちを捨てる」(ヨハネ10:11)と仰ったイエスさまは、真実を尽くす。 「見よ。わたしは世の終わりまで、あなたと共にいます」(マタイ28:20)と仰る主は、真実を尽くされる。 十字架の上で一緒に十字架に架かった隣の犯罪人は、イエスさまに訴えますね。 「どうかあなたが御国の位にお着きになる時には、私を思い出してください。」というその微かな願いに、イエスは仰いました。 「まことに、あなたは今日、わたしと共にパラダイスにいます」(ルカ23:43)と仰います。
パラダイスに行く資格はないんです。 彼は罪深き犯罪人です。 しかし、勇気を出して「イエスさまが自分の救い主である」ということを信じ続ける。 《イエスさまを離さずに、パラダイスに連れて行ってもらうという信仰》を彼が持つこと。 主の愛が真実であれば、彼を包んで、死の苦痛の中にあって彼を守り、彼を抱えるように主は天の御国へ連れて行ってくださいました。 もし最後の最後まで、彼が主イエスを信じるなら、です。
私たちは痛み苦しみの中にある時に、試練の中にある時に、小さな子どもが初めて保育園に行く時に、「主を知る」なんてことは到底難しいと思います。 ですから、周りの者が祈ってあげるんですよね。 お母さんは手を置いて祈ってあげる。 そして、保育園に行っている間中、お母さんは覚えて「守ってください」と祈る。 つまりお母さんが小さな子どもの代理となって、主イエスの声を聞き分け、主イエスを知り、主イエスが寄り添ってくださるように、主イエスに聞き従う。 それは親子の関係だけではなく、伴侶者の関係であったとしても、友人の関係であったとしても同じだろうと思います。
《「主の声に、真実さに、最後まで聞き従う」「主を最後まで知っている」と言う私であるならば、どれほどの盗人が私たちの日常に入り込んで来たとしても、私たちは守られる》というのが、今日のメッセージのポイントです。
盗人は試練をもってやって来るのか、日常の平安の中をやって来るのか、分かりません。 でもどんな形をもってしても、私たちの信仰を奪おうとやって来る。 でも主が真実であり、「わたしは良き羊飼いであり、良き羊飼いは羊のためにいのちを捨てる」というその十字架があるならば、 私たちは《主イエスこそがすべての鍵を握っておられ、権威を握っておられ、その愛を極みに至るまで私たちに注いでくださる、私の家族を守ってくださる》という信仰者が一家に一人いるならば(笑)――私(藤本牧師)はいつもこれを強調します――一家に一人いるならばその家族は守られる(笑)。 主イエスはあなただけを守られるわけではない。 「あなたに関わるすべてのことをきっと成し遂げてくださる」(***詩篇138:8)という風に詩篇にあるように、一家に一人そのような信仰があるならば、しっかりと覚えておいてください。
ソビエトの革命時代を描いた有名な「ドクトルジバゴ」というハリウッド映画があります。 勿論、原作はパステルナークというソビエトの小説家ですね。 彼は「ドクトルジバゴ」をもって、ノーベル文学賞を獲ります。 でも彼はこの小説が反体制を描いている、という判断を下され、彼は収容所のまま、受け取りに行くことはいたしませんでした。 やがてこれが映画になります。その映画が今度はアカデミー賞を獲ります。 1965年という昔の映画ですけれども、「ドクトルジバゴ」のテーマソング「ララのテーマ」という主題曲だけは、今も皆さん聞いたらすぐに分かる程有名です。 映画はこんなシーンで始まるということをちょっと覚えてください。
革命の後、ソビエトの幹部であったジバゴ将軍というのがいるんですよ。 このジバゴ将軍は――これはジバゴの弟(兄?)ですね。 彼は、ダムで働く一人の若い娘トーニャと出会って話している内に、 もしかしたら、この女の子は幼い頃モンゴルで迷子になった自分の姪に違いないと、将軍は思います。 (弟)ジバゴの娘ではないかと。彼女は迷子になったがゆえに、自分の出身っていうのは分からない。 で、「もしそうだとしたら、君の母親の名前はララじゃないの?」「君のお父さんの名前はジバゴなんだよ」 でもその若い女性トーニャには両親の記憶はなく、名前も知らないんですよね。 そうして将軍は、若い娘の親たちであるドクトルジバゴと母親ララの話を延々と語り始めるという所から、映画は始まって行きます。
で、何とか自分の姪、つまり君は自分の弟の娘、だということを思い出させようとして、子どもの頃からの話を色々するわけですね。 その中にこういう場面があるんですよ。 「トーニャ、君に聞いてみるけれども、どうして迷子になったの?」 「いつの間にか、迷子になっちゃったの」 「いつの間にか、というのはおかしいんじゃないの?当時のことをよく思い出して、どうやって迷子になったのか、考えてごらん。」 追い詰めるように尋ねます。彼女は泣きながら、思い出して言います。 「町に火が放たれて、みんな一斉に逃げて、私もお父さんも逃げて、それからお父さんが私の手を離したんだ。そして私は迷子になった」と。
将軍は言います。 「分かるだろう?私はそこを言いたいんだ。ターニャ。 君の手を掴んで走っていた男は、君のお父さんじゃない。 お父さんなら、娘の手を放すってことはあり得ない。 だからターニャ、分かってほしい。 ジバゴが君のお父さんで、あの火が放たれた日に、君の手を掴んで走って、君の手を途中で離した男は君のお父さんではない。」
私たちはね、自分の人生に火が放たれるようなことがありますと、誰彼の手に掴まれて、色んな所に連れて行かれるんですよね。 それが自分のお父さんであるかないかも分からずに、ある人に身を寄せたり、 時にはイエスさまが仰ったように、牧草の中に入って来る盗人が君の手を掴んで、父のもとから君を引き離そうと全力で君を引っ張る。 いつの間にか迷子になっちゃう。 引き出しはするけれども、どこかでその男は君の手を離して、君は迷子になってしまう。 雇い人の羊飼いの手を掴んでいたら、いざという時に必ず手を離され、戦火の町で迷子になります。
でも《父なる神は、良き羊飼いは、羊のためにいのちを捨てると仰ったイエスさまは、私たちの手を離すことはない》と信じることが受難週の私たちの努めの一つです。 イエスの声を聞き分ける。イエスを知る。そしてイエスの声に従っていく。 羊飼いは羊を離さない。 もしイエスさまのあの100匹の内の1匹が迷子になったというあの譬えのように、 もし私たちが遠く離れて迷い出したら、 やがて捜しに来て見つかるまで捜して、迷った小羊を抱えて帰って来るのがイエスさまじゃないですか。
試練の中で、日常の平安な忙しさの中で、信仰から引き離すために盗人はやって来る。 でもどんな時でも、導いてくださるイエスさまは、あなたの手を離さない。 私たちは、羊飼いの声を聞き分け、聞き従い、イエスさまについていく。
☆お祈りをして終わりにいたします――藤本牧師
恵み深い天の父なる神さま、あなたの真実さに感謝いたします。あなたは私たちを愛しておられるだけでなく、私たちが「義の門」から入るように、盗人から私たちのいのちが守られるように、ご自身のいのちをお捨てになりました。あなたはいつでも、私たちの声を聞いてくださいます。時に私たちが盗人の手に掴まれて、遠い遠い世界で迷子になったとしても、あなたはじっと待っていてくださり、またあなたは私たちを見つけるまで捜し出し、抱えて帰って来てくださるお方です。
私たちの家族全員を今週お守りください。十字架の恵みの中で、新しい世界に出発していく小さな子どもたちも含め、或いは施設や病院で一人である私たちの親族を含め、皆が主イエスの愛の手に包まれ、復活を迎えることができるように助けてください。愛するイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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